ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

あんま他人をディスらないほうがいいよ。

mimisemi2007-10-06

世徒ゆうきというエロ漫画家の各作品が最近の俺のスクラッチネタである。溝が無くなるまで擦ろうと思う。というかこの人は精液が溜まりに溜まって出まくる感じとか、子宮に精液が届くという観念的なエロスを完全に自明なものとして理解しながら作品を書いてると思うのね。あと登場する男の大半が読者を連想させるような、普通か普通以下のダメ男っぽい感じのやつばっかで、全体的に男が弱気で女が強気に精液を搾り取るという関係性が一貫して書かれていて、この手のものが好きなやつにとっては、もうその画の素晴らしさと描写もあってか、カウパーPhd出まくりだと思う。女のセリフなんかも男がマスる時に想像するような、ある意味でありえないような男の創造の世界の中だけで存在するような痴女のセリフがとても多くて、本当に使える作品だなと思うね。アルティメット・ブレイクスって感じよ。あと前に書いた胃之上奇嘉郎って漫画家ね。メインはちゃんとした作品の挿絵とかやってる人なんだけど、まぁーエロ作品のクオリティの高いこと。サウスパークの作者が「いつも彼女にポルノは一つのアートフォームなんだって説明しても理解してくれないんだよ」なんて言ってたけど、まさしくその通りで、エロ作品ほど芸術性が現れやすいものって無いと思うんだよね。エロスっていうのは究極的にリアリスティックな概念で、例えばこれと対極なのが抽象芸術なわけねっつーのも、抽象的なものは理解できる人が限られているし、極めて理解がインディヴィジュアルな感性に基づくものであると思うんだけど、エロスというのは基本的に人間が持っている欲を刺激するもので、普遍的なものなんだよね。実際はクズなんだけど、マクドナルドの宣伝のバーガーとかが旨そうに見えるのと一緒で、基本的に欲を刺激するというものは、人間の感性に働きかけやすいものだと思うんだけど、食欲とか物欲とか睡眠欲とか自己顕示欲だとかっていうのがなかなか芸術になりえないのに比べて、性欲というのはもうそれ自体がエロスという芸術なわけよ。それを絵だとかビジュアルだとかで表現するというのはね、それこそ究極的なアートフォームの一つなわけ。どうもポルノというと低俗なイメージがありがちだけど、特に日本のエロ漫画の世界は日本の昔からある伝統的なエロ文化・エロ芸術をモダンな形で継承しているものだと思うのね。春画というのが芸術的に価値が高かったり、春本というのが文学的に価値が高かったりするのと同じで、日本の芸術性の高いエロ漫画は芸術的に本当に価値のあるものだと思うんだけど、その辺に自明的なのが会田誠とかなのかな。分からんけど。会田さんの画集が最近だかこっちで発売されてたけど、基本的にこっちって少なくとも日本よりかは本系は安いんでいつか買うと思う。あと今日ね、もうお金使っちゃいけないのにね、学校が4時で終わる日なのよ。金曜って。クラスが午後からの一コマしかなくてね、で、毎週帰りにどっか寄りたくなっちゃうわけ。ようは腐っても一応毎日学校に行ってるから、開放感っつーかリラックスを求めるために違う場所に行きたくなるんだろうね。これは別に前に書いた抽象的な何かあるっていうような、虚無的な幸せを求めるようなことではなくて、単純に違った風景とか刺激とかを求めていることだと思うんだけど、マンハッタンの場合、それが過激にショッピングと結びついてしまって、今日は悪の枢軸ロックフェラーセンターの近くにある紀伊国屋に行って本を10冊近く買ってしまった。というかあんま必要以外日本語の本を読むことは避けているっつーのも、なるべく英語で本を読まないと、英語で何かを読むっていう習慣がつかないからってのはいつも書いてると思うんだけど、こうやって何ヶ月に一回か物凄い日本語での読書欲が爆発するときがあってね、前もそんなんでブックオフで10冊以上買い物をした後、日本のAmazonでこれまた10冊以上本を注文したことがあった。