ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/修道士による日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

自由と教養的な?って感じですかねっていう。

いや、超ショックなことがあってっつーのも3年前ぐらいに買ったデニムのスキニージーンズ履こうと思ったら全く履けないでやんの!最近デブってきたってのは散々書いてるけどあれだわ、二十歳祝いの時に父にアニエスのスーツとかまぁ色々と一式買ってもらったんだけどそれがまぁ20代中盤ぐらいになった時に履けなくなってて「ゲッ!」とかって思ったんだけどまぁ元々めっちゃ痩せてたんだけど年相応の太り方をしているんだなって感じるんだけどあれなんだよね、ジーンズとかベルトいらなくなってるんだよね(笑)

 

腹もそうだけど脚も太くなってるのか!っていうまぁただ不健康でガリガリよりかはいいなって思うしまぁ食欲あるって健康な証拠だからね。んでまぁ面白いことがあってこないだ渋谷原宿コース行った帰りにいつもチャリをとめている駐輪場のおっちゃんから「兄ちゃん最近貫禄ついてきたね!歳相応になってきたって感じがするよ!」とかって言われて(笑)

 

単純に太ってきたということなのかな?とかって思ったんだけどまぁポジティヴに捉えればまぁ威厳がついてきたってことでしょう。もっとも忌み嫌う顔キャラじゃないただのNPCというかただの小市民的な感じが嫌いな自分としては雰囲気的にガンガンビッグに成りつつあるってのはいいことだなって思うんだよね。あとまぁやっぱそれはジーザスの威厳のおかげだってリアルに思ったんだよね。

 

まぁ元々俺は自信しかないというかアメリカ行ってから色んな人にポジティヴな言葉を受けたというのもあってそれが確固たる自信に結びついたってのもあるしあとまぁ自己啓発とかでよく書かれてるような大いなる勘違いだよね。自分はビッグになるんだ!というよりかはビッグなんだ!って勘違いすることで脳が錯覚してそういう風に振る舞ったりビッグな考え方になるというね、ただまぁこれの落とし穴は実力が伴わないとただの虚勢だけあるただのバカになるんだけどまぁその辺が難しいところだよね。

 

ただまぁ自分磨きの余念がない自分としては当然の結果だろうって思う反面、暗黒騎士からパラディンになったセシルの如く、自分と向き合った結果、んであとたまたまだったんだけど凄くラッキーだったディティールは書いても伝わらないから書かないんだけど例の啓示ですよね。キリスト教に目覚めるきっかけとなった色々なことということも含めて、それがあってこそのポジティヴさというか一気に持ち直したどころかかなり色んなステージが上がったという感じがしてるんだけどそれってまぁ自分磨きに余念がないというのもさることながらやっぱりジーザスの威厳がそれだけ偉大ということなんだよね。ちょっとスピ臭くなるけどまぁようはオーラが出ているということでしょう。

 

まぁ昔から変なオーラがあるやつだ!とは言われ続けてきたけど今のオーラは凄く良いヴァイヴスになってるんだと思うんだよね。ただそれは独りよがりな俺すげーだろ!というようなものではなくて信仰心と敬虔さから来るようなエゴイスティックでパワフルなものではなくて真に知的なオーラというか、あとまぁクラシックとか聴いてるとかってのもあってまぁなんか今までの俺とは違う感じが出てきてるのかなとは思ったんだよね。

 

元はただの突っ張ってるパンクス兄ちゃんだったのが聖おじさんに成りつつあるってのは我ながら良い成長だな!と思うんですよね。結局これって日々諦めないってことなんだよね。色々なことがあるけど自分を信じて磨き続けるしかないっていうね、安西先生じゃないけど諦めたらその時点で終わりだからね。

 

難しいのは磨く意思はあるんだけどベクトルが分からないということでここ数年の俺はまさにそんな感じだったんだけど今みたいにベクトルが定まるとパワフルにそこに吹っ切れるから成長も速いんだよね。あとまぁ死に物狂いで見つけたようなものだからもう意地でもしがみ付こうとするしただの好きなこととかではないんだよね。もうそれがレゾンデートルのようになるというかね。

 

ただまぁその威厳って別に金稼いでるとか社会的地位があるとかってことじゃないんだよね。まぁそれで言えば別に俺のソーシャルステータスなんて昔から変わってないわけなんだけど結局まとうオーラのようなものというのは社会的地位とか財産とかキャッシュフローとかと関係なく出てくるようなものでそれってやっぱり自分がどうありたいか?っていうところの日々持ち続けるマインドセットということなんだよね。

 

