行方不明の象を探して。その22。

その後、サクラソウはすべて一度に鼻を擦り、酒臭い耳鼻咽喉科の医者に「鼻を弄り過ぎだ」と怒られる。あの頃の僕らは輝くものの床のようだった。日傘を差した白い象が、額に付けたダチョウの羽の花束をこの隅で縫うように金色の網を張っているし、だってそんなのを見たらテンションが上がるじゃない?

 

だからさ、青いウールのクッションの上に仰向けになって、半分閉じたまぶたと揺れ動く頭で、こんなにも立派に生きている女性が、あなたのもとを飛び出していくのです。全ての人間はこのように巣立っていく。俺以外は大体巣立って行っている。僕は巣ごもりをやめるつもりはない。

 

ズボンがないから水を汲みにいけないので、部屋の隅に置いてある、ライティング・デスクのほうに目をやってみる。アジサイの花が一本、花瓶に差してある。そんな趣味はないので、誰かが知らない間にそうしておいたのだろう。白金台のアンティーク・ショップで買ってきた、渋い色をしたライティング・デスクの上には、なぜかオレンジの目覚ましが置いてある。でも肝心のその時刻が読み取れない。というか読み取ろうとしない。部屋が広すぎて読み取れないというわけではない。ひとえに時間への関心の無さによるものだ。

 

先ほどかけたApokalypsisは煩くて好きではない。ただCDが三枚組で、全て聴くのに三時間以上かかるため、次に何を聴こうかなどと迷う必要がなくていい。それだけの理由でこのCDを愛聴している。ベッドの中でちょっと伸びをしてみる。買ったばかりのスモッギー・グレーのネグリジェの下にはなにも付けていない。

 

下着はなにも付けずにベッドにもぐりこんでしまうほうが気持ちがいい。そのほうが潔く夢精できるし、夢精したときの嫌な感じが残らない。窓の外を見てみようと考える。額にかかった神を右の手のひらでかきあげながら、左手でリバティ・プリントのカーテンをそっとめくってみる。

 

ラタンでできたこのベッドのカバーも、フロア・スタンドの傘も、みんなおそろいのリバティ・プリントでまとめてある。本当に気色の悪い趣味だと思う。いつもなら窓の外には見飽きたうんざりする風景が見えるというのに、今日はもやがかかっている。人体実験していそうな謎のビルも、どうやって生計を立てているのか分からない金物屋も、薄ぼんやりとしか見えない。

 

ベッドから少しばかり体を乗り出して、真下の道路を見てみる。道路が濡れている。雨が降っている。何をするのもかったるくなってきてしまう。

 

向かい側のマンションから、ファストファッションブランドの袋を持って、髪形をサイド・グラデーションにきめた男の子が、アシッドなTB-303がプリントされているTシャツを自慢げに着ているのが見えた。そういえば最近、全然LSDとかアシッド系のドラッグやっていないなと思った。凄まじい吐き気がするのでそんなに好きではないのだけど、アシッドハウスはジャンル的にオールタイムフェイバリットだ。雨は当分の間やみそうになかった。

 

その男の子を見かけたのがきっかけだろうか、PhutureのWe are Phutureを聴きたくなったのでターンテーブルにセットして聞き始めた。個人的な趣味としてはプラスティックマンの初期のようなドープでミニマリスティックなアシッドハウスが好きなのだが、Phutureなどのアシッドのオリジン系の音源には独特の味わいがあってたまらない。リズムボックスにリズムシーケンスを打ち込んで、TB303をビヨビヨさせて素人っぽいボーカルを乗せるといった短絡的な感じがたまらない。

 

まるで、自分を前にして、過去に僕だったものが、不思議と何か目覚めてしまったかのように、心臓の鼓動だけがそれを現しているようだった。僕が読む、書くものは象の注意を惹くことはなかった。多分、彼は波自体なのだろう。それは全てを包括するようなつぶやきであり、かろうじて近く可能な惑星の歌なのだろう。これは彼の破壊の無限の夢の一部で、しかしそのターゲットは漠然としている。

 

彼は部屋の前を通り過ぎた。彼はすでに元素の力、この空ではない空、無限と思われる偉大な文章とその音のロールを達成しているのだ。彼の足取りは優しいようで重い。それは銀色の青白い光のようなものだった。

