ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

狸さんともげらさんへの返信。

狸 2011/02/06 20:29 返信ありがとうございます。


最初の「社会や世間や風潮みたいなのに一切構造化されたりしない特異点的な存在として常に人間としてある」というのは、わかります。けれど、そこから「悪徳」への批判について少し思ったことを書きます。


僕は最近、「サド」や「ニーチェ」、「フーコー」なんかの著作を眺めてるんですが、それは西洋がそれまで保持していた「善」というものに対して、それが抹殺してきた特異点の洗い出しと捉えています。そして、そこで取り上げられるのがある種の「狂気」や「悪徳」です。文化の面でいうと、ゴッホニーチェの「狂気」サドの「悪徳」。ラング(言語体系)に属さない彼らの言葉は、一つのパロール(発話)でもあり、同時にラングを形成するようなものです。


示す対象は、自己それ自身であり、まさに一人の人間を一つの世界として生きた人間の言葉を、20世紀から21世紀は見直し、破綻した大きな社会でのラングを修正してきたように思います。例えば、サドの「悪徳の栄え」の中では、大泥棒が自分の盗みに対して「もしも、人のものを盗むことを悪とするなら、どうして神はわれわれ人間を平等に創造なさらなかったのか。」という理論を公然と主張します。


ニーチェなんかも言うように、こうした言葉が明らかにするのは、それまでの「善」が隠してきた「倒錯」です。ちょっと抽象的なので言い換えると、フロイトアインシュタインの「戦争はどうしてなくならないのか」という問いに対して、「戦争というものは、生物学的に十分な根拠があり、実際問題としてほとんど避けがたいものなのに、どうして一つの苦難として受け入れず反対するのか」と、それまでの平和に対する命題を逆転させたような感じです。


が、こうした言説が現在の社会でどのように機能しているかというと、耳蝉さんが言うように、「ポストモダン的なアイロニストとかニヒリストのほうが哲学的に洗練されているように見えてかっこいいですよね。」の状態です。はっきりいってニヒルに浸ることはとても簡単で、必死に築きあげた「善」の城の下の柱を一本取ればニヒルに浸れます。


ニーチェが、2000年くらい社会を築いていた「善」がもはや立ち行かなくなったために、徹底的に一度更地にしてくれた大地に対して、われわれがすべきことは、「善」の建設であるのに、善は否定すべきであるというニヒリズムの蔓延りは正直うんざりです。「悪」を持ち上げるのは簡単で、重要なのはいかに「善」を築くかということなのに、つまり「倒錯」していることを自覚した上で、人間は「倒錯」するにはどうすればいいかを考えず、「悪」を前提とする思考停止は人間の文化・文明に対する冒涜とすら思えます。


すると、耳蝉さんというのは、「善」を述べる「狂気」という、ちょっとやるせない状況ですよね。「善」が「狂気」の特異点になるというのは、これ不健全ですよ。ただ、同時にニーチェが思っていた以上に、人間というのは「善」をつくるという作業なんかできないということだったと思うんですよ。ギリシャ人みたいになるわけじゃなかった。だから、ニーチェも「物語」の一種として消費されていくという。ホームレスから億万長者の話とニーチェゴッホの話は、広い意味で等価になってしまったようにすら。でも、そんなこといって個人的な理想を棚卸しすることは全く関係がない。


少し話しが散逸してしまったのですが、そこで重要になってくるのは「でも現実は・・・」という人の言葉ですよね。こうゆうことをいう人をみると本当に想像力の欠如を感じます。大事なのは、そうゆう理想、まぁモデルを採択することで、どう現実が異なるかということですよ。カントの道徳哲学の中で「定言命法」っていうのがありますが、あれは「あたかも、その判断が万人に普遍的に正しいようにふるまえ」というものです。現実に普遍的な基準がないことなんか子供でもわかります。重要なのは、そうゆう思考モデルをとることで、どう現実社会に変化が生じるか。


カントの哲学を採択すれば、「自分をひとまず置く」という思考スキームを形成し、社会での「同意」の次元を一歩繰り上げることができる。それは現実に大きく影響を与えるじゃないかと言いたい。し、むしろそうゆう人も「現実はすでに決まっていて、自分でどうこうするものじゃなく、みんなで傷を舐めあいながらなんとかその日を過ごしましょう」というモデルを使って採択しているでしょ、と言いたいですね。


ちょっと話は変わりますが、そうした思考モデルに関係して、


「ちなみに割と若い世代では嫌になるような体臭がするようなおっさん世代の古いシステムとかに疑問を持っていたり迎合しなかったり迎合しようと思っても精神的に出来なくて会社を辞めてしまうだとか、それってつまりは精神が健全な証拠なんですよね。そういうちゃんとした感覚を持った若い人達が彼らの新しい感覚で日本を作り上げていけば今よりかは絶対マシな社会が出来ると思っています。」


というのは、少し危ないと僕は思ってしまうんですね。おそらく、ここで耳蝉さんがいう「精神的な健全」というのは、かなり広くとられてしまう。僕は意外と周りの環境を変えるより、自分が変わるほうが、費用対効果がいいと考えています。例えば、クラス替えで、好きな子とも仲がいい友達とも一緒になれなかったとする。そうした時に、自分をうまく適用させて、そこで友達をつくったりするほうが、いつまでも劣等性でいるより、またクラス替えのシステムに意義を訴えたりするよりよっぽど重要になってくる。会社にしても、ようは人間関係ですよ。上記のように、古い世代を若い世代に敵対させてしまうと、若い人の心境が「いい」もので、古い世代という漠然とした概念をなんとなく「わるい」と見なし、簡単に自分を正当化する根拠を与えてしまう。もちろん、耳蝉さんがここでいう状況というのは、本当に劣悪な環境のことをいうと思うのですが、真っ黒と灰色とちょっと灰色が一緒になる危険があるなぁと。


