ノートを必死に取るやつの頭の悪さ。

mimisemi2008-03-01

出た出たナンセンス。風俗の授業でテストがあったんだが、全然知らなかった。あるってことに。だから当然、勉強というか暗記なんてしてこなかったし、ちょーリテラルにガチンコとなってしまったわけだが、本当にテストの意味の無いことないこと。先生もシステムだからしょうがないと妥協してテストを作成しているのか「四択だから全ての答えに25パーセントの正解率があるということよ」みたいなことをいいつつ、前の読んだ例のテストの本みたいなティップを生徒達に教えていて、例えば4択テストにはありえる答えが2つあって残りの2つはまずありえないから消去法で消していくだのなんだのっていう例のああいうフェラテクね。ホント、こういうのを直接、先生の口からマウストゥーマウスで聞いてしまうと本当にやる気が失せてしまうんだよね。元々リベラルアーツなんてやる気ゼロだけど、まぁ先生も生徒のためにこういうことを言っているんだろうけど、先生がテストの解答方などのテクを教えれば教えるほどシステムのナンセンスさが露見してくるんだよね。前のセメスターははじめということもあってか、例えば良いGDPじゃなくてGPAを取ろうと思うってことによるプレッシャーがあったりして、対して準備してこなかった割にテストにはかなり真剣に取り組んでいたと思う。ただそんなのナンセンスだって気がついたというか、そもそも良いグレードを取って将来的に良い大学に進学しようだとか奨学金を得ようだとかっていう動機付け自体がすでに学問っていうことから凄まじく乖離しているわけで、自分のコミットメントが全てシステムに対するものになってしまったらそりゃ終わりだっつーかその辺の普通の生徒と結局変わらなくなっちゃうなって思ったわけね。それこそ馬鹿になっちゃうわけ。だから勉強しないほうがいいんだよねっていうか、嫌なことはやらないっていう俺のポリシーを貫きつつ、落第しないぐらいの点数をキープしていたほうが建設的で精神的にも健全なわけだ。良い点数を取ったほうが親孝行なんだろうけど、うちの親はこれまたその辺の馬鹿親とはわけが違うので、こういった俺の回りくどい方法論というのを心底理解できるんだよね。だから甘やかしとかではなく、俺のことを理解してそれがベストだっていう風に理解してくれる。そんな凄まじく優れた環境にあるので、俺は俺のまま大学に通うことができるし、くだらないテストのために悩まされることも無いわけ。その証拠に風俗のテストではさっぱりというか、自己新記録を達成したぐらい緊張しなかったんだよね。それこそ自宅で心理テストみたいなのをネットでやってときぐらいの思考力と問題への取り組み方ぐらいの労力で取り組めたんで、スラスラ解けてしまったんだよね。もちろん素で覚えているところだけね。用意してこなかったんで分からないところも多数あったんだけど、そういうのは例のテスト本のこととかを思い出してゲーム感覚で答えてたんだけど、笑っちゃうことに20分ぐらいで50問のテストを終わらせることが出来たんだよね。もちろん正解率なんてどうでもいいわけだけど、それにしてもテストに全身全霊で挑んでいた前のセメスターの意味の無い努力と心労といったら、本当にただの浪費だったなって改めて思ったね。こんなシステム的なことに自分の貴重な限られた労力を使う必要なんて全くないんで、それこそ「やらなきゃいけないこと」ぐらいの力で取り組んだほうがいい。こんなものに命をかけていたら命がいくらあっても足りない。あと準備してなくて分からないところに思い悩むのも相当無駄な労力。分からないところは例のテストのテクニックを使って消去法だとか答えだと思われるものを自ずと導き出すような方法を使って答えるしかないよね。いやね、学校でやらなきゃいけないことがシステムと関係なく知識として吸収できるものがあればいいのよ。でもやっつけ的なやつばっかりだからね、やる気を削がれるわけ。