 

ベッドの下に落ちていた飲みかけのコカ・コーラがあったので飲んだ。三日前ぐらいに外に出たときに買ったものだから炭酸が抜けて、ただのカラメル水になっている。しかしこのスカスカのコーラの味がやけにPhutureのトラックに合うような気がした。

 

昨日はずいぶんとよく眠ったはずなのに、というか、ほとんど毎日過眠というぐらいの惰眠を貪っているせいか、四六時中体がダルくて、ましてや今みたいな雨の中を歩くなんて考えただけで発狂しそうになる。雨の中を歩くなどという行為は狂人がすることだ。しかし、それを強いられてしまってはどうにもならない。

 

雨の中を歩くことは断じてしないと決めてしまえば、かったるさなんてどこかへ飛んで行ってしまいそうな気がしてくる。といっても、雨の日に一人でベッドの中に潜り込んでいるのだから、グルーミーな気分までどこかへ行ってしまったわけじゃない。

 

ザ・タイム・スタンズ・ナウ・イレヴン・サーティスリー。普段だったらとっくに寝ている時間だ。おぞましい日中の時間は寝るに限る。夜は人間の諸活動が生み出す磁場のようなものの力が弱まる感じがするので、無駄に敏感な人間にとっては夜は最高の時間である。いや、最高の時間というよりかは夜しか活動できないので、最高も何もないのかもしれない。何しろ人生最高!と一度も思ったことがないので、時間に対して最高と思うことはこの先も一切ないだろう。

 

一人で退屈な時にはオナニーしているのが一番いい。しかし慢性的にやり過ぎているので亀頭や皮に傷がついて腫れてしまっていてオナホールが使えないことがある。そんなときは村上春樹の小説を読むのもいい。でも村上春樹は物音ひとつしない真夜中に、少しゾクゾクしながら読むほうがあっている。

 

雨の日の倦怠感といったら、言葉で表現するべきなのにも関わらず、全く表現が見つからないぐらい「かったるい」としか言いようがない。気圧のせいなのか体がダルく感じるし、別に外に出るわけでもないのに外出は出来ないと思い込むことでメランコリーに陥る。いや、むしろ外に出なくて良い最高のエクスキューズなはずなのに、色々と理由をつけてはメランコリーに陥るのが自分の性だ。

 

だからこんな雨の日には家でゴロゴロしているのが最適なのだ。それ以外の活動なんて全く思い浮かばない。もっとも天気に関係なくゴロゴロしている生活が人生の大半を占めている自分にとっては、雨などただの水滴に過ぎない。水滴が空から降ってきているからなんだというのだ?という感じである。

 

学生時代の同級生を今でもズリネタにすることがある。Supremeなどのストリートブランドにスニーカ女子と言われるような、本当にヘッズからすると、ただのにわかなのだが、可愛い女の子が履いているスニーカーとしては通好みの「よく分かってる」ものをよく履いている早苗という女の子は、当時、まだ二十歳ぐらいの頃に知り合ったのだが、二十歳とは思えない、少しばかりあどけない雰囲気を残しているのに、女としてのあるべきところは人並み以上についているという、フェティシズムと倒錯した性癖を満足させるのに十分な女性だった。

 

大き目のSupremeのパーカーに、どれだけ細いんだという生足を露出させて、ごついジョーダンやナイキのハイカットのスニーカーを履いているという、所謂、定型のファッションなのだが、本人のアンバランスなところが学校の男たちを魅了していて、大学のカフェテリアではいつも取り巻きの男たちがいて、アイドルのような存在だった。でも早苗には建築を専攻している国立の工学部に通う彼氏がいた。早苗はなぜかそのことを自分だけに話してくれて、早苗同好会の追っかけ達はそれを全く知らない様子だった。

 

そんな早苗同好会を見ていると、同い年の男なんてこんなものかと思う傲慢さが出てくる。早苗の彼氏ではなかったが、早苗に彼氏がいるということを知っている人間で、同好会の連中とは違うレベルにいた。だからなんなのだ?という話なのだが、YoutubeでマジカルラブリーのM-1のネタをなんとなく見たくなって、野田のあの激しい動きを見る度に、なぜか早苗のことを思い出す。