観念時間。

最近はさっつーか前は「わかる」ってことが何なのか分からなくなったって書いてさ、んでまぁちょっと分かったような気がするっつって数学っぽく定義して納得したと思うんだけどっつーのがまぁ思い出してみるとあれだよね、なんつーか構造主義的な感じっつーの?それ自体の概念が形成される他のもう理解された概念によってその理解される概念が理解される感じね。


だから周りに所与の概念が無いものだと完全に新しいものってことになって定義不可能になって結果的に理解できなくなるっていうさ、ベストセラーの類とかに完全に新しいものが無いのってのはそういうことだよねってまぁマイケル・ハートとかもそんなことを言ってた気がするわな。あ、ようは帝国が売れたのはマルクスだのスピノザだのアメリカだのっていう分かりやすい所与の概念がある中で本の内容が理解されるっていうさ、そういう意味ではまぁありがちな左翼の本ってことになるんだよね。分かりづら過ぎるとは思うけどってまぁ読んでないし読む予定もないんだけどね。マルチチュードは読んだけどね。


で、まぁいいや。理解については前に書いたからね。いや、それでもまぁ完全に分かったわけではないんだよね。言わばこの俺の定義の仕方って公理主義的なんだよね。数字なり足すって作業が具体的に何で与えられるか?っていうとまぁ自明なことによってそれが名指しされるっていうか名前を付けられて記号化されるわけでしょ?まぁでもかといっても記号的な理解とかね、公理的な理解が全てではないじゃん?なんつーか数学なんてのは最たるもんでさ、まぁ政治学でも哲学でもいいんだけどね、いや、哲学は逆に哲学っつーコンテキストで定義が与えられる概念が多いんだよね。


大抵の哲学はプラトンの脚注だってホワイトヘッドが言ったのもそういうことだわな。ある程度の哲学みたいなパラダイムがあってそっから派生するものがまぁ色んな哲学っていうさ、でもそれって考えられたり敷衍されたりね、まぁ思考のパラダイムっつーかなんつーかさ、それがあるから理解できるんだよね。だからまぁ当時理解されなかった人とかも多いとは思うんだけどねってまぁ大抵がそんな感じだと思うけど。


今の人が理解できるのってさ、ようは圧倒的に情報量とかが多いからじゃん?それこそ100年ちょっと前なんて微積分なんてプロの領域だったわけで。今で言うゼータ函数とかっていうああいうレベルかな?じゃあ100年後に高校生がゼータを簡単に理解できるようになってるか?っつーとまぁそれは数学の進化次第だけどね。あ、んで俺は何を書こうとしてたんだっけ?あ、理解についてか。あ、んでまぁ繋がるからいいかな。いや、最近もっと分からねぇーぞ?ある意味ってのが知識なんだよね。何を持って知識とするのか?っていうさ、なんかね、いや、端的に言えばさ、自分の中で学問の権威性みたいなのがすげー崩れたんだよね。ここ数年ぐらいで。


やっぱ哲学にハマってた頃は哲学のテキスト自体がやっぱすげーっつーかさ、哲学っつー俺が勝手にイメージしてる哲学っつーイメージで哲学を読んでたしハマってた気がするけど、本当に読み始めるっつーか理解したりね、馴染んでくるとその特別さとかって無くなるじゃん?自分が哲学を読んでいるなんていう作為性っていうかさ、高尚なもんだとかなんだとかっていう世間的なイメージとかって無くなるんだよね。完全にそれ自体に接するようになるからさ、そうなるとどんどんそれがただのテキストに見えてくるんだよね。いや、いい意味でね。


ようは哲学って呼ばれてるのって歴史的に権威づけられたものなんであってさ、んでもその権威性みたいなのを無くせば何もかもがただのテキストじゃん?まぁようは哲学っつーブランドだわな。カントブランドとかヘーゲルブランドだとか。でも読んでれば読んでるほどなんであえてこんな枠組みが決まったような哲学っつー学問の中だけのを読んでなきゃいけないの?って気分になるんだよね。で、今の俺にとっては哲学ってもんはもう無いんだよね。