だからって、環境に適用して甘んじろというわけではない。それは環境を一気に変えるよりも、代替しつつ変えるほうがいいでしょっていう感じです。今までAでやっていたものを、A´にして、段々とBにするっていうか。その第一歩は、自分を適用させることだと僕は思う。自分というのも、その環境の構成要素の一つですから。


でもまぁ、なんていうか、これは読む側の問題なんですがね。耳蝉さんの言葉は、それが「衝動」から書かれるだけに、無意識に及ぼす影響がけっこう半端ないんですね。で、それをちゃんと推進力に変換しないと、ホント今のニーチェの受容みたいになってしまうんですよ。(あくまで、僕の体験です。)まぁ、話が変ってからのは、ただの自分に向けた個人的な訓戒みたいなもんなのでスルーしてもらってかまわないです。


なんていうか、何かを疑問に思って、それを質問してもそこからうまく発展することは意外と稀です。なので、こうコメントして、それが返ってきて、それに触発されて、書いて、自分がこんなこと考えているのかぁ、と思うと、考えるというか、書くという行為は、根本から他者のネットワークに繋がってるんだなと感慨にふけってしまいました。それと、絵の感想ありがとうございました。 自分の表現物をみせるというのは、ひじょうに卑しい根性で、僕は大嫌いなのですが、この人にはどうしても見てもらいたい、という時だけ、見栄や卑しさを承知で提示してしまいます。なんていうか、言葉を話せるようになった猿が、「もしかしたら、こいつも喋れるのか?」と思って、話しかけてみちゃう心境みたいな感じというか。


僕が長々と書いたところを学術的なものに照らし合わせながら綺麗に分析していただけたので、僕としても感謝していますっていうと凄く変な言い方になるんですけど、議論のポイントが凄く明確になった気がします。狸さんも僕の返信に対して書いているように、善に対する相対主義ってもう自明のこととして捉えなければいけないと思うんですよね。そんなことは一世紀前ぐらいから言われていたことなので、人間はそこから進歩しなければいけませんよね。確かに僕がナイーヴなぐらい「善」を述べるのが狂気になっているのは本当にやるせないと思うんですが、思想的にもダサいってまさしくこれなんですよ。ニーチェとかポストモダン的な議論を知らない馬鹿なやつに見えかねなくて、ただ僕としては相対主義を超えた善を説いているのに、そうは見られないというか、「アホじゃね?」的な感じになりかねないって皮肉ですよね。僕はどう見られようがどうでもいいことなんですが、思想とかに興味を持つ哲学青年みたいなのってまぁ多くないかもしれないけどいますよね。で、そのポストモダン的なニヒリズムがかっこいいというスタイルが出来上がってしまっていると、それこそ知的装飾のための哲学というか、本質的な問題からどんどんかけ離れていく哲学というのが主流になっちゃいますよね。


理想を言えば哲学を学ぶということがそのまま道徳や善を学んだり考えるという契機になるのが理想的ですよね。アルチュセールの先生だったアランは哲学に関してそういうことを言っていましたが、「あんなのただの道徳主義者だ」みたいな批判が当時のフランスであったみたいです。でも例えば今回僕が言っているようなことに関して言ってもアランの「プラトンに関する十一章」なんかは最高の本だと思いますね。こういうベクトルの哲学がダサくて、ポストモダン系がかっこよくなっちゃったってある意味でニーチェの悪影響だったのかもしれません。


あ、それで話を戻すとですね、善や道徳に対する相対主義を批判する言説はあったと思いますが、僕は相対主義を批判したいわけではなくて、それは所与の自明なこととして捉えて、そこからのスタートという感じなんですよね。まさしく狸さんが書いている「善」の建設です。


僕と狸さんが初めてやりとりをしたときに僕が「プレモダンな感覚」と書いたのはまさしくこのことなんです。Back to The Basicというよりかはポストモダン的な相対主義の先に古典があるという感じですよね。なのである意味で言えばポストモダン的な言説を経由していないと理解ができないプラトンの理解というか、そこであえて求めるイデア論ってのはつまりは自分的にはそういう位置づけなんです。つまりは反相対主義とかではなくて、その次にあるものとしてのプラトンですね。まぁ別にプラトンじゃなくてもいいんですけど、ナイーヴ過ぎるように見える道徳とか善の哲学の重要性が相対主義を超えたところで価値を発揮するみたいなところですよね。


で、相対主義に陥ってる価値観というのは僕も凄まじく不健全だと思います。「想像力の欠如」とはまさしく僕が言いたいイデア的なものを求める憧れの欠如です。エロスの欠如というかなんというか、それが無かったら善い社会は育めないのに、自覚的なのか無意識的なのか、相対主義に陥ってしまっているんですよね。ニヒルって簡単ですし、さっきも書きましたが、洗練されているように見えてなぜかスタイリッシュなんですよね。でもそこは思想的にダサい善の哲学みたいなのを取らなきゃいけないだろう!って思いますし、むしろニヒリズムを超越しなければいけないわけですよね。もしくはニヒリズムの先には僕はそれしか無いと考えます。それは現実逃避的なプラトン主義ではなく、建設的な意味でのプラトン主義です。なんといいますか実践的なプラトン主義ですね。なのでそれはニーチェが批判していたような宗教的なプラトン主義ではありません。


