行方不明の象を探して。その38。

「キメるのは後だ。アムス行きのパスポートは持ってきたか?」

 

「はい」

 

「じゃああっちの部屋で話そう」

 

隠蔽された形に近づきつつある。言葉を変えようと決心した時、抵抗の最初の結び目が有無を言わさずに現れた時、そして反復がそれらの特徴に侵入してきた時、物語は完全に終わっていた。分解に類するようなことは一切起こらなかった。

 

しかし依然として敏活で注意深く活動的であり、ひとつひとつの目覚めと一致し、そのたびに目の内側の水や固体化した距離を包む空気など、朝の不動の合図に触れる爆発を確信しながら、時間の裏側に固定する重みをこの忘却のうちにある深い変身の沈黙のうちにある言葉の最初の語が生まれる瞬間にこの存在の接触における己自身の更新を確認する。

 

「確かに」

 

「なぜです?」

 

「あれは社交辞令ですか?」

 

「社交辞令ね、それでもいいですよ」

 

発声器官を籠に転げ込ませるまえに、ついにその言葉をかき消してしまう音の群れを可能性の例外的瞬間として無邪気で空しい独自の移行のために利用してみると仮定する。そしてそれは削除の証拠としてふりかざされるときにそれは唯一無二の行為として純粋に形式的な探求に還元される。

 

この一つの修練が精神であり精神の純粋さであり意識と言うあのすべてものが置換される蓋然性を含んだ空虚な能力が、ある現実的な能力となりその無限の組み合わせとその働きの広がりとを様々な厳しい限界内に閉じ込める、純粋な地点としての静けさ外に心を向ける。

 

「あくび?」

 

「ああ」

 

「どないすんねん」

 

「たとえや」

 

「なるほど」

 

「しかし見沢」

 

「ん?」

 

「お前がいうてるのそいつらではない」

 

「え?ちゃうの?」

 

「ちゃう」

 

「ほな、誰ら」

 

「お前のしらんやつらや」

 

「ほなわからんな」

 

「行こか」

 

「行こ」

 

「北は」

 

「こっちや」

 

「神谷も触り」

 

「俺はええわ」

 

「なんで」

 

「馬も飽きてる」

 

「何に」

 

「人間に触られんのに」

 

「ふん」

 

「もうええかな」

 

「何やと!」

 

「何でおこんねん」

 

「大きな象か?あれは」

 

「馬や」

 

「いや象やな」

 

神谷には何かが見えていた。神谷にだけ見えていた。動物なのだろう。

 

「象かどうか確かめるには」

 

「鼻が長いかどうかを見たらええ。どう?鼻は長い?」

 

「いいや」

 

「ほなそれ象ちゃうわ」

 

夜になった。その日、そこで寝た。夢で神谷は象を見た。それは牛の花が伸びたような奇妙な形をしていた。しかしその牛は大きな犬だった。見沢は何も見ていない。神谷は角を曲がって少し離れたところにある自分の座席を暗くなりかけた光の中で見た。その席は埋まっているようだった。この席はおそらく誰かの所有物でありもちろん彼のものではないが彼は自分のものだと考えていた。

 

これが神谷の自分の気に入ったものに対する態度であった。自分のものではないとわかっていながら自分のもののように考えていた。彼はそれが自分のものでないことを知っていた、なぜならそれが彼を喜ばせるからだ。彼は立ち止まりより注意深くその席を見た。そう、そこは空席ではなかった。神谷は静止しているときほど物事をはっきりと見ることができる。彼の歩き方は非常に興奮したものだった。

 

このまま進むべきか引き返すべきか神谷にはわからなかった。右手にも左手にも空間が開いていたがそれを利用することはないだろうと思っていた。また長く動かずにいることはできないことも知っていた。なぜなら彼の健康状態からして残念ながらそれは不可能だったからだ。このようにジレンマは極めて単純なものだった。進むかそれとも曲がって来た道を戻るか。つまりすぐに家に帰るのかそれとももう少し外にいるのか、ということだ。

 

「それはみなさん、表現不可能なもののことなのよ。天才の参加する部分よ」

 

彼がうっかり口を滑らせたときポンコツ作家というあの言葉をあんな滑稽な優越感を見せて口にしたとき、彼がうぬぼれているように見えたろう事は承知している。彼はつい興奮に流されたのだ、自分を忘れた、あのころ、目覚めるのだと思っていた、だが、真実は恐らく、眠りは夢に紛れ込んだということだろう。

 

そのことは認める、しかし彼は謙虚だ、へりくだってさえいる、自分がこの夢の中で動き回ってるのを見たのだ、理路整然と夢に内在する論理に従って行動した、けれども、何の夢を見ていたのか、いつだって言えなかったことだろう、彼が軽蔑する連中、うぬぼれ屋とか小粒の野心家とかといっしょに分類されたりするのは、我慢できないだろう、あるいはまたどの目的地目指して動いていたのかも。

 

「でも結局はみんな死ぬ」

 

試しにそう言ってみた。

 

「奈緒は?」

 

「今日はマムがだっどスニーカーを履いてホテル・オークラでダンスなの」

 

「まっさがー」

 

彼女は高級雑貨の輸入商社を経営している両親と一緒に句読点の打ち方に厳密な方法がないということを考え始めながらとある小学校のそばにあるマンションに住んでいる。初めて遊びに行った時、ファーニッシュトなのに驚いた記憶がある。ファーニッシュトの意味が何かは定かではない。ファニーシット?糞ぐらいの面白野郎?酒だ!酒を持ってこい。手がプルプル震えやがるんだ。困ったもんだ。んで寝れねえときてやがる。ふざけんな。

 

「今夜は裏手の友達の家で麻薬パーティーをやるの」

 

麻薬パーティーほど良いものはない。パーティーに行ったことがないからただの想像だけどなんだか楽しそう。うん、それが精一杯です。お願いします。彼女は立ち止まった。 目のないところだけに痛みが許された東の道。バイザウェイ、毎食パスタを出す理由は何ですか?長年の経験の秘伝か?それはあたしの時代や母の時代より前の時代にさかのぼります。もう寝るか?寝るにしてもドラッグのようなものを飲んで寝るのだろう?このらりぱっぱめ! 

 

始まりはよくわからないんだけど、おそらく、時間の経過とともに失われているのでしょう。最終的に適正体重を維持することは、外部からの対策をすべて放棄しなければならないことが判明しました。

 

パスタはソース付きで1杯300キロカロリーを挟んで一定の尺度があるので、必要以上に食べないことです。パスタの重要性、自分がどれだけ食べたかを10キロカロリー以内に把握できるようになったら、トレーニングで基準の重要性を身につけたことになるでしょう。毎食パスタを食べるという生活スタイルにメリットはあるのでしょうか?