まぁそれが哲学っつーよりかはまぁ読むに値するテキストか?とかさ、面白いって感じるかどうかとかさ、そういう意味で権威づけとかネームバリューとかあるわけじゃないけどブログとかだって哲学書以上に哲学的だったりすることもありえるじゃん?そんなに多くはないだろうけどさ、いや、だからね、なんつーかさ、例えば物理学者が書いた哲学っぽい随筆とかさ、断想的なやつとかさ、むしろそれって哲学とはされてないじゃん?でも考えていたことって意味だとまぁ思索ではあるよね。思想じゃないかもしれないけど。いや、だからまぁすげー恣意的ってことだよね。哲学ってのがまぁーすげー曖昧っつーか哲学するならそんなの取り払ったほうがいいってことだよね。なんでそもそも哲学的議論とかをさ、哲学とされるもののコンテキストの中だけで語らなきゃいけないの?ってことじゃん?


まぁそりゃー前に書いた気がするけどね。ソースは?っつってニーチェが言っていたって言えば何でもオッケーなのか?っていうさ、自分の意見じゃいけないわけ?っていうさ、ニーチェによれば・・・ってつけば全部オッケーかよ!みたいなバカバカしさだよね。そういう意味で哲学研究的なものに本当に興味を失ったんだよね。いや、存在自体はいいんだけど大抵がナンセンスに思えるんだよね。思索するために研究するならいいけど研究が目的って哲学って意味なくね?っていうさ、そういう意味で「哲学なんて意味無い」って言われるのは少なくとも研究においてはそうかもなーって思うよね。


哲学することとか考えることは言うまでもなく俺はいい事だと思うんだけどさ、まぁ何を持って良いとするか?だけどさ、いや、前に書いたよね。それも。何で学ぶってことが何の検証も無しに良いとされるのか?っていうさ、ある意味でのイデオロギーだよね。でもそれをさ、学ばなきゃ!みたいなイデオロギー的なものに身を任せるのではなくて、一回それが相対化されてさ、個々なりの学ぶことの大切さの定義ってのが出来れば強いよねっていうかそれだよね。そういう個人個人の主観的な真実性だよね。それは個人に立脚しているが故に人によって違いはあるだろうけど、でも恐らく大抵においては根底において繋がるところがあるっていうかさ、例えば何のための政治か?っつったら色々あるけど基本的に人々のためってのはまぁ大抵そうだよねってのと同じ事で。


で、まぁその知識についての話に戻るけどさ、いやね、そう思うと俺ってやっぱ残ってるんだよねぇ。英語を習得するためにとりあえず英文を読みまくるっていう中で編み出した日常読書術っていうかさ、ライフハック的な読書なんだけどさ、今はまぁ別にあえて英文を読む必要はないっていうか、アメリカでやっていくって前提が崩れたからあんま英語に必然性が無くなったよね。それでもまぁ値段とかのアレで洋書を読むことが多いけどね。そういうイニシアチブが無くなった今さ、何で文章を読むのか?っていうとまぁもうないんだよね。理由が。


で、まぁ知識のためとかさ、読書はかかさない的な律し方もさ、なんだか最近はよく分からなくなってきたよね。何のための知識なのか?っていうさ、ただひたすら字面を追うだけでさ、それこそ読書そのものが目的になったら終わりだと思うんだよね。まぁ趣味ならいいけどさ、なんかやっぱ次があるわけじゃん?そのための読書でさ、まぁ単純にやっぱ本を読んでるときって楽しいっつーのもあるけどねっつーか最近ちょっとリビング生活でさ、あんま読書に集中できなくてゲームとかやってるけどさ、でもやっぱすぐつまらなくなるよね。そう思うとやっぱ哲学にせよ数学にせよ飽きない感は凄いよね。