ところで紀伊国屋の本の値段ってのは前にも書いたと思うんだけど、定価の3ドル〜8ドル増しとか、酷いのだと20ドル増しぐらいで凄まじく高いから、そんなに定価と差額のない文庫本がメインだけど、でも日本円にしたら600円ちょっとの文庫本が1000円とかするわけよ。もちろん生活費に多大なるダメージを与えたのは言うまでも無いけどね。カードでの支払いになるんだけど、靴とか自分の娯楽品と比べて、割と本は親も理解してくれるところはあるんだよね。というのも昔から凄まじい量の本を買ってくるというのを知っているし、俺もしょーもない本を読んでいるとか思われたくないから「これは自分の思想を磨くための材料なわけよ」とかいって、それっぽい威力のありそうなマキャヴェリ君主論とかを見せてさ、納得させてたりしたね。まぁ基本的に実家でニートだったころは親から小遣いをもらっていたし、読書費なんてのも説得してもらっていたわけ。まぁ実際、その大半が本に消えていったんで、無駄遣いではないんだけど、ただホント、この家に生まれてよかったなと思うよ。こんな穀潰しの道楽息子の散財を見逃してくれるわけだから。まぁこっちでのカードの支払いは基本的に仕送りから引かれるので、まぁ借金ってことなんだけど、まぁまだ8万とかあるね。借金が。だから毎月辛いわけ。もともとの仕送りは親もちゃんと考えてくれているからちゃんとした生活が出来るぐらいの金額を送ってくれてはいるんだけど、そこから借金分を毎月、ちょっとつづ引いているので、だから常にギリギリになるのね。まぁこの溜め込んだ知識を将来活かしてまともな職について親孝行しつつお金を返せていければなとは思うんだけど、今は溜め込んだ精液をエロ漫画とかエロ動画で抜いている毎日って感じなんで、その崇高な目標とはかけ離れた毎日だけど、まぁステップバイステップですよ。とりあえず今は単位を稼がなきゃならないわけで。ゆとり教育の申し子みたいな感じだね。まぁ俺はゆとり世代じゃなくてMIDI世代だけど。ただ基本的に学校でやらされることなんて、大半が学校というシステムの中でやっていくのに必要なやっつけ仕事的なものとか、テスト攻略的なものばかりだから、こういうくだらないことにあまり時間を費やしたく無いんだよね。まぁ必要なこともあるんだけど、やっぱ最優先事項は自分のイデオロギーを磨くことだからね。だからやっぱ読書とか考え事をするだとか、まぁウォール伝を書くっていうのもね、物凄く重要なことなわけ。俺としてはね。前にも書いたけど頭に何かが溜まりすぎているとヌカなきゃいけないわけで、文字で射精している感じがウォール伝なのね。だから究極的にオナニー的な行為だし、オナニーそのものだから、これは公開オナニーなわけよ。それにしてもさ、もうウォール伝ってSince 1999とか2000だから、もう7年ぐらい続いてるのね。いやー凄いな。七年分の精液がウォール伝なわけだ。いやーもう精液の大洪水だね。プリズンノートならぬザーメンノートだね。ただ今回買った本の内容について書きたくないのは、具体的すぎる本のタイトルを書くと、鋭い読者が「あーああやって書いてたことも、これの流用だったのね」とか「こんなのただの盗作じゃん」とか思ったりしそうで怖いのね。もちろんモロなやつは誰が書いたとか言及するようにはしているし、そんなもんは最低限のモラルだけど、ただ気がつかないところで多大なる影響を受けていることで、俺が書いていることが、まるでその人達の思想の流用みたいになっちゃっていることもあると思うので、それがバレるのが嫌なのね。あと俺の考え方がどこから来ているのか?とか具体的にどういうものから影響を受けているのか?とか言うのもあんま知られたく無いんだよね。解析されると怖いから。まぁ誰も解析しないだろうし、そんな暇がある人はいないし、そもそもそんなことをする人は誰もいないと思うんだけど、このブログ形式にしてから「俺、見られてる」っていう意識が前よりかは強くなっていてね、そんなのもあってか、書いていることなんかがその見られている感の影響を受けているというのはあると思うね。まぁ実際、人が見ているかどうかなんてどうでもいいんだけど、ようはその個人的な強迫観念のことね。