ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

能動性が介在しない自然な行動こそ最強なわけよ。

ホワイトボードなんだけど全然スペースが足りないんで900×600のをさらに二つ買ったんだよね。ベッドの足下の方の壁は画鋲とか刺さる材質だからそこに置けたんだけど、まぁ本来ね、置こうと思ってた横ってのが画鋲とか刺さらない材質でさ、だからまぁ天上とかにフックとかつけて吊るすしかないんだけど、とりあえずまぁ今の所はベッドにホワイボードを立てつつ壁に寄りかかってる感じなんでまぁそんなに重さはかかってないんだよね。だからまぁガムテープで止めてるだけなんだけど、んでもまぁ地震とかあるから危ないよねっつーかこんな時にリスキーなものを壁に置くなよ!って話なんだが、まぁ固定すれば大丈夫でしょう。


分かりづらいかもしれないから写真撮るわ。見たくないかもしれないけどストリートビューならぬ耳蝉ビュー。



追記。ズドンと落ちてきたんで良い子は真似しないように!っつーかやるならちゃんと固定してねってことでガムテープは無しで。今は直にベッドに置いてるです。あ、足下のほうは当然固定してるんで余裕でオッケーね。んでも右二つは直置きのほうが書きやすいのでこれでいいかもとか思いつつも寝るスペースが狭くなるのと布団にマジックがうつったりしそうなんでまだ固定場所は分からんけど、ただこうやって例えばベッドの上でラップトップでタイピングしてるみたいな時でもすぐにホワイトボードに手が届くとかって結構な近さだよなぁーとか思ったりして。この距離感が絶妙だ。


あと他のベッド周り。




全てこのベッドで事足りる感が凄いと思うんだよね。ペットボトルには水が入ってるんだけど、これはいちいち台所に行かなくても水が飲めるように常備してるんだけど夏は放置しておくと腐ったりするから冬オンリー感はあるけど、前に書いたクローゼットとか収納の上がちょうど物置になるっていうのがよく分かるでしょ?枕元もクローゼットっつーか洋服収納で、奥のエアコンが見えるやつは俺がいない間にデフォで設置されてしまったクローゼットね。その上がまぁ本置き場というか色んなもんおけるようになってるからまぁこのベッドの世界が最強!って感じなんだよね。「ひきこ森の生活・ウォール伝」って感じで。ソローも「グレートだね!」って言ってくれるに違いないよ。


ようはここで大半の時間を過ごして無駄な事を一切やらないということからくるまぁ自由時間の膨大さといったら半端じゃないんだよ。自由時間が限られている人にとっては持て余してしまうぐらいの余暇だよね。それを最大限に使うということの最強さだよね。俺が言いたいのは。これも一つのネオニート属性なんじゃないかと。ネオニートはphaさんみたいにニート的ながらも実は収入を不労所得みたいなので稼いでるってことなんだけど、まぁあとは俺みたいなニート的ながらも実は一切無駄なことしてないでずーっと何かやってるっていうさ、これってすげー人間的な生き方だと思うんだよね。社会に出るとなぜか人間性から疎外されてしまうようなのってまぁ近代的な社会の必然だと思うけど、こういう生活が許される場合、それをマキシマイズするというかさ、それを謳歌しつつ最大限に活用するってのも実は社会的なんじゃないか?って思うんだよね。それがいつも書くようなまぁ結局は社会のためにやってる学問ってことなんだけどね。


もちろん自分の為にやるし楽しいからやるんだけどでも最終的には社会的な何かに繋がるというかさ、帰結とまでは行かないけどテロスの一つではあるよね。なのでだからまぁモチベーション的に余暇を利用した趣味にはならなくてさ、それこそまぁ変な言い方になるけどプロフェッショナルに仕事としてやるっつーのかな?悪い意味での仕事ってことじゃなくてね、遊びじゃないっていう意味でのプロ精神ね。別にそれはプロフェッショナルにならなくたってプロ精神って持てるじゃん?それこそプロと呼ばれてるような人よりもプロ意識を持っているアマチュアっていっぱいいると思うわけで。


そこがまぁ在野の強さというか、俺が在野に魅力を感じるのってそこだし、まぁ特に哲学なんて在野じゃないと出来ないって思うのもここなんだよね。ソローも書いていたように余暇を利用して何かに没頭するというよりかは真剣に生きるってことだよね。常にマジという態度が毎日続くんだよね。でもそれは気張ってないナチュラルな態度なので負荷がかからずに自然に続けることができるっていうさ、それが最近書いている能動とか受動とかっていう領域じゃないようなね、doing的な動詞ではなくbeing的な存在としての行動になるっていうさ、それこそ行動を伴わない行動って本能的なものに多いと思うわけ。