そもそもテストに真剣になれるやつなんて大抵が馬鹿でしょう。これは前にも書いたからいいけど、そもそもこんなもの全く存在価値が無いんだよね。生徒は最初の日にシラバスを渡されて、3週おきにここの範囲でテストが出ますみたいなことを事前どころか初日に知らされる。で、生徒がクラスに対して動機付けられることとといったら、当然、出席率やグレードやテストといったシステム的なことで、そこにヘルスエディケーションという概念は一切無い。一切かどうかは分からないけど、ドミナントなものはそういったことでしょう。学科的なことはただの付随するものとして存在しているわけだね。で、学校慣れしてるやつは頭の中でどんくらいのときにテストの準備をはじめて・・・みたいなのをシミュレーションする。授業でもテストに出そうなところのみを重点的にピックアップしてノートに書き写す。ようは先生が発したヘルスに関する情報というのをディクテートしているだけで、頭にプリントしているわけではないんだよね。言霊をそのままノートに書き写しているという感じで、そこに脳は介在しない。フォーカスするところといったら当然、テストに出そうなところっていうので、本質的な知識だとか教育というところとは本当にかけ離れたことになってしまうわけだよね。で、そういった一時的に蓄積した知識をテストで文字通り出力してしまう。で、どういうことになるか?っていうと、その出力段階で完全に出力してしまって知識が残らないんだね。頭に。全てがテストということに動機付けられているので、そのテストが終わってしまうと各チャプターでやったことはもうすでに過去のものとなってしまってもはや思い出す必要もなくなるわけだ。その証拠にアメリカって国はリベラルアーツにヘルスエディケーションが組み込まれているのにも関わらず一向にメタボな人達やマックに行く人達が絶えない。そもそもリベラルアーツ程度でやるヘルスの段階でもジャンクフードの弊害や健康食のメリットなんてのを死ぬほど学ぶわけで、こういうことが本質的に学ばれていればマックなどのジャンクフードをプロバイドしているところなんて需要が無くなって潰れるわけだよ。でも潰れないんだよね。っていうのはそれだけ学校でやったことが左から右へと通り抜けちゃってるからでしょ。もちろん理解するケイパビリティというのは必要だけど、何も健康についてなんて凄まじくアブストラクトな哲学思想を理解することとはわけが違って、相当簡単なことだし、思考力なんてものは一切必要としないわけだ。なのに健康を理解しない人達の割合というのは一向に減ることが無いっていうのはいかに教育というのが機能していないかっていう良い例だよね。前にも社会学の件で書いたようにヘゲモニーなんて概念を知ってしまったらその時点から思考のパラダイムが変わってしまって大変なことになるわけだよね。でもリベラルアーツ社会学を学んでいる生徒というのはそれをただの記号として理解するわけでそれについて考えないし本質的な理解はしない。だから社会が変わることが無い。その人も変わらない。これってのがまさしく鳥居みゆきの言う勉強の使い捨てなんだよね。一時的に記号を理解してテストでアウトプットしてその後は綺麗さっぱり忘れてしまうっていう。もちろんさっき書いたように大学側ってのがこういう風なテストが全てだみたいなことに動機付けるようなやり方をしてるんで、生徒の大学へのコミットというのもそういう風になりがちなのは当然だね。いや、俺の論点というほどの論でもないんだけど、ポイントがずれてるのは分かるよ。そもそも大学ってーのが学問を勉強するところではなくなっていて、キャリアアップだの学歴だのっていう職業訓練センターに成り果てているというのはね、あるんだけど、そもそもあれなんだよ、近代化っていうと大げさだけど、もだーんな社会と学問というのは両立できないんだね。そもそも社会ってのの基準が金で動いてるわけでしょ?だから真っ先に切り捨てられるのって金にならないものでしょ?金にならない芸術とか金にならない学問。だからまぁ今時学問をしに大学に来る人なんていないわけだ。まぁハーバードみたいなところは別としてね。俺が言ってるのはパンピー目線のパンピーが入れるアホ大学のことを言ってるわけね。んじゃあ学問というのは限られたエリートにのみ与えられた特権的なものなのか?っていうとそれっておかしいしフェアじゃないよね。パンピーだって学問をしたいやつがいるかもしれないのに道が閉ざされているというのは相当良くない。これじゃーまるで頭の良いやつだけが社会から待遇されて頭が悪いやつは単純労働に従事しろって言われてるようなもんでしょ。なんで普通の頭を持ったやつが学問しちゃいけないんだ!アンフェアだろそれは。


