行方不明の象を探して。その52。

人生をうまく生きるコツは、この脱線をうまいぐらいに料理して、その脱線の料理のレベルをシェフ級にまで磨き上げることだ。脱線が始まると本筋のほうは全部ぴたりと停止する。じゃあってことで本筋を続けると今度は脱線がおしまいになる。全くもってこういう生き方は合理的ではない。

 

何しろ人生の本筋を生きている人間なんていないからね。脱線は無駄とは違う。やっと本筋のようなものを見つけられたとしても、それは脱線あっての本筋なのであって、脱線が無ければ本筋はありえない。もしくは最初から本筋に恵まれた人は脱線の料理のレベルをシェフ級にまで磨き上げる機会に恵まれなくなり、結果的に脱線のシェフよりも味気ない人生を送ることになる。まぁ本人がそれで満足していればいいのだけど。

 

相変わらず俺はアキラちゃんとプレイした時のテープを見ながらオナニーしている。時々、アキラちゃんの声はなくなり、オカリナの音色で奏でられるクラシックなのかイージーリスニングのようなものが聞こえてくる。たまに雑音が入る。

 

空は晴れていてとかアキラちゃんとファックし過ぎて太陽が黄色く見えるとかなんだとか、引きこもりモードになったからもう外に出たくないとか、そういうものが恐怖の対象にもなりうるのです。ビデオには録画された日時の記録がないので色々と記憶が曖昧です。

 

部屋は胡散臭い臭いでしたね。場末のラブホテルで古臭い臭いを誤魔化すための消臭剤がさらに煮詰まったような臭いがしていて、でもその臭いがお互いのリビドーを刺激していたのですね。こういう時世ですから換気は必要です。それにしてもセックス以上の蜜とは?恐らくこれ以上蜜になりようがないぐらい死ぬほど愛しあいましたね。

 

文字に関しても同じだった。どんなゴミでも精読はしないまでも、一応ちゃんと目を通すという文字の貧乏性が身体に染み付いていた。その結果でもあるのだろう。彼の過剰過ぎる情熱がほとんど何もないという認識に至らせてしまったということ。絶望者や退屈に陥った人間、まさしく彼のようなタイプはしばしばアルコール中毒になったり薬物中毒になったりする。

 

しかし彼はそれも経験し尽くしてしまった。中毒になる寸前に無益だと感じたからだ。客観的に見れば明らかであるが、酩酊は一時的に脳を麻痺させるだけで、例えば治療のしようがない体の一部分も慢性的な痛みがあったとして、一生効く鎮痛剤というのは存在しないから、彼は鎮痛剤と共に生きるしかなくなる。

 

彼にとって酩酊させるもの全般がただの鎮痛剤の役目しか果たさないということをよく分かっていた。死ぬほどそれにハマったからだし身体を壊しかけるまでやり続けたから筋金入りなのかもしれない。死ぬ寸前のところでやめることができたのは彼にとっては幸いだったのだろうか。

 

彼は健康オタクなので薬物全般の副作用のほうがどちらかというと気にかかるという理性の持ち主だからなのだろう。酩酊させるもの全般には大体強烈な副作用がつきものだ。リハビリ施設のドキュメンタリーなどを見て「明日は我が身だ」と彼は感じていた。彼が若いころに。

 

彼がそんなに若くないころに酩酊をもたらすものが現れた。VR装置だ。装着しただけで世界中を旅したような気分になる。VRをつけている間の倦怠感の無さはドラッグ並のものがあってなおかつ副作用もないから「これだ!」と感じていた時期もあったようだ。しかし彼はそれにも飽きてしまった。

 

VRの精度の問題なのだろうか?SFに出てくる極度に発達した現実世界との差がないレベルのVRがあれば彼は満たされるのか?彼は違うと判断した。そこに主観がある限りそれからは逃れられないというシンプルな帰結に簡単に至ってしまった。

 

「残念だが少年は一人だけだ」

 

と俺は笑って言った。

 

「あたしはあなたと同じ年よ」

 

「あなたくらいの年よ!」

 

不眠をこじらせているというよりかはゴメンね。12時間幻想の話になる。12時間以上寝ないと体調が悪くなる俺にとってはリアル時間のサイクルとの相性が本当に悪い。8時間睡眠で何かに挑もうとするとフラつきや吐き気などが襲ってきて身体が使い物にならない。12時間寝ているから12時間後にも眠くはならない。眠くなるまで起きていようとするとサイクルがズレる。そうすると所謂、社会的生活が送れなくなる。それでいいのだけどね。

 

ムカつくのがこういう作家臭い特徴的なメンタリティとかロングスリーパーじゃないまともに会社勤めをしても機能しそうな人間が小説を書いていることだ。いや、それはいいんじゃないか。問題は大体そういうのがつまらないってことだ。やっぱり音楽も小説もある種の異常者が作らないと面白いものはできない。

 

少し体を動かしたり美味しいものを食べたり旅行に行ったり色々あるじゃないですか!なんて言われたことも何回かあった。彼はそれも経験済みだった。しかも尋常じゃない楽しみ方を彼はしていたのだ。「やった!楽しい!」と子供のようにそれらを楽しんでいた。そしていつも祭りの終わりに来るあの寂しさに打ちのめされた。こんなにアッペンダウンが激しいなら最初からやめておこう。

 

しかし楽しいのでそれを続けた。そのうちアッペンダウンもなくなった。アップもなければダウンもない、彼が平叙運転と呼ぶところのニュートラルな素面だ。これは無関心とも違うし考えすぎとも違う。似ているけど違う。幸福な人間に共通しているのは無造作というところだろうか。作為なく考えなしに生きることができる。それは「生きる」ということが主題にならない幸福だ。しかし一旦生きるということが主題だと分かってしまった人間はどう足掻いてもそこからは逃れられない。