「生物と無生物のあいだ」の素晴らしさ。

mimisemi2008-03-06

重要っぽい書類なのにも関わらず放置しておいてさっていうか学校の主要なオフィス系は5時ぐらいに閉まっちゃうからさ、俺にとっては早めに学校に行って聞かなきゃいけないのに行かないのね。で、一ヶ月ぐらい放置しておいてさ、で、今日行ったのよ。精子が溜まりすぎて勃起して起きたついでに行こうと思って。そしたらまぁあれだわ重要なんだけど俺にとってはそこまでっていう、本当に読んでる人は何言ってるか分からないだろうね。うん。それでいいゾ。


ところでこれで思ったのがね、普段の移動範囲とか自分のサイクルってのが自分の環境ってのの枠組みを自ずと作ってるんだよね。例えばいつも死ぬほど寝た後、4時半に家を出るとしたら、そのサイクルというのが環境を決める。つまり5時ちょい前ぐらいに乗る電車とか5時半前ぐらいの学校のエントランスとか自分の身の回りのものというのが自分の行動によって決められているわけ。だから今日みたいに若干早めに行くと違うわけ。電車も学校も。見た目は同じだけど違うんだよね。時間が。あと今のサイクルでは行かないような場所とかに行くでしょ。今日はまぁ書類について早めに終わったんで時間つぶしに図書室で本を読んでたんだけど、この時間の図書室ってのは行かないんで、まるで普段より人が多いように感じるわけ。でも実際は俺が図書館に行くような時間が遅すぎるんで人がいないだけ、まぁこれってのがまぁ俺の決めている環境なんだけど、俺の環境じゃない環境の図書室というのがそこに存在しているわけだよね。もちろん全てのものは人間の認識とか認知なんかに関係なく存在しているわけだけど、あくまで自分の世界というのは主観的なものだから、自分の世界=自分の環境ってことになる(決して良いことではないけどね。まぁなりがちって言ったほうがいいや)ましてや俺が図書室に行かない時間の図書室のことなんでどうでもいいから、俺の中ではそれは存在していないものなんだけど、でもこうやって今日みたいに行ってみると、その存在を認識せざるを得なくなるんだよね。5時ちょい過ぎの図書室というのも明らかに存在しているぞと。しかも人が多いなっていうね。だからあれなのよ、人が感じるストレスというのはルーティンなわけ。いつも同じ時間のバスに乗って同じ時間の電車に乗って公的な移動手段を利用している客層は同じような顔ぶれとかタイプで、街も普段自分が行く時間の顔をしている・・・っていうわけだけど、例えば土曜とかに会社とか学校が無いのに学校に行ってみると明らかに全てが違うように感じるはずなんだよね。まぁ曜日の違いによる状況変化なんだけど、これってのはあまりにも同じすぎる日常に比べたら違うものなわけだよね。ましてや時間が違ったり自分の服装とか自分が電車に乗っている動機とかが違うわけでも外の見え方というのは変わるだろう。ってことであれなんだよね、いつも同じ帰り道を使わずにたまには変化させるってのが脳への刺激に良かったりするんだよね。まぁ知覚的なことだよね。ホント、でもやっぱあれよ、ルーティンという名の牢獄に自分の生活をシェイプされてしまうのは本当に怖いよね。俺はまぁ凄まじく自由だから自由のためにあえてテンションとしての若干のルーティンを作ることが好きというか、こういう感覚をまぁ大学に感じるようになったってのはあれね、やってる授業が算数だろうがヘルスだろうが、その時間をオキュパイドされているというのが快感というかね、そうするとあれなのよ、ずーっとハウス聞いてたら飽きてきてドラムンベース聞いたら良く聞こえるように、オキュパイドされている時間というストレスがあると、有り余ってる自由時間というのが貴重に感じられるようになるんだよね。だから週4ぐらいの学校というのは最高なわけ。まぁニートの言い分ですけどね。ニートっていうか学生という名の有閑階級の理論っていうか。理論ってほどじゃないけど。


