行方不明の象を探して。その34。

「金持ちなんてみんなクソ食らえさ」

 

象はカウンターに両手をついたまま向かって憂鬱そうにパオった。あるいは象のパオった相手は後ろにあるコーヒー牛乳なのかもしれないと思った。我々はカウンターに隣り合って腰かけていたのだし、わざわざ向かってパオる必要なんて何もなかったからだ。しかし何れにせよ、パオっていうしまうと象はいつものように満足した面持ちでビールを美味そうに樽から飲んだ。

 

肩が知らないうちにこわばっていることがあるので背筋を使うイメージをしたほうが仙骨の負担が軽くなる。キチキチキチキチガイが!チキチキとかファミチキとかファミキチになるとファミリーで狂っているフラッテリー一家のような家族を連想してしまいがちであるが、愛の行方を気にするのであれば、炭酸を若干抜いておけば平気です。

 

あのあれだ、自転車屋から来たはがき。面白い文章で意味が分からなかったのに捨てちゃったんだろうな。ああいうのは取っておけばいいのに。いや、父に来た葉書なんだけどね。もう30年以上前の話になるわ。まだカフカとかプルーストが生きていた時代ね。ベイベベイベって赤ちゃんって意味?ロックンローラーのベイベーって赤ちゃんなのかい?

 

もっともまわりには象の存在を気にするものなど誰ひとりいなかった。狭い店は客ではちきれんばかりだったし、誰もかれもが同じような奇声を発していたからだ。だからさっき言ったのさ、キチキチキチキチガイだ、とね。なんでみんなそんな真面目なの?俺も根はまじめだよ。でもなんでちゃんと生きようとするフリをするの?もっとキチガイで良いんじゃない?ナイフを振り回すような害のあるキチガイじゃなくて無害なキチガイで何が悪いんですか?

 

知り合いの半分ぐらいはこういう人間ではない何かが多い。それはまるで沈没寸前のブリタニックで沈みゆくブリタニックの中でもあたふたせずにレクイエム代わりに音楽を奏でていた音楽団のようで、ブリタニックというのはタイタニックではない。キャビン・ブライアーズでもギャビンでもどっちでもいい。イーノがらみだろ?どうせ。

 

で、それはキャメロン・ディアスが監督をした実写映画もあるが、実際の録音には敵わない。それよりもメインテーマの尺八のメロディが死者を冒涜しているように思えたので、カウンターに載せた手の細かい指をたき火にでもあたるような具合にひっくり返しながら何度も丹念に眺めた。

 

10本の指を順番どおりにきちんと点検してしまわないうちは次の話は始まらない。なにしろ親分の女に手を出してエンコしたので、義指が不自然になっていないか確認する必要があるのだ。

 

ブランド・ロイヤリティーとして知られるようになったデザインは、イギリス製の食器やスウェーデン家具でなきゃ嫌だなんてことは考えられないし、スペクタクルロマンについて、能動的・受動的に考える時も、考えることについての社会的意義を問うことによって、文章の複雑化を避けているということをよく他人から指摘されることがある。

 

同様に、この環境は依然として混沌に支配されており、出版産業における従来のバランス感覚や不相応な生き方を超越しているとは言えないが、ウィスキーを注いだグラスの「カラン」という音を反転させると、生活のバランスが保ちやすいことに気がついた。

 

その畳み掛ける内容と矛盾が生まれるときに、主体性が絶望的に非政治的でヒューマニズム的である一方で、複数の解釈を生み出すことを可能にするという、まさにその方法にまで及ぶのを見ると、ただ、肩ひじ張って選ぶことをしたくないだけだったのに気がついて、無意識のうちに、なんとなく気分のいい方を選んでみると、今の生活になるのだなと改めて気がついた。

 

この矛盾の上にある偶発性の概念は、マージナルに生きてきた抑圧状態で存在し続けることの限界を、建設的な発展から排除され、あるいは省略されたままの新しい機能性を親密にするために女に利用されるだけのものになる。もっともそんなものに馴れてしまえば、今度はまともな世界を見る時に首を傾けることにもなりかねない。

 

シャワーを浴びると、ベッドの横にあるラタンでできた化粧台に向かった。アイデンティティの概念化というのは端的に言えば、非本質主義的な考え方を、社会的文脈の中で自己媒介のための戦略としてアイデンティティを概念化することを意味する。社会的変化の可能性を否定することによって、社会秩序を正当化する手段としての社会機能という牢獄に押しやられることになる。

 

大きなバスタオルを使って、髪の毛を両手でパンパンパンと叩く。それはフレーミングと呼ぶプロセスを通じて行われる。変化への抵抗と変容するノスタルジアが混乱に混乱を重ねた末に飽和点に達して、やがて遠からぬ将来に時の大渦にすっぽりと飲み込まれていくであろうことは、誰が見ても一目瞭然だ。

 

新聞で読むといい。その時、僕がどこにいるのか分かるでしょう。僕が言えることは、自分は最も興味深い人々に会うということです。昨日は、こんな声の男性でした。あはっ、この先の言い方を考えないといけませんね。

 

僕たちが見ることのない、ごくありふれたもの。これなしではどこにも行けない。ところでこの車輪は何ですか?というのがヒントだったりします。これでお分かりになりますか?彼は僕が今まで見た中で最も奇妙な男です。事務所のプロジェクトには無関心で、塗装工の名前も知らない。重役の洗濯を2時間もやっていた。想像できるかい? 2時間だぞ?

 

なるべく水気を取ってからブローを始める方がよかったのに、繰り返しの結果、不愉快なクルクル巻きになったり、何か変な髪型になったりすることがあった。収縮期とは、血液を送り出すための心臓のリズミカルな収縮のことで、ブロウ用のブラシをくるくると回しながら、左手に持ったドライヤーで髪を少しずつ乾かしていく。

 

洗い流したばかりの髪からは、かすかにリンスの香りが漂ってくる。つまりそれは本質のオブラートに包まれたものだ。生活における支配的な時間を比喩的に沈黙させて、その周辺にある間主観的な時間を感じるために、少しウェーブのかかったセミロングの髪を乾かす。なぜならそこに静寂でも死でもない新しいメロディやグルーヴが生まれると信じているから。

 

ブローを終えるとソフト・コンタクトを目に入れてメイクに取りかかった。化粧台に浸したコットンで叩いてから、乳液を塗り、下地クリームをつける。そこに死者の息遣いや吐息が残っているのがわかる。感情的、身体的、性的なことも新たな言葉で囁かれる。

 

野望を捨てて小説や文学というなどという概念も捨てて無我で書くことだ。全てがつまらないから小説を読んでいる生活が楽しく思えるのであって、自分も文学やら小説の真似事をしてみるといい。それで時間が勝手に過ぎて行けば退屈に陥らなくて済む。ゲームは飽きる。映画はすぐ終わる。他にやることなさすぎる。書くことが無くなるまで書き続けてみよう。もしくは書くことが無くなることから始めてみよう。

 

そう決断したあたしは次にファウンデーションをスポンジで顔に塗った。もう夕方になるのだから少し濃い目にしてみようと考える。それはメイクの結果だけでなく、その概念的な強調のために、このようなことが起こるのだ。

 

この間買ってきたばかりの青いアイシャドーをつける。アイラインを引いて、マスカラをつける。最後にリップスティック。それでも象徴的な関係と物質的な交換から切り離されたままであり、あらゆることをやりつくした後に虚しさを覚える。唇だけは少し薄めのピンクにして上から光沢用のリップを塗る。

 

こうして偽りのアイデンティティーの始まりを感じることになる。