学校のことより、とりあえずマルホランド・ドライブの話を。

mimisemi2007-09-27

最近はとりあえずあれだね、マルホランド・ドライブの話を。これさーレズ物だったとはねー。レズ好きな俺としてはもうムラムラ来るエロティックな映画だったね。ナオミ・ワッツって別に普通だったんだけど、これでは凄くいいね。これ以降、ブレイクしたというのも頷けるような演技だったというか、ナオミのプロモーション映画とも言えなくもないというぐらい輝いてるね。まぁリンチの手腕だけどさ。で、映画なんだけど、まぁこんな謎系だと思わなかったからさ、まぁね、リンチのことだから、いろんな仕掛けがあるんだろうとは思ってたけど、ここまで合点がいかないとは思わなかった。で、またね、最初見たのが先週の土曜ぐらいで、また今日見たんだけど、っつーか今見たばっかなんだけど、あれだね、実際は難しくもなんともないし、別に謎物でもなんでもなかったね。これってオドレイの愛している愛していないみたいなさ、まぁ愛してる愛してないのほうがパクったんだろうけど、まぁ大きく分けて二つの部分に分かれてるじゃん?あのサイレンシオの前と後ね。で、サイレンシオの前と後では全く話が違うんだけど、ようはサイレンシオの後って司会者のおっさんが言ってるように、「記録された」記憶なんでしょ?あの「記録されたオーケストラ」がメタファーになってるように、あの青い箱を開けて見ている映像というのは、恐らくナオミのほうともう一人のほうが我々観客と同じように見ている記憶された記憶なわけ。あの箱に吸い寄せられるシーン以降は、あの記憶を記録している青い箱が見せている記録なわけ。前半をナオミが見ていた夢で、後半が現実という見方もあるかもしれないけど、こんな単純なもんではないと思う。まぁ別にデヴィット・リンチの映画に解釈なんていらないとは思うけどね。論ずること自体がナンセンスというか。まぁいいや。で、あえて続けると、最終的にも分からないのが、前半が現実なのか後半が現実なのか分からないってところなのね。後半のナオミの暗殺以降の話が前半で、後半がまた前半に繋がる・・・なんていう、メビウスの輪みたいな感じになっちゃうけど、まぁそうでもないのが、後半で述べられているものというのは、例えばナオミのおばさんは別に有名な女優ではないし、あんな感じでオーディションに受かったわけでも無いし、あーなんか面倒だ。ようは俺がなんとなく思ったのは同じ時間軸に存在する別々の世界って感じで、まぁパラレルワールドってことなわけね。だからある意味で両方とも現実と言えるわけ。まぁ後者の現実のほうは、我々の現実に近い現実だとは思うんだけど。だから似たような人物が似たようなことをしていたりするんだけど、微妙に性格が違ったり、役割が違ったり、名前が違ったりするんだけど、全体の大枠は似ている部分が多いわけね。パラレルワールドだから。で、前者のパラレルワールドの世界の住人が、サイレンシオをきっかけにして、別のパラレルワールドの現実を見てしまうという、そういう話なわけ。恐らくあのサイレンシオの司会者がケムリにまみれてドロンと消えた後に発せられる青い光ってので、各オーディエンスが各オーディエンスの別の世界の自分を見ることになるわけ。最後にさ、ナオミが自殺した後にケムリがあがって、サイレンシオの劇場の青い光に戻るでしょ。で、ちょうど画面が戻った後に青い光も止むと。で、クリスティーヌ・ダイゴみたいな客が「サイレンシオ」って言って終わるわけだけど、まぁそんな感じね。パラドックス臭いのが、ナオミともう一人がもう一人のアパートを尋ねると誰かが死んでいるというアレだけど、アレは実際はナオミではなく、誰かなのね。あのパラレルワールドでは。ナオミではない。ただなんでんじゃ似たような人が似たような状況で死んでいるのかというと、それがパラレルワールドで似たようなことが似たような状況で起こっているんだけど、それは必ずしも人物を特定するものではないと。パラレルワールドでは例えば家族の中の父が病気で死んでいたとすればもうかたっぽは母が事故でなくなっているとか、そんな感じね。ただもう一人のほうは事故で記憶を無くしているので、もう一個のパラレルワールドでナオミともう一人に起こったようなレズ関係のもつれが、こっちでも起こっていて、それでナオミではない誰かが同じような原因で自殺したのかもしれない。だからまぁこっちでももう一人はレズでレズ関係にあるルームメイトがいたということになるね。まぁ自殺しているわけだけど。