それはゲームと比べてゲームも面白いけど飽きるのが早いのに比べると数学とか哲学は飽きないよね。いや、まぁずーっと読んでれば飽きるけど終わりがないし、自分が変わるとサブジェクトに対する考え方とかも変わるからようは読み方とかも変わるじゃん?その時の主観の数だけ読書とか解釈のアプローチがあるっていう実質無限っぽい感じのバリエーションだよね。まぁはっきりいって読書ぐらいしかやることがないっつーのもやっぱこれが一番面白いからなんだろうな。もう大抵のものがつまらんからね。俺は。だから頭が完全にバカになったりするのが本当に怖いよね。それこそ知的なものに脳が反応しなくなるとかさ、難し過ぎて理解不可能になるとかさ、だからまぁ労働だけの生活って嫌なんだよね。絶対脳が猿に退化すると思うんだよね。全然頭使わないからね。


ようはアプローチの仕方なんだよね。見方を変えれば既存のものも面白くなるかもしれないじゃん?パフュームのマッシュアップなんか最たるもんだよね。ああいうアプローチをすればそれこそ音をめちゃくちゃ楽しめるじゃん?音で遊ぶみたいな。まぁ俺は作曲の才能がゼロだからああいうのしかやりようがないってのもあるにせよさ、結局はなんつーか「あーできない!」とか「つまらん!」とかっつーのもアプローチの仕方によって変わる場合もあるよね。それがさっき時々の主観の数だけの世界ってことなんだけどね。


で、数学とか哲学ってさ、それこそパラダイムが変わったりさ、世の中が違って見えるようになるじゃん?なんつーか究極的な主観改造法っつーかなんつーかさ、自己改造だよね。本当に。まぁでもある程度覚悟が必要なのはさ、まぁ俺は最初から関係無い話だけどそっちの世界に行き過ぎると世の中とのギャップが深くなって再起不能になるっていうさ、まぁ世俗的な幸とか成功を求めるんだったら最初からいらないものかもしれないけどね。でも思索ってのは最高に贅沢な行為だなって思うわけよ。自由な時間が腐るほどあってずーっと考えられるって最高に贅沢なんだよね。能動性とパワーさえあればこれほど最高なことはないと思うね。


ゲームみたいにルールが決まってるとかなんかの機械みたいに玉が飛んでくるとかそんなのが一切無い世界じゃん?まぁあるんだけどね、でもそれはリミテーションだからいかにそれを外していくか?っていうさ、それもまぁ失敗すれば変人の出来上がりだけど上手い事handleすれば超人の出来上がりだと思うんだよね。抽象ってのが世の中とか具体性との乖離で敬遠されるのであればさ、んでもまぁそれ極めちゃえば具体に戻ってくると思うんだよね。中途半端な抽象が「あっちの世界」で極まるとなぜか自然とか世の中とかとコネクトすると思うんだよね。まぁ狂気と凄く近いものではあると思うけど、でもそれは理性があればいいんだよね。


そういうのもあってまぁ俺はロジックっつーとあれだけどロジカルでいるってことがさ、元々かなり狂い気味の人間だから理性装置として凄く役立つっていうかさ、自分をhandleしなきゃいけないじゃん?解放しつつそれが暴走しないように操作するっていうさ、そういう解放と操作を感じているのもね、ようは解放されるのも自分だし操作するのも自分でしょ?そのダブルな主観を俺は感じるわけじゃん?リッする自分とその一方で解放されまくる自分っていうさ、そのアンビバレントな主観っつーのを楽しむみたいなさ、完全にインナートリップだけど、なんつーか世の中って何かと繋がって得られる幸福とかをより良いものとする傾向があるじゃん?だから引きこもりっぽくなるようなことはあんまり推奨されないみたいなさ、でもまぁそれって人によるからね。