ただ言わせてもらいたいのは、あくまで俺はブログに書いているつもりなんて一切無くて、ずーっと過去からやってきたウォール伝を続けているだけなので、ヴぇつに世間に迎合してブログにしたわけじゃないんだよね。ある人からの耳ラボにあるウォール伝があまりのも読みズラすぎるので、ブログ形式にしてみたら?っていうありがたいサジェスチョンがあったので、はてなに書いているわけ。あと好例のAmazonでのオススメ商品を載せるだとか動画を載せるだとかっていうのもさ、なんか自分で楽しみなんだよね。「今日はどれにしようかな」なんて。だから意外とそのブログを更新していくという、システム的なことから来る快楽というのをね、今は凄く理解しているわけ。いろんな人がブログにハマるのは分かるぞっていう。ところで今日は例の特注のメガネを褒められまくった日だったね。先生から褒められクラスメートから褒められ信号待ちの時に黒人のおばちゃんに褒められ、至れり尽くせりだった。特にこの黒人のおばちゃんのコメントが最高で「そのメガネいいわね!個性的だわ。もうただのメガネじゃなくてアートね」なんて言ってくれてさ、なんというかこういうコミュニケーションが知らない人とあるっていう、まだまだ腐り果ててはいないアメリカの協和的な部分ってのがね、俺が特にこのニューヨークに惹かれるところなんだけども。ただ俺はこのおばちゃんにナイスなコメントを言われたときも「センキューセンキュー」しか言わなくてさ、こういう慣れない状況でどういう風に知らない人と会話していいのかというのが、やっぱこういうコミュニケーションというのは日本にほぼ無いから、完全にカルチャーギャップなんだよね。本当は何か言いたいし会話したいんだけど、何を言っていいか思いつかないっていう。そこがホント、自分でも凄く嫌だなって思うし、凄く日本的だなって思うわけ。こっちに住んでいるんだったらこっちのコミュニケーションの感じに慣れないといけないのに、まだまだ全然日本的なわけ。特に紀伊国屋にいくとさ、ああいう日本的な空間って物凄くその雰囲気を感じるんだよね。ブックオフでもそうだけど、物凄く日本にいるときの感覚に戻るわけ。それっていうのは自分にとって妙な閉塞感とか抑圧感を感じるんだけどね。鼻歌歌っちゃいけないとか、静かに歩かなきゃいけないとか、騒いだらいけないとか、紀伊国屋のあの静かな感じって物凄く和風だよ。明らかにバーンズ&ノーブルみたいなアメリカの本屋とは雰囲気が違うわけ。なんなんだろうね、あれは。それは日本食のレストランにもあるし、スーパーですらあるんだよね。で、あの店員さんに「どうぞー」とか言われたときの微妙な感じ。一応、日本人として判断されて(韓国人とか中国人と間違えられることが多いので)日本語で声をかけられて丁寧な対応をさせられるんだけど、なんというかホッとしないんだよね。あ、別に中国人と韓国人を差別しているわけじゃないからね。対応自体は物凄く気持ちの良いものなんだけど、妙な疎外感というか、閉塞感みたいなのを感じるのは、俺が漠然と持っている日本へのネガティブなイメージが、このアメリカの生活の中でたまにあるような、ああいう日本的な状況という中で極端にフラッシュバックしているんだと思うんだけどね。だって9.9割アメリカなんだからさ、で、たまに日本のスーパーとか本屋とかで日本語の会話というかまぁ対応があるっていうね。あと地下鉄なんかでも日本語で話しているさ、日本人の人達がいると、なんか凄く嫌なんだよね。会話も聞きたくないみたいな。あれはでも恐らく俺が日本人嫌いなのではなく、日本人同士だから日本的な他者との距離というのを知らないうちに計算しちゃってるんだと思うんだよね。例えばそれはアメリカ人だろうが他の連中が喋ってようが、基本的にその極端な他者という概念は無いわけ。混んでる地下鉄でモロに俺の前でスペイン語で話してる兄ちゃん達がいても、俺の中ではこの兄ちゃん達への一種の好意というか、仲間意識みたいなのがあるんだよね。ようは他人だと思わないわけ。ただ日本人がいると、その日本的な他者との距離感でね、「あれは他人だから警戒しないといけない」みたいな感覚に陥るわけ。