最初のダンの話もあれはサイレンシオを通してないけど、上手いこと映像のトリックでパラレルワールドとそうじゃないほうの世界が交錯しているわけね。ホームレスが出てきてダンがショック死するのは、恐らく現実的ではないまぁナオミの話で言うところの前半のパラレルワールドで、変な夢を見たと語っているほうのダンは後半のパラレルワールドのダンなのね。あのなかなか良いメガネをかけている監督も前半のパラレルワールドではロクでもない奥さんがいて、後半ではあのもう一人と結婚する嫌な感じのやつなわけ。あの革ジャンの暗殺者も前半では割とヘマをするようなやつで、後半のほうだと説明は無いけど割とすぐに仕事をこなす優秀な暗殺者なわけね。そうそう。監督もさ、前半のほうでは自分を持っているちゃんとした監督で、マフィアの申し出なんて受けないんだけどっつーかまぁ結果的にあのカウボーイにほのめかされたのもあって承諾しちゃうんだけど、後半ではもうマフィアとか映画業界との癒着べったりな、セルアウトした監督なわけね。恐らく前半の世界というのは、住人が全体的に割とちゃんとしている感じなんだけど、後半の世界はまぁ我々の現実と同じなわけ。そうそう、前半の世界のほうのナオミともう一人は箱を開けた後、両方ともいなくなるけど、あれは箱に吸い込まれたんじゃなくて、箱の記憶を見ているだけで、実際は恐らくサイレンシオの劇場に座ったまま、青い光によって違う世界の記憶を見せられている状態なんだと思うんだよね。だから恐らく前半の世界のナオミともう一人はあの青い光の記憶を見た後、より一層、メイクラヴに励むに違いない。「別の世界の私たちはなんて汚いのかしら!!!」とでも言わんばかりに。まぁ怒りというか悲しみだろうけどね。ナオミがオーディションに受かってっつーかあのオーディションのさ、あのおばさんの助手いるじゃん?あのメガネ欲しい!と思った。絶対いつか手に入れる!同じヤツか同じようなやつを。で、あのオーディションに受かった後に監督と会った時、ナオミは何かを感じてもう一人のための捜査を続行するために半ば逃げるわけだけど、あれは何かしらのパラレルワールド同士の見えない何かで繋がれた記憶の共有があるのかもしれない。何しろ別の世界ではナオミのある意味で天敵なわけじゃない?だから物凄くその記憶の影響が強くて、もう一個のパラレルワールドのナオミにも無意識に影響しているっていう。もう十分かしら?まぁこれだけじゃ説明しきれないことはいっぱいあるんだけど、俺の中ではこれで納得なのね。ひと段落というか。マルホランド・ドライヴで後半のほうのナオミが「ここで止まるの?私が行きたいのはここじゃないわ」っていうあのシーンが最初のもう一人の殺されかけるシーンに繋がるわけだけど、あれもメタファー的だし、パラレルワールド同士で似たような状況の事柄が起こっているというのを表すいい例のシーンなんじゃないかと思う。ところで今、思いついたんだけど、恐らく前半の最初に殺されかけるもう一人は後半のもう一人みたいな人物じゃなくて、ちゃんとした女優だからこそ、あの監督みたいにマフィアの申し出を断ったから殺されかけたのかもしれない。ようは記憶が飛ぶ前もちゃんとした誠実な人物である可能性が高いわけだ。ということになるとルームメイトが自殺した理由というのは、もしかしたら恋愛関係のもつれかもしれないけど、別のことかもしれないし、ともかくもう一人が後半のもう一人のような酷い仕打ちをして自殺に追いやったという可能性は本当に低いと思う。ただ別に映画上、そこまで重要なことでも無いから描かれていないんだろうし、判断はこっちに委ねられている感じだね。ただまぁあの死体は凄くキーファクターではあるよね。色々な解釈が出来る材料だとは思う。基本的にリンチってシュールレアリズム好きが行き過ぎてシュルレアリストそのものになっちゃったような人だから、シュルレアスティックな、夢と現実の合間とか、現実と非現実の合間とか、まぁこの辺だとブニュエルが大御所だけど、別々な物同士が合わさることによって起こる異化というものが物凄く重要な位置を占めている表現の手法なわけ。ちなみにミュージックコンクレートもシュルレアリズム的だし、特にリュックフェラーリなんて本人が意識しているかはともかくとして、シュルレアリズムそのものだと思う。で、俺もシュルレアリズムには影響ビンビンに受けまくりで、特に具体音を使っているドローン系のやつとかフィールド系のやつは、こういう別々のものが合わさることによって起こる異化というのは一貫した一つのコンセプトなわけね。