インナートリップっつってもオナニーしてるわけじゃなくてやっぱりそれは知をより高めようとする行いだったりさ、それはやっぱ驕れるほどのもんを持ってないからこそ持てる向上心だと思うんだよね。自惚れるやつって二種類でさ、バカと本当の天才だよね。俺はそういう意味でのバカにしか会ったことないよね。本当にめちゃくちゃ頭が良いやつは経験的に自分より頭が良いやつに会った事がなかったりさ、世の中の大抵のことが簡単だったりするわけでしょ?まぁ天才にもよるけどね。


所謂万能型みたいな人はしょうがないと思うんだよね。で、まぁそこそこの人ってさ、本当に凄い人を見て「すげぇーなぁー」って思うわけじゃん?凄さが分かるぐらいの脳は持っているけど及ばないっていうさ、だから故に憧れるっていうさ、だからまぁ逆にその辺の人達なんて全然眼中に無くなるよね。それが目標なり憧れを高めることの良さだよね。それこそクラスとかで競い合うとかさ、ちょーレベル低いし世界狭いじゃん?


それこそ目標がアインシュタインとかノイマンとかだったら狭い世界のことなんてどうでもよくなるよね。むしろそういうくだらないもんに変に気を取られないようにkeep away from itみたいな感じでさ、距離を置くことが精神の健全性を保つ方法かもしれないわけで、あんま社交的じゃないとかさ、引き蘢りがちっつーのも実は自衛の場合もあるよね。そんぐらいレベルの高いことであれば引きこもりとかインナートリップって推奨されると思うんだよねぇ。だってくだらないもんに接しないとか時間を費やさないとか惑わされないとかって重要じゃん?人と繋がって何かをすることって大抵がくだらないことだと思うんだよね。でも凄い人と繋がればそりゃー最高だと思うわけでさ、だからそういう人から相手にされるようになるためにも自分を高めないとダメじゃん?


自分のレベルが上がらないと永遠とくだらない人間の吹きだまりの中で暮らすことになるわけでさ、そりゃ嫌でしょ。やっぱ。それが嫌だったら文句ばっか言ってないで精進しろ!ってことだよね。まぁ無理!って諦めたらまぁあんま文句言うな!だよね。


あんま努力って言葉は使いたくないけどでもやっぱ向上心がないと何も変わらないからね。status quoでいいならいいけどさ、現状に不満を持ちつつも何もやらないって究極的な矛盾だと思うわけで。それが嫌なんだよね。俺って常に自分に不満を持ってるからさ、だからまぁイライラすることも多いんだけどね。特に数学に接するようになって落ち込んだりストレスを感じたり悩んだりするのもまぁ結局はインナートリップ内での葛藤っつーかさ、自分にイライラしてるんだよね。もしかしてアホか?俺は?っていう可能性が少しでも見えると恐ろしくなるっていうさ、そういう意味で自信みたいなのを一切持たないって良いことではあるよね。まぁself esteemは高いんだけどね、ただおごりに繋がる類の自信は一切持たないっていうさ、それが向上心に繋がるじゃん?


まぁ自信はほどほどに持たないといけないとは思うけどさ、でも大抵なんつーか経験的に言っても自信満々のやつってレベル低いじゃん?よくこんなんで自信持ってるよなーっていう人が多いからさ、まぁ俺の経験からいってもね、世の中的にもそうだと思うんだけど、だからこそなんかすげー危険なものっていうかバカ装置に見えるんだよね。バカ発生装置っつーかバカジェネレーターだね。「まぁ俺って頭いいから」っつーんで本をパラパラ読みして分かったようになった気になるとかさ、バカの始まりだよね。でも頭が良い人にはあり得る話だよね。向上心がない頭の良い人の出来上がりなんだよね。これって。


そうじゃなくて自分を一切信用してないからこそさ、アホぐらいに思ってるからこそ熟読しないと分かるわけがない!って思うとかね、時間をかけねば!とかさ、すぐに分かるってことが重要なわけじゃないからね。それこそ分かるってことって身体的なことだと思うんだよね。柔道とかってっつーか武道なんでもいいんだけどさ、日々の精進無しに極めることはできないじゃん?いくら才能があるやつでも一週間でマスターするなんて無理じゃん?