でもそれを維持するのって大変だよね。例えば寝る前ぐらいは色々と本を読んでもっと知識を深めよう!とかって思うんだけど寝て起きるとなんていうかある意味凄くデフォな自分がむき出しになるじゃん?なんかまぁすげー志が低い刹那的な快楽を求めるような低い感じっていうかそういう流れに身を任せて一日中向上心とか無いままダラダラ過ごしちゃうとかね、ただまぁレベルが上がってくるってのは起きてからの起動までのスパンが短くなるっていうか、よし今日もやるぞ!的なマインドにすぐなりやすくなる感じというかね、ただそれって難しくて本当に「これだ!」というような合ったものに照準が当たってないとそうなりづらいよね。何やっていいか分からない状態だとどんどんその元の低い自分のダラダラするデフォルトがスタンダードになっちゃうっていうかね、そこでまぁ照準自体が自分を高めてくれるっていうことだよね。

 

キリスト教に限らずイスラムも余力があれば徹底的にやるぞ!っていうかもう世界中でもここまで毎日そればっかやってるやつなんていないだろう!っていうぐらいの生活をしてやる!っていうそれってまぁ才能とか能力とか関係ないからね。無駄を省いていかにその自分がフォーカスすることに時間を費やすか?ということだよね。もちろんまぁそれは今は音作ってるから音楽ってのも入ってるんだけど例えばまぁなんかエロサイトにしても芸能ゴシップ的なものとかダラダラ見るような娯楽映画を見て時間を過ごすみたいな、まぁそういうのも息抜きとしては必要なんだけどそればっかやるとまぁどんどんモチベーションというか士気が下がるよね。どんどんデフォの自分に戻っちゃうっていうかね。

 

そこをやっぱりフォーカスすることに身を乗り出してそのフォーカスするサブジェクト=自分が生きる理由ぐらいになるといいんだよね。まさに「キリストにならいて」ということなんだけどよくまぁ目標とする具体的なロールモデルとかを見つけるとか自分のヒーローを見つけてそれに憧れるとか近づこうとするっていうことが重要ってことなんだけど例えばキリスト教に於いて特に東方教会だとイコンってのがあるけどようはそれが壁に貼ってあるとか生活するスペースの中でそういう象徴的なものがあるということで向かうディレクションを常にそこに整えるっていう効果があるわけだよね。

 

それがあまりにもストリクトになり過ぎるとただの抑圧になるんだけどポジティヴな方向に進むためのディレクションという風に考えるとまぁそれって例えばPCなりスマホの壁紙とかさ、年収何千万稼ぐ!とか壁に貼っておくとかさ(笑)まぁそうやって自分を奮い立たせるっていうことだよね。アメリカに居た頃は壁にプリントした若いころのレオシュトラウスの写真を貼ったりしてたけどまぁまさにそれがキリスト教徒になるとそれがキリストになるっていうことだよね。

 

キリスト崇拝とか父である神を崇拝するというのも宗教的なイメージからすると「何なのそれ?」っていう感じだけどキリスト教に目覚めた俺としてはその崇拝っていうのは思考停止的なものではなくて人間として善くあるということを低きに流れやすい人の心というのを常に善の方向に導いてくれるっていうまさに迷える子羊を誘う牧者ってことだよね。

 

だから結局は究極的に言えば宗教ってのは人が善くあるためのディレクションを指し示すものなわけでそれは別に組織的である必要も無ければ権威的な人間がその誘いの仲介をする必要も無くてっていうかまぁそういう中間が入るから宗教ってのはダメになるわけで、あくまで自分の精神が指し示す方向を神の方向に向けるという日々の精神の運動というかそのムーヴメントというのが自分という存在を確固たる存在として定立するものになるっていうかね、この辺はドゥルーズ的な運動体としての生成体としての存在みたいな感じにも似てるしまぁなんつーかベルクソン的でもあるんだけどその生命の飛躍の契機というのが神によって与えられているっていうことだよね。

 

でもこれはキリスト教の家に育ったから形式的に教会に行っているとかキリスト教徒であるっていうようなことでは到底認識不可能なものなわけでそれは例えばパネンベルクみたいに別にキリスト教の家に育ったわけでもなければそういう教育を受けてきたわけではないんだけどでも結局色々と考えたり哲学を学んで行ったりする中で必然的にたどり着いたものというような認識のマイルストーン的なものなんだよね。だからそこに儀式的な形式性とか教会に通うみたいな象徴性とも関係ないんだよね。まぁ極めてピュアな哲学ということだよね。

 

そこには組織的なものに払う上納金みたいなものもなければ強制的にリスペクトしなきゃいけないような権威的な人物もいないものだよね。ただもうそれはキリストのみということに尽きるよね。ただまぁ個人的に例えばカール・バルトをリスペクトしているとかそういうのはあるにしても真に崇めるものというのはキリストのみなわけでありふれた聖書っぽい言い方をすればそれがアルファでありオメガであるわけなんだよね。

 