なんというかこの辺はもう狸さんの返信が完璧過ぎて僕としては特に書く事がありませんね。他に関して言えば「まさしくそれです!」ぐらいのことしかもう書けないような気がします。


というわけでここからは「精神的な健全」について返信したいと思います。狸さんか言う危なさは凄く分かる気がしました。でもこれは単純に僕の議論の荒さ故だと思っています。議論というかもっと細かく書かなければいけないところをザックリ書いているので、一次元的に見えてしまうというか、ようは二項対立的に見えてしまうということですよね。若者VSおっさんみたいな。僕が一貫して批判しているのは狸さんもご存知の通り劣悪な環境についてなのですが、狸さんが言う「自分が変わるほうが費用対効果がいい」というのは凄く分かるんです。でもこの場合はやはりもうTPOになってしまいますよね。仮に超劣悪な環境で自分をうまく適用させようとしたりすると、例えば適応力がある人間は器用にやれたりするわけですよね。でもその組織の行動原理といいますか、ハビトゥスみたいなものが人格にまで影響を及ぼして、結果的に腐ったような人間を作り出してしまう場合もあるわけですよね。


僕はこれに関してはミイラ取りがミイラになるだろうというケースのほうが多いと考えているんです。AがA'になって段々Bになるって凄く良い比喩だと思いますが、A'のつもりが、実はそれは大元の集合Aに帰属するaであって、それがa'になってbになっても基本的にはそれは集合Aに属するものなので、結果的に環境の構成要素として組み込まれてしまうかもしれないわけですよね。それがつまりは僕が批判している構造化されてしまうということなんです。ただの世渡り上手が出来上がるだけというか、結局、費用対効果を考えると行動原理がやはり利己的になっちゃいますよね。もちろん自分の振る舞いの合理性から考えればクビになったり村八分にされるよりもそっちのほうがいい。で、AをBに変えていけばいいんだ!と思って組織に入っても、組織ってのは大抵デカイですし、まぁデカさは置いておいても、そこだけで帰結しているものではなく、それは抽象的な話になりますが、世間や社会と繋がっているものなので、結果的に構造化されるというか、組み込まれてしまうということになる危険性のほうが高いと思うんです。


マトリックス的な比喩で言えば自分はレッドピルを飲んでいるし、アンプラグドで解放されている!と思っていても、結局はブルーピルが好きか、レッドピルを飲まない人達の世界、言わばマトリックスに接続してやっていくということになるので、いつのまにかマトリックス側に自分が取り込まれているというのも、それこそ気がつかないまま終わってしまうかもしれませんよね。もしくはAからBへの移行を実行しているつもりでも、それが結果的には虚偽意識的なものに変わってしまい、システムに取り込まれているのにも関わらず、自分は変革を実行していると思い込みながらマトリックスに埋没してしまうという、システムってそういうものだと思うんですよ。敵対するものや変化させようとするものには徹底的に抗うという有機的なダイナミズムがあるので、取り込まれているかどうかすらも分からないまま取り込まれるという可能性があるというか、ネオみたいな人間じゃない限り大体そうなると思います。それがつまりは適応ということですよね。


僕が言っていることすらもそうなる可能性があるわけですよ。言葉や表現をオブラートに包むようになったり、もっと分かりやすく伝えよう!とかって思った結果、どんどんマトリックスに取り込まれていって、最終的に破滅してしまうみたいな。だから常に僕は自己懐疑があるんです。「まともな評論もどきみたいなのばっか書いてないか?」とかって常に思うのはそれなんです。それは構造化されるということが凄く怖いからなんですよね。かといっても狸さんがおっしゃるように推進力に変換しないと、それこそ自己啓発的なニーチェの受容みたいになってしまうんですよね。


「読むと勇気が湧いてくる!」とかなんだとか、それは結局は自称構造化されていない人間が構造化されつつもそれを嫌がっている人達にカタルシスを与えるだけのものになりますからね。狸さんの批判は実に的を得ています。それこそ急所ですね。僕が無意識的に衝動でやっているからこそマズいところですよね。読む側の問題というのはまさしくそうなんですが、読む側にそういった安易なニーチェ的な解釈をされてしまうと、つまりは僕の言論が無力化されてしまうということですよね。それは極端な言い方をすれば構造化されるということなのかもしれません。


それこそカタルシスを与えているだけで満足するようになったら僕としても終わりますよね。言論のアクチュアリティは無くなってしまって、まぁ「狂ったことを言うキャラ」みたいになっちゃいますよね。これこそがまさしく構造化そのものなんですけどね。僕がさっき書いたミイラ取りがミイラになるということの危惧も、繰り返しになりますが、本人が分からないところですでに侵食されている可能性があるかもしれないという恐れから来るものなんですよね。それって一番怖いと思うんですよ。本人が気がつかないわけですからね。レッドピル側ですら気がつかない場合があるぐらい強烈なものだと思うんです。


昨日よりかはだいぶ落ち着いた感じで書いていますが、この話について狸さんの意見をお聞きしたいです。つまりはそのAからA'でBになる話とか構造化されるという僕の今回の話全般に関することとかですね。いや、まぁこれは僕のジレンマなんですよ。僕が言っていることは社会性ゼロですからね。基本的に生きていけない考え方ですよね。僕はそれでしかやっていけないのでどの道、選択肢は無いといつも書いていますが、じゃあ共感はするけど選択肢がある人間はどうしたらいいのか?という問いにいつも答えられないんですよね。それはある意味で僕は逸脱者というかアウトローだからそんな放言ができるわけで、現実味が無いとかって言われるとまぁそれはそれで説得力がありますよねってまぁこれってプラトンの洞窟の比喩のジレンマなんですけどね。世界が洞窟という名のマトリックスで動いてたら根本的にそこに構造化されないで生きていくなんて不可能なんじゃないか?って思ったりもするわけです。


