行方不明の象を探して。その35。

「虫唾が走る」

 

象は一通り指を眺め終えるとそう繰り返した。象がキリンの悪口を言うのは今に始まったことではないし、また実際に酷く憎んでもいた。象の家にしたところで相当な金持ちだったのだけれど、それを指摘する度に象は決まって

 

「俺のせいじゃないさ。オツベルのおかげさ」

 

と言った。時折

 

「いや、お前のせいさ」

 

と言って、そして行ってしまった後で必ず嫌な気分になった。「変なズリネタでイッた後の感じだ」って言ったら電車のおっさんがこっちを二度見してきた。なんで二度なのか?三度でも四度でも見るがいい。なにしろ象の言い分にも一理あったからだ。窓から外を見てみると午前中は薄ぼんやりとしか見えなかった街のビルに横断幕が掲げられていた。横断幕だなーって思ったけどサイズ的に違ったと思う。あれが横断幕だったら人が運べるサイズのものではない。

 

バーの向かいのマンションの前には肉自動車が一台止めてあって、その褐色に塗られた車体が雨上がりの街に酷くグロテスクに光る。肉と肉の間に最初の冷たい水滴を塗るように、顔にファンデーションを塗るとき、男性的でなくなる瞬間はなく、女性的でなくなる瞬間もない。

 

それは女性らしくないが、この喪失感をコントロールすることができる。その中に入っていく瞬間、化粧をしない方が男らしくも女らしくもなる。そうではなく予測可能な方法で。存在感覚は、「曖昧さ」のプロセスによって決定される。孤立して存在することのできないものが、孤立した状態にあると考えられるとき、抽象化がなされる。これに対して具体は、それ自体だけで存在しうる全体性である。

 

僕を再び見つめる。そうだったのか。「ええっ」と声が裏返ってしまう。暇乞いって居合の技だよな。彼女は僕を殺す気だったのか。分厚い木の扉を開けると正面のテーブルに丈の長いクリスタルガラスの花瓶が置かれ、幾種類もの鮮やかな色合いの成果が活けこまれていた。

 

その脇にイタリアの寺院を連想させる照明を落とした回廊が続いている。進むと途中から大理石の階段となって、下り切ると天井の高いバーラウンジだった。赤い革張りのソファーに二人、身体を沈める。日付変更線をとうに越えた店内には我々以外には誰もお客がいなかった。

 

断捨離の積み重ねを、過去の行動の目に見えないスナップショットのように思い出すことにした。化粧台の前にもう一度座って、フィジーに旅行に行ったときのことも同時にスナップショットのように思い出した。軽く首を振りながら両手で髪を後ろに流し、同じクラブに入っていた奈緒からもらったテニス用のタンクトップを着た。奈緒はモデルの仕事をしている。

 

モデルの仕事をしている子は、直美もそうだけれど、普段着にジーンズを履くことが多い。スリムなストレート・ジーンズを履きこなすだけの自信がない。それで一本も持っていなかった。ジーンズを。なんならズボンをな。今の俺はパンイチだろう?本に埋もれた俺のズボン。そういったことに取り囲む出来事に囲まれたとき、その形は変わる。街から街へ移動して、より大きな街を目指し、隠すことと描写することの間にあるこの街の引力とこの瞬間は永遠であることを悟った。全く意味が分からない。キチガイが書いた文章だ。

 

スノッブな性格が、ジーンズなんてと思わせているところも、多分にあった。彼女はけむくじゃらの大きなアフガン・ハウンドを撫でながら

 

「ハイ」

 

と話しかけてきた。

 

「どこへ行くの?」

 

「六本木よ。男の子とデート」

 

「ホントに。純一郎に言ってしまうわよ」

 

奈緒は象さんとキリンさんの一触即発の状態を知っている仲間の一人で、純一郎とも顔見知りだった。

 

「大丈夫よ。象さんの講演旅行に同行しているから」

 

「ウワォー、講演旅行?じゃ純一郎も危険ね。由利よりもキリンさんにイカレてしまうかもよ」

 

用賀にあるインターナショナル・スクールに通っている奈緒は、有利になることにどん欲で、アドバンテージを取ることなら、それが彼女にとってのアドバンテージではなくても、取ること自体が目的化して、それにオブセッシヴになる癖があった。それにしてもどうやって歩道を通り抜けたのか覚えていない。いつのまにか夕方になっていて、しばらく歩いた後に見覚えのある通りに出たので、そこから戻るようにして駅に向かった。

 

「なぜ金持ちが嫌いだと思う?」

 

その夜、象さんはそう続けていたのを思い出した。鮮明に覚えている理由は色々あるのだが、なにより話がそこまで進んだのが初めてで、とても珍しかったからだ。

 