なんだろう、ジャズはマイルスに始まってマイルスに終わる的な、まぁそれに同意する必要はないんだけどこれってまぁジャズ入門としてKind of Blueみたいなのから入ってんでそっから色々とジャズをディグるんだけど最終的に電化期のマイルスのドープな世界とかフリーファンクとも言えるようなファンク期とかみたいな深みにはまっていくっていうところでジャズ入門としてのマイルスというのもあるんだけど結局、ジャズ好きを究めたら最終的にやっぱりマイルスに行きつく的なことだよね。

 

それがジャズの場合マイルスなのか生きるということにしてみればキリストなのかそれは個人によるんだけどアルファからオメガへっていうのはある種のプリンシパルなんだと思うんだよね。世阿弥の初心忘るべからずじゃないけど常に色んなところで初心というのがあってそれはようは常に自分を磨けっていうことでしょう。色々と極まってきて中堅みたいになって人に教える立場になったりしても学び続けるとか磨き続けるという初心を忘れてはいけないっていうそれをキリスト教で言えば善くあるということを忘れずに生きていくっていうことになるわけなんだよね。

 

こんだけ薄汚れたオワコンの世の中で善くあるなんて凄く難しいことなんだけどでもだからこそ余計に善くあるということが求められるんだよね。善くあろうとするだけで周りが敵だらけになってもそれこそキリストは当時の人たちに罵倒されて磔にされたわけで真に善くあろうとすることで人から尊敬されるみたいな単純なことではないんだよね。それは別なことで言えば俺がよく言う善くあると同等ぐらいに重要だと思っている文化的であるっていうこともそうなんだよね。

 

世俗的なものってのは大抵のものが低俗なわけで、でもそこで高潔というと自分の趣味が高潔なんだ!って驕るみたいなことにもなりかねないんだけどひけらかしとかステータスとしてハイブローなものを嗜むということではなくて心の底からハイブローなものを渇望して味わうっていうことだよね。そういう態度というのが文化を作って次へ継承していくものになるんだよね。言わば地盤みたいなものを育むようなもので聖書で言うところの地の塩ということだよね。

 

その場その場で短絡的に金を生み出すことがあっても時代と共に忘れられるようなガラクタみたいなものではなくて時代を超えて継承されるようなものを生み出すとか生み出さないにしてもそういう風に継承されてきたものを嗜むというようなね、まぁちょっと間違えると古典主義というかロマン主義的にもなりかねないんだけど別にそれは古典に限らないからね。現代のクラシックってのはあるわけでしょう。ようは生み出されたのは現代だけど歴史に残るようなモダンクラシックというようなものだよね。

 

そういうテイストというかジャック・ランシエールが言ってるような感性的なものの布置というかね、ベタな言い方をするとつまりは教養レベルを上げるということがそのまま政治に繋がるというようなことなんだよね。もちろんそれは教養だけではなくて感性然りなんだけども。

 

現代ってのは古代と違って善くあるということと文化的であるっていうことが不可分なんだよね。その両方があってそれが地の塩となってディレクションを指し示す光になるっていうね、それは具体的にどう革命を起こせばいいのか?というような政治的方法論の話じゃなくて個の生き方とあり方によるものなんだよね。

 

そういった生き方そのものがポリスの形成に繋がるとか形成に影響を与えるようになるというね、もちろん低俗な人間が多くてこんなの優等生的な机上の空論だろっていう突っ込みはそりゃあると思うんだけど低俗な人間が多いからもう世の中は終わりだっていうことでもないじゃん?そういう人間が多いからこその憂国じゃん?三島の憂国ってまさにそういうコンセプトだよね。

 

それはなんつーかイスラム原理主義の元となったイデオローグみたいな扱いを受けているサイイド・クトゥブとか同じくネオコン思想の元となったレオ・シュトラウスだとかね、結果的にそれはそういう思想の元になったかもしれないけど通底しているものは低俗さを憂う感性だよね。別に個々は勝手に生きればいいんだけどただそこまで低俗過ぎたらマジで国が終わるぞ!っていうような憂国だよね。

 

だからそれは教養主義とも違うんだよね。極めて非政治的な、ただ実践をするとそれが政治的な意図の有無関わらず政治的な影響をもたらすものになるんだよね。だからこそのリベラルアーツっていうことだよね。教養によって自由を得てその自由があるからこそ善くあるという自由を選べるということなんだよね。

 

ただまぁそれを選ぼうとするならどんな時代でも孤立するのは必然なわけで、でもその孤立を恐れては真の自由は選べないんだよね。つまりは真に自由ということは何にも依存しないインディペンデントということでしょう。カント的な自律だよね。オートノミーだよね。目先の経済的合理性とかどれだけ有利に立ち回れるか?とかコスパがどうのとかそういう軽薄なものに縛られない自由だよね。だから真に自由であるにはそれだけの教養と「善くあること」っていう道徳的なプリンシパルが必要になるんだよね。

 

まぁそんな感じで今日はこの辺でいいかな。ってことでんじゃまた。