これっていうのは俺がこっちの生活に慣れたからああいう感覚に敏感なのか、もしくはこっちの生活に慣れたから、昔の日本にいたときの感覚を思い出すとそのギャップが激しくて不快になるのか分からないんだけど、まぁとりあえず当分というかできれば一生日本に帰らないほうがいいということだね。また鬱とか酷くなりそうで怖いわ。ガイジンとして旅行するならいいんだけど、日本人として帰るのは凄く嫌なわけ。だからなんつーかまぁ俺は俺なりに日本が嫌いな理由というのがいっぱいあるんだけど、それは個人的な感覚に由来することも多いってことね。そりゃ一般的に言われているような、共同体的な概念の消失による社会の空洞化とかさ、そういうのが顕著に現れているのが特にここ数年で、センシティブな人はそういった空気にバッドなヴァイヴを感じやすいというのはあるかもしれないんだけど、ただそのほかにももっと俺のパーソナルな理由に由来している日本嫌いというのはあるんだよね。かなり。だから学校でも他の日本人に話しかけないし、クラスで分からないことがあっても聞いたりするのって基本的に日本人以外だからね。なんなんだろう、韓国人とか台湾人とか中国人にはそこまで極端な他者感は感じないんだけど、日本人には物凄く感じるんだよね。もちろん仲が良くなった日本人は全く別で、半端に仲が良い日本人以外の友達なんかよりよっぽど親しいわけだけど、まぁ極端だね。差が。ただこの不思議な感覚ってこっち来てからずーっと感じていることでさ、なんなんだろうなって説明つかないところも多くてさ、まぁ今、こうやって書いてるのはなんとなくこんなことなんじゃないかな?ってことなんだけど、完全ではないね。なんかもうちょっと他に理由がありそうな気がする。だって根本的には日本が嫌いなわけじゃないんだからね。あの日本社会特有の雰囲気が嫌いなだけで日本が嫌いなわけじゃないんだよね。それは確実。というとやっぱ雰囲気っていう抽象的な概念なのかしらね?あとやっぱ常に疎外されてきたってまぁ受身になる言い方はおかしいんだけど常に日本だとか自分の場所とかに居心地の良さを感じたことが無くてね、あるとすれば自分の部屋が聖域なわけ。それは前のウォール伝にも書いたけど、これってまぁ引きこもり特有の感覚だと思うんだけどね。社会から疎外というか自ら距離を置いて部屋の中という自分の世界の閉じこもるっていうね。ただそれはマルクスじゃないけど社会が疎外というものを生み出しているバックグラウンドもあるわけだから、引きこもりだけが悪いわけじゃないんだけど、面白いことにこっちでは全く社会からの疎外感を感じないわけ。それは経済的というか、例えば職業とかの面で貧富の差が激しくて労働者として疎外されている人はいっぱいいると思うけど、なんというか基本的にコミュニティ的なものが物凄く強くて、そういった人間的な疎外感って言う雰囲気が無いんだよね。それは例えば知らない人と会話するとかっていう習慣があったり、挨拶をするということで相手に敵じゃないんだよっていうことを知らせるという、ようは多民族社会の中での防衛的な理由から存在する他者とのコミュニケーションっていうね。それは相手に隙を見せるとかフランクという意味ではなくて、極めて自分を守るからこそ、相手に良くするっていう、そういうのがあるから、基本的に最低限のマナーみたいなのが守られているのかもしれない。相手が通ろうと思っている通路を塞いでしまっていたら必ず「ごめんなさい」と言うとか、通路を塞いでるということがあったら、極端にその通ろうとしている人を意識してその場を退くとか、それはチンピラみたいな見た目のやつでもそういったことが守られているんだから、それは社会での協調性を保つための最低限のルールとして特に多民族なニューヨークっていう場所で守られてきている伝統的なものなのかもしれない。それに比べて近年でのあの日本での基本マナーとか相手とのコミュニケーション的なものの退廃は物凄いものがあるよね。俺は人が嫌いだけど人が好きだからああやって他人との疎外感が極端な社会に馴染めないのかもしれない。だから相手との距離がないこっちのほうが心地いいんだと思うんだよね。ただいつも書くようだけど、その日本的なあんま親しくない人と話さないっていうのが染み付いてしまっているから、なんというかそういう部分が、さっきの信号待ちでのおばちゃんじゃないけど、凄く嫌だなって感じるところなんだけどね。