ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

禅的生活について。

mimisemi2010-03-21

デデキントの数についてっつー本を買おうと思って紀伊国屋に行ったらなくてさ、前はあったのに無かったってことは誰かが買っていったってことだね。ニューヨークだから恐らく強者がそろってるってことでヒルベルト幾何学基礎論なんかを買ってったのもそいつに違いないよ。前に書いたけどさ、ブックオフはまぁ俺は好きじゃないって前に書いたけど、ああいうその地域の客が持ちいることでその店の品揃えが決まってくるみたいな店ってその店の品揃えで地域の民度みたいなのが計れるってことなんだけど、ニューヨークのブックオフは凄いんだよね。凄い!ってほどではないけど、まぁ俺の地元のブックオフに比べたら天と地ぐらいの差がある。所謂、くだらない本とかタレント本みたいな類の本がレアで学術系の本なんかはハードカバーでも新書なんかでも結構見つかるんだよね。


まぁそれはともかくさ、こないだ間違えてさ、残高がマイナスになっちゃってさ、んであれってマイナスになってから5日とか経つと35ドルの手数料とられるのね。今回はギリギリセーフだったんだけど、まぁそれはともかくさ、ああいうのやるとExclusive Offer!とかいってさ、クレジットカードとかの勧誘が来るのね。分からんけど多分そうだと思う。懐が寒くてなおかつ残高がマイナスになるぐらい金の管理が出来てないやつはアホだからクレジットカードを作らせればアホみたいに使って借金作って金を吸い上げられるってロジックだろうね。まぁ使われ過ぎたら破産されるけど、んでもまぁ利息とかさ、残高がマイナスになるってことにしても無かった金を「手数料」みたいな感じでねつ造できるじゃん?凄いよね。銀行って。Organized Crimeだよね。アレ自体が言わば堅気のヤクザみたいなもんだ。数字いじるだけで金が作れるんだから労働が尊いなんてのが一部の奴隷達の美徳になってしまうのもしょうがないかなって気がするよね。


ところでさ、奴隷と言えばね、そのまぁブックオフ玄侑宗久っていう坊さんの「禅的生活」っていう本を買ったんだけどさ、まぁ他にも色々買ったけどね、紀伊国屋アーンドブックオフで、なんかさ、読む本あるんだけど日本の特に新書とかって楽しめるのが多いじゃん?いつも絶賛してばかりいる欧米系の出版物だけど、日本の新書みたいな気軽に読めて楽しめるみたいな本が少ない気がするんだよね。あとは学術的っつーかなんでもかんでもエビデンスでさ、基本的に大体が学校で書かされるようなエッセイの延長っつーかさ、まぁあれがアメリカっつーか欧米の書き方なんだろうけど味わいが無いんだよね。この「禅的生活」っつー本は言わば味わいの結晶みたいな本じゃん?高尚な禅の話をしてるかに見えてたまに坊さんらしからぬ良い意味でのジョークがあったりユーモアがあったりさ、まぁ英米系の本にユーモアが無いとは言わないけど、でもやっぱ日本語で書かれた日本人のユーモアに居心地の良さを感じるってやっぱ俺が日本で日本語で育ってきてるからだろうね。やっぱ日本の本って面白いね。アメリカの本とかって日本で出せば上中下巻と分けなきゃ出せないような分量のやつが25ドルぐらいの一冊の本になってたりするからね。あの一冊の分量の多さってまぁコストパフォーマンスは良いんだけど量にゲンナリすることが多いよね。


