ウォール伝、ディープWebアンダーグラウンド。

わたしがウォール伝を書くのは地上に平和をもたらすためだ、 と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために書いているのだ。

祈るとか瞑想とか。

そういえば新作貼るの忘れてたので。

Intelligentia Experientialis

Intelligentia Experientialis

  • 発売日: 2021/05/10
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

最近はキリスト教というよりキリスト教を契機とした「祈る」ということとか「瞑想」ということにフォーカスしているんだけどぶっちゃけ今後脳科学とかで分かるようになることを考えてもあんまり意味が無いので、あんまりすぐには解明されなさそうなことについて考えたりすることが多いんだけど、それってのがまぁ「念」なんだよね。

 

魂は存在するのか?みたいな話と同じなんだけど、その魂とAIの違いってなんだ?っつーとまぁゴーストとただのロボットの違いでまぁ攻殻機動隊的な話なんだけど、仮にゴーストが囁くということがありえる場合、それは脳には還元しきれない何かってのがあって、それが思念だったりすると思うんだよね。

 

感情は恐ろしいことだけど脳を開いてどっかに刺激を送ると笑うとか痛がるとかっていう唯物論的な脳と人間というところがあるんだけど、そういうものではない念というのはどうなのか?っていうところなんだよね。

 

嫌な気配がするとか嫌な予感がするみたいな直感とか「なんかあの人嫌だ」的な嫌なヴァイブスを感じる勘みたいなものはどっから来るのか?っつーところだよね。簡単に言えばそれは自分の経験の統計学的に見た目はあんな感じだけど実は中身がサイコ野郎だったっつーパターンとかがあったんで意識的にではなくて無意識的にそういったものを危険なものとして判断している可能性というのがあるんだけど、そこに還元できないものってあるよね。

 

なんでそう思ったのか?とかなんで伝わったのか?というのが分からない世界ね。それも説明できるものとそうじゃないものがあって、俺はもっぱらそうじゃないものに興味があるんだよね。

 

なんか根本的な理解の誤謬があったら嫌なんだけどこないだ思ったのは科学の反証可能性ってつまりはその時の科学のパラダイムに依存するじゃん?科学が扱えないから非科学なのと、科学で扱うまでもない非科学ってのがあると思うんだけど、扱えない非科学に興味があるんだよね。

 

でもこれって現在の科学の限界で扱えないものと扱うに値しないものを一緒にしちゃだめだよね。んでそこで感情っつーかそんな気がするみたいな「気」って一体何なの?とかね、「嫌な雰囲気」って何なの?とかね、「張り詰めた空気」とかって何なの?ってうね、それは即座にそこにいる人が険しい顔をして無視しあってるみたいな空間だからそう感じるっつー何らかの媒介があるが故にそういうものを情報としてキャッチできるっていうものがある一方、情報は無いのに情報を得ることができるものってあるじゃん?

 

で、スピ系とかだとそれも物質だって言うんだけど、物質と言えるかどうかはともかくなんかあるんだよね。なんで視線を感じるのか?ってなんか感じるっつー力というよりかは視線自体に何らかのエネルギーが介在してるからそのあやふやなエネルギーを感知すると居心地が悪くなるっつーことだと思うんだよね。

 

だからそういうエネルギーをキャッチする能力に特化するとかっておそらく武術の訓練とかに取り入れられてると思うんだけど、「何かが来そうな気配」とかってのもそれが攻撃なのかなんなのか分からないけど視覚で肩が動いたとかっていうレベルではない気配ってのがあるんだよね。武術でぶつかり稽古をやってる人はそういうエネルギーを感じ続けているから単純に感じる回数が多くて感覚か鋭くなるっていうことがあると思うんだよね。

 

それは統計的に何となく来そうっていう雰囲気の計算なのかもしれないけど、もしかしたらエネルギーを感じてるのかもしれないよね。まぁオカルトとかだと念を飛ばして殺すだのさ、呪いとかってまぁそうだよね。でも原理的に祈りってのも呪いの逆バージョンっつーかさ、どちらも念であることに変わりはないので何らかの念が存在するんだろうって思えるよね。

 