ところでアメリカっつーかニューヨークだけかもしれないけど、こういうコミュニケーション的な基盤はドライになってきているとはいえ、日本に比べたらまだまだあるっていう社会だったら、その社会に蔓延する閉塞感とか抑圧感というのがその資本主義的なシステムからもたらされていたとしても、個人単位での他者との協調性とか共同体的な概念というのは全くそれとは別のもので、壊されることなく存在しているとすれば、社会を構成するにあたっての最低限必要である一つの要素が揺るぎないってことなわけだよね。これってデカイと思うよ。マジで。日本の場合、その他者とのコミュニケーションも社会とのコミュニケーションもなくなっているような状態だから、そりゃみんな鬱っぽくなるのも当たり前だよね。日本ってなんかさ、道行く人同士がなるべく顔を見合わせないとか、変に目が合ったらにらみ合うみたいな、そんなのがあると思うんだけど、こっちの場合、そこでさっき書いた防衛的な意味で「別に貴方を敵視するつもりはありませんよ」という最低限のルールがあるから、例えば微笑んでみたり、余りに不自然だったら「何か用ですか?」と、とりあえず聞いてみたりするっていうことがあるんだけど、日本の場合、特にここ数年は知らない人と口を聞いたら刺されるかもしれないとかっていう、完全に個人単位での他者との協調性というのが崩壊しているんだよね。だから個人個人がより疎外されていくっていう負のスパイラルに陥っていくわけ。ニューヨークでもさ、たまになんの警戒があるのか分からないけど、駅に警察が妙に多かったりすることがあったりするんだけど、基本的に警察の雰囲気が実際はどうであるかは別として「市民の味方ですよ」というような雰囲気があって、例えば駅にいる人が電車のアクセス方法を警備している警察に聞いていたり、なんつーか物騒だなっていう雰囲気がさ、警察がいたら出ると思うんだけど、それはこっちでの特有の他者との遠くない距離感というのがあって、警察の雰囲気も物騒じゃないんだよね。まぁブラックパンサーのドキュメンタリーとか見てたらさ、過去とはいえ警察のヒドさっていうのは痛感させられるわけで、別にNYPDが信用できるとは思わないんだけど、ただ基本的にアメリカ人が心のどこかで素朴というか朴訥にアメリカの根底を信じているというのが、他者との協調性を保っているコアの部分の一つなんじゃないかなとは思うわけ。実際にどうかは別として、自由・民主主義・平等というのを心の奥底から信じているし、教育の課程でそういったことを強く教えられているから、本当にそういう意識が強いのね。だから人種は違えど、とりあえずは自由と平等と博愛を民主主義を信じるアメリカ国民だよな俺たちはというような強い連帯感というのが潜在的に存在するんじゃないかなと思うわけ。まぁただこういったことは下手すると全体主義的にもなりかねないわけで、まぁ難しいところではあるとは思うんだけど、ただこうやって生活していると、その根底にあるアメリカ人でニューヨーク市民であることという前提で生活をしているニューヨーカー達の協調性というのには感心するというか、物凄く良い感覚だなとは思うね。それは社会的とか政治的というデカイパラダイムで考えるのではなく、生活をしていて単純に悪くないと感じるところなわけね。だからなんかね、「No Masters, No Gods」って書いてあるTシャツを一回も着ていないのは、俺の中にもそのニューヨークで生活する人という他者との協調意識が強く働いているんだと思うのね。日本だったら絶対、毎日着ていると思うけど、こっちだと例えばムスリムの人達とかクリスチャンの人達をディスることにもなりかねないので、なんか嫌だっていうね。だから面白いもんでホーチミンのTシャツを着ているときは妙なアウェー感を感じるんだけど、ラリーヤングのUnityのジャケのTシャツを着ているときは妙な安心感があるっていうね。日本に居た頃はもう回りにムカついていたんで、とりあえず反抗的で挑発的なデザインのTシャツばかり着ていたし、毛沢東とかゲバラとかの共産系のTシャツも自分の社会への反抗的な意識を表すアイコンとしてのものだったわけで、実際、毛沢東イデオロギーに協調しているとかではないんだけど、こっちでそういったTシャツをあまり着たくないのは、社会へ反抗する理由が無いからなんだよね。