まぁそれはともかくさ、まぁいつも批判してる日本の出版物だけどでも新書って文化は本当にいいね。あれは逆にアメリカが取り入れれば読書が苦手なやつもライトに読めるっていうジャンルの本として十分成立するんじゃないか?と思うんだよね。まぁそれはともかくね、散々褒めておいた後に言うのもなんだけどまぁ今日書きたいことはこの「禅的生活」への批判なんだけどさ、これは俺のマインドセットが変わったという証拠でもあるんだけど、禅ってまぁ改めてまぁこれを読んで思ったんだけどさ、取るに足るとかさ、老子の知足だとかね、あとは現状も自分が望んだ事だって言って肯定するとかさ、痛みとか理不尽な待遇とかも風流だって楽しんでみるとかさ、これってまぁすげー嫌いだよねっていう。昔の俺はこういうのに共感してたからこそ知足としてまぁこっちでも人付きがなるべくないバイトでもいいからなんとか極貧でもいいから食いつなぎながら学問が出来ればいいとかって思ってたけど、今の俺にとっては最高の敵だよね。こういう思考は。だってそんな風に考えてたらそんな風になっちゃうからね。


いやさ、禅のロジックを敷衍するとさ、例えばマックカフェ難民とかもさ、難民になったのは俺が選んだ事で、んで毎晩その日の収入によって宿が変わるというのも、言い換えれば定住地を持たないというモナド的な遊牧民で、それはある意味で自由の形なのではないか?家賃のことを気にしなくてもいいし水道代とか電気代も気にしなくていいし、仮に隣人が嫌なやつとか騒音で困るということも恒常的には無いということで住居が自由だというのは良いことだし、職が毎日変わるというのもチャレンジの連続で楽しい!みたいなさ、こんな肯定をしていくしかないっつー感じじゃん?これって最悪の奴隷思想だよね。これでいいのだっていう取るに足りることに満足するってのは最悪な思想だね。そういうのが風流に出来ていた時代はいいけど、今みたいなシステムが個人に食いついてくるみたいな世の中じゃワークしないよね。むしろサヴァイヴしていかないと風流なんて概念が生まれてくる余地なんて出来ないわけで。労働が尊いって禅が考えるのもすげー分かる気がするな。「三昧」としてそれ自体に集中することが重要だみたいなのも間違えれば最高の奴隷思想になりかねないわけだよね。それって盲目的に勉強は良いことなのだって植え付けられるようなドグマと一緒じゃん?あ、俺が言いたいのは受験カルチャーでの「お勉強」ね。


取るに足るって苫米地用語で言えば常にその自分が出会わせた状況に対してコンフォートゾーンを見つけていくっていう発想で最悪なんだよね。どんだけ理不尽な状況でもこれを自分の望んだ事だと定義してさ、んで仮にそこで仕事があるなら仕事があるだけ感謝しなきゃいけないとかさ、大変だけど労働の後に食べるコンビニ弁当の味は別格だとかさ、これこそが俺の幸せなんだ!とかさ、こんなことになるよね。いつまで経ってもダメなものをダメだと認めないでそれをアクセプトしていくって最悪だよね?価値判断を無くすっていうのも分かるけどやっぱダメなもんはダメなんであってそれに対して正直にダメっていうことは俺は正しいことだと思うしってまぁ正しいって言葉を使うとアレだけどさ、禅って人の良いところばっかを見てっつーかまぁ常に諸行無常の世界の中に良さとか味を見つけていくみたいなリダクショニズム的な考え方なんだよね。だからストイックな鎌倉時代の武士とかに禅の思想が好まれたっつーのもよく分かるんだよね。


でもそれを変に解釈して現代の侍だ!とかいってさ、サラリーマンを侍に例えて考えるとかそういうのを近代的な資本主義のシステムでやると大量の奴隷を生み出すことになるよねっていうか意外とこのサラリーマン侍的な奴隷的なストイシズムって日本的な禅の概念から来てるのかな?って思ったりもしたね。まぁアジア全般が仏教国ってことでまぁ共通してるのかもしれないけどさ、あんま自分を褒めないとかもそうじゃん?セルフエスティームとかエフィカシーって意味だとこれって最悪なんだけどさ、中国語圏でも「ナリーナリー」っつって謙遜するのが美徳なんだよね。褒められて「そんなでもないっすよ」って言っておくのが美徳みたいな。まぁそう思ってないけど体面上そう言っておくっていうのならまぁ苫米地本にも書いてあることだけどさ、まぁそれはいいけど実際そう思ってたら本当にダメじゃん?