それこそすげー量の練習とかそれに接する時間が必要なわけでさ、やっぱそういう「量」の部分にフォーカスしなきゃいけないと思うよね。ちょっと前の俺みたいにたいしてやってないくせに才能がどうのとかって言うとかさ、それはダメだよね。やっぱ。ある程度量やってさ、ある程度の知識を身につけてから考えることだよね。その上で何かを作り出すことができるのか?っていう高いレベルの悩みにならないと話にならないじゃん?そういう立ち位置に立たなきゃいけないっていう。


で、まぁ世の中ってくだらない競争とかレベルが低いものばっかでさ、そういうのに影響されたらいけないんだよね。板津じゃないけどその辺歩いてるポンコツみたいになっちゃうからさ、そこはやっぱなんつーかverticalな感じの志を持つっていうかさ、horizonalなのってまぁ身近なものとかなんだよね。で、verticalなのってなんか天と自分みたいなイメージね。で、その天に値するものがまぁ高過ぎるものでさ、だからまぁそこを偉人に置き換えるんだよね。


「あいつに勝ちたい!」とかっていう例えばクラス内でのそういう意識とかも悪いとは言わないけど本当にレベルが低いよね。それがまぁhorizonalなものってことなんだけどね。そんなのに影響されたり接する時間が長かったら頭がポンコツになるじゃん?で、意味ねぇー!とかって思えれば意識的に避けるようになるから結果的に孤立すると思うんだよね。でもそれは良い孤立だよね。縦軸では歴史上の偉人とか自分の高い志とかさ、そういうので繋がってるわけだから。横の繋がりなんて見た目だけのが多いじゃん?まぁだからといって完全に見限る必要はないんだけどでもやっぱ期待し過ぎは良くないよね。


期待値が下がれば自ずとあんまり他人にアプローチしなくなるのも自然なことだよね。大抵が何も得られないって経験が多いわけだから経験上の統計っつーと変だけど、まぁ経験的に良かった試しがなかったらまぁ自ずと失望して最終的に求めなくなるよね。そんな中での自然な孤立なら良い孤立だと思うんだよね。孤立といってもisolateされた感じじゃなくて縦の軸で支柱が支えられてる感じね。自分の足じゃやっぱ立てないけど縦軸があるから立てるし進めるみたいなさ、まぁそういうのを我道って言うのかな。まぁ俺は思えば最初からそれしかできなかったんだけどね、でもその重要性に最近凄く気がついたのね。


で、そんな中でひたすら考えるとかさ、そういうことがようは観念時間なんだよね。さっぱり科学的じゃない仮説なんだけどさ、精神年齢ってのはこの観念時間の過ごした時間によって成熟するっていうか歳を取るんだよね。だからずーっと考えてるような人は良い意味で精神年齢が高くなるっていうか、それはまぁガキっぽさが無くなるという意味ではなくて、まぁ精神が成熟していくんだよね。でも例えば大学卒業してすぐ就職で仕事しかしてこなかった人とかは歳とってもマインドがアホアホ大学生とかのままなんで定年後に孤独感を急に感じたりしてアル中になるとかさ、なんかね、一般的な仙人のイメージってさ、あれってすげー観念時間を過ごしてきた人の化身なのよ。


今ちょっと時間なくなったからアレだけどさ、まぁこれについては今度詳しく書こうかな。まぁ別にもういいんだけどね。で、まぁ思うに哲学とか数学ってさ、読む時間がそれをやっている時間じゃなくて考えている時間がやっている時間なんだよね。言わばこれも観念時間の中で時間を過ごすということね。意識の中に全てのフォーカスというか志向性が行っていて心ここにあらずみたいなね、そういう風に考えていることだけに集中している時っつーかね、そこでのまぁサブジェクトが哲学なり数学だったりすればその考えてる時間がいわばやっている時間だよね。