こんな俺みたいなガイジンでも一応、ちゃんとした人間として扱われるようなバックグラウンドがある社会をディスってどうするんだ?とか思ってさ、誰だって練馬をディスると大変なことになるというのは分かっているわけじゃん?だから俺もニューヨークに対してファックという理由が無くて、どっちかというとUnityみたいな、俺はあんた達の敵じゃないんだよ、ブルーノート大好きですよみたいなさ、まぁ迎合とも言えるかもしれないけど、そういったものを表すデザインのシャツを着ていたほうが気持ちがいいわけ。だから俺の中に生まれてこのかた一回も無かったような場所への愛着というのが生まれているわけ。とにかくニューヨークが好きなのね。I Love Newyorkとか言うけどさ、なんとなくあの気持ち分かるね。国への愛というのには関心できないけど、ニューヨークといったある意味でのコミュニティ的な概念に対する愛というのは素晴らしいと思うわけね。それはまぁサンディカリズム的な意味も含まれているけどね。まぁもっとも俺の場合は労働組合至上主義ではなく共同体至上主義だけどね。ようは人々との連帯というのが何も今の時代は労働組合だけに限られる必要は無いし、資本家と労働者という単純な二項対立の時代ではないんだから、基本的に毎日大変だけど頑張っている下流中流の人達が連帯するという、まぁ別にそれでゼネストを起こすというわけではないんだけど、ただニューヨーク市民は基本的にイラク戦争に反対しています!とかさ、低賃金と家賃の高騰に困っています!とかさ、ゼネストならぬゼネステっていうのが可能だと思うのね。ジェネラル・ステイトメントって意味で、基本的にまぁニューヨークで生活している下流中流の人達の共通の悩みをレペゼンするようなステイトメントね。中流っつってもワイドだから微妙なんだけど、基本的にニューヨーク全体のセレブ化をよく思ってない人達がたくさんいるんですよってのを連帯した市民が市にクレームを言うとかさ、そういった共同体的な生活から生まれてくる市民の怒りだとか不満だとか、もちろんそれは逆にニューヨークへの愛とかでもいいんだけど、そういったコンセンサスが市民同士でネットワーク的に繋がっていて、それ自体がある種のパワーになるというかね。そういった意味での共同体至上主義なわけだけど、まぁネグリマルチチュードみたいなもんかな。ただもっと簡単な概念のマルチチュードね。だから基本的にニューヨーク市民同士は争ったり騙しあったりというのはしないし、そういうことをすれば共同体から村八分にあって生きていけなくなるんで、それはある意味で法での裁きよりキツイものになりうるものなのでリスクがデカイので誰も犯罪を犯したがらないっていうね。いや、仮定の話ね。基本的に俺はそのもっとコミュニティ単位での共同体という概念が物凄く重要だと思うわけ。で、前にも書いたけど、例えばクイーンズのコミュニティレペゼンみたいなオーガニゼーションがあったりさ、ブロンクスだとかブルックリンだとかっていうのもあってさ、ただ基本的に違う場所でのオーガニゼーション同士でも利害関係が一致しなかったらダメなわけで、その根本的なオーガニゼーションの存在理由というのが共同体主義というものに立脚していて、結果的にクイーンズもブロンクスもブルックリンも全体で見れば同じ共同体という概念になるわけ。ようは小さいコミュニティから、その別々のコミュニティ同士での連帯が繋がっていって、結果的に大きなコミュニティになるっていうね。恐らく昔のニューヨークはこういったコミュニティ的な概念は今より全然あったと思うんだけどね。ただ今でもその名残はあるわけで、別に腐りきってはいないんじゃないかとは、腐りきった日本から来た俺としては感じるわけ。だからさーみんな明日からニューヨーク方式を取り入れてみて、例えばコンビニで買い物をしたら接客態度の良かった店員に対して「どうも」って言うとか、誰かとぶつかったら「すみません」って言うとか、電車でお年寄りが居たら席を譲るとかやってみるといいわけよ。。