ベーシック・インカムについて。その4。

mimisemi2010-04-18

では引き続きやりとりの返事を。


まずはsakanaさんのコメントから。

sakana 2010/04/17 17:17


返信ありがとう。多少伝わってることにズレがあったので、補足したいと思います。


僕が提示したテーゼは、「そもそも労働が任意のものになるということで実存を脅かされる層が一定数存在するんじゃないか。」ということでした。その例の一つが、僕が感じてきたブルーカラーの同僚たちです。説明が足りなくてすみません。


確かに労働は出来る、したいと思えば無限に。しかし、それが生活に直結しない。レジャーにしかならない。これが彼らにとってはフラストレーションになるんじゃないかと。彼らの実存は「生活のためにやらなければいけない労働」に依拠している。ベーシックインカムの“ベーシック”の部分にです。労働自体が目的ではなくて、生活に負われて強いられる労働を、労働者層は欲している。だからベーシックを保証したら彼らの根本を否定するんじゃないの。そういう仮説でした。


ただ、これを解決するのは意外に簡単なことかもしれません。BIで予定している保証金額を、「レジャー費」として拠出すればいいだけの気がします。要は同じ結末であったとしても、全く違うストーリーを用意してあげようという狙いです。もちろん、使途を審査する訳ではないので、個々が頭を働かせて、ベーシックな生活費として利用したっていいわけです。しかしこの場合にも問題があり、「レジャー費」を生活費に回すことが社会悪とされ、芸術など個人的な意志で物事を進めようとしている人に対して、差別が生まれる可能性があります。意に反してより一層、労働一辺倒の社会が作られるかもしれません。これは素直にBIをBIとして導入した場合も同じで、政治の意図でいかようにも動く脆弱性を持っています。BIだけで生活しようとする人間を非難することで、人気を得ようとする政党も出てくるはずです。


特段の海外経験と意識のない頭から考えられたものなので、以上は日本に限る考察になるかもしれません。


>この発言について気になったことがあるのですが、勘違いしていただきたくないのは、BIが僕のような人間達にとって福音だからということで僕が望んでいるということではなく、それが社会にとって良い事であるからという判断で僕はBIをサポートしているわけです。


了解しました。尊重します。


実は僕もそちらよりの考えで生きていたつもりだったんですけどね。アンガージュマン?うーん。みたいな。でも最近自分の中で変化が起こっています。訳はわかりませんが、やはり生活の節々で実存に捕らわれていることを実感してきたんですよね。これは今、自分が生活に対してギリギリの状態に放り込まれているからかもしれません。こういう時って、「自分とは」にすごく忠実になるというか、なんか、わがままにやりたくなるんです。何事にも。で、これがまた自分を楽にするんですよね。mimisemiさんが言うように、社会や政治を語ろうとする時はこれじゃマズいんですけど、社会や政治を“しよう”という時には実存を抜きにしてはできない気がしています。それってまさにサルトルアンガージュマンですよね。(これまた著作は読んでないので勘違いかもしれません。)まさか自分がそうなるとは思っていなかったので、多少戸惑いながらも、自然体でいられるので、これはこれでいいかなーと思っています。


>それにしてもsakanaさんの考察はオリジナリティがあると言いますか、良い意味で聞いた事や読んだ事が無い理論があって凄く興味深いです。「能力のある者VS能力のない者という構図ではなく、能力という概念を肯定する者VS非能力という感覚を肯定する者という構図なんじゃないかと。」とかは凄く面白いです。ただこれは政治単位で発生するものではなく、前にも書いた空気単位で起こるものですね。それは職場であったり学校であったり、まぁ簡単に言ってしまえば出る杭を打つという力学ですよね。それは別な言い方をすれば能力が無いものの実存の担保なわけで、それが空気という名のゲバルトと化すのも納得がいきます。


褒めてもらってありがとうございます。嬉しいですね。褒められるのってw


前述のように僕は日本しか知らないと言っても過言ではないくらい、バックグラウンドが狭いので、かなり日本社会の特徴に偏っているかもしれません。
空気単位で政治が行われるところが、日本のエスニックなところでもあると思いますので、空気の考察は日本のシステムを考えることとかなり近いところがあるのではないかと思います。


しかし、mimisemiさんと4/3in4さんのやり取りは痛快ですね。BIってつまるところ、そういうリミッターの解除装置として使えるかもしれないから、これだけ興味も湧くのかな。夢があるんですよねぇ


そもそも労働が任意のものになるということで実存を脅かされる層が一定数存在するんじゃないか。」ということなのですが、僕の想像力欠如でそこまで頭が回らなかったというのがありました。これはsakanaさんの言葉が足りなかったというよりかは、僕の中にそういうアイデアが皆無だったので理解が出来なかったと言ったほうが正しいかもしれません。これに関しては僕は完全に盲点で、それは凄く鋭い指摘であり、労働=奴隷という図式からは見えてこない見解です。僕はやはりマルクスの影響が強過ぎるのか、労働というのは食べるためにやるだけの賃労働であるという考えが強いのですが、この賃労働で食べていくという一連のプロセスでのみ実存的な満足感を満たせるという人達も確かにいるとは思いますので、確かにBI的な発想はそういった人達の物語をぶち壊すことにはなりますね。


マルクス的に言ってしまえば、そんなもの虚偽意識だから無くなったほうがいいみたいな感じになってしまいますが、「生活のためにやらなければいけない労働」に依拠している人達がいるとすれば、これに対する対処というのは無いでしょうね。それは状況的に生存権が常に労働によって担保されているということで満たされる実存なのであって、仮に労働が任意で続けられたとしても、「生活のため」という目的がBIによって失われてしまったら、それはそれでそういう人間にとっては相当なフラストレーションにもなりかねないでしょうね。


これは仮説というより「ある」って言っていいと思います。僕もいくつかやったバイト先でそんな感じの人達がいたのでそれは凄く思いますね。彼らにとっては「虚偽意識」なんて言葉すらまぁ大きなお世話って感じでしたから。革命的要素ゼロな労働者というのはいるんですよね。左翼思考癖みたいなのがついてしまっている僕にとっては思いつかない発想です。まぁ別にそれはホワイトカラーとかブルーカラーとか関係無く存在するでしょうね。


でもまぁここまで色々と書いてきて思ったのですが、給付される額はあくまで最低限の生活を保障するだけなので、そこまで労働に実存が依拠している人間がいたとすれば、僕は彼らはそれでも労働を続けると思いますね。なんというかそういうレベルだともうディオニュソス的労働ですよね。労働自体に陶酔してるというような感じです。仕事終わりのビールとか風呂とか、そういう労働が無ければ成立しないカタルシスもあるので、労働がもたらす一連の肉体的ルーティーンのある種の快楽というのはあるでしょうね。そういう毎日があるから生きていけるというか。それこそそれはsakanaさんの仮説ですよね。それが無くても生きていけるってなったときに彼らの実存はどこに向かうんだ?ってことですよね。で、僕はまぁ仕事への依存が強ければ強いほど彼らは仕事を続けると思いますね。まぁBI分が給料に上乗せされるぐらいの感じの感覚でやっていくんじゃないでしょうか?そこがまぁBIの良さですよね。決して豊かな生活は保証しないんですよね。豊かな生活をしたかったらやっぱり働くというか、金を稼がなきゃいけないわけで、労働へのイニチアチブというのは意外とそこまで落ちないような気がします。そこまで最低限の切り詰めた生活で満足する人達が多いとも思いませんし、BIだけじゃ芸術家ですら活動は不可能でしょうからね。どの道、労働はある程度はしなくてはいけないとは思います。


BIの使い道への差別も十分にあり得る話ですね。「働かないとは何事だ!」っていう人はやっぱいつでもいると思いますけど、でもここはまぁ闘技的社会みたいなのがあってもいいんじゃないかと思います。みんなBIもらって納得!という社会ではなくて、BIが導入されても反対する人もいれば、BIをもらいながらも労働を続ける人達もいれば、BIをベースに芸術活動をする人達もいれば、色んな生き方の人達が多種多様にBIをめぐって出てくると思いますが、それは常に合意という形では解決されない差異性の社会というのが成立すれば、それはそれで一つの成熟した市民社会足り得ると思いますね。そこでまた芸術家サイドからの意見が出てきて、その一方で「働かないとは何事だ!」と言う人達の意見が出てきて、まぁそれは普遍的な合意が生まれないまま討議が続けられることになると思いますが、僕はそれでいいと思います。むしろ社会にとっては公的精神を耕すという意味でも討議はあったほうがいいし、差異性に基づく議論はあったほうがいいんです。何しろまぁみんな死なないですから余裕ができるのは間違いないですよね。ということはまぁ討論の機会も増えるんじゃないか?とは思います。そういうのにコミットできる余裕ができるというかなんというか。BIをめぐる諸問題や差異性などについて市民レベルではない政治が絡んでくるのもそれはそれでいいことだと思います。またそこから別な議論が生まれるという意味で社会成長のきっかけにはなると思います。