僕は可能というかそれは可能不可能ではなくて外しか生きる場所が無いってことで、外しか生きる場所が無いやつら全般にそれは言えることだと思いますけど、洞窟でもやっていける人達にとってはどうなのかな?と思うんですね。代替しつつ変えていけるような、ポジティブな意味での変化を促すエージェントにどれくらい期待ができるのかな?と。まぁ僕が今回書いたことはそのエージェントすらも飲み込まれるとか、デカイAという親の集合があってAだと思っていた集合は実はaというただの構成要素だったみたいな話なんですけど、仮にaがbに変われてもそれが集合Aの中の微々たる変化でしかなかったら、根本的な変化なんて無理なんじゃないか?という思いもありますね。


それはまぁそのエージェントが飲み込まれずにaをbに変えられたとしても・・・ということですね。仮にそれで変化を起こすとなるともう凄まじい数のエージェントが必要になると思うんですよ。それこそマトリックスのスミスみたいなやつが必要ですね。


で、それは到底現実的であるとは思えないんです。啓蒙にも限界があるし、現在のニーチェ的な言論のアクチュアリティを無力化してしまうような安易な解釈も存在するし、だからこそ軸を超えた何らかの超越的なものを考えるしか方法が無い気がしているんですよね。三島の場合はそれが天皇だったというのは前回のやりとりで言及されていましたね。結局、小さい変化に何かを求めるのって思想や言論にロマンを感じる哲学者とか哲学好きの独特のファンタジーって気がするんですよね。それだとまぁ僕に言わせると凄まじく甘いんですよね。温いんです。佐藤優とか三島も言っていたことですが、思想ってのは基本的に殺すものなんですよ。そのぐらいの殺気立ったものが無いとダメで、それは社会性とのコンパチビリティは永遠に持つことができないものだと思うんですね。


あと話が前後しちゃいますけど、システムに飲み込まれるというのは、つまりは正義感のある革命家が革命を成功させて政権を握ったらそれは自ずと腐敗していくみたいな、ロベルト・ミヘルスの寡頭制の鉄則に似たものなんです。その革命家達がどのくらい人間的に素晴らしい人達であっても、権力という構造そのものが腐敗を促すように出来ているので、それにはシステム的には抗えないということですね。変化を促していたエージェントも大多数の相手にどんどん妥協していくようになるかもしれないし・・・とまぁ悲観すればキリが無いわけですが。


もちろん自分が適応しつつ周りを変えていけるぐらいのゆとりがあるような職場なりなんなりだったらいいと思うんですよ。ただそれはもうある程度のレベルに限られますよね。僕はバイトは底辺とは言いませんが、レベルの低いものをいくつかやっていきましたが、あそこに適応したら人間的に終わるだろうなっていうところばかりでした。ブラック企業の話なんかを聞いてもそう思いますし、逆を言えば代替しつつ変えていけるような環境というのは僕から見ると最初から全然問題がない環境ですね。僕はそんなに社会を渡り歩いた人間ではありませんが、これに関してはかなり悲観的です。実際、ああいうのをやっていて自分が腐っていくのを感じたんですよね。いた人間も恐ろしくレベルが低かった。もう本当に絶望しましたね。まぁ僕は実家暮らしなので辞めるという選択ができたわけですが、そうじゃない人がたくさんいますよね。


それこそ抗う力どころか考える力すらも失ってしまうような環境に置かれた人間はどうしたらいいのか?ということなんですよね。そういう廃人を作り出す職場って凄く多いと思うんですよ。それが結果的に社会に大ダメージを与えていると思うんですけどね。僕はよく「馬鹿ばっかだ」って大衆批判をしますけど、元々の馬鹿はしょうがないとして、馬鹿を大量に作ってしまうようなシステムや機構をどうにしかしないと、元々馬鹿ではない人までも馬鹿になるし廃人になりますよね。教育然りなんですが。


人間関係がなんとかなればオッケーな職場なり環境って凄く恵まれた環境だと思うんですよ。僕のイメージだとそういうのは凄くレアだなってことなんですよね。つまりはAからA'でBを実行できるような環境は稀だと思うということです。あとそういう場が稀ということがあって、それをその稀な場所で実行できたところで、他のどうしようもない職場とかは存在し続けるので、全体から見ると微々たる変化なんですよね。まぁレベルが高い人ばかりいるような凄いところに行けば別なんでしょうけど、一般人には関係のない話ですよねってまぁこれはちょっと言い切り過ぎかもしれませんけど。


折り合いがつけようがない、こっちの適用がやりようがない人間も恐ろしく存在していると思います。で、繰り返しになりますが、生存権のために腐った人間とも折り合いをつけなければいけなくて、んでそれが段々感染してくるわけですね。知らないうちに自分もそれで腐ってしまうという。安易に特に若者が「オレは若いから正しい」とか「これは古いから悪い」とかって思ってしまう危険性は確かにあるんですが、つまりはそこに社会などに規定されない、僕が散々書き続けてきた正義とか善の介在が必要ということなんですよね。明らかに悪い事をしている場所に適応する必要はありませんよね。それはもう定言的に「悪だ!」って言っていいと思うというか言わないと社会は崩壊しますよね。


すみません。今回の返信はなんだか上手く書けないんですが、僕が言いたかった若者の健全な感覚ってようは明らかにどうみても合理的には思えない古い体質の会社でくだらないコミュニケーションや仕事ばかりをやっていて、そんな場所にうんざりしてやめるという感覚が人間的に正しいと言うことなんです。で、僕のイメージだとおっさんって「オレの時代はそんなことを言っている余裕はなかったよ」とかってやたら労働を神聖化しますよね?まぁそういう人ばかりではないんですが、おっさんの論点って本当におかしいんですよ。若者は違和感を感じて辞めていったりしているわけです。まぁ全ての若者がそうじゃないとは思いますが、それで辞める若者に「根性が足りない」とかって批判したりするじゃないですか?