とりあえず犬が「お!あいつ可愛い!」って思ったら即セックスみたいなさ、すぐ腰を振るみたいなああいう感じってまぁ人間にもあるじゃん?理性が無いようなやつはそれでセックスばっかしてるよね。でもそれって理性っつーリミットが無いから本能が剥き出しになってさ、んでその本能というbeing自体が行動というものをもたらすことになるので、そこに能動的なdoingとか例えば宿題をアサインされましたみたいなさ、I was told that的な能動性もないじゃん?行動を指示する人もいなければ「やろう!」という意志すらもない自然な行動だよね。これが持続力のコアだって最近書いてるけど所謂、禅で言う所の「三昧」という概念もこれに近いと思うんだよね。浸るみたいなところに能動性とか受動性ってないじゃん?お湯に浸かってリラックスするってさ、お風呂をやるってこともないし、まぁお風呂に入ってるという受動体はあるし、入る前はお風呂に入るという行動を伴うけど、温泉でもなんでも浸っているときは何も無いじゃん?それこそ無に近いようなさ、だからこそリラックスできるわけでしょ?


それが例えばさ、好きこそ物の上手なれなんだけどね、凄い人っつーか何かを極めてる人ってそんなお風呂感覚で何かをやってると思うんだよね。浜ちゃんの息子のベースってすげー上手いけど本当に三昧なんだなっていうのを見てて感じるよね。もちろんそれだけではない音楽的な才能もあるんだけど、んでもどちらかが欠けていても極められない感じはするよね。いやさ、寝てる場所がホワイトボードだらけってまぁその風呂に浸かる感覚と似てるなって思ったわけね。数式に浸かるみたいなさ、で、意志ってのが数式に向かっているんで五感とかが邪魔にならないんだよね。


それこそ風呂に入って「はぁー・・・」って何も考えてないみたいなさ、まぁイク前みたいな感じだよね。セックスも本能的な行為なんでfuckingとかっていう行動性が無いと思うんだよね。いや、無くはないけどでもまぁなんつーか前にも書いたけど自分がセックスになるみたいなさ、ファックになる感じね。特に洋物のハードコアポルのとかそんなのばっかだよね。あれはもうfuckになってないとあんなことできないだろっていうさ、愛し合うというよりかはもう本当にファックなんだよね。


音楽とか文学っつーか読書とかも似てると思うんだよね。凄く。三昧になっているときってのは本当にそういうことだと思うわけよ。いやね、だから努力はクソだなっていうか俺は好きじゃないなって思うわけね。ペーパーチェイスって映画最近見たけどさ、ホントにあれってアメリカの大学の特にロースクールみたいな大変な感じがよく描かれているなって思うんだけどさ、凄まじい努力がいるじゃん?シュトレーバー的な努力っつーのかな?俺はああいうの本当に嫌いなんだよね。


ああいうのってlawyerになるために他を寄せ付けないぐらいの圧倒的な法学の知識量を持つという意味でのなんつーか社会的なrewardが目的の努力じゃん?ハーバードでの成績が将来の給料に直結するみたいなさ、すんげーくだらねぇー世界だなって思うんだけどね、まぁそういう意味であの映画の終わり方は好きなんだけどさ、まぁ学問と資格的なものを一緒にするのはアレだけどね、でもまぁなんつーか俺は科挙的なものにはいつも胸くその悪さを感じるんだよね。大変だけど血反吐を吐くような努力をすれば社会的に報われるみたいな、そういうシステムというか構造というか努力というかね、そういうのが凄くイヤなのね。で、そういうのってニヒリズムに弱いしさ、すげー脆いと思うわけ。あるとき「俺は何をやってるんだろう?」とかって思っちゃうような実存的なある種のアイデンティティ・クライシスみたいなのに陥りやすいというか凄まじくそういうものに対して脆弱だと思うんだよね。


エリートコースを歩んできた連中が弱いのって大抵まぁこういうことだと思うわけ。だからまぁ結局、秀才はいつの時代も天才には敵わないんだよね。頭が良いだけでは全然ダメっつーかまぁ社会的に務まることはいっぱいあると思うし有利だとは思うけど、でもやっぱ最強なのは何かを死ぬほど好きになれる人だよね。で、それが社会的なrewardにも繋がるっていう風になっている人は本当に最強だと思うね。愛する力ってのは何にも勝ると思うわけ。恋愛とかの場合、大抵相手に対する幻滅とか異性に対する幻滅があるけど学問とか音楽とか芸術って幻滅させられることがないからね。


