ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

生成なのね。

最近は夏休みってのもあってかホテルの予約が多いとは言えないけど基本的に毎日あって、だからまぁ夜は基本的にあっちで過ごしてるんだけど、なんつーかサイクル的に生活が変わったし、あとは生活の雰囲気も変わるじゃん?忙しいって感じじゃなくてまぁその居る時間ってのがほとんど自分が起きてる時間なんだよね。家に帰ってシャワー浴びてまた店に戻るみたいな。


だからあんま書けなかったっつーかようは書きたい!って思った時に書けないって状況が続いててんでまぁ全然書いてなかったんだよね。別にあっちにラップトップを持っていけばいいんだけど、んでもまとまった時間集中できるってことがないんだよね。そういう意味でまぁ細々と本を読むってことがベストになってるかな。だからまぁすげー読書がはかどってるんだけど、別に片手間で世話をしてるってことじゃなくてそりゃやることはちゃんとやってフリーな時に本を読んでる感じなんだけどね。


んで書いてなかったと思うけど郡司ペギオ幸夫って人が俺の中でマイブームでさ、それこそなんつーか俺が普段から言う哲学プロパーの人は文献学者みたいなのが多くて哲学者らしい人が居ないって中でどっちかと言えばかなり科学者のほうに哲学者っぽい人が昔から多い気がするってのをまさしく裏付けるような、俺が知ってる範囲だと本当に俺が哲学者だと思う人ってさ、ようは俺が普段から定義している哲学と哲学者っていう意味で言うとこのペギオさんとあとは塩谷賢さんなんだよね。色々と居る割にすげー少ないよね。んでもこの二人の哲学者感は半端じゃないよね。


で、この辺の人達って茂木さんと交流があったりするんだけど何気に一番凄いと思われてそうな茂木さんが一番俗人なんだよね。色んな意味で。浮世離れしている尋常じゃない知性を持った人達っていうとペギオさんと塩谷さんがピッタリって感じで、ロールモデルとしてピッタリなんだよね。で、俺が凄まじく頭が良いと思う人の他に全然フィールドは違うけど小飼さんがいるけどなんとなく落ち着いてて頭が良くて体がデカいって意味で塩谷さんと小飼さんって似てるんだよね。小飼さんは顔は完全に江川達也なんだけど。


あとホントに頭良いし凄いな!って思う人ってマジで少ないんだよね。有名どころだとあとは宮台真司と苫米地さんぐらいしか浮かばないよね。この二人はかなり俗人寄りではあるけど頭はめっちゃ良いよね。でも宮台さんにしても苫米地さんにしてもどちらかというと地頭なんだよね。脳の演算処理とか言語能力とか処理能力が半端じゃないっていうようはスペックが高い感じね。で、俺が思う哲学者ってここじゃないんだよね。地頭もある程度は良いんだけど、不器用であるが故に考え込んじゃったりなんつーかどちらかというと一般的に見たらかなり色々なところが欠如してるってのが哲学者なんだよねっつーか哲学者ってのはなれないんだけどね。


哲学をやるか愛するぐらいしかできなくて哲学者ってのは事実上無理なんