行方不明の象を探して。その290。

「血まみれのアンヌ嬢、若しくは我らがニンフォマニアが後光に包まれる」

 

「あなたが思っているほど血まみれじゃないんですよ。さっきからロウソクの蝋で傷口をふさいでいるし、あなたがぼーっとしている間にも瓶の破片は自分で抜いていたのです。ウィスキーの瓶の破片は自分の意志を持ってると思うんです。多分」

 

アンヌはあっさりそう言った。彼女の名前がアンヌかは分からないが、このあたりで彼女のことを頭の中でアンヌだと思うようになっていた。

 

「その破片はどんな意志を持つんだろう?」

 

「破片は揺さぶりたいんですよ。少しずつ、時間をかけて揺さぶりたい。それが破片の意思です」

 

「君が部屋を破壊尽くしたのも破片の意思なのかな?瓶は破片になる前は当然、ただのウィスキーの瓶さ。でも破片が意思を持っているとしたら、その瓶が破片の集合意識で、君を揺さぶるために、君に破壊の衝動を与えたのかもしれないね」

 

ベッドのクランクを回し、冷蔵庫の近くまで行き、何か飲み物はないかと物色した。ミネラル・ウォーターがあったので、ボトルから一口飲み、喉の奥に潤いを与えた。でもまだ口は血の味がする。

 

「部屋を破壊した理由はそうじゃないのですけどね。破片の意識が介在してたかもしれないのですけど、でもそれだったらウィスキーのボトルを破壊するだけでいいですよね。なんでベッドやソファやその他諸々のものまで破壊しつくしたのでしょう?」

 

彼女はしばらく唇を噛んでいた。首をまたグルグル回した後に、グルグルとは違う意味での「違う」という仕草として首を振った。ただ振り過ぎたために頭が彼女の顔にぶつかった。血まみれのベッドは狭いのだ。

 

「痛い!」

 

ゴツンという激しい衝撃が頭を走った。思いのほか首を振る勢いが強かったらしい。幸いなことに、彼女の顔面には破片は刺さっていないので、被害は頭部への衝撃で済んだ。しかし強い衝撃だったため頭がクラクラした。

 

「頭を揺さぶる石頭の意思、心を揺さぶる破片の意思」

 

彼女は鼻血を流しながらクスクスと笑っていた。

 

「冗談じゃなくてさ」

 

とうんざりした声で言った。おかしな話ではある。あんな勢いで首を回さなければこんなことにはなっていなかった。むしろ謝るのはこっちのほうなのに、なぜかダメージを食らっている感じがした。体中の破片といい顔面に頭突きを入れられた痛みといい、彼女はどこまでタフなんだろうか。

 

ところで、彼女は破片を自分で抜いていたと言った。しかし見ていた。彼女は破片を取るふりをして、あまり傷口に関心がない様子で、小さい破片がまだ残っているのにも関わらず、それを蝋で塗りつぶしていた。

 

血まみれの彼女にお似合いの洋服を作る必要があると思った。ダーク・ブルーのツイードのスーツにしよう、と決めた。品の良いブルーだ。ボタンが三つで、ナチュラル・ショルダーで、わきのしぼりこまれていない昔ながらのスタイルのスーツ。1960年代のはじめにジョージ・ペパードが着ていたようなやつだ。シャツはブルー。しっくりした色合いの、少しさらしたような感じのブルー。生地は厚めのオックスフォード綿で、襟はできるだけありきたりのレギュラー・カラー。ネクタイは二色のストライプがいい。赤と緑。赤は沈んだ赤で、緑は青なのか緑なのかよくわからない、嵐の海のような緑だ。しかし残念なことにその全くイメージが浮かばない。

 

それだけのものを一式そろえるにはそれなりのショップに行く必要がある。でも彼女は血まみれだ。彼女はいつも会うときはラブホテルからそのまま出勤する。会った次の日が休みだったためしがないので、明日も恐らく出勤なんだろう。でも何の仕事をしているんだろうか。

 

彼女はこの世界で血まみれのまま好きなように暴れまわればいい。この部屋でダーク・ブルーのツイードのスーツを着て、スコットランドからやってきたウィスキーを飲むのだ。

 

「ブランデーか何かあるといいのにね」

 

アンヌが言った。

 

「早いとこ荒療治を済ませようよ」

 

と提案した。

 

「お助け頂いて、どうもありがとう」

 

