行方不明の象を探して。その60。

新しいのアップしたんで。

 

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「また襲撃?」

 

と園長が言った。

 

「いやー前回ほどではないんですけどね、でもまぁそんなところですかね。そうだよな?キリン?」

 

「まぁそんなところだよね」

 

とキリンは象の顔を見ずにそう答えた。

 

「水臭いなー二人とも。来るなら来るっていってよねー。驚いちゃうじゃない。でもね、甘いよ。動物園を作るときは恐らく一部には僕がいつも人々と仕事しているということに加えて、動物園の経済的事情ということがあるから、造園にかかる前であっても自分が動物園の中でやろうとしていることは正確に分かっているのね。それは未来予知も入っているから襲撃は想定内ってコト」

 

と園長が言った。

 

「うえー本を各前に自分で何を書くのかわかっていたら、僕は退屈しちゃいますけどねー」

 

と僕は答えたのだが、小説は現実とリンクすると園長は言った。

 

ってことは俺が動物園襲撃の物語を書けば現実とリンクするということ?しかし象が消えてしまったことを、襲撃未遂の次の日、キリンから電話で聞いた。

 

僕はその日いつもの同じように目を覚まし、朝立ちしていたので簡単にオナニーをした後、台所に行ってコーヒーを淹れ、トーストを焼き、オーディオのスイッチを入れ、園長から渡されていたLa Cacciaをターンテーボーに乗せて聞いていた。隣の部屋から「ドン!」という音がする。変な音がすると音に敏感な住人が壁を叩いて「うるさい!」という意思表示をしているのだが、その住人とすれ違ったときは、その住人は考えられないほどの丁寧さと笑顔で挨拶してくる。

 

まず第一に乾布摩擦をして、LSD問題について考えていたときに電話のベルが鳴った。

 

「ゾ・・・象がいなくなった」

 

キリンの声は電話に届かせるために、キリン用の拡声器を通して、電話口に聞こえるようになっていたので、パワエレ系のノイズ音楽のような声の割れ方をしていた。それでもキリンの不安げな感じが伝わってきた。

 

「象がいないなんてどことなく不自然だな」

 

と僕は答えた。僕はペニスについたティッシュを払いながらキリンの話を聞いた。話によると象のいないことに気づいたのは昨日の午後二時であった。現地集合が午前中だったにせよ、結構な時間、動物園にいたはずなので、午後二時に消えるということはありえないはずだ。

 

いつものように象の食料をトラックで運んできた給食会社の人間が、象がいなくなっていることを発見したのだ。出かけていた可能性やオツベルさんの付き添いでどこかに行っていた可能性もあるのに、なぜ給食会社の人間が象が消えたと瞬時に判断したのかが不自然なように思えた。

 

つまり、給食夫としての人生の成功と、家族の成功と、彼らの優しさと寛容さが、彼の周りに一種の天国を作り上げた。一緒にいれば、彼が天国にいることは一目瞭然だ。だから彼には、この天国から次の天国への移行という問題が残されている。その瞬間の熟考における彼の精神の負担を表現するとしたら、次の句はいつも彼がこう言うのを想像していたんだな、「まあ、傷つくことはないだろう」と。 

 

フェンスがある。そして僕たちは内側にいる。外を見る。左へ移動する。それだけで一日中かかる。移動はあまりにスムーズだ。僕たちは夢を見ているのかもしれない。エッジに沿って移動する。ノスタルジックな風景を僕たちは記憶している。柵は鏡のようなもの。 象を憂鬱にさせるようなものを僕たちは記憶する。

 

ホットドックを買ってきてくれ。アメリカンドックね。紙がないんです。トイレ用です。流しの下です。食器棚の中です。え?じゃあ紙も買ってきてくれ。俺は象の世話をします。象のために。俺は象の扱いがうまいと言われています。動物との付き合い方全般。未払い請求の件で来たんだ。わかったよ。彼を知ってるんですか?そうです。どうしたんだ?何の用だ?未払い金です。払って欲しいんだ。象がさらわれた。コレクトコールが必要なんだ。そしてそれはマインドファックされた。何か隠してるんです。ある夜、不審な行動をとったんだ。出て行く前の夜。

 

とにかくな、明日のことはあまり考えたくないんだ。そして、今日も一日が終わっていく。どうしてこうなる?もしもし?そうですね。象から井戸へ。でも今はドラッグをやってつまりはだ、麻薬に手を出してる。しかし、彼女はアソコの壁に穴が開いている。穴が開いてしまった・・・。腸に。膣から。クソッ!ベイビー!