ところで授業中のノートテイキングに関してももう馬鹿馬鹿しくてやっていない。なんかさ、こっちではノートテイキングを制するものが大学を制するみたいな感じになってるみたいだけど、それってさっき書いた言霊の話と一緒でいちいちノートに取ってないでそのまま頭に入れちゃえばいいじゃん?って思うわけ。誰が言ってたんだが忘れたんだけどメモを取っていないと覚えられないようなものは覚えるに値しないもので、覚えるに値するものは覚えようとしなくても頭に入ってくるってことを言っててさ、これって本質をついてるよね。そんなノートをとらなきゃいけない講義ってなんなの?ユーズフルなの?どうもノートを緻密にとってるやつって頭が悪そうに見えてしまうんだけど、あれってすげーアホだよね?まぁ真面目な生徒が興味なくて頭に入らないんで書かないとダメなんていう動機でやっているのなら分かるんだけど、なんか必死にノート取ってさ、それでテスト対策するとかって馬鹿そのものだよね。少なくともコミカレみたいなレベルではそんなテクニカルなことはやらないわけだし、大抵のことはテキストがベースになってるわけだからノートを取る必要性なんて全く無いんだよね。そもそもノートを取ろうとノートを用意していること自体がすでに理解の態度を示してないわけよ。それをディクテートして後で読み直そうっていう、そういう浅ましい魂胆が見え見えでしょう?なんで聞かなきゃいけないことを書くということにその場で変換しなきゃいけないのか?だったらその書く労力を頭に入れる労力に費やせばいいのにって思うわけ。なんでもメモるって馬鹿な証拠よ。だって興味あることなんてさ、ましてやなーるほどーって思ったことなんてメモの必要ないじゃない?だって頭に入ってるんだもん。だからなんつーかティピカルなガリ勉タイプみたいなスタイルで勉強してるやつって自頭がたいしたこと無いからガリ勉にでもならないと勉強できないんだなって凄く思ったね。それこそテストなんて方法論的な暗記で済ませちゃえばいいだけの話で、何を必死にノートに取ることがあるのか、俺にはさっぱり理解できない。それだったらもっと思考力を鍛えるだとか、本質的な知識を得るために読書をするだとか、そういうことが重要なのになぜかアカデミックなところに無駄な労力を費やして大切なところに時間やら労力を費やさないんだよね。だから大学って馬鹿が増えちゃうんだと思う。だって大学側に言われたとおりやってたら馬鹿になるんだもんね。それは一部の日本も含む世界の一流大学を除いては恐らく全部同じだね。あとはまぁプロフェッサー次第っつーか。でもそもそもシステムに欠陥がありすぎるんで、学問との乖離が激しくなるのは、なんつーかまるで政府ってシステムがコラプションを必然的にもたらしてしまうような構造になっているかの如く、大学のシステムが本質的な知識だの学問だの教養だのってのを磨くことを困難にしているわけだよね。ホント、本末転倒だし、学問をやろうと思って大学に入ったヤツってのはみんなやめるんじゃないか?って思ったね。いやさ、俺って学校の経験無いでしょ?だって中2から行ってないんだもん。だから今、色々とまぁ目新しいことがありつつ、恐らく学校ってもんはこんなもんなんだろうなぁーってまぁ今の限られた経験の中で色々と思ってるわけ。だってあんなシステムの中で学問に興味を持つなんて難しいよ。だってみんなグレード取ることに必死で学科なんてどうだっていいんだもん。でも建前ではリベラルアーツとかってさ、立派な人間になるための幅広い知識を提供するみたいな理念なわけでしょ?でもホント、ただのリクワイアメントに成り下がってるよね。4年制大学に入るためのステップというかなんというか。