あとアンガージュマンのことなのですが、まぁ僕もアンガージュマンしたいですが、社会に認められるような知識人とかじゃないと影響力が出ませんよね?だからまずはまぁ自分の地盤をなんとかしないといけない感じなんですが、そういう意味で僕はまだまだ知識も不足していますし、勉強中の身なのでなんとも言えないのですが、アンガージュマンの意味ってエンゲージメントってことなんで、そこに実存を投影するかしないかは任意だと思います。ただ基本的にこの言葉は知識人とか芸術家とかが社会運動などに参加することを指すのですが、僕の考えだと、個々の実存が投影されてしまっている政治的/社会的意見には結局、「俺はこうしたいんだ」と「いや、俺はこうしたいんだ」というような、実存的な意見の対立が必ず発生してしまうんですよね。僕が提示したい政治的/社会的意見というのはちょっと変な言い方になりますが、物凄く科学的なものです。それこそ数値とか様々な根拠を示して、こうすれば社会が良くならないわけがないので、これはやるべきでしょうって言えるような、実存というよりかはエビデンスベースの意見ですね。これはデータという客観性を持ち合わせているので、イデオロギーの対立といったような、もうやらなくてもいいようなことを繰り返さなくても済むようになります。実際、右翼左翼関係無く言論活動をやっている人達の多くは恐らくこういった客観性をベースにやっていると思います。逆を言えば実存ベースになり過ぎると粗が目立つような言論になりがちになるんですよね。それは全然説得的じゃないことが多いので、僕はそういう意味でもアンガージュマンをやるにしても、実存の投影は言論にとってマイナスだと考えます。


自分がメンヘラーだからもっとメンヘラーを救うような社会にしてほしい!という意見もありですが、例えば僕がこういうトピックに関して言うことは、メンヘラーの人達が不当に辛い環境に置かれている場合があるので、社会的な理解や適切なaccommodationが必要だということなんですね。まぁようはAffirmative Actionですよね。これは僕がメンヘラーなので感じることで、だからこそ色々と分かることもあるので言えることなのですが、それと僕の実存は関係ありませんね。僕の経験から言える社会に必要なことということなだけで、自分の実存の投影ではないんです。あとはまぁギフテッド教育とか学習障害とかに関してももっと学校や社会が適切なaccommodationをするべきなんですね。この辺はアメリカは進んでいるなって凄く思います。


で、sakanaさんがおっしゃっているリミッター解除装置としてのBIなんですが、まさしくおっしゃる通り夢があるんですね。リミッターが外れてチャンスが増えたり再起可能な人が増えたり、貧困層の人達が再チャンスを掴めるとか、様々な利点を考えると、正直、労働=実存になっている人達の物語破壊などはっきり言ってしまえばどうでもいいというのが僕の本音ですね。彼らの物語は崩れるかもしれないが、それを理由にBI導入を懸念するというのは、全体のもっと大きいベネフィットを考えると仕方ないかなという気がします。まぁこれは僕の価値判断なんですけどね。


はい、次は4/3n4のコメント

4/3n4 2010/04/17 20:13


しかしまあ、意見が違うけど関心は同じで意味は通じるというのは理想的な対話関係だね。しかもそれがいわゆる世間一般的な「成長」だとか「空気読む」とかの場当たりな「コミュニケーションスキル」の賜物じゃないのがいいよね。


それはともかく、教授が学生を大学院に誘うのはwrite or dieと一緒で「学生数=実績」ということ。中身なんて「どうせ誰も読まない」から、数が大事。で、その現実を教授も弟子も「どうせ誰も理解できない」という特権意識でなんとかやりくりしてるわけだ。そこで単純なロジックを複雑なレトリックで目くらましする小手先の技術がハイエデュケーションの中身になると。
もちろん分野で差はあるけど、なかでも社会思想系はつくづくアカデミアに向いてないよね。現状カリキュラム化されてる思想のほとんどが、亡命知識人や植民地抵抗者や政治活動家や実業家の行動前提の思想じゃん。もともとが行動を前提に変化を志向するリベラルアーツでしょ。