なんかそういう禅の思想っつーかさ、取るに足りる的なストイシズム的な思想って奴隷思想に本当に結びつきやすいし、日本人が奴隷的なのも意外と日本の根底に流れる禅的な美徳があったりするのかな?って思ったね。それは俺がアメリカにいるから余計に相対的にそう思うのかもしれんけどね。まぁ今の俺はアメリカンメソッドな自己啓発系のマインドセッドにズッポリだから禅的なマインドセットに違和感を感じてるっつーのは客観的に分かるけど、んでも奴隷っつー存在を絶対認めたくない俺としては奴隷を生み出しかねない思想ってやっぱ嫌だよねっつーか違和感を感じるよね。ちなみにストア学派みたいなのとアメリカのミリタリーの思想の類似性を指摘したような本があったけど、まぁ読んでないからなんとも言えないけど、んでもまぁ読まなくてもさ、ストイシズムみたいなのと軍隊ってモロに繋がるよなっつーのは分かるよねっつーのがまぁさっき俺が書いた禅と侍に繋がりっつーのがつまりは禅と現代の侍みたいな解釈もされうるサラリーマンってことなんだけどね。


取るに足ることを見つけるっつーマインドからはまず現状に抗う力なんて生まれないし、反骨精神とか革命家精神みたいなのも一切研ぎすまされないどころかそういうのをインポにする思想だよね。まぁ俺が生まれつき反逆的なのは分かるよ。これはもう俺の性質だからしょうがないんだけどさ、それにしてもまぁ客観的に見てもやっぱ禅からは革命って生まれないよねっていう。今の時代なんて特に色んな意味で革命が必要な時代だし、そういう新しい波みたいなのを作っていかないと世界が成り立たないっつー時代なわけでさ、そんな中で取るに足りることを貧乏の中から見つけ出してそれに満足するっつったらまぁ社会が成り立たなくなるし、国力も衰退するよね。むしろ今の時代に必要なのは仏陀が求めていたようなさ、結局は自己を救済するということが大乗に繋がるというようなさ、自分を救うってことが他人を救う道にもなるかもしれないっていう意味での解脱っつーか自己救済だよね。


苫米地さんが世界の人々のスコトーマを外して大乗に導くっつー思想を提案してるのもモロにこういう仏陀的な大乗仏教思想がベースになってるんだよね。ルータイスとやってるPX2っつープログラムは大量のアーミーっつー奴隷を作り出してきたルータイスが自戒の意味もこめて次は奴隷を無くしていこうっていうコンセプトでやってるわけじゃん?まぁ苫米地さんはそこにまぁ大乗仏教的なエッセンスを取り入れてるっていう。俺が苫米地さんを肯定するのはモロにここにあるよね。どんだけ金儲けに傾いてるように見えようが基本的に言ってることは正しいっつーかまぁ社会にとって良いことばっかだし、ましてや奴隷思想を無くしていくとかさ、差別をなくすとか戦争を無くすとかさ、カルマって概念がいかに危険か?とかさ、ドリームキラーに気をつけろ!とかさ、良いことしか言ってないじゃん?だからまぁどんだけ金太郎飴的に本が出ようがかまわないんだよね。正しい思想で金儲けする分には全然いいっていう。まぁ惜しいな!とは思うけどね。


もっとビジネス的な胡散臭さとか無くせば本当のカリスマになれるのに、そこは本人の抽象度が結局低いのかさ、金が好きでしょうがないのか知らないけど、胡散臭い実業家的な面が本当に惜しいよね。高額セミナーとかやりまくってるのも本当に惜しいなって思うんだよね。せっかく正しいことやってるのに自分が批判してる資本主義に乗っかって金儲けし過ぎだっていう。まぁただそれは本人の勝手だからいいっつーのがまぁ俺の解釈だよね。だから基本的に肯定できるっていう。まぁ惜しいな!って思うっつーのは本当に強調しておきたいことだけど。まぁなんつーか奴隷解放プログラミングで金儲けをしてるって考えれば肯定できるなってことね。やってることは正しいんで本人がどれだけ金儲けしようが一向にかまわないっていう。