でさ、なんかね、今朝っつーかモロ夕方だけど、ウォークマンがさ、CD読み込まなくなっちゃってさ、ずーっとキュルキュルいっててさ、もうさすがにダメかな・・・とか思ってたらね、まぁ俺って外ではひっきりなしにヘッドフォンしてるからさ、環境音というのを聞いてないんだよね。だからすげー電車の音とか電車の中ってこんなにうるさいのかってすげー感じるわけ。すげー喋りまくってる姉ちゃんとかさ、その話し声がうるさいのよ。実際はうるさいんじゃないんだよね。このぐらいの喋り具合だったら恐らくMTAスタンダードなんだけど、普段音を聞いてない俺からしたらうるさく聞こえるわけ。このコントラストというのがね、凄まじくサウンドスケープだなって思ったわけ。音楽を聴かなくてもサウンドスケープという名の音楽がそこにあるんじゃないかって改めて気がつかされたね。あと学校でもさ、書類のチェックをするために色々なところを回ってたときに学校の賑やかさといったら凄いわけよ。すんげー訛りのあるやつが黒人となんか怪しい話をしながらトイレに入ってきたと思ったら、携帯でフランス語で喋ってるやつが入ってきたりさ、で、トイレ出たら中国語で話してるやつらの話し声が聞こえて、んで韓国語が聞こえて・・・っていう感じですんげーリアリズムだ!って感動したわけね。そりゃーたまにはヘッドフォンしてないときだってあるけど、今日の場合、通学から学校に着くまでずーっと音楽無しだったからすげー音が聞こえるのよ。で、まぁ結局俺って賢いから壊れたっていうよりかはピックアップレンズのあたりにハジコウが溜まってるんだろうなとか思ってペンでハジコウを掻き出したら直ったんだけどね。なぜか算数の授業がキャンセルになっててさ、無かったのよ。たまたま早く着てみたら算数が無いなんてね、しかも次の哲学まで3時間近くあるじゃんってことでまぁ普段さっぱり読んでない哲学の教科書でも読もうかなって図書館に戻ったんだけど、でもそれにしてもソクラテスやらプラトンのダイアログってつまらねーな。おっさんの駄弁りだもんなぁー。あれ。言い方とかが遠まわしで分かりづらいし、何より英語だから本当に読みづらい。日本語でも読みづらいだろうなって思うもん。弁明とか国家ね。ホント、俺って自分勝手だからさ、なんか与えられたようなものに熱中するってことが出来ないんだよね。能動的に選んだものにしか集中できない。だから国家の抜粋を読まなきゃいけないのに、他の本を読んでたりするんだけど、その本の一つってのが福岡伸一という大学教授の生物と無生物のあいだっていう本なんだけど、これすげーんだわ。


何が凄いかって、この人の文章のリリシズムと構成の上手さ。相当文学にも造詣が深そうなインテリジェンス溢れる気品に満ちたマンハッタンなり自然なり本人の生活環境ってのがさすげー上手く描かれてるわけ。それこそ絵が浮かぶんだよね。文章力と描写力が凄いんで、その場が浮かんでくる。こういう小説的なエッセンスを上手いことフックとして使いつつ中盤はテクニカルな生物学の話になってさ、で、ボチボチ頭がおかしくなりそうだなって思い始めるぐらいの時にまた小説風の描写に戻って章が終わるっていうね、だから読まずにはいられないんだよ。構成が上手いから生物学とかDNAやらにそこまで興味なくても面白いから読めちゃう。思うに特に新書ってのはまぁこの人は類稀なる知性と文才を持ってる人なんて例外にしても、基本的に学者みたいな人がパンピー向けに書くんだったら、本当に福岡氏を見習って欲しいと思うね。パンピーでもそのサブジェクトに興味を抱かずにはいられないっていうね、逆を言えば、ややこしくて読むのを断念させたりしちゃダメなわけ。でもあるでしょ?新書レベルとかでもわけのわからねー比喩とかさ、余計分かりづらくしてるような描写とかさ、そんなんで読者を煙に巻いてるような文章。それが一部のね、学者とか専門家しか読まないようなやつだったらまだいいのよ。でも新書でこういうことやるってどうなのよ?って感じでしょ?それに比べて福岡氏の文才といったら!!!!!文が上手いだけではなく学者の役割というか、パンピー用に分かりやすいように面白く書いているというその高尚な動機に惚れ惚れするね。特に12章の最初のマンハッタンの街についての描写に心奪われたね。マンハッタンって街をここまで的確に表現している文章というのに俺は出会ったことが無いね。あまりにも素晴らしすぎるんで引用したいところだけどね、まぁ気になる人は買ってみてよ。福岡伸一という人の研究者時代のバイオグラフィーとしても読めるから、別に生物だのなんだのに興味が無くても全然読めるよ。もう本当に凄い。読んだ後もあれってなんかのドキュメンタリーで見たんだっけ?ってぐらい映像が頭にこびりついている。もちろんこの人の素晴らしい文章から生み出された俺のイマジネーションなんだけど、これでもかってぐらいビジョンがクリアなんだな。あれでしょ、優れた小説ってこうなんだよね。恐らく。俺って小説全然読まないから分からないけど、本当に感動した。あと俺が学生の度合いとしては雲泥の差だけど、一応こっちで勉強してるっていう意味でもまぁ感情移入できたのかもしれないね。ようは舞台が自分の周りなんで具体的に想像しやすいっていうね。で、ニューヨークからボストンだかに移った後のあの街の感じ方の違いとかもすんげー分かるんだよね。もちろん福岡氏の文章が上手すぎるんで別にこっちに来たことが無い人でも具体的なものとして浮かび上がってはくるんだろうけど、それにしてもなんだ、読後は何か映画を見たような気分になったね。こんな良書は滅多に無いでしょう。本当にあれだよ、伝説的に語り継がれる本だと思うよ。これ。だってはっきりいって実験内容だけが書いてある本だったら絶対途中で挫折してたと思うもん。俺の脳って複雑なものを理解するほど有能じゃないからさ、でもね、さっきも書いた文学的な趣っていうフックが俺を放さないわけで、だから最後まで読めちゃうんだよね。ホント、書き手というのはやっぱり読み手にディレクションを与えないとダメだね。最後まで読破できるような本なり文章を書かなきゃダメだ。まぁ俺とかウォール伝は別としてね。ホント、凡才学者はこの本に学ぶべきだね。別にフォーマットをモデルとして真似しろってわけじゃなくて、読者に内容をヴィヴィッドなビジョンとして伝えるという努力というか手腕というか技術というかね、良書ってのはやっぱ分かりやすいもんだと俺は思うわけ。もちろんあれよ、前にソーカルの話を安易に出しすぎた感のある俺だけども、ただ単に分かりづらいものを「めちゃめちゃだ」って批判するのはダメね。ソーカルというのはややこしい文をちゃんと読んで意味の無さを理解したわけで、ややこしいから分かりづらいという意味で意味が無いとは言っていないわけで、自分の読解力のなさとか知能のなさをソーカリズムを使ってエクスキューズするってのは一番アウトね。学術書というか専門書だったら難しい記述とか内容ってのはまぁ十分ありえるわけだけど、俺の今回のポイントとしては、エリート中のエリートみたいな人がパンピーへ向けて分かりやすく書いた本ってものの雛形がこれだってことなのよ。頭が良いからこそパンピーに分かりやすく伝えられるわけで、複雑なことを複雑なままアウトプットしてしまうというっつーか特にそれがパンピーへ向けての文章だったりしたらもう最高にアウトだし、それは著者の怠慢でしかないと思う。新書だとかっていうパンピーも読みうる媒体で書いている限りそこにエクスキューズは無いと思うね。分かりやすく書かなきゃダメ。難しい文章は論文でやれって話しなわけで。だからあれ、凡才なやつらはこれに見習うべき。複雑な文章だから著者は頭がいいのだろうなんて想定される時代はとっくに終わったわけよ。難しい分かりづらい文章を書いてたらそれはもう「ダメ」って判断されちゃうわけで、高度なことを簡潔に説明できれば出来るほど著者のインテリジェンスは計り知れないって読者は思う時代なのよ。とっくに。難しい文章の時代は終わったわけ。だからね、本当にこの本はセンセーショナルなのよ。新書とはこうあるべき!!みたいな雛形なわけ。まぁ俺が知らないだけで素晴らしい良書は他にもいっぱいあるんだけど、まぁね、これはまぁ凄いでしょっていうね。