その異化をやりたいからこそ、具体音っていう具体的な人々の音の認識がある具体的な音を使って、全くその意味を失った異化された音を作りたいわけ。特にいつも書いてるあのまだ終わってないフィールドのレコード用に作ってるやつというのは、このコンセプトが大きな割合を占めていて、自分で録音した過去のフィールドレコーディングとか具体音などが中心になっているものなんだけど、その中に作られた具体音とか他の誰かによって録音された具体音もあるわけ。それは物によっては何かの音楽作品の一部の具体音かもしれないし、映画の1シーンから取ってきた具体音かもしれないわけだけど、何がやりたいのかというと、自分の主観的な記憶がある自分で録音したフィールドレコーディングといったものと、具体音で音のアイコンは確実にあるんだけど、実際、それがどこでとられたものなのかとか、そういった情報は一切帯びていないというか、自分が知りようも無い音の断片というのを混ぜ合わせることによって、自分の記憶があるフィールド音源も、誰かのフィールド音源もその音源自体の意味を失ってしまって、ただの音になってしまうのね。で、そこでまた新しい音のイメージが生まれるっていう、今まではそれをデジタル加工なんかで行ってきたわけだけど、これに関してはあまり加工を行わないで生でやっているのね。あと音の距離感の違いなんかも物凄く意識していて、例えばフィールド録音って、例えば街の音をとった音であれば、それは360度の街の音で、特に一つの音というわけではないでしょ。車のクラクションのみを採取したとか、人の喋りを採取したとか、そういうものではなくそれこそ環境音なわけだけど、何かの音そのものにフォーカスしてとられた音というのもあって、それはガラスを割る音だとか、クーラーの音だったりとかするわけだけど、これって全く音の距離感が違うわけじゃない?単一の音と360度の音の違いというか。ただそれも混ぜちゃうわけ。街の音が鳴っているんだけど妙に近い音でガラスの割れる音がするだとか、わざとらしい効果音的な音がするだとか、そういうのも全部混ぜちゃうから、その街の音自体も混ざっちゃって両方とも違うものになっちゃうわけ。両方という言い方は違うな。両方が一つになって違うものになるっていうのかな。これはホント、俺の一貫したコンセプトなのね。物凄く具体音を使ってやりたいことなの。で、前にも書いたけどこれが俺のやりたいことのメインの一つなんで、かなり音楽とはかけ離れたものなわけね。音楽じゃないもんね。そもそも。音の異化っていう作業というか実験だから。そこでもちろん若干の音楽的なニュアンスは加わるわけだけど、それはどっちかといえば装飾品程度のものだと思うのね。それはメインの具体音を際立たせるための音であったり、音に集中してしまうようなきっかけを作る音であったり、まぁメインは別に音楽じゃないんだけどね。だから俺のって音なんだよね。ホント。こんなことを英語で説明できるようになれば関心されそうだけど、いやームズイね。まぁとりあえずリンチに戻るけど、シュルレアリズムとかダダ全般に言えることは、あれは難解というものではないんだよっていうことなわけ。難解というのは物凄くロジカルで、例えば理解するのに相当な思考力とか知識を必要とするようなものを言うと思うんだけど、シュルレアリズム・ダダ全般は全くそんなことはない。特にこれらのアートフォームはアーティストの内面的なものに基づいているものが多いので、難解というよりかは、個人的なわけね。そのアーティストが何を考えて、何をやりたかったのか?というのを考えながら理解するという意味では、他人の頭の中を推測しなきゃいけないんで、そのプロセスが難解と言えるかもしれないけど、おそらく大半のシュルレアリズム・ダダ好きはそんな次元で作品を鑑賞して無いと思うんだよね。それこそもっと感覚的な無意識とか夢とか、そういったものを個々の解釈の上で鑑賞していると思うわけ。だからシュルレアリズム作品それ自体はアーティスト自身の個人的な感覚とか夢の世界とかによるもので、全くナレイティブなものではないんだけど、そういった個人的なものというのを鑑賞者自身が鑑賞者自身の感覚によって受け止めて解釈というか理解というか感じるものなわけね。だから例えばダリの絵で、これはダリの少年時代に姉とよく行った浜辺での記憶であるとか説明があっても、別にその説明に則って鑑賞者が作品を見なきゃいけないわけじゃなくて、鑑賞者がもっとメタ的な鑑賞をするものなわけ。