一万時間の法則とか出してくるとようは数学も哲学も読書を一万時間やりましたとかじゃなくて読書は基本だけど知識を身につけた上で自分なりに敷衍してみるとか考えてみるとかさ、そういう時間が一万時間ないとある程度にはなれない気がするね。そういう意味で哲学の天才というのはいないと思うんだよね。いや、いるかもしれんけどさ、でもやっぱ人生経験無しにニーチェとかとても理解できるとは思えないしさ、やっぱそういう意味で悩んだ時間とかさ、それは哲学とかって意識してないんだけど実際は実存に関することだったり人生に関することであればそれも思索のうちに入るかなと思うんだよね。


数学の場合はまぁ明らかにそれは数学だから自明的だよね。いや、それが分からなかったんだな。本を読むことっつーか知識を身につけることが数学だと思ってたらこれもまぁ哲学と一緒で数学という枠組みの中での観念時間を過ごさないと極まらないというか身に付かないんだよね。単純な解法だのドリルだのってのは違うと思うけど本質的に概念として数学を理解するというのはつまりはそういう時間をたっぷり過ごさないとダメなんだなと思ったのね。アラン・コンヌだかも似たような事を言ってたんだよね。「マジで数学やろうと思うならまず本を閉じて考えるってことから始めなさい」みたいなことね。


まぁ数学を学習することについても結局は急がば回れ的なもんでそれが時間がかかるようで一番近いっていうさ、学問に王道無しだけど、凄まじく時間がかかる王道としてこの観念時間ってのがあると思うね。知識じゃない概念そのものについて考えるということね。数学で言えば材料は定理とか定義だよね。哲学もまぁ同じだよね。定理っつーかまぁ概念とかさ、キーコンセプトっつーの?それで誰々がこう言ってました的な文献学者がするようなことではなくて自分でそれを考えるってことね。それをやり続けると恐らくね、文献読んでる時間よりも考える時間のほうが長くなると思うんだよね。むしろそこまで文献にこだわる必然性が分からなくなってくるんだよね。


その場合数学とかの場合さ、勝手に自分で証明とかしちゃうわけじゃん?もうそれがあったとしても自分なりに証明しちゃうとかさ、それやれれば凄いよね。それこそが数学だろうっていう。それ自体をやるということだよね。観念時間の中で過ごすというのはまぁそこで動くということなのかな。何も考えないというのは観念時間がストップしてるわけでさ、考えなくなったらまぁ人間終わりだわな。そうじゃなくてむしろ現実世界よりもそっちの世界に没入するっていうさ、まぁ普通はあんま無理だと思うけど、でもなんかやっぱここにポイントがあると思うね。ついつい本に行きがちな俺は常に意識してないとダメなことだね。思考停止的に本を読む事=学習とかさ、学問をやることとかって思ってるとバカになるなって思ったんだよね。


ショーペンハウエルじゃないけどまぁ思索なき読書は意味無いってことね。読書なき思索もvice vercaな感じだけどね。でもどちらかと言えば思索にウェイトが置かれていないと結局はただの物知りハカセになっちゃうと思うんだよね。それはいかに知識の内容が豊富で高尚であれ所詮は雑学王にしかすぎないと思うのね。やっぱそこでオピニオンがあるというかさ、むしろオピニオンだらけで引用とか誰々がこういっていたみたいなことをいちいち言わなくても全部自分で言えるみたいなさ、まぁようは主体になるってことだよね。思索的なことの。passiveなのではなくてactiveなんだよね。観念に対して。知識を貯えるという行為はやっぱpassiveだよね。こちらが受けるんだから。受けるだけじゃなくてやっぱ出すってことだよね。まぁベタな言い方すればinputとoutputなんだけど。


っつーかもう時間無いんでやめるわ。また近々続き書くかもしれんから。チンポ長くして待ってて。