 

退行催眠で分かったことは分かる範囲での俺の魂の最初の記憶はエッセネ派の修道士で、理由はよく分からないけど弾圧されていて洞窟のようなところで同志たちと

 

「また会える時が来たら会おう」

 

なんて言いながら密会しては情報交換をしたり、だんだんと記憶が薄くなってきた。ただ護身のために短剣を持っていたのをよく覚えている。凶悪犯罪が増えているとか言われている割に全然平和な日本で護身術だとか護身のための武器なんていらないのになぜか懐に忍ばせたくなる武器に惹かれるのもエッセネ派の頃の記憶の名残なんだろう。

 

でも弾圧されながらの布教に必死だったから短剣術のような武術を極める時間なんてなかった。そりゃ危なくなったら必死に抵抗したもんさ。今改めて武術をやっているのもエッセネ派の頃にやれなかったことを現世でやっているって感じなんだろうなって思うと魂は不滅だし俺がキリストを信奉し出したのも不思議なことではない。

 

あと弾圧されているというところで布教をする活動に忙しかったしリスクと隣り合わせだったからどこまで魂の修行ができていたのかも相当怪しい。だから転生を繰り返して少しずつ魂の修行をしていっているんだと思う。ただエッセネ派の人たちがどんな人たちであったのか?という記憶は全然ない。朧気にはあるのだろうけど生きることに必死だったからその記憶が強い。

 

ただキリスト教的な教えはキリストが生まれる以前からも布教されていた。でも秘密裡だったからとにかく布教が大変だった。キリストはそんなエッセネ派の革命家のような人物でカリスマ性があったから神と崇められた。キリストも神のような存在ではあるけれどもそれとは別に神はいるわけだからそこを混同してはいけない。

 

いきなりキリストが後に聖書にも記録されるような思想を持っていたわけではなくて彼は敬虔なエッセネ派の使徒だった。今の俺が軍隊的なものが嫌いなのはローマ軍に弾圧されていた記憶の名残だ。でもそれと現代における軍隊の必要性とは別に考える必要がある。

 

ちなみに俺がマルクス的なマルクス主義ではないユートピア的な共産主義に惹かれるのはエッセネ派がまさにそういう思想を持っていて実際にそういう生活を送っていたからだ。俺らの暮らしに今で言う「お金」は一切必要なかった。

 

今の俺が人付き合いを嫌がるのはエッセネ派の頃の名残で、あの時代でも、あの時代だからこそパーソナルスペースを設けることがトラブルの回避になるということを身に染みて分かっていたから、それが身どころか魂にまで染みわたってしまった結果が今の俺の魂だ。でも別に悪いことではない。

 

あと今の色んな宗教に見られるようないかにもな感じの宗教的儀式なんて存在しなかった。改まることもなかったので生活的には敬虔な犬儒派といった感じだろうか。パリサイ的なものが幅を利かせていて形骸化していたからむしろ彼らを見て大げさな宗教的儀式をバカにしていた。これは人によるだろうけど俺はそうだった。

 

肉を食べる食べないでエッセネ派の個人の間でも意見の相違があった。所謂、決まりがあったわけではないから例えば肉食を「神の被造物を食べるなんていうことは許されない」と考えるものもいれば、俺みたいに「神はそんな人間ほどのやつらが何をやろうが全くそんなことを気にしない、というか気にすらかけないような存在だから人間如きがいくら神にアピールしたところでなんにもならない」とかって思ってたやつもいる。ただあまりその辺の議論は好まなかった。大体険悪なムードになって終わることが多かったからだ。

 

ただ俺の印象だと俺の気の合う仲間とかは下手に宗教心がある人間よりよっぽど律法のようなものから自由の身だった。守らなきゃいけない宗教的なルールなんてなかったし、何しろそんなものを定めるほど俺らはバカじゃないという自負があったから決まり事なんて作らなかった。そのぐらいエッセネ派のやつらは神を当たり前のように崇拝していた。そんなの当たり前だろう。神がいるから俺がいるんだ。神がいなかったら何もない!