もしかしたら絵の中の分かりやすいアイコンである浜辺ということで、鑑賞者の浜辺での記憶というのが思い起こされて、例えばそこに描かれている不可思議な像が、例えば少年時代に海に行くたびに怖いなと思っていた怪物のような形をしている大きい岩を思い出してしまうだとか、そういうことなわけね。他者の記憶が他者の記憶を思い浮かばせて、個人個人での全く違った感覚を得ることが出来るという、ようは記憶だとか無意識の世界だとか夢というのが、構築を抜きにむき出しに出ている状態というのがシュルレアリズムなんじゃないかと思うわけ。まぁ中には構築があるものもあるかもしれないけどね。ただコアの部分は一緒ね。だから鑑賞者も理論とか理解とかそういった次元で理解するんではなく、もっと個人の感覚とか記憶とか夢とか無意識とかっていう抽象的な部分で感じるものだと思うのね。これをまぁ俺はメタ的鑑賞と書いたわけだけど。で、デヴィット・リンチの映画に戻すと、リンチのシュルレアリズム節バリバリの作品は、一連のシュルレアリズムのような作品性を帯びていて、その根本的な解釈とか感覚とか理解というのは個人に委ねられている・・・というよりかは、委ねられるべくして委ねられるとでもいうのかな。ようは元がリンチの個人的なスポンテニアスで即興的で幻想的で無意識的なものに基づいているものなので、一つの決まった解釈なんてのが不可能なわけね。インランド・エンパイアなんてのがさ、もうそれの極北なわけ。まぁそれは前に書いたからいいけどさ、だからインランドでも書いたように俺が選ばれしものとか書いたけど、恐らく物凄く作品のコアな部分を無意識の部分で感覚的に感じられるセンスを持っている人という意味で選ばれしものって書いたんだけど、前にも書いたように、こういう感覚を持っている人ってそんなに多くは無いと思うんだよね。別にこういう感覚を持ってないとリンチを理解できないとかそんな話ではないんだけど極めて作品と近い部分で共鳴できるというのかな。そういう感覚ね。まぁいいや、そんな感じで、とりあえず一つの映画で「ナオミ・ワッツいいね」ってことになるとさ、この映画の印象が強くなるよね。他の映画全般にも言えることだけど、例えばオドレイっつーとアメリとかさ、マイケルジェイフォックスっつーとバックトゥザフューチャーとかさ、映画それ自体が俳優の魅力を引き出しているので、たまに本来の俳優の持っているもの以上のものを映画が作ってしまって、それがあだになるってこともありえるってことだよね。ナオミ・ワッツに関しては分からんけど、他では別に特にどうってことないとかさ、リングぐらいしか見たこと無いけどね、やっぱ映画自体が作る俳優の魅力というのは凄いよね。俳優の魅力というか、それは俳優というよりかは、登場人物なんだよね。サルトルのウェイターの話じゃないけどさ、ウェイターがパリのカフェでウェイターというものを演じているっていうさ、その速い動きとかてきぱきした感じとかは、そのウェイターでいることを演じているというところから来ているわけで、別にウェイターそのものがウェイターなわけじゃないわけじゃない。だからナオミ・ワッツもマルホランドではあの役を演じているけど、それは別にナオミ・ワッツ自身ではないので、別の作品ではまた他のものを演じるわけで、そのほかのものというのが、マルホランドのあの役のように輝いているものとは限らないってことなんだよね。ただ鑑賞者って別にそこまで深く考えてないだろうからマルホランドのような感じを求めるわけだけど、大抵期待を違って例えば地味だったとかさ、そんな印象を受けるわけじゃない?でもその期待の根底ってマルホランドであの役を演じているナオミから来ているわけで、それが他に適用されるものではないというのは自明なわけだけど、なぜかそれが自明じゃないまま鑑賞しちゃっているんで、変なギャップが生まれちゃうわけ。まぁもっと言うと女全般そうだと思うけどね。化粧をしてよい身なりをしてよい女を演じている女が多いけど、本当はどんなもんだか分かったもんじゃないっていう。特に化粧というのも化けるわけじゃない。あれはまず詐欺だよね。それに加えて化粧で変わった自分をさらに着飾るわけだからさ、そこで中身が変わるわけだよね。よい女とか自分が理想に思っている女を演じるっていう。特に衣装というものが人格に及ぼす影響は大きいわけだけど、女はそれに加えて化粧というものもあるから、そりゃ影響が小さいわけないよね。だからショーペンハウエルじゃないけど、着飾り具合とか化粧具合と比例するかのごとく中身はスッカラカンだったりするわけじゃない。大体。だから着飾ってて化粧映えするタイプの美人というのは大抵スッカラカンなわけでしょ。