で、肝心のその「根性が足りない」とかっていうおっさんがやっている労働とやらを見ているとあってもなくてもいいようなどうでもいいもので、ただの利己的な経済活動が大半だと思うんです。そこに虚無感を感じずやり続けるのがまぁ僕の中のおっさんのイメージですね。で、「そんな人生歩みたくない!」って嫌がるのが健全な精神を持つが故にそんなおっさんがいる会社に嫌気がさして辞める若者達です。そういう若者達に「何を贅沢言ってるんだ!」とかって言うおっさんがまぁいますよね。これもおっさんならではの意見で、何で若者がそういう会社や人間関係に見切りをつけているのか?っていうのをおっさんは理解してないんですよね。いかに人間的につまらないやつなのか?とか組織的につまらないところなのか?という自覚が無いわけです。そういうところでやっていくというのが社会人だろ!みたいに言う人っていますよね。そういうところを担っているというのが僕から言わせれば最悪なんですけどね。


まぁ僕が言っているのは典型的な自称企業戦士のダメなおっさんですけどね。まぁ二項対立になっちゃってますね。すみません。議論の建て方の順番が今日は特にめちゃくちゃですね。狸さんに甘えているところはあると思います。狸さんの読解力なら問題ないと思うので雑ですが書き続けています。


で、仮にそういう理由で辞める若者がいたら、僕はその若者の感覚は定言的に健全だと言えるということなんです。こういう若者はおっさんに適応する必要はないし、つまりは今日書いてきたことで言えば、おっさん側に適応することがつまりは迎合みたいになってしまって、距離を置いて適応しているつもりでも、そのおっさんや組織に健全な若者が毒されていくということですね。まぁ若者の中には最初から違和感を感じずに適応して今僕が書いてきた極端なおっさん像に近いようなおっさんになっていくんですけどね。これはなんというか負の伝達ですよね。凄まじく悪い負のスパイラルだと思います。


なので会社とかにしても新しい感覚を持った若者達が会社作ってやっていけばいいと思うんですが、この辺はなんか特に日本の場合、若者達がリスクを取り辛いとか、会社を作り辛いみたいな、独特のダイナミズムがあったと思うんですが、詳しくないので書きませんね。ただ理想を言えばそうだよねってことなんですが、それは簡単にできないらしいので既存の古い体質の組織に適応することでしか生きていけないということになるということが、結果的に国力の低下を生むということになってしまいということですね。


繰り返しになっちゃいますが、僕が書いたさっきの「違和感を感じる若者」は健全だから違和感を感じるのであって、むしろそういう人は違和感を感じるような場に適応しなくていいというかしないほうがいいんです。その健全な精神を残していたほうがいいんです。いや、それじゃあどうやってやっていけばいいんだ?ってことになるんですが、鬱になったりするよりかは辞めたほうがよっぽどいいと思うわけです。


今は仕事が無いとかで過剰に適応が求められてますよね。適応=生存になるわけですが、こういう恐怖に駆られた若者達って僕は末期的なものを感じるんですよね。だから「今の時代に仕事があるだけ幸せだな」って思えたりするようになるわけですよ。奴隷の精神ですね。そんな中で違和感を感じて辞められるぐらいの感性と思考力がある若者なら、古いシステムなどにも良いところが無いわけじゃないって分かると思うんですよ。まぁでも今の若者は迎合とか無駄に適応し過ぎなので「古いもの=悪だ!」ぐらいの勢いがあってもいいと思いますけどね。


あ、そろそろこの辺でやめておきますね。よろしかったらまたお返事ください。あと本文中で「おっさん」と書いているようなパーソナリティを持つ人間は若者にも結構いると思います。そういう若者は僕の中ではもうすでに「おっさん」なので若者扱いはしていません。ややこしくてすみません。


・・・で、ここからはもげらさんへの返信ね。

もげら 2011/02/06 02:29 こんにちは。また来ました。


大学の話、すごくよくわかります。これってよく宮台真司さんがおっしゃってる「近代的エートス」の欠如の典型ですよね。自分の職務に誇りを持てない、忠実になれない。こういう自分を律せない人たちが近代的枠組みの中で自由を手にすれば、当然本来の仕事をしなくなります。


政治家が政治をしない、研究者が研究しない、教師が教えない……まぁ例はキリがない。エートスに問題の原因を還元しちゃうとかなり抽象的な議論になってしまうけど。ルソーもこの問題に頭を悩ませてました。自分が提示する未来国家に相応しい人間がいないことを。だからこそフランス革命の立役者でありながらその後の国家について終始悲観的だったのでしょう。


戦後、GHQに与えられたプラットフォームで最適化するだけだったんだと思います。政治家も、知識人も、官僚も何もかも。先ほど政治家がリスクと引き換えに決断する話がありました。けどこのリスクは、政治家が政治をしていればの話です。政治家の仕事は国家を守ること、言いかえれば「法律を守ることに価値がある」と所属している人間が思うような共同体を維持することです。だからこそヴェーバーは政治家が法律を守るべきかという問題を提起したのです。