わからない、といった風に首を横に振った。動きとしては首振りができる掃除機といったところであろうか。アルコールが入っていたので、振るたびに頭がクラクラした。

 

「はっきり言ってね、金持ちなんて何も考えないからさ。アナルバイブと火かき棒が無きゃ自分のケツも掻けやしない。そういった連中がよくアナルから黒煙を噴き出すのさ」

 

はっきり言って、というのが象の口癖だった。象と飲んでいるとアルコールが入るためか、嗅覚が鋭くなって、象の動物園のような体臭が強烈に鼻孔に突き刺さる。

 

「そう?」

 

「うん。奴らは大事なことは何も考えない。考えてるふりをしてるだけさ。なぜだと思う?」

 

「さあね?」

 

「必要がないからさ。もちろん金持ちになるには少しばかり頭が要るけどね、金持ちであり続けるためには何も要らない。人工知能にガソリンが要らないのと同じさ。グーグルと提携してりゃいいんだよ。でもね、俺はそうじゃないし、あんただって違う。生きるためには考えなくちゃならない。明日の天気のことから、テンガのサイズまでね。そうだろ?」

 

「ああ・・・・」

 

と僕はエクスタシーに達しそうになった。象はまず知っている。絶え間ない心配の鼓動が聞こえた。高音だ。完璧な機械というものを賞賛しようではないか。人が見るのを止めるには何が必要なのか? 最初?クラブで踊る真夜中のダンス。

 

純粋な幸せ。その言葉に意味があるなら、これは僕が戦ったより面白い。豊かさ、世界各国のグルメ、24時間、やっとの思いで完璧な体を手に入れた後、そして忘却の彼方へ。 これで少しはマシになったと思うだろうか。たまに周りに何もなさそうな街のパーキングエリアでたこ焼きを売っている人は普段何をしているのか?と考えたりする。田舎の人間をバカにするな!いや、そういうことじゃないんだ。自分も経験があるのだ。スーパーのレジのバイト、コンビニのバイト。「なんだこれ?」がむき出しになって気が狂いそうになるというか気が狂う。 

 

「そういうことさ」

 

象は喋りたいことだけ喋ってしまうと、ポケットからティッシュ・ペーパーを取り出してつまらなそうに音を立てて鼻をかんだ。そして象はこう言った。

 

「象の真似をするときに人間は右腕を象の鼻に見立てて、ノシノシした歩き方をするのがベストだと考えているようだけど、俺に言わせれば体幹が甘いんだよね。動きのディティールなんて模倣だからどうでもいいんだ。もっと丹田に力が入っている感じで、体感を意識して鼻を振って欲しいと心から思うんだ」

 

象はバッグから「失われた時を求めて」を取り出して、カウンターに肘をついて顔をしかめながら読み始めた。象もやっぱり「それ」だか「あれ」を求めている求道者の一人というか一匹なのだろうと思った。バッグから本を取り出すときに、象の真似の仕方だとか、体幹トレーニングのような本を出してくるのだろうなと思っていたのに、なんでプルーストなのか。イマイチ分からなかった。

 

「面白いかい?」

 

象は本から顔を上げて首を大きく横に振った。首を横に振るのを予測できていたので、象の鼻のブロウを回避することができたが躱した時に「もわーん」と獣の香りがした。

 

「でもね、ずいぶん本を読んだよ。この間あんたと話してからさ。俺はあんたの意見を鵜呑みにするつもりはない。でもどれだけ控えめに見ても文学というやつはつまらないものばかりだね。まだ誰かの日常生活を撮影し続けたものを見続けたほうがマシかもしれない。狙って退屈にさせようとしているとしか思えないぐらいつまらないものが多いよね。なぜなんだい?」

 

「俺も文学に詳しいわけじゃないんだけど、まぁこれだけは言えるのは文学ってのは異様なジャンルってことだ。昔はさ、今みたいにネットで映画見放題とかさ、ストリーミングで音楽聞き放題みたいなのがなかったから、相対的に庶民の娯楽としての小説っていうのが成立していたと思うんだよね。でも現代において、それこそVRだのさ、ゲームでも凄いだろ?最近のは。一瞬実写かと見間違えるぐらいのものがあるだろう。こんなものに囲まれている中で、特に過去の古典なんかを読み返す価値なんてないと思うし、それを教養とするならスノビズムだよね。文字じゃないと表現できないものがあるとかって文学を擁護する人間がいるけど、だったらそういうのを示してくれよって話なんだよな。そんなものがあったらみんな文学に行くはずだろ?でも誰も読まなくなった。マニアックなやつかバカか好事家か文学にロマンを抱いてる痛いやつしか読まないようなものになった。でもそれは時代の移り変わりというやつだろう。不可避なんだよね。文字による表現なんてやりつくされて終わっているからね」