ただ実際、これってニューヨーク方式でもなんでもなくて、社会のコモンセンスだったはずなんだけど、今の日本ではすっかり無くなっちゃったものなわけね。あと時計が無かったらその辺の人に時間聞いてみるとか場所聞いてみるとか、そんなんでもいいかもね。日本人って基本的に他人に道聞いたりしないでしょ。する人はいるかもしれないけど、特に最近はそういうのなくなってきてるよね。あと近所のよく会う人に挨拶するとか、いつも会うバスの運転手に挨拶してみるとか、コンビニの店員と会話してみるとか、こういった何気ないコミュニケーションが生み出す調和というのは物凄い威力があるからねっていうのは、こっちに来て物凄くカンジタことなわけ。そういえば日系のスーパーでさ、新人だと思うんだけど、店員の女の子が俺の商品のスキャンをミスっちゃってさ、商品の数量とかの入力を間違えたと思うんだけど、直し方を覚えてなくて、また全部初めからやりなおすことになったんだけど、この女の子が「あのーちょっとミスっちゃったんで、最初からやり直してもいいですか?」なんて聞いてきたときにさ、俺はまぁもちろんスーパーでの辛いバイト経験というのもあるし、何よりこっちに来てから他者との協調性というのが本当に大切だと痛感したこともあったんで「いや、全然大丈夫ですよ」とかさ、女の子がミスしててテンパってるときも「大丈夫ですか?」なんて声をかけたりしてあげるわけ。その声をかけたということもあって、女の子もきっかけをつかんで、俺が怒りそうな客じゃなかったんで、最初からやっていいですか?って聞いてきたと思うんだけど、このやりとりの重要性って凄いわけよ。俺のスーパーでのバイトでの経験から言うと、この女の子みたいなミスをしちゃった場合、客は大概「早くしてくれよぉ!」とかさ無言でため息だけついたりさ、呆れたような顔をしたりさ、ああいう態度をされたときの店員の気持ちというのを全く考えないわけ。というはもう他者との関連性とか協調性という概念が完全に崩壊しているからだよね。こっちに来る前にスーパーでレジやってて、もう本当にこの国はダメだなって感じたもんね。だったら少なくとも俺みたいな経験をしている人だったらさ、その新人のテンパっている女の子に声をかけてあげることが、どんだけその女の子を安心させることなのかっていうことが分かるわけじゃん?で、俺が「全然大丈夫ですよ」ってかなり優しい感じで女の子に言ってあげたらさ、この女の子は安心したのか「テヘへ」みたいな感じで舌を出しつつ、ちょっと安心したような顔をしつつ「ミスしちゃってゴメンなさい」みたいな可愛らしい態度をしているわけ。これってのは明らかにお互いの意思疎通が出来たんで、お互いの警戒心というか、壁が取り払われたことによる一時的ではあるけど他者との間にあるバリアの破壊だよね。で、レジ打ち終わった後も「本当にすみませんでしたー」なんて言ってきてさ、俺も「いや、全然大丈夫ですよ。ホント、ありがとうございました」なんて言うとさ、お互いの恋愛が生まれるわけじゃないけど、ようは単純にお互いに気分が良いじゃない?逆に俺が「なんだよ!」なんて心の狭い態度をとったときのお互いの緊張感と気持ち悪い感じを考えたら、明らかに優しい感じで接したほうがいいわけじゃない?ましてやこのときがモロ混んでてさ、だから女の子もテンパっちゃったんじゃないかなと思って余計に俺も女の子に気を使ったんだけど、別にこれは俺のジェントルさとかを言いたいわけじゃなくて、相手の気持ちを考えて人と接するということがいかに重要か?ということなわけ。それは別に友達とか知り合いに限らず、知らない人でも同じなわけ。で、そういった協調的なコンセンサスのベースがニューヨークにはあるんだよね。だから前にも書いたけど、客のクレームを防ぐためにお客様が神様みたいな不安ベースでやる接客業で時給800円と、相手がいきなり怒り出すなんていう不安がないベースでやる接客業で時給8ドルとではさ、労働力が同じ時間でも全然違うわけ。もちろん日本のバイトのほうが大変でその割に時給が低いってところなんだけど。あんな過剰な接客マニュアルを詰め込まされてあの時給じゃね、誰もやりたがらないし、やめていく人多いのは当たり前よ。