でもそれを純粋に「知識」でしかないレベルまで薄めて、決して「変化」しない安定を志向して、延々と同じことを繰り返して「専門家」になるのがアカデミアでしょ。相性最悪だよね。その典型が、散々「対話が必要」とかのたまう左翼系学者は同じ研究棟にいる右翼系学者の研究室のドアを永遠にノックしない、とかね。さっさと対話して話しつけてこいと。右ははじめから対話なんぞ奨励してないから一応言動一致で誠実に見えてしまう。


そういう軽い左のばかばかなかんじはNYなんかじゃよく味わえるんじゃないの?原爆がいつ落ちたのかはよくわかんないけど原爆反対みたいな。まあ会社もそうだけどバカバカしいものを見るのはいい経験だよ。


刀根康尚は「NYでエクリチュールに亡命していた」らしいけど、つくづくいい話だね。コミュニズムを亡霊になぞらえての「ヨーロッパを亡霊が徘徊している」というアジテーションの傑作があるけどさ、ネット上のエクリチュールも新手の亡霊みたいなもんだね。と、とりあえず左ネタでしめといた。


いや、本当に社会思想系ってのはアカデミアに向いてないと思うね。むしろこういうのって在野でやるもんでしょ?それこそアンガージュマンとかしながら耕していくというプラクティカルなものじゃないといけないわけで。まぁ思想全般そうだね。哲学然り。あんなの学校でやるもんじゃないよね。アカデミアでやっていくために小手先の技術を身につけるのだったら、もうその時点でそいつはソフィスト化するわけで、哲学は一生できなくなるよね。そういう意味でカリキュラム化されてる思想ってのは思想を殺すカリキュラムだと言えるかもね。大量のソフィストを生産しているソフィスト工場とも言える。俺が哲学とか政治学を大学でやろうと思わなくなった理由は本当にこれも大きいよ。自分で出来るからってのが大半の理由だけど、ソフィスト臭い論文みたいなのを書かされるようなことがあれば俺の苦痛は最高点に達するんで、そういう意味でも自分の精神面の健全さを保つためにも、下手に思想みたいなのを大学でやろうなんて思わないほうがいいなって凄く思ったのね。まぁ政治学っつっても俺がやりたかったのは政治思想とか政治哲学だからさ、だからまぁこんなもんは自分でやるもんだし、学校でやるってことになると有害にもなりかねないから、学校ではやらないのがベストだなって思ったのね。そう思うと凄く良いタイミングで数学と出会えたなと思って、今は本当に数学に救われてる感じだよ。学校でやれるカリキュラムの中に意味があるものを見いだせたって意味での救いね。自分で読むやつに関して言えば政治学とか哲学とかは全然並行してやってるわけで。


そんな意味で多分NYの左翼とは喋る機会は無いと思うよ。それこそニュースクールソーシャルリサーチとかに行けばいっぱいいるんだろうけど、俺は行かないから多分会わないだろうね。あとNYUとかも校風から左翼が多そうだけど、これまた縁のない感じだよね。バカバカしいものは今の学校で色々見てるからもう十分って感じかな。いい経験になるというのは全面的に同意するね。本当にそう思うね。そのときは嫌な思いをしたり、辛い思いをしたりすることもあるけど、結果的に経験値になるんだよね。


ところで刀根のその「NYでエクリチュールに亡命していた」っていうのってインタビューかなんかなの?色々調べてみたんだけど見つからないんだよね。ソースが分かれば教えてほしいんだけど。


・・・・ってことで返信終わりです。それにしてもsakanaさんの

彼らの実存は「生活のためにやらなければいけない労働」に依拠している。ベーシックインカムの“ベーシック”の部分にです。労働自体が目的ではなくて、生活に負われて強いられる労働を、労働者層は欲している。だからベーシックを保証したら彼らの根本を否定するんじゃないの。


というのは凄く突き刺さるものがあるね。俺の考えの中からじゃ到底生まれない秀逸で鋭い意見でこれまた色々と考えさせられるなと。まぁそれでも俺はsakanaさんの返信にも書いたように、様々なBIのベネフィットを考えればまぁそれはしょうがないっていう感じではあるんだけどね。特に人がリアルに貧困に陥ってどうしようもなくなってるとかってのを考えるとね。


ってことで今日はこの辺で。