あとあれだ、また哲学のクラスについて書きたいことがあったんだけど腕が疲れたから今日はやめるわ。とりあえずまぁ「生物の無生物のあいだ」は必読書ってことで。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

このプラトンパラダイムキリスト教にパクられたっつーかキリスト教の考え方の基礎になったってのはマジで驚きですよ。まぁ知ってる人はとっくに知ってるんだろうけどさ、あんま好きじゃなかったけど、何気に古代ギリシャ哲学って全ての始まりですよ。凄い凄い。あ、んでプラトンの話だけど、まぁ全てのものをものとして人間が認識するためには光が必要なんだけど、人間の認識において、その光にあたるものが「Good」ってことで、まぁGoodっていうまぁなんつーか思考のモデルというか道徳の規範みたいなのが、全てを規定するみたいなね、これをGoodじゃなくてGodにするとキリスト教になりますよっていうガッテンな話なわけですよ。あとマトリックス的なパラダイムのストーリーの元ネタってのがこのプラトンの洞窟の比喩なんだよね。いやー哲学って無駄なようで意外と無駄じゃないね。こういうのに夢中になればなるほど世の中との距離はどんどん広がっていくんだろうなぁー。哲学者って社会的に見れば変人ばっかだもんね。あーでもあれだわ、知識欲というのがまるで本能のように哲学の場合働くんで勉強するなんていう意識無しに色々なことが頭に入ってくるんだよね。まさしくこれというのが理想的な学習なわけだけど、日本の漢字にもあるように、勉強するって勉めることを強いるんだよね。自分に。ディシプリン的な忍耐的な趣がある。でもそんなの苦痛でしょ?やっぱ楽しくないと学習ってのは成立しないと思うね。それに必要なのは当然、そのサブジェクトに対する興味ね。で、それを引き出すのが教師の役目っていうか、ソクラテスで言うところの知識のサンバなわけね。ラテン音楽じゃなくてまぁ産婆なんだけど。で、話を生物と無生物に戻すと、この本というのは読者に短期的ながらもそのサブジェクトに対する興味というのを湧かせる凄まじいモチベーションになってるわけよ。だから読者が最後まで読める。これと同じことが教師にも言えて、良い教師というのはこの本のように、そのサブジェクトに元々興味があろうが無かろうが、その興味を引き出す手助けをすることに長けた人のことを言うわけよ。まぁそう思うと日本の教育現場というのは絶望的だけど、でもさ、ホント、この本って良い教師のお手本みたいな本なのよ。まさしく本だけに。お後がよろしいようで。