まぁ結局なんか肯定してるように見える「禅的生活」にせよ苫米地さんにせよ結果的に批判みたいになってるかもしれんけどさ、まぁ禅とかまぁストイシズムみたいなのが奴隷思想に繋がりやすいっつーのは本当に言えることだと思うのね。禅が悪だとは言わないけど、ただまぁ日本的な穏やかな従順マインドって禅的バックグラウンドがあるんじゃないかな?ってのはまぁ本を読んでて思ったんでまぁ書いておこうと思ったってことなんだけどね。だとしたらまぁいつも俺が書いてるように個人個人が取るに足るなんてことに安住せずにwant to玉砕で人生に体当たりしていったほうが力強いダイナミズムが生まれるし創造力とかパワーってのもそういうところから生まれると思ってるから、だからこそまぁ一億総玉砕で良いと思ってるんだけどね。今ぐらいの社会の感じだとそんぐらいのラディカルさがちょうどいいかなっていう。


want toって書くと苫米地さんの本のそのままの受け売りに見えるかもしれないけど、まぁそれは前の宮台真司の時にも書いたように類似性はかなりあるんだけど、んでもそれは彼らの受け売りではなく自分なりに色々読んで思考してきた結果が彼らの言っていることと似ていたりほとんど同じだったりするってことなわけで受け売りじゃないんだよってのは言っておきたいね。でもあまりに似ていることがあるんで特に苫米地さんと宮台の名前はあんま出したくないってのがあるね。でもまぁ彼らの著書とかも読んでるから影響は絶対受けてるけど、んでも思想的なところは俺が俺で読んできた所産だからさ、だから結果的に彼らの本を読んで「そうなんだよね!」って思えるっていうまぁ理解に繋がってるっていうのかな?まぁ思想全般そうなんだけどね。特にショーペンハウエルについては完全にそうね。「そうそう!それなのよ!」っていうのが本に書かれてるんで嬉しくてしょうがないっていう。俺と同じような考えを持ってる人がいたんだ!っていう喜びだよね。これはまぁいつもミュージックコンクレートの例を引き合いに出して言うことだけどね、


まぁ俺が考えていたことなりなんなりが綺麗な文章でシステマティックに書かれてるってだけでまぁ感動するわけ。もちろんそこから学ぶこともあるけどね。でもまぁ大抵のまぁ理解っつーか興奮っていうのは自分の思想なり思考法との親和性だよね。シュトラウスなんかは典型的じゃん?そういう意味で別にこういう親和性みたいなのは苫米地さんとか宮台に限ったことではないってことね。逆に親和性が無く読んだものをそのまま語るってことになると思考が無い受け売りになるわけでさ、笑っちゃうエピソードと言えば数学者として名高いある学者のエピソードなんだけどさ、本当かどうかはともかくとして、その数学者がね、あるこれまた著名な政治学者に対して色々と政治理論を語ってたんだけど、それが全部なんかの本に書かれていることの受け売りで、んでそれを政治学者の奥さんだかが知っててその政治学者に伝えた結果、その政治学者は呆れ返ったっつー話なんだけどさ、まぁ逆を言えばその高名な政治学者が知らなかったようなものをその数学者が読んでいたってのは凄いことなのかもしれないけど、受け売りのみっともなさってまぁあるよね。本当に。