自己保身が目的の政治家なら、これは当てはまらない。潔癖とかいう話は、国民の民度が低いのを承知した上で印象操作をするために主張するならわかりますが、本気で言ってるならさっさと吊るすべきです。首をね。


また親の話も僕にはよくわかる(笑)しかし、ウチの親はだんだん僕の話に耳を傾けるようになってきました。まぁ、無知なのをいいことに機嫌を取りながら半ば誘導するように話しますけどね。ソフィストという言葉がグサリと突き刺さりますが……正直目も当てられない有様だったので。僕も耳蝉さんのように色々と社会に疑問を持っています。けれど、あまり悲観はしていません。元々そんないい世界じゃないといのもありますけど(笑)

インターネットというツールが出来て、世界はガラッと変わったと思うんです。これからの時代、僕らも「世界」に参加できる。影響力を及ぼせる。今はそういうプラットフォームはないけど、僕らが作ればいいのです。まだ知識が足りなさ過ぎてできませんけどね。来たる日のために理論武装をしておく、僕はそんなつもりで勉強してます。


今、僕は大学生で、正直環境としては色々と酷い状態なのですが、ネットには耳蝉さんみたいな人もいるんだとわかったのでまた勉強を続けるモチベーションができました。また来ますね。


近代的エートスの欠如なんですが、僕はこれは構造的なことも大いに関係していると思います。つまりは狸さんとのやりとりにもあるような話になるんですが、誇りを持てないような職務に就くしかなかったとか、誇りを持とうと思っても組織がデタラメ過ぎて真面目にやるのがバカバカしくなってしまうとか、これは必ずしも主体の振る舞いに全てが還元されるものだとは思ってないんですね。


そもそも社会ってのはそんなもんだから・・・・」的な諦めがまたさらに近代的エートスの欠如を促してしまうということはあると思います。これは人間がダメなのか組織がダメなのか判断し辛いところですが、日本って構造的に問題ありすぎなんですよね。教育然り会社然りというか社会全般がそうなんですけどね。そんな中で近代的エートスを求めようにも、そもそも日本という社会はありがちな言い方になりますが、近代化すらしていないかもしれないわけですよね。ただの村社会がGHQのプラットフォームで最適化されただけかもしれない。なので政治的な市民の感覚とかがさっぱり磨かれてこなかったわけですね。


もちろん人が変わらないとシステムも変わらないし、逆もまた然りで、システムが変わらないと人も変わらないんですが、まずはやれるところからシステムを変えていくしかないと思うんですよね。もう出来上がってしまった欠落人間達はしょうがないと思います。まぁそういう人達にもチャンスはあっていいと思いますけど、近代的エートス欠落人間を大量に作らないためにも、例えばやっぱ教育とかって凄く重要だと思うんですよね。仮に教育が素晴らしくて近代的エートスを持っている人間が出来上がったとしても、欠落人間が大半の社会の中でやっていくのは難しいでしょうね。


まぁ狸さんへの返信にも書きましたが、相当レベルの高いところに行けば別なんでしょうが、レベルが高いところにだけちゃんとした人達がいるってのもアンバランスですよね。まぁレベルが高いところにちゃんとした人間がいるという確信があるわけではないんですが、別にちゃんとした人間が誰でも就職できるようなところで働いていたっていいわけですよね。それにはやはりそういう人がちゃんと機能できるような配備が必要なんですよね。ダメ人間ばかりがいる会社とかでは逆にまともな人間なんて日本の村社会的な感じで潰されちゃうじゃないですか?なんかこうやって書いていると改めて日本は近代社会のスタート地点にすらも立てていないなという気がします。


例えば僕がしつこいぐらい書いていますが、社会に対する疑問とかを持っていたら生存していけない社会って何なの?って気がしますよね。僕ももげらさんも色々と社会に疑問を持っているわけですが、むしろそういう人間こそ社会で活躍できなければいけないと思うんですよね。今の社会っていかに諦められるかが社会でやっていける指標みたいになってる感ありますよね?そんなんじゃダメなわけですよ。いや、こんだけダメなわけですから、プラットフォームにせよ世界に参加する方法にせよ、僕らが作るしかないですよね。勉強をする最高のモチベーションって帰結に社会があることだと思うんですよ。さっき宮台さんの名前が出ていましたが、宮台さんの師匠の小室直樹先生が学問を究めていた最大の動機は国家のためというか社会のためというか政治のためだったわけですよね。そのためにはあらゆる学問を極め尽くすという。凄く希有な人だったと思いますが、小室先生は僕のロールモデルの一人です。


あと勉強量とか知識量って意見を言う上では大事ですが、少なくともウォール伝では知識量や読書量の最低ラインなんてものはありませんから、何か突っ込みたいところや言いたいことがあったらどんどん書いてください。それが結果的にお互いの為になると思うんですよ。建設的なやりとりって大抵勉強になりますからね。なのでそれは僕がお願いしたいです。まぁ無理に書く必要はないんですが、標準が甘かったかなぁー?とか底が浅かったとか思わずに疑問に思った事はどんどん書いてください。あと僕はもげらさんの先日のコメントが恥ずかしいものだとは全然思いません。ただあれは狸さんへのメッセージなので、僕が返信するのは避けますけど、一言だけ言わせてもらえば、横軸とか縦軸は僕の中でも明確な定義は無くて、かなり概念的というかイメージ的なものです。なのでもげらさんの疑問は理解できましたよ。別にもげらさんの勉強不足によるものだったとは全然思いません。


・・・・とここまでがもげらさんへの返信で、また長くなるけど、エントリーの一部として是非残したいので、もげらさんと狸さんのやりとりも貼っておくです。

もげら 2011/02/06 02:29


狸さん


コメントにコメントしてどないするっちゅー。わかってますけどお互い資するところアリかと思って……。


なんとなく把握できてると思うのですが、それでもイマイチ縦軸と横軸が何を意味しているかが理解できてるか心配で……伝統はエートスとかアイデンティティとかかなと思うのですが、横軸は……振れ幅というか、自由というか、可塑性みたいなものなのでしょうか。あと僕には文化や伝統という言葉が国民性、価値観、風習といったもののうちどのような範囲に該当するのかちょっと知りたいのですが……また文化と伝統は同じものということでしょうか?