ただ日本のバイトってのはさ、まぁ接客業に限らずだけど、こういった他者との信頼関係がないことが原因による労働での精神的なストレスというのは凄まじいと思うのね。それは職場でのギスギスした人間関係も含まれるけどね。こっちはスーパーでもキムズでも店員同士がホント、よく喋ってて仲がいいんだよね。こういうのを見るとこっちまで救われるような気分になるわけ。それが俺がいつも書いているこっちでの自由な空気の一つなんだけどね。新人に店長みたいなのが何かを教えてたりすることがスーパーでもあったりするんだけど、もう俺のバイトっつーか日本の新人教育とは豪い違いでね、基本的にもう友達同士みたいな感じなのよ。ボスと新人が。で、ボスも丁寧に新人に教えてて、ようは日本みたいな店長っていう立場からモノを言って抑えるつけるみたいな、ヒエラルキー臭い感じが一切ないのね。そういえば最近、力士が先輩とか親方からの暴行で死んだっつーの見たけど、ああいうのって本当に日本的な縦社会の典型だよね。今はこっちからそういうニュースを読むからさ、普通にニュースとして捉えて考えるわけだけど、あれを日本で見るとなるとさ、もうすげー鬱になるわけ。だって他人事じゃないでしょ。相撲部屋までは行かないけど、縦社会の構造の中で生きているわけだからさ、全然他人事じゃない。ホント、あの日本的な店長だからっつってさ、雇われ店長のくせに偉そうに振舞うとか、怖がらせて従わせるっていうああいう腐った構造無くならないかね?前にも書いたけどあんなのがなくなるだけで全然違うと思うんだよ。世の中が。またそれでイジメとかに話が行くと話が長くなりそうなんでやめるけど、まぁー俺が日本嫌いな理由分かるでしょ。だから日本でやっていく方法って自分がコントロールする側とか、コントロールとは関係ないような世界でやっていくしかないんだよね。ただ大半の人がヒエラルキー的な組織の中に従属していくことでしか賃金を得られないという閉塞的な社会構造があるわけじゃない?物凄い抑圧だと思うよ。あれは。生きるということが生き地獄になるよね。本当に。で、そういう中でシステムに順応して上手くやっていくやつがいるけど、システムの中の決まりごとを全部守って文句を言わないでやるやつって大半が馬鹿だからね。バイトとかでも店長から褒められたりしているようなやつって大半が馬鹿。あのスーパーの時でやってたときのあのニート臭いデブがもう典型的な日本のダメなやつっていう感じだったもんね。ホント、殺意すら覚えたけど、俺にはチョイスが無いから、あんなところでバイトするしかないわけだよ。あれはこっちで勉強するための資金稼ぎということで続けられたけど、あれが生活手段ということになっていたらもう気が狂っているよね。普通に自殺すると思う。もしくは気が触れてデブを殺してから自分も死ぬとかね、ああいう抑圧感から来る精神的な閉塞感というのは人を狂わせるからね。日本の物凄くクローズな学校もそうだよね。ホント、いじめに代表されるような陰気なことが起こりやすい構造をしているわけね。ああいう構造でしかも日本人的な性格ときたもんだから陰湿ないじめが生まれる格好の環境なわけ。湿っぽい、雑菌が繁殖している、浸水している、ゴミが溜まっているってことでゴキブリが繁殖しやすいみたいな、そんな感じよ。日本の学校って。っつーか日本の社会自体が抑圧的なものを生み出す構造になってるわけね。で、完全に諦めて暫定的にでも社会に順応しようと必死になる哀れな人達で溢れかえっているというのが今の日本だと思うね。そんなところで俺は他の奴隷と心中したく無いからね。マジで。まだまだ日本が嫌いな理由は盛りだくさんなんだけど、あまりに時間が過ぎ過ぎたのでこの辺でやめますね。スギスギ抜きすぎ。

一応画像元のリンクを。

http://maker.usoko.net/nounai/

追記。

カプセルのハードコアなファンだったんだけど、前のあの一悶着あったキューティーの姉がこしじまとしこに似ていて、あれ以来、カプセルに罪は無いんだが、聴く気が失せたよね。

CUTIE CINEMA REPLAY

CUTIE CINEMA REPLAY