あとはまぁよくある場自体に記憶が残るみたいなのも場を形成するエネルギー自体にデータベースみたいなのがあって感じる人はそのデータベースに無意識にアクセスして「嫌な雰囲気」を感じられるのかもしれないよね。

 

瞑想法とかでもエネルギーがあるかどうかは別としてエネルギーがあると仮定して色々とやるとあたかもエネルギーがあったかのような効果が出るってプラシーボ以外のなんかがあると思うんだよね。昔だったらそれは確固たる精神エネルギーだと信じられてきたものが近代科学では計測不可能だから非科学的とされてそういうものは「無い」とされるけど実際のところどうなんだろう?っつーところだよね。

 

黙祷とか神社でお祈りをするとかお墓参りのときに冥福を祈るとかって相当逆に唯物論的な思想が入ってないと単純な文化としてやるじゃん?祈りが無いところもあるんだろうけど逆に少ないんじゃないか?と思うんだよね。だから逆になんで場所時間宗教問わず祈り的な念が介在する念を込めるようなものとか儀式というのがあるんだろう?っつーところなんだよね。

 

そこは暗黙にそういうものにエネルギーがあるっていう前提があるからだと思うんだよね。祈りではなく願いの場合、それは自分の心に深く刻むということになる結果、そこにプライミング効果が発生して目的の願いを達成しやすくなるとかってのがあると思うんだけど、そういう自分の利ではない祈りというのは一体何なのか?ってところなんだよね。

 

それは祈りを捧げているうちに脳がラリってきて気持ち良くなるみたいなこととか祈りを続けている人は脳が変化するみたいな物理的なものに還元できるところもあると思うんだけど、どうしてもそれ以外に念自体が存在するのではないか?っていうようなことが多いんだよね。観測はできないけどあるような気がするってまさにこれだよね。

 

そういったものが事象自体の顕在化に影響を与える可能性があるってことじゃん?だからなんつーのかな、気とかにしてもSFで出てくるような人間との違いが無いアンドロイドに気はあるのか?っていうことだよね。もしくはアンドロイドは瞑想をするのか?っつーところだよね。もちろんプログラミングすれば瞑想するけど人間と同じにしたときにそういう人間と同じ行動プログラムを持っただけで、瞑想とか祈りみたいなことを自発的にすることがあるのだろうか?っつーところなんだよね。

 

ネガティヴなことを考えていると体の調子が悪くなるとか精神病んでくるってのは普遍的な事実だと思うんだけど、それは生理学的におそらく体にストレスがかかり続けるとか脳がそういった考えにヤラれ続けるっつーところのダメージだと思うんだけど、仮にアンドロイドがネガティヴなことを考え始めたら体に影響が出るのか?っつーところだよね。そこが純粋に生理学的なことなのか、それともネガティヴな思念自体に何らかのパワーがあるのか?ってことだよね。

 

俺が言うエネルギーって良い悪いじゃないんだよね。良い悪いは相対的だから、ただそういった念にエネルギーは介在するのか?っつーところなんだよね。神学とかをやるとありえない話を真剣に学ぶようなこともあるわけで(笑)良い意味で読んだ時点で「そりゃありえねーだろう」っていう現代の科学っつーパラダイムのフィルターが消えるんだよね。何においても可能性はあるだろうって感じになってくる。

 

でもやっぱり荒唐無稽過ぎるものってのはあるわけだし、惹かれるものというのは科学で測定や観測ができないだけでそういうのはあるんじゃない?っつーものなんだよね。神秘体験とかは脳をいじればそうなるのかもしれないけど、じゃあ脳以外の現象が介在しているものはなぜ起きるのか?ってことだよね。

 

もしくは脳だけではない脳以外のものに干渉するようなよく分からない現象ってのは何なのか?っつーところだよね。

 

これは俺はあると信じるようになったんだけどまぁきっかけは色々あるんだけど、基本的に信じてて損は無いのは恐れや不安を無視するとかってことじゃなくて、無駄にそういうものを持ったりすると負のパワーが出てきてバイオリズムを侵害することになるとかね、かといっても能天気にポジティヴ!っていうわけにはいかないんだけど、基本的に良いエネルギーなりパワーに触れるとか出すとか開発するっていうところにフォーカスしたほうがいいんだよね。