僕は、近代化や消費文化や官僚文化が取り込まれたのは、単に分業や効率化(官僚制)、あるいは権利の保障や技術革新によるさらなる効率化(近代化)や物質的快楽(消費文化)が人間一般の欲求というか煩悩を満たすから、つまりは公共的だったから必然的に取り込まれたのだと思います。それに伴って取り込まれた様式は文化と呼んでも差し支えないと思いますが、以上のようなものは先進国で全て一度は享受されているし、国民のアイデンティティというか、縦軸を形勢する要素としてあまり納得的ではないような気がするのですが、三島さんはどのように考えていらっしゃるのでしょう?


また、外の文化を取り入れるという点と、戦後徹底的にアメリカ、あるいは白人コンプレックスになり理想をアメリカに見たことは別の話ではないでしょうか。前者であれば元々日本という島国では、現在ではガラパゴス化なんて言いますが、吸収した文化をもとに独自の文化を発展させる傾向はあると思います。けどこれは理想を外に見ていたわけではないし、むしろ逆です。


後者であれば、非常に納得的で、病気と呼んでも差し支えないアメリカ偏重の価値観があると思います。今、TPPで話題になっていますが、あれに調印している全ての国の農作物の流通量の90%以上を占めるのがアメリカだと言われています。つまり、このまま日本がTPPに加盟すれば、事実上日米貿易を無関税で行うことになるのです。関税自主権が無くなったりすれば歴史になるのに、自分から関税を取っ払おうとするなんて、菅さんはもう最高にいっちゃってると思います。少なくとも大手新聞で言論操作が行われている以上、なんかしらの意図が働いていることは確かなので、これは意図的なんでしょうけどね。アメリカは金融と農業で食ってきた国です。日本の素晴らしき消費者が一円でも安いものを食べたいと願えば、日本は食いつぶされます。


ただ、こういった傾向までひとまとめに文化と呼ぶのはちょっと大雑把な気がするんです。


1日本人のお祭り好きな性格、2アメリカ偏重の価値観、3ことなかれ主義、4姥捨て


例えばこういうものを全て文化と呼ぶにしても、1はいいとか悪いとかより、もう好きか嫌いか、つまり僕からしたら純粋に文化的なことで、多様性もあっていいと思うし、尊重したいです2は1ほど本来的ではないし、その時々の価値観、多数意見とでも呼べるものだと思います。全く土着のものではなく、流動的です。これは色々と判断できそうですが、国益を損なうようなものや人権を損なうようなもの以外は認めてもいいと思います。例えば日本は死刑存置国ですが、死刑賛成の%は毎年変動しています。マスゴミの酷い情報操作で近年は8割を突破しました。逆にアメリカに好感を持つ日本人の割合はイラク戦争前が7割、後が4割程度で、後者が世界標準に近いです。


3は1と2のミックスのようなもので、元々日本人の非合理的な、しかし秩序維持の面からは公共的な物事の解決の仕方ですが、近年は利己的な倫理観が蔓延して様々な悪弊が出ています。これはもはや公共的ではないので、駆逐してもいいのですが、元々日本人のもっている良さとコインの裏表なので、僕はできれば矯正するにとどめたいです。4は近代的な人権意識に反していますから、倫理上認められません。即自撤廃すべきです。これは相対的な悪ということになると思います。近代の価値観の正統性が揺らがない限り、こういう倫理観を逸脱する人間は近代社会に生きることができません。仕方が無いので拘禁して、矯正するなり、出来る限り人格を尊重して塀の中で過ごしてもらうなど選択肢はありますが、基本的に排除されてしいます。


こういう区分をしてみると、僕は国の縦軸にふさわしいものが1以外に見つかりません。そして1はそれこそ狸さんのおっしゃるようにすでに与えられた伝統で、自分ではどうしようもない不自由なものです。だからこういう文化を否定するとか、そういう言論をあまり聞きませんし、そういうどうしようもないものを耳蝉さんはどうしたいのか、という質問は、何か矛盾を感じてしまうのですが……。


それと最後に言論の自由と暴力のセットが、どういう関係のセットなのかよくわかりませんでした、できれば二、三助言を……


なんか色々とすいません。僕は普段こういうことを話せる方がいないので少し舞い上がってしましました。久しぶりに実りある話ができるような気がして……質問が多いですが、どうかお気を悪くなさらないでください。。。


失礼しました。


で、狸さんのもげらさんに対する返信ね。

もげらさんへ


三島の文化論というのは「菊から刀まで」というように、全てです。それは天皇の和歌から始まり、市民の挨拶までを含みます。「全体性」なんて言葉で包括してますね。文化といっても、静態と動態があって、静態が五重の塔とか法隆寺だとすると、動態はまさに今のわたし達の所作振る舞い全部。両者は密接に絡まっているのですが、ともすると文化とは「静態」のみで考えられていると思いますが、まぁ「動態」も含めて考えましょうと。