俺は絶対こうはありたくないなって思うわけ。自分の思考がベースにあって、それが誰かの思想と似ている分には全然いいわけ。むしろそれは似てても自分の思想っつーかまぁオリジナリティとかは別としてもまぁ自分の言葉で語れるじゃん?っていうのがまぁ自分で思考した結果だから自分のボキャブラリーで語れるってことじゃん?でも受け売りってただのコピペだからね。だからオピニオンを聞かれると無かったりさ、ようは中身がスッカラカンだったりするんだよね。そういうのって臨機応変さが無いし、結局、それが思想とかである以上、コピペじゃ瞬発力が無いんだよね。色々なことに対応していけないっつーかなんつーか。


あ、んでwant to玉砕に関しては俺が苫米地さんの存在を知る前からwant toなことを自分の生存本能と結びつけていって社会的なものに帰結させるって散々書いてたからまぁ受け売りじゃないって分かるでしょ?でも今だけ見るとさ、現状としては苫米地本はいくつか読んでるわけで、内容が似てたりするとさ、「パクりじゃん?」って言われても本を読んでる以上「違います!」って言えないっつージレンマがあるよね。だからまぁそんな類似性はどうでもいいやっていうことなんだけどね。自分が自分で考えて思ったことなら書くし、受け売りなら「これは誰々が言っていたことだけど」って必ず書くからね。俺は。アメリカだと知的詐欺ってのが大罪なんだよね。まぁ日本もそうだと思うけどアメリカだとすんげー厳しいわけ。


誰かの概念を引用無しに自分ものとして言ったりしたらそれが小規模なものだとしてもplagiarismになってさ、他人のintellectual propertyを自分のものだって宣言したってことですげー大罪になるんだよね。だからまぁ知的詐欺ってことになって、だからまぁみんな気をつけるんだよね。過剰に。下手すると社会的地位がそれによって奪われるからね。でも日本ってそんなに無いと思うね。他人の概念を平気で自分のものみたいに語っても許されるみたいな風潮が極端なアメリカに比べると多い気がするね。まぁ多いっつーか緩いのかな?でもさ、これって結局さ、俺が考えたって思った事でもショーペンハウエルとかニーチェとかと同じだったりしたらさ、「それってニーチェじゃん!」って言われても「俺なりに考えた所産だ!」って証明できないんだよね。結局俺はニーチェを読んでるしさ、それはニーチェを読む前から自分で考えていたことだって言ったところで詭弁にしか聞こえないっていう。だから親和性があり過ぎる思想家とかさっき書いたお二方とかに関してはあんまあえて言及しないっつーのはあるんだよね。まぁ本来はどうでもいいことなんだけど、あまりに似てると俺が気を使っちゃうっていう。


コピペになるのが嫌だから自分で考えたり解釈するってことをやってるってのもあるのかな?まぁ元々何でも考える癖があるし自分なりに解釈しないと気が済まないし、それと同時に色々と読んでるからそういう読んだインプットのコピペみたいになるのが凄く嫌っていうのもあるよね。ただ自分でもどこまでがコピペでどこまでが自分なのかさっぱり分からないっていう。まぁ何々主義者とかっていうレッテルが昔に比べてまぁ俺はなくなってるっつーのはまぁ自分の思想みたいなのが形成されてきてるからだとは思うけど、そういうのも色んなインプットの上に成り立ってることだからさ、それを果たして自分の思想と言えるのか?って本当に分からないよね。だからこそまぁ考えるってことをやめたくないんだろうな。