 

で、ネガティヴな人とか物事からはそれを穢れのように恐れて近寄らなかったりそういうのをもらわないように気を付けるっつーことだよねっつっても難しいんだけどね。何しろ念の持ち主って人間だからそういう人を避けるっつっても避けられないことも多いわけだけど、そういう感覚を研ぎ澄ませればコールドリーディングとかではないレベルの念のレベルで何かが察知できれば危険を回避できるようになるのかもしれないよね。

 

人間も所詮動物だから生死に関わることには敏感なはずなんで、昔はその辺で襲われたり辻斬りだの普通にその辺で死ぬのがデフォだった時代の人ってのはそういう感覚は現代の平和ボケした人間と比べると個人差はあれ相当強かったと思うんだよね。まぁ野生の勘みたいなもんか。

 

でも文明化が進むと個々が野生の勘を研ぎ澄ましてまで身を守るというよりかは国家が暴力装置になって国民も暴力を委託するという形になったからそういう感覚が退化しただけで、元々はそういう能力があったんじゃないか?って思うんだよね。

 

で、まぁ人によってそういうのが退化してなかったり退化はしてるけど普通の人と比べると相当鋭いって人がいて、んでもだとすれば人間にデフォで備わってるものだと思うんだよね。街を歩いてて一番怖いのってすんげー悪いオーラを出してる人間だよね。っつってもワルガキみたいなガラの悪い連中なんじゃなくて普通に見えてすんげー悪いオーラを出してるやつね。ああいうのに生死を左右されるような身の危険を感じるときがあるんだよね。

 

まぁそれはそいつがナイフを持っているとかってことじゃなくて、そういうネガティヴなものに触ることを極力避けるということを意識し始めてから元々そういう影響を受けやすかった体質がより感じやすい体質になったなって感じるんだよね。で、それって太極拳とかをやってて先生から教わった感覚なんだけど、いや、それは気を感じるというよりマインドフルネスとかである普段意識しないような体の場所とか感覚に集中してみるっつーところなんだけど、それと凄く似てて、「なんか嫌だな」という感覚に凄くセンシティヴになるってことなんだよね。

 

それは現代科学だとそんな直感っつーか「なんとなく」のものなんてありゃしないから考えてもしょうがないんだけどそういうのを取っ払うと実は重要な感覚っていうのに頭が気づき始めるとそういう感覚が覚醒し始めるんだよね。

 

で、やっぱ一番強いのって自分の生き死にに関わるところで、例えば腐ったものを食べたらすぐ吐き出すようになってるとか生命維持装置としての身体能力って凄まじいものがあるじゃん?そりゃそうだよね。それが無いと死ぬからね。でもそれは腐ったもんとか熱いものとか触ったらケガするものというような物理的なもの以外に多く存在していて、でもそれは暗黙であるような気はしてるんだけど明らかにケガしそうな危ないものとしては頭が認識してないんだよね。

 

でもそこを認識しようとすることで凄く開けてくるものがあるんだよね。そこは神秘主義思想からの影響とか太極拳でやっている普段と違う身体感覚を使うっていうこととか太極拳で使うマインドとかいつも気功を施術してくださっている先生のアドバイスとか色んなものがあって気が付けたことなんだけど、こういう複合的な全くソースは別々のものが同じものとしてストンと落ちるんだよね。腑に落ちるというやつか。

 

やっぱりでも凄く印象的なのは気功の先生に感じやすいから変なところに行ったり変な人と接しないようにしないと体が壊れるって言われたことかな。それは実際体感ではあったのにそういう気とかエネルギーなんつー考えはなくはなかったけど重要に思ってなかったから嫌な人から影響を受けて頭でそれが繰り返し再生されて嫌になっている一種の神経症とかうつ病って思ってたんだけどエネルギーとか気って考えると凄く腑に落ちるんだよね。

 

そういうのは自分を死に至らしめるような毒みたいなもんだって思ったり感じたりするようになってからはそういう感覚が研ぎ澄まされた感じがあって、かといっても会えばすぐ分かるなんつー達人レベルではないんだけど、凄くそういう悪のエネルギーに関しての防衛本能というのが芽生えてきたっつーか覚醒してきた感じがあるんだよね。