彼女はそう言ったが、言葉は英語だった。懲りずに激しく首をひねって頭上を見上げてみた。当然、ラブホテルの天上しか見えないので、クランクを回してベッドを窓際まで寄せて、窓を開いた。外は激しい嵐だった。叩きつけるような雨が部屋に入ってくる。

 

「さぁ君も窓際においで」

 

彼女の破片を抜きながら、彼女の身体を窓際まで移動させた。

 

「これがあなたの言う荒療治だったのですね。血が洗い流される気がします」

 

彼女は全身を窓際に晒し、全身で嵐を受けた。この世の嵐を受け止めているというような神々しい光景だった。負けまいと、彼女の破片を取り除く作業を続けた。放蕩の外道を知り尽くした人には、しかし、こんなことが単純至極なものに見えるだろう。でもこの時の我々にとっては、この完全無欠な自堕落と、奇怪きわまる酩酊と、何とも言いようのない退廃があった。

 

「女の子だって、結局、昨日は彼のマンションに停まっちゃった、とか友達に話したりしてるじゃないですか?クラブの合宿の日を親に誤魔化して二人で一日だけ早く合宿するために友達に口裏合わせを頼んだりとか。みんなやっぱり人に話したくなっちゃうんですよね。自慢したくなっちゃうんです、女の子でも。知らないのは女の子の親だけ」

 

「破片についてはつまみ食いもしたよ。でも所詮はつまみ食いはつまみ食いなんだな。これが。荒療治が一番」

 

「女ってみんなそういうものなの?破片が刺さっても大丈夫だったり、ドラッグ打ちまくっても平気だったり」

 

「さあ、それは人それぞれでしょう。ボサノバが好きな人もいるだろうし」

 

「ブラジルの?」

 

「ジョビンのね」

 

「君の身体見てるとさっていうか、あれだよね、もう破片が一本になっちゃってるね。凄いペースで抜いたものだ」

 

「それはジェンダーとか関係ないと思いますよ」

 

「そうなんだ。でも僕はね、体中に破片が刺さったらなんかもう生きている心地がしないというかさ、そもそもそんなにはっきりとした意識のまま破片を抜きながら話すみたいな芸当ができるとは思えないんだよね」

 

「ねえ、花火。お父さん 昔この部屋から見たことがありましたねえ」

 

「そうじゃったかのう」

 

「ねえ、ひとつ聞いていいかな?」

 

彼女の眼を見て頷いた。

 

「普通、夢中になって破片を抜いていると、それだけに集中してしまうじゃない?でもこうやってベッドを動かしたり、部屋を破壊したり、部屋を破壊したから結果的に体中に破片が刺さるようになったんだけどね、テヘヘ。それはともかくね、えーと、何の話をしていたんだっけ?」

 

「破片の話じゃないですか?」

 

彼女の身体も綺麗に腫れ上がった一日になった。事件らしい事件もなく、夜の太陽が様々な色合いに染まったホテルの中の瓶の破片を美しく輝かせていた。彼女の赤い血とウィスキーがベッドからベッドへと飛び回って、破片を器用に抜いていた。ベッドに腰を下ろして、そんな光景を飽きることなく眺めていた。ズタズタになった彼女の美しさは金持ちにも貧しいものにも分け隔てなく公平に提供される。背徳的に言えば彼女はマリア的存在だ。マリア様と同じだ。いや、マリア様はそうではないかもしれない。敬虔でない人たちには恵みは与えないかもしれないから。彼女の恵みは普遍だ。

 

彼女のとりえは若いというだけではない。そのタフネスと恵みと血液自動生成能力と・・・挙げだしたらキリがないし、あげたとしても

 

「あたしを天ぷらにしようとしても無駄よ」

 

なんて言って平気で生きているに違いない。何回か覚せい剤で捕まっているみたいだけど、全く反省していないようだし

 

「こんばんは、蛇の穴から来ました」

 

なんて出所後すぐにドラッグ仲間と合流してシャブを打ちまくったというから女豪傑だ。蛇の穴なんてプロレスラー養成施設みたいだななんて笑っていたけど、心の中ではかなり引いていたところがある。豪傑も行き過ぎると問題があると思う。でも彼女はゲットーに育ってストリート育ちでドラッグにハマって・・・みたいなよくあるストーリーを生きていなくて、パフォーマンスの女型の、あれほど謎に裕福ではないものの、カーディーラーとして会社に勤務していて、ここまで書いていて気がついたことがあるんだけど、実際はドラッグ・ディーラーなのかもしれない。