特に数学なんかだとさ、コピペだけでやれるジャンルじゃん?それこそ理解してなくても暗記だけで高度な数学の問題とかも解けるじゃん?その辺の数学教師とかってこういうただの数学の成績が良かったやつらが多いって勝手に思ってるんだけどさ、俺は絶対それは嫌でさ、自分なりに解釈しないと気が済まないんだよね。ようは自分の頭でちゃんと理解しないと納得できない。だから暗記とかしたくないんだよね。メイクセンスしてそのフォーミュラなりが頭に入ってるってのならいいけど理解もせずに暗記っつーのは絶対やりたくない。そんなことやった時点でどんどん自分の思考力ってなくなっていくと思うからね。思考力って続けないと維持できないのは筋力と似てるよね。だからこそ数学を暗記だけでやるなんてどんどん頭がバカになっていくようなもんなんだよ。もちろん暗記が必要とされるのもあるよ。でも基本は思考を支えるためのデータベースとしての暗記ってことで、暗記が主体ってことじゃないってことねってさ、こういうこと書いてるけどさ、「本当にそうだよなー」って読んでたっつっても同じくブックオフで買ってきた畑村式「わかる」技術っていう本に似たようなことが書かれてたりしてさ、んで俺がこれを読んでしまった以上、ここからコピペしてきたってもう証明できないんだよね。俺が「そうだよなー」って読んでたっつーのも一切証明できないわけで、だから読んでしまった以上「どうせコピペでしょ」って言われても反論できないんだよね。


こういうことを考えると本当に思考とか思想とか知識っていうことに対する形而上学的な問いが生まれてきて脳内フィードバックを起こしちゃうね。どこまでが自分で考えた事でどこまでが読んだ事なのかがさっぱり分からない。だから自分の意見として書いてるようなことでも実際はコピペかもしれないんだけど、自分が自分の中でそれを消化してしまっている以上、悪意とか無しにそれをやってしまう可能性があるわけで、だからまぁこういうのには結構悩むよね。だからこそまぁ自分の中で明らかにコピペだって分かるものに関しては当然まぁ常識として「何々が言ってたことだけど」ってことは絶対書くんだよね。まぁそれは何かを書く上での最低限のマナーだけどね。ホント、でもさ、本に書いてあったことが自分の考えていたことと似ているとか同じだって言っても誰も信じないよね。「お前バカか?」って言われるのがオチっていう。


まぁもっともそんなことを語る相手がいないからまぁどうでもいい話なんだけどね。だからまぁ唯一の語りであるウォール伝で内面を吐露してるからまぁこういう話題になるわけで。でもある程度のコモンセンスっつーかそれこそメイクセンスする考えとか発想ってそれなりの経路を辿っていけばコンテキストが違っても似たようなものが浮き上がってくると思うんだよね。これがつまりは抽象ってことじゃん?抽象すれば他ジャンルでも似たような傾向とかフレームワークが出てきたりするわけでさってこれも「わかる」技術に書いてあった気がするな。まぁでもこれは抽象っていうことの当然の事実なんでしょうがないよね。別に畑村さんの特化したオリジナルな理論ってことじゃないんだからまぁ盗みにはならないよね。


だって俺も抽象っつー概念に関しては散々色々と考えてきたし書いてたでしょ?ってまぁこんなことを繰り返してたらキリがないんでやめようかな。誰々も言っていたってことを言い出したら本当にキリが無いよね。自分の思考ってのは他者とかぶってないから自分の思考だって言えるのかさ、自分で考えて帰結した結果、出てきたことだから自分の思考だって言えるのかさ、客観的には前者がそれらしい自分の思考で、んでも主観的には両者ともに同じ自分の思考だよね。それがオリジナルであるのか?っていうのはさ、既存の様々なものっていうのに照らし合わせないと分からないことなんであって、それって照らし合わせの結果じゃん?で、該当するものがありませんでしたってことになると「自分の思考だ!」って客観的に言えるっていう。んでも主観的にはそんなの関係無いんだよね。全部自分が思った事を書いてればそれは自分の思考なわけで。