頭のよい女の人って俺の勝手なイメージだとかなりストイックなファッションだと思うんだよね。一応、気は使っているんだけど極端ではないっていう感じ。顔も薄化粧だったりね。ただ女って馬鹿だから着飾ればモテるとか思ってるわけ。着飾れば馬鹿に見られるって思わないんだよね。まぁそもそもそんな女なんていくら綺麗だろうが俺は全く興味ないんだけど、そう思うと女の人口の八割から九割ぐらいがこういうタイプだから、もう本当の意味で良い女の人なんて少ないよね。まぁこれまた社会的な文化的な影響というのもあるとは思うんだけど、これやるとまた話が長くなりそうなんでやめるわ。ようは女ってその性別とメディアの影響もあってか、綺麗じゃなきゃいけないとか、可愛いくなりゃいけないっていう強迫観念が物凄い強いわけでしょ?だからそういった状況から自ずと、スッカラカンになっちゃうような影響を持った良い女を演じるということに傾きがちになっちゃうと思うんだよね。まぁある意味でそういった強迫観念的なものの奴隷だよね。だからバリバリ化粧して着飾っている女みると「かわいそうだなー」って思うのね。本当に哀れだよね。まぁそんなところでとりあえずこの辺で。あ、そうそう。クラスメートにさ、ロシア人の元モデルとかいう女の子がいるんだけどさ、ここ数日ずーっと欠席だったわけ。で、先生に「欠席が多すぎるよ」って指摘されててね、それでなんて答えたかっていうと「整形手術をしたので術後は無意識状態だったんです」なんていうわけ。凄くない?!欠席の理由が整形手術後に無意識状態だったなんて!!!いやーすげーわニューヨーク。面白いことの坩堝だね。メルティングカオスだよ。マジで。ところでファッションなんだけど、いつも書くように別に好きでやってるならいいんだけどね、例えば俺だってかっこよくなりたいわけだけど、かっこいいなーこんな風になれればなーって思うのが、例えば浅野忠信だったり永瀬だったり永瀬に似ているUFOの矢部さんだったりするわけで、まず本来の自分と一番かけはなれたイメージなわけ。まず何億年かかっても到達できないダンディズムを持っている人達というのかな。だからこそ憧れるわけ。不可能だから憧れるわけ。ってことで別に俺にとって彼らは憧れる存在ではあるけど、自分が現実的にああいうスタイルになるっていうのは全く別で、だから別にファッションを参考にしたりとか、雰囲気を参考にしたりなんて絶対しないわけ。何しろ似合うわけが無いし、俺がやったって不可能なんだから。ただ馬鹿男・馬鹿女にかかると、彼らなりの憧れの存在というのになぜか「なる」という夢ではなく、それを現実のものとしようとして、ファッションを真似たり、整形して顔までも真似てみたり、雰囲気とか喋り方を真似たりするわけだけど、愚の骨頂だよね。全く主体性が無くて、アイデンティティの無いスッカラカンな考え方だと思うわけね。「セレブ愛用の」とかさ、ああいうキャッチコピーが出回るとさ、あんなのが出回ってるってことはそれに惑わされる馬鹿が大勢いるってことだよね。氾濫するってことはあれが効果的だってことでしょ。まぁこれがようは何々スタイルっていう馬鹿馬鹿しい主体性の無いものなわけでしょ。別にファッションに限らずだけどね。思想の無いやつが何かの思想によりすがろうとして「自分は愛国者だ」とか「自分はマルクス主義者だ」というのと一緒で、主体性の無いやつが「何々スタイル」っていうものに寄りかかるわけだよね。あー本当に情け無いな。俺はマルホランド・ドライブの前半の世界に住みたいね。まぁ全部が全部、よいわけじゃないだろうけど、この世の中よりかはだいぶマシっぽいよね。俺の勝手な解釈だけど、あれって現実社会とか特にハリウッドへの痛烈な皮肉だよね。批判とまではいかないんだけど。それをパラレルワールドとのコントラストでより一層、その皮肉っぽさを引き出しているというか、シュルレアリズム的な手法をこういったところにも使えるリンチの手腕というものには本当に恐れ入るね。なんだろ、あれかね、ウディアレンがさよならハリウッドでウディアレン式のコメディをハリウッドへの痛烈な批判という形で表現したのと似ている感じがマルホランド・ドライブかもね。リンチ式の映画作りをハリウッドへの皮肉・批判で表現しているというかね。まぁいいや。そんな感じで。

追記。

ナオミ・ワッツともう一人のほうをずーっと「もう一人」っていう言い方で突き通してますが、これがウォール伝クオリティです。読みづらくてなにより。

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