むしろ幻滅されることがあるとすれば自分の才能とかさ、自分の知性だよね。偉人達にどう足掻いても敵わない!みたいなさ、まぁそれで苦しむ必要はなくてまぁだから尊敬すればいいんだけどさ、んでも偉大な数学者にせよ文学者にせよ哲学者にせよ芸術家にせよまぁ詳しい伝記とかバイオグラフィー的なものはともかくとしても彼らから出力された作品とか思想とか数学みたいなことには幻滅しないじゃん?それは知れば知るほど凄いものだし味わい深いものだっていうのが愛すれば愛するほどのめり込めばのめり込むほど分かるようになる。


まぁそれはプラトン的なイデアであったりエロスであったりすると思うんだけど、んでも結局はやっぱニーチェ的なさ、芸術とかをやるということのまぁディオニソス的陶酔というか、この世を仮象とするっていうのはまぁニーチェの場合、パースペクティブ的なものだけど、仏教の場合は仮観・空観・中観ってあるけど、まぁ俺は根本的に全部一緒っつーかつまりは概念的には全部同時にやるというか認識するって感じだと思うんだけど、そういう世界観の中で自分の存在を肯定するというか感じるというかニヒリスティックに見える世界観の中で生成的でいるということがつまりは力への意志ってことだし、つまりは生きるということの肯定っていうようは生の肯定が生まれるわけだよね。だから俺が最初に書いたネオニート的な持て余した時間を使いまくって何かをやりまくるってまぁ常にディオニソス的陶酔をしながら生を満喫してるっていうさ、傍目から見るとただの無職で実家とかにもい辛い感じになるけど、でも実は恐らくその辺のどんな人よりも恐らく生をenjoyしてると思うんだよね。


で、そのenjoy感ってなんつーか英語のenってエンコードだとかエンカウンターだとかエンクロージャーとかさ、何かをそれ自体にしてしまうとか内在化させるみたいなニュアンスがあるじゃん?で、英語のenjoyってまさしく俺が今回言いたい三昧っつーか満喫っていうか永遠に持続するjoyっていうかさ、それは自分がjoyになるっつーかjoyの中に入っていくっつーかさ、つまりはまぁその陶酔に自分の存在が内在化されるということだよね。で、そこにはしつこいようだけどdoing的な動詞みたいな「やる」という能動性すら介在しないような自然状態であるのでまぁ最強じゃね?って言えるってことなんだけどね。もちろんそれはまぁその没頭するものにもよるけどさ、それが学問であったり音楽であったり芸術であったりすれば別に食えてなくたってなんつーかその人はそれをやればいいと思うんだよね。


まぁ世間の目とか家族とか親戚の目は気になるかもしれないけど、でもそれは逆になんつーかもう死ぬほどやってますみたいな自負というと変だけどさ、逆に家族から冷たい目で見られて例えば説得されちゃうみたいなさ、んでも常にその中にいる自分としてはそんな説得を聞く時間すらも惜しいってことでそれに没頭したいみたいなね、そんぐらいになればいいと思うね。逆に恥ずかしいとかって思ってるうちは多分やりきれてないんだと思うんだよね。社会的地位とか食えてる食えてないではなくてやりきれてないからなんか後ろめたい気持ちがあるわけだ。んでも別に食えてなくたって他の人が電車で移動してたり仕事してたり家事をやったり付き合いで飲みに行ったりしている時間も全て没頭していることに費やしてるっていうさ、それがあれば逆になんつーか労働という言い方は変だけど、それこそ物理学で言うような仕事量としては誰よりも勝るでしょ。それこそ一流のビジネスマンと肩を並べられるぐらいの仕事量になるんじゃないの?


それが実益に繋がっているか繋がっていないかってのはまぁ問題になるけど、んでも俺はやっぱ持論としては何かを極めちゃえば結局金なんて後からいくらでもついてくると思うんだよね。だから逆に没頭する前とか好きな事を探すときに打算的な「食えるか食えないか?」みたいなことが介在するということが凄く無駄というか、そういうのを介在させてしまうと本質を見失う気がするんだよね。まぁそういうのが永遠に見つからない人もいるかもしれないけど、見つかった人は才能がどうであれとりあえず幸せだと思うね。内面的な富で言えばもうすでに億万長者の道を歩んでると言えるよね。