だから文化も伝統も根本では同じです。「今」が「今」と言った瞬間に「過去」になってしまうようなもんですかね。で、まぁ僕は「縦軸」とか「横軸」といっても、そこに明確な定義はないんですね。なんというか、少し空白にして投げかけるというんですかね。それで、相手がその空白にどのようなもんを入れるのかなぁっていう。


外の文化ということなんですが、日本語という言語を中国から取り入れた時点で、僕は日本は徹底的に「外」を置かざるえない国だと思います。基本的に中国の文化(仏教、唐絵、漢詩)を中心に国を作ってきて、途中で西欧のキリスト教、近代概念なんかを取りいれ、戦後は、アメリカっていう。まぁ、理想をみるっていうと語弊があるかもしれませんが、ここで言いたかったのは、形式的にみて外を取り入れて回していくよね、ってくらいです。


で、文化といっても、それは全てなんで、そこにもげらさんが、「TPPの問題」を取り上げたら、そこで僕は「そう考えるのかぁ」と思う感じです。残念ながら、僕はまだ社会にも出てない学部の人間で、政治の問題なんかに答える語彙が乏しく、今回の返信にしても、そこから学ぶという段階です。力不足ですいません。


話を戻すと、だから、「文化」といっても、一つのざっくりした議論する上での土台くらいに考えてくれると助かります。縦軸に関しても、同じで、「文化」って言葉をもとにした議論に奥行きというか、深さをつくるために、空間的なベクトルの方向を導入したくらいな感じです。耳蝉さんに縦軸をどう考えるかというのは、耳蝉さんが「返答」をしてくれたので、そちらを見てもらえればいいと思います。


最期に、言論の自由と暴力についてですが、自分が主張することと、相手が主張することが対立した場合、最終的には暴力ですよねってことです。それが独裁の場合、粛清で、民主主義の場合、暗殺、っていうのが三島の図式です。


拙いことばかりで返答もうまくできなくて申し訳ないです。


で、もげらさんの狸さんに対する返信ね。

もげら 2011/02/07 01:30 こんにちは、お二方のお話は大変参考になります。


実は僕も学部生です。色々と触発されたのですが、自分が語るべき言葉が見当たりません。あまりにも底が浅かったようです。三島由紀夫さんの話で疑問に思っていた所は解決したように思います、狸さん、ありがとうございました。私も彼の著作を読んでみます。また耳蝉さんの記事も、非常に参考になります。僕が学問をする目標というのは、やはりまだまだ照準が甘いのかな、と考え直しました。今見てみると先日のコメントは突っ込みどころ満載だなぁ、と少し恥ずかしくなる一方で、こんなやりとりが出来ることに狸さんと同じく、感慨を覚えています。


出鱈目な文章で読みづらかったと思いますが、リアクションをしていただいて本当に感謝しています。次は、もう少し過去の記事や本を読んで勉強してから来ます。それではまた。


とまぁそんな感じだけど、こんなに建設的なやりとりがウォール伝上で展開されていて、なんつーかまぁ本当に感動するよねっていう。だからまぁ全部エントリーとして残したいんだよね。コメントって流れちゃう感じがするからね。それにしてもまぁ今日の狸さんへの返信はもうちょっと構成に気をつかえよ!って感じだよねっつーか一旦例のA→A'→Bの話で、それを担うエージェントがどうとかって俺が色々書いてて、んでまぁちょっとなんか煮詰まったっつーか「うーん・・・」とか思ってとりあえずシャワー浴びたのよね。で、また色々考えてから書いたのが続きなんで、長くなってるのと、あと連続性が無いっつーか、シャワー前とシャワー後に別れちゃってる感じなんだよね。まぁでも別に一貫性が無いわけではないと思うからまぁいいとは思うんだけど、もうちょっとまとめないとねぇーってのはありましたね。


とまぁそんな感じです。あ、んで狸さんのこれとかさすがだな!って思ったね。


「カントの哲学を採択すれば、「自分をひとまず置く」という思考スキームを形成し、社会での「同意」の次元を一歩繰り上げることができる。それは現実に大きく影響を与えるじゃないかと言いたい。し、むしろそうゆう人も「現実はすでに決まっていて、自分でどうこうするものじゃなく、みんなで傷を舐めあいながらなんとかその日を過ごしましょう」というモデルを使って採択しているでしょ、と言いたいですね」


これってつまりはロールズじゃん?ロールズ的な議論だよね。そういうパラダイムに自力で到達してるっつーのが凄いよね。「自分をひとまず置く」というのは無知のヴェールだよね。まぁ完全に同じではないんだけど、似ているよね。「現実はすでに決まっていて、自分でどうこうするものじゃなく、みんなで傷を舐めあいながらなんとかその日を過ごしましょう」というモデルを使って採択しているでしょ、と言いたいですね」ってのがもう俺の言いたいことの最高の要約すぎて感服したよね。なんで俺はこうやってすっきり書けないんだろうね?まぁこんな感じでスマートな感じで書ける感じはもう諦めてるからいいんだけど。


まぁようは俺が「諦め」と書いているのがこれなのよ。「なんとかその日を過ごしましょう」というモデルを採択してしまっているってことなわけ。それがもうようはモデルなわけよ。ニヒリズムであったりシニシズムであったり諦めだったりするという、ここのその諦めが現実に大きく影響を与えるわけだ。それじゃあダメでしょ?だからもっと良いモデルを採択しようよ!ってことを俺は言いたいわけね。で、それがまぁある種の古典的な善や正義に基づくモデルってことなのね。言わばニヒリズムの次にあるモデルって意味でね。