ただラカンとかフロイトとかさ、まぁ俺も結構使うけど、あとはソシュールとかフッサールとかデリダにしても明らかに俺のオリジナルじゃない概念装置っつーのはあるじゃん?そういうのに関しては完全な区分けができるよね。俺もそれは完全に客観的に他人の概念装置だって分かった上で「何々が言っていた・・・」って言えるんだけどさ、そういう装置とかじゃないもっと原子レベルでの思考って分からないんだよね。それも当然色々なインプットから影響を受けたり、もしくはそれそのままだったりするかもしれないんだけど、色々な俺の思考を形成している原子との関わり合いの中で生まれているものであるからさ、マジで分からないんだよね。それを考えだすとキリがないからやめるっていうさ、とりあえずまぁ考えるだけ考えれば?っていう話だよね。インプットも続けてっていう。考える事しか俺には出来ないんだからそれをやっていくしかないよね。オリジナリティっていうのはそういう日々の積み重ねの所産でいいわけで。


まぁそんな感じで今日はこの辺で。あ、んで俺が書いたアメリカ的な自己啓発マインドセットってまぁ去年ぐらいに書いたけどさ、色々と自分で考えた結果、出てきたwant to玉砕プラスワトルズのアレとまぁあとシークレット的なスピリチュアルな感じとってまぁシークレットに関しては前みたいな盲信は無いにしても、去年書いたようにスピノザ的なタームではやっぱ信じてるし、あとはコンフォートゾーンとかエフィカシーを高めるみたいなのは完全に苫米地経由で、大いなる勘違いってのは俺が特に渡米後してきているようなマインドセットで、んで何人かのドリームキラーに批判とかされつつもまぁ苫米地本とかで大いなる勘違いはあったほうがいっつーのでまぁaffirmationが強まったってのはあるよね。


思い描いていたことは具現化するっつーのはまぁナポレオン・ヒルとかも散々書いてたことだし、まぁ実際、それをナポレオン・ヒルとかの存在を知らずに経験していった結果、本当なんだ!って確信できたからこそのまぁ今の俺のマインドセットってことで、まぁこれが禅の取るに足る思想とは正反対のベクトルにいるってことがまぁ今日書いた俺のマインドセットってことね。まぁウォール伝を前から読んでる人ならその生々しい変化がエントリーに表れてると思うからまぁ説明する必要は無いと思うんだけどね。そういう言わば函数的な変化そのものっつーのが常に値化されるって意味でもまぁこういう日記的なブログっていいんだよね。自分の変化のダイナミズムをチャート的なバイオグラフとして見れるっていうかなんていうか。んまぁだからなんつーか苫米地本読んだからいきなり覚醒した!みたいな感じではないっつーのはまぁ分かるでしょ?ってことね。


どう思われようが主観的なことだからかまわないんだけど、「コピペでしょ?」っていうことに関してのジレンマってのは常にあるってことだね。それがすげー長い積み重ねの中での結果としての理解とか、同じことが書かれている!っていうことになっているんだけど、部分的にそれだけ切り離して見るとコピペにしか見えないこともかなりあるっていうね、今で言えばコンフォートゾーンとかエフィカシーっつー言葉を多用すると苫米地信者にしか見えないんだけど、んでもそれは苫米地さんから学んだ事もいっぱいあれど、基本的には自分が言いたいことの便利な概念とかボキャブラリーをもっとクリアに説明できるっていうことでしかないんだよね。だから苫米地用語で言えばエフィカシーとかスコトーマとかコンフォートゾーンってことになる・・・みたいなことになるわけ。そういう書き方をしたほうが分かりやすいっつーか自分でも分かりやすいからね。ようはこういうことだってことがスコトーマとかコンフォートゾーンとかエフィカシーみたいな概念に集約されるっていうさ、それだったらそういう風に記述したほうがいいってことになるんだよね。それが結果的にコピペにしか見えなくてもまぁいっかっていう。ウェーバーで言うプロ倫であるとかさ、マルクスで言うところの階級闘争であるとかさ、ようはこういう記述の仕方と同レベルってことね。記述という目的で何かの概念を借りて説明する分には全然いいじゃん!ってことだよね。別にそれは俺が階級闘争とかコンフォートゾーンっつー概念を作り出したということではなくて、何らかの概念を説明したい時に既存の概念を使って説明してもいいよねってことね。これが逆になると盗作になるわけで。