 

なんでそこがいいのか?っていうとさっき書いたようにそういう感覚があるとすれば生き死にに関わることについて人間の能力は凄まじいからまずそういう生き死にのレベルのところの感受性を研ぎ澄ませれば他も開いていけるような気がしてるんだよね。

 

あとは前から言っている善の重要性っていうことなんだけどそれも善の思念のパワーがあると仮定しておくと、そういうパワーとかエネルギーを持っていたほうがいいからCultivateしようと思うようになるし、祈りというのも宗教の儀式的なものではなくて、そういった善を涵養するものとか、俺はまぁ一応キリスト者だからキリストに祈るということで発生するパワーみたいなのがあると思ってるんだよね。

 

もちろんパワーがあるから祈るんじゃなくて帰依してるから祈るだけで、あとまぁ祈りも習慣化するとやらないと気持ち悪くなるのと、あとまぁマインドフル瞑想的なメソッドでマントラ的なのを唱えるときはその人にあったマントラが一番いいわけでそういうマントラにキリストの祈りを使ってるっていうのはあるよね。

 

まぁあとあれだわ、場の記憶とかスピ系の磁場っぽい話みたいなパワースポット的なやつもその場に人間のマインドに良い影響を及ぼすようなものがあったり、あとまぁ古くから聖域と呼ばれるようなところはそういうものが宿っている場所って言われたりとか、ただその「パワー」の単位が無いっていうか、パワーというのは比喩でなんかがあるんだけど呼び名が無いみたいなものだと思うんだよね。

 

場の浄化とか地鎮祭的なのもそういうパワー的なものかもしれないよね。とりあえずまぁなんかがあるっつーその「なんか」をエネルギーとかパワーと比喩として呼ぶしかないっつー感じだと思うんだけどね。

 

ただそのパワースポットとされるところが普遍的に良いのか?っていうと個人差があったり合わない人もいたりっつーこの辺も人の魂なのか具体的に人体なのか分からないけどそれがエネルギー的なものだったら合う合わないの相性があるのも分かるよね。

 

結局なんつーか前にも書いたけど唯物論とか相対主義とかって決めつけないで何もかもがありうるけど基本的スタンスは唯物主義とか相対主義とか科学主義ってのがまともな人のデフォだと思うんでそれはキープしつつ単純に今の科学ではまだ分からないことがあるという意味での分からない領域があるっていう余地を認識の中にも残しておいて、そういうものを弾かないっていうのが大事だと思うんだよね。

 

そういうのを弾かないとトンデモ扱いされる的な他者の目を気にするって意味でそういうものを知的に否定するっていうのはポーズであるかもしれないけど、もっと知的に誠実であれば現代の科学が発展途上なのは間違いないわけだから、現在の科学で分からないものがあって然るべきっていう認識はむしろ全うだと思うんだけどね。

 

まぁただ自分の場合、キリスト教神秘主義とか正教系の神秘思想にドはまりしてるってのがあってこういう風に考えるようになったってのはあるんだけどこっちのほうが自由だよね。神秘などありえないって閉じると一気に見えなくなるからね。ありえないって言えるのはある種の傲慢なんだよな。人間の認識が全てのものを認知可能で科学も同様に全ての現象とか現象として表れていないレベルのものですら解明できるとかって考えるのは相当アホですよね。

 

まぁもっとアホなのは科学で否定されていることを「信じたい」という理由でそれに固執するやつらだけどね。まぁだからこういうのって安易にトンデモになりやすいから気をつけなきゃいけないんだけどまぁ基本思想の出発地点がマルクス主義の俺が道を間違えることはないだろうなって確信はあるけどね。根本は変わるわけないからね。俺がスピリチュアルに向かわないのは知性もあるけど根本的なマルクスの影響があるからだよね。唯物論的考え方が長かった場合、そういうのってそう簡単に変わるわけじゃないからね。まぁなんかすげー体験とかあったら変わるのかもしれないけど。

 

そんな感じで今日はこの辺で。