行方不明の象を探して。その20。

もういいよ!こんなくだらない話!って君が言い出したんだろう!という話になるとキリがなくなる。むしろこんなくだらない話でヒートアップできるほど仲が良いなどと俯瞰できるぐらいがちょうどいいのだ。喧嘩するほど仲がいいということの本質的な仲の良さは俯瞰でしか分からない。何しろ主観的にはどうでもいいことでこいつのことを殺してやろうぐらいに考えている場合もあるのだから。

 

何度言っても噂になる女の子と一緒に目覚まし時計とコーヒーカップを休んでいた彼女はどう見ていたのか。噂になるだけでそういう仲だったわけではないのに。そもそも彼女がガールフレンドという意味での彼女だったのかも怪しい。恋仲ではなかったし、かといっても友人というわけでもなかったからだ。

 

事務員のおばさんが一気に話をしたことを後悔していた。様々な言い訳に悩んだ末のこと、もしくは悩んだ末の頃と言えなくもない、少しばかり僕は傲慢だった気がする。結果的に彼女は僕を失った。まるで僕が彼女を振ったような言い方であるが、実際はどちらでもなかった。そんなに言葉の厳密さや文法などに縛られるのはやめようという理由で別れたし、お互い今でもそれを実践しているわけだから、実践していれば、それは付き合っているということになるのだろう。全く会わなくても、仮に相手が死んでいても、それを守り続ければ仲は続く。

 

お母さんがお父さんが、気まずい空気が、金曜ロードショーでジェイソンを一緒に見たときになぜかジェイソンはセックスしている若い男女を殺す習性を持っているので、覚えていますよ、その時に場所が凍り付く感じが。そしてエメラルド色の一本の木が、クリップが、帆が、ステイボンバーが、隣のおばちゃんが、野菜を作ることを教えてくれた。あなたが僕を運んでくれる。もし、僕の居場所を見つけたら。 

 

僕は金曜ロードショーから永遠の命が流れるのを見る。影に潜り、太陽を通り過ぎるという事実まで、僕は二番目の枝に僕の顔で夏の夜を照らしたりして、夜明けの明るさと共に満月でもいいんだけど、そうだ!というより疲れた。子供の頃、アノニマスな住人に見守られながら近所の公園でどんな遊びをしていたっけ?

 

自分の部屋を片付けるのが苦痛で仕方がないのです。学校への近道は変質者が出るとの噂が絶えなかったが、恐らく露出狂か何かだったのだろう。子供に自分の全裸を見せて興奮するとか、そういう性癖に生まれてきてしまったことを哀れに思う。その露出狂のペニスは幻影であって、石膏で型を取り、それを近道に置くだけでもある種の露出になり得る。いいアイデアだ。自分のちんちんの型を今頃見ているのだろうなと思って興奮できるのだろうか?

 

「なにーこれーちんちんじゃん」との笑いの渦巻きから彼のカップにちんちんを取ろうとした健太、それは彼の黒の中にある非常に美しかった観念で、遠くの砂の真ん中に登場し、任意でいつでも呼び出すことができた。健太は市営住宅に戻り、部屋の明かりをつけて、ちんちんの型についての研究を始めた。小学生ぐらいだと研究という概念を知らないのだが、実際に健太がやっていることは研究そのものだった。

 

悪魔はイエスを誘惑しようとしたが、イエスは神であったので勝利した。なんてこった!ゲームや小説、特に長い小説や読みづらい小説に没頭しているうちに外の気温が真夏から一気に冬になったと体感するのは自分がゲームや小説によって現実と乖離しているからなのだと思うのだが、実際に意識がフィクションの中で生きていたら、それはただ身体という実体がこの現実に存在するだけで、意識はフィクションの中にあるのではないか?

 

そう考えると途端にわくわくしてくるのは、それがフィクションであれノンフィクションであれ、没頭できる世界があり、それらを認識している限り少なくとも自分という主観にとってはそれが現実なのだから、ただの現実のみを現実と考える必要がなくなり、むしろそもそものつまらない現実ばかりを見ることをやめて、フィクションの世界に没頭することに全身全霊を込めれば、そのうち身体ごとフィクションの世界に行ってしまうのだと思う。

 

このような可能性を含めたすべての論理的な組み合わせは、全てを表現することができないと感じたのにも関わらず、人生と認識と共に不可分だと感じられるところがあり、もし僕が自分の言葉の連想を大げさにいじって、誰かが考えることの反対の反対を探したら、僕は自分の道を失い戻ることができなくなるだろうが、全くそれでかまわない。むしろ目指すところはそういうところだ。

 

自分は今まで自分という認識の牢獄に置かれたままだった。それに気がつかないうちは、例えば環境を変えれば認識も変わるのだろうと思っていたのだが、実際についてくるのは監獄で、例えば今、自分が日本にいたとすれば監獄から日本の自分が住む場所という局所的な風景を見ているのであって、監獄であることには変わりない。

 

仮にパリにいようがニューヨークにいようが新鮮に感じるのは最初のうちだろう。なにしろ見える風景は監獄からの風景なんだから、まずは監獄から出ないといけない。

 

人間は何もなさすぎる状態が続くと頭が狂わないように幻覚を作り出すのだと言う。そもそもフィクション全般、例えば映画や小説やドラマでもなんでもいいのだが、そういうものが存在するのは人間が監獄の中で狂わないためのバランサーの機能を果たすためだろう。フィクションに関わるもの全般の存在が禁止されたら人は狂うだろう。

 

あなたがたはようやくそれに気づいた。それはあなたの反対側だったのですか?いいえ、そうではありません。僕はそうだと言った。仮にフィクションに肩入れし過ぎて後戻りできなくなったとしても、同時に現実を無意識から見事に進歩させながら、存在であり生命であるあなたを見たでしょう。それにおけるあなたとは誰のことですか?

 

それは空虚と存在の同時のものでしょうね。恐らく。夢の中でインドで自分のことをなぜか知っている占い師に占ってもらう夢を見たら「なるほど。そうなるのだろうなと俺も分かっていたんだよなってことはこの占い師が言っていることは当たっているな」と思ったのだが、どうなることに夢の中の自分が納得していたのか分からない。やはり気温が、いきなり寒くなった気がする。

 

外のことはどうでもいいので気温のことは気にしていなかった。でもこの間まで真夏のように扱ったのに、今は半袖でいると真冬のような寒さを感じる。これが現実だ。物事は?起こらないでしょう?だから物事はフィクションでもかまいません。

 

あなたという熱源の中心で「我思う、故に我なし」と気がつくことが重要です。僕は悲劇のメロンだったのだ。彼女は僕が持っていないもの全てを持っている。でもなぜ僕は持っていないものを持っていないと認識しているのか?さっきのインドの占い師の夢と同じではないか。分かっているのに矛盾している。ちょっと待って、意味が分からない。

 

彼女は「ちょっと休憩しましょう」と言った。独り言の中にたまに「彼女はこう言った」と書けば小説っぽくなる。虚構っぽくなる。そもそもの独り言が虚構であるのだから、彼女の存在はいらないだろう。

 

それを知った彼女は身振りすらもできなくなっていた。持たざるものである僕が認識において彼女を凌駕している。僕たちの関係は一体どういうものだろうか?若い男がベンチに座っていておにぎりを食べていた。凄く哀愁のある後ろ姿だったから、若い男だったかどうかも分からないのだが、彼女は若い男だと確信しているようだった。真に虚構に奉仕しているのは僕だろうか?彼女だろうか?