言わばやたら上辺だけのリアリズムをベースに考えようとするとただにシニックになっちゃうっていうかさ、そういう人いっぱいいるでしょ?でもリアルなロマンティストってのはなんつーか現実的なものからdetachedされているっていうかさ、それはあえて触らないっていう感じで引き離すという感じで逃げるということではないんだよね。で、さっき書いたような仮象に対する生の肯定という意味での生成的な存在を目指すべく力への意志を持つみたいなね、それが結果的に仮象へのアプローチになるんだよね。自分なりのリアリズムをただそこにあるリアリズムから乖離させて、自分なりに生成して何かを生み出してその仮象を飲み込むみたいなさ、make my dayってことだよね。


政治的なものに常にリアリズムが必要とされながらもイデア的な理想主義が無いとダメだっていつも俺が書くのはそういうことなんだよね。リアリズムをベースに全てを形成するのではなくてリアリズムの中でリアリズムに対応する形の別の望ましいリアリズムを生成するっていうのかな?でもそれは形式化できたり明文化できるようなものではなくてあくまで抽象的な形而上学になるんだけど、結局はでも真実を知ろうとすることとかさ、知れないかもしれないけど知ろうとする態度とかね、仮象の世界だとそういうのは求められないでしょ?むしろそういうやつウザイみたいな排除は絶対あるよね。それは別に日本に限らずだけど。んでもそこをそうじゃないんだっていうね、生成することを求めたり生の肯定ができるような環境づくりを目指したりするのってやっぱただのリアリズムからは生まれないんだよね。


そこはやっぱり望ましいと思えるイデア的なものがあるじゃん?まぁそれは絶対的なものではなくてまぁ俺が言いたいのは理想的なことって意味ね。かといっても安易なプラトニズムに陥ることなく、あくまでexistentialな世界観の中で絶望しながら生きるっていうさ、でも意志は絶望に向けられているのではなく、そういう世界の中で生成していくことっていうようなポジティブなものに向けられているってことなんだよね。一般的に苦労を知ってる人が強いっつーかなんつーかまぁ良いって言われるのってやっぱここだと思うわけよ。さっき書いたexistentialな世界観の中で絶望するということを味わっているし分かっているし認識から常にそれが外れないじゃない?でもそれをそのまま放置しておくのではなく、かといっても強引に変えるということでもなく、生成的な生のアプローチを仮象への意志としてやっていくみたいなさ、それ自体が生きるっていうことになるわけなんだよね。


形而上学がメタなフィジックスなのもそういうことなのよ。常にメタ的に存在を問うんだよね。あり方とかでもなんでも。哲学の重要性っつーか必要性ってやっぱこれだと思うんだよね。哲学研究の重要性は一般的に「哲学ってやる意味あるの?」って言われるようなクエスチョンマークに弱いけど、メタフィジックスとしての哲学とか哲学的態度とかエロスというのは常に根幹を成すものだと思うわけね。なのでそれは学問的な哲学という意味ではなくて、常に問うことの必要性というかさ、常に構成して形成して生成していくみたいな、そもそも自然学にしてもそこには必ず人間の認識が介在するところだからやっぱり認識論にせよ存在論にせよメタフィジックスって必要なんだよね。科学的に見れば必要ないかもしれないけど凄い人ってのは元々そういう視点を持ってると思うんだよね。だから自然に哲学とかも当たり前に読んでたりするしさ、リーマンとかそんな感じだったしね。


で、まぁその行動という能動性を伴わない自然な行為としての行動なんだけど、あと言いたいこととしてはそれは常に帰納的に行動という風に見えるというところがポイントというか特徴かな。本人は没頭するだとか何かを生み出しているとか行っているという感覚はないんだけど、でも客観的に見るとそれが生成であったり努力であったり行動という形に見えたりするんだけど、本人としてはそんな大それたことをしてないっていうさ、でも結果的に何かがそこから生まれたとかね、何かを成し遂げたとか知識が蓄積されたとかなんでもいいんだけど、そういうある地点のある種の結果というか所産みたいなのを見た時にそれは能動的な行動を伴わないと生まれないものなので、それを生み出した人が行動したことによって生み出されたものであるみたいな感じで定義されるんだけど本人としては別にそんなつもりはないっつーか結果的にそうなっただけっていうそんぐらいのものっていうさ、そのナチュラルさだよね。