たぶんこれってパンピーが行くような大学だったらどこも差は無いと思うんだよね。でもこれってどこの大学も直面してる問題っていうか、だって教授が用意したテキストとかノートを一緒に読み進めるとか覚えるってだけだったら、別に学校行かなくてもそのペーパーなりテキストくださいってな話なわけでさ、講義の意味って無いよね?で、俺が勝手に思っちゃうのって難関とかって言われてる大学ってただやることが多いだけで別に他とやってること変わらないんじゃねー?って思っちゃうわけ。だって学問なんてそもそも既存のものでさ、それを扱う限りはまぁプロフェッサーの質にもよるんだけど、学問自体の質って同じじゃない?ハーバードでやる政治学と馬鹿大学でやる政治学との差って実質無いよね。だって学問自体はすでに確立されているものでさ、それこそテキストの差なんて無いわけ。ハーバードだけが使える特殊な教材があるとかってわけじゃないでしょ?だから生徒の読解力なり理解力なりがあればさ、別に政治学者なりなんなりの原著読んで理解しちゃえばいいだけの話だから、別に大学で差が出るってことはないよね。で、差があるとすればそこはやっぱプロフェッサーなんだよね。あと差といえばやることの差ね。ただ宿題とかエッセーとか読書の量が多いからってそれに比例して知識が多くなるわけでは無いでしょ?そもそも100ページ読んできてとかプロフェッサーが言ってさ、で、その100ページの内容を講義でサラッっと説明するだけなんて別にハーバード行かなくても誰だって出来ることだよね。まぁ誰だってっつーかまぁ普通のそこそこのプロフェッサーだったらね。で、やっぱ一流校に求めるところって教授の質とかカリキュラムの質だよね。そこに入っちゃえば自ずと知識欲が刺激されて嫌でも色々なことを覚えてしまうみたいなね、知識欲さえあれば色々なことが身につくみたいな、そういうシステムのケイパビリティだと思うんだけど、仮に難関な大学ってのがただやらされることが多いだけだったらそれってさっぱり魅力無いよね。だったらそんな限られた年数で無理にパンパンなスケジュールで集中して学ぶより、もっと自分のペースで色々なものを読み進めるなり理解をしていくほうがよっぽど建設的でそのほうが頭に入るでしょ。来週までに100ページ読んできてー!とか言われて「えー無理!」とか思いつつ必死こいて読んでるものなんて頭に入ってこないよね。だからどーもなんかさ、アメリカの大学っつーか特に一流大学は大変だとかいってさ、で、その理由ってのが宿題が多いとかエッセーが多いとか読み物が多いとかだったりすると俺としては「は?」って感じなんだよね。それって一流企業と二流企業の差は仕事量ですって言ってるようなもんでしょ?仕事なんて量をこなせばいいってもんじゃないでしょ。仕事の質が量で測られるならニューヨークの不法滞在移民達の仕事の質が超一流ってことになるよね。だって彼らは恐らく世界でもトップレベルの人権も減ったくれもない働き方してるわけだからさ。ようはワーキングプアの仕事が超一流ってことになるね。だからどうもこういうのに懐疑的なんだよね。宿題が多いとかリサーチが多いとかエッセーが多いとかそれで大変ってどういうことよ?っていう。それってただ仕事が多いだけで別に知識とかと直接的な関係ないじゃんっていうね。量やればいいの?って話だもんね。量より質でしょ。労働時間数より質。ってことでエッセーの量が多かろうが少なかろうがそんなもん関係ない。そいつがどんなエッセーを書けているか?ってことがポイントなわけで、もしかしたら偏差値の低い大学の生徒が書いたエッセーのほうが一流大学の学生が必死に時間を調整して書いたエッセーより優れていることなんて平気であるかもしれないからね。だからどーも大学ってのは知れば知るほどその権威だとかネームバリューだとかさ、システムについてもそうなんだけど疑わしいことが本当多いよね。今まで勝手に信じ込まされてきたことが多いけど、それってただの大学神話で実際中を見てみると相当狂ったことになってるとか、優秀って定義も相当適当なんじゃねーか?って思っちゃうわけね。まぁいいや。ちょっと今日は寝る。遅くなりすぎっていうか朝になり過ぎ。まだまだあるんだけど、また今度ね。

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