努力なんてエネルギー切れになるのは目に見えてることだし、俺みたいに努力できない人間ってのがいるわけで、それを根本的に強いるとか人生の必要条件としてアプリオリに設定してしまうとか、それはかなりキツいんだよね。だから俺はいつもシュトレーバー的な努力を批判していてさ、まぁやるのは勝手だけどそれを美徳だとか勘違いしないでほしいし他人に強いてほしくないしそれをやるのが偉いなんて思わないでほしいってことなんだよね。ただそれはひたすら迷惑なことだからやめてくれって思うわけね。努力なんてしなくたって好きな事ができて極めることができる人だっているわけだし、そもそも別に何かに没頭しなくたって平和ならいいって人もいるだろうしさ、なんつーか努力とか頑張れ!みたいなものって位置づけとして必要悪ぐらいでいいと思うんだよね。無いとダメだけどそんなに別に美徳として肯定できるものでもないなっていうさ、そもそも強いるもんじゃないよねっていう。


ペーパーチェイス的な世界観に腹の底から嫌悪感を感じるのもここだよね。ガリ勉的なシュトレーバーのダメさ加減っつーかさ、社会的なrewardが前提になっている上での競争に勝つ為の努力みたいなね、そういう努力ね。それはまぁ俺は大嫌いなんですね。本当に。ペーパーチェイスはちなみに映画的にはそれを皮肉るというわけではないけどまぁそのキツさを描いてるっていうさ、まぁ素材なんだよね。決してああいうものを肯定したいわけじゃないけど否定もしてないみたいなもんなんだけどね、でも結局は生きるということから努力に塗れるということで離れてしまうっていうさ、そういう疎外が描かれてる気がするよね。システム的にシュトレーバー的な努力を強いることで生まれる人間疎外ね。


やっぱり俺はどんなことでも結局は自分が人間である限り人間っつー存在に規定されちゃうと思うのねってまぁ当たり前なんだけどさ、いや、だからこそ無理が無いっていうかさ、そもそも人間性が否定されるような人間の機械化みたいなのを推奨するっつーかまぁ受け入れるっていうかね、そういうのってどうなの?って思うわけだよね。


だからまぁなんつーかシュトレーバー的な努力ってまぁ勝手にやってくださいってなもんだよね。それをやってるからって偉いだとか褒められるようなことだとかさ、そんな風に思うのなんてそれこそ本当に奴隷の虚偽意識みたいなもんだからさ、そんな上辺だけの努力よりももっと何か自分を発揮できるものを開発するなり耕すなり極めるなりしたほうがいいよねってことだよね。極めてる人なんてみんなそうだって。辛そうに見える筋トレだってなんだって好きだからやってるわけよ。それがやりたいからやってるわけ。


それをやるために極める為に身体作りが必要だからっつーんでやってるわけでさ、苦痛を感じたり血の滲むような努力的なものを達成するためにやってるわけじゃないってことね。まぁそういう人もいるかもしれないけどやっぱそれは限界があると思うね。俺が散々書いてる自然にやれる人にはやっぱ敵わないよ。だからこそ自然にやれることを見つけるって大事なんだよね。それは所与のものから選択するっていうよりかはまぁ色々やってみて見つかるってもんだよね。


だからそういう意味で完全に引き蘢ってればいいってわけではないってのはまぁちゃんと言っておきたいかな。経験とか交流ってのはやっぱ大事よ。俺の数学とかっつーかまぁ理系っていうとアレだけど完全にまぁ偶然だけどんでもまぁこれって籠ってたら出会えなかったわけだからね。かといっても探していて見つかったというよりかは自然に自分がそれを見つけて入っていったって感じだよね。それがまぁようは見つかったってことなんだってまぁ後になって分かるっていうかなんていうか。これもまぁ帰納的だよね。ようはrecursiveってことね。


まぁそんな感じですね。あとマッシュアップラッシュは結構落ち着いたみたいで。


PS


計算なんだけどさ、いやね、やっぱりやると違うんだなって実感した。定理があって大概のもんは定数かnを代入するわけだからlearn by exampleってことで2とか3とかを代入してそれがワークするか?っていうのを試してみてワークしたときの頭に入ってくる感っていうか「おっ!」って感じが尋常じゃないなとホワイトボードを買ってから思ったね。計算を馬鹿にしていたけど、なんつーかまず数式の理解にはやっぱ色んなところで書かれているように実際に計算したほうが考えているよりむしろ直感的に理解できることが多いような気がするね。nのところに2を代入するだけで具体性が全然違うんだよね。逆を言えばnの抽象性が高過ぎるということだ。だから卑近な数字を代入して高度な数式を理解するのが結果的に手っ取り早い気がする。で、証明というかプロセスはそれこそ馬鹿みたいに省略せずに全部書く。数学ってのは自分の地頭を信じないということで伸びるのかな?って凄く思ったね。それこそアホみたいに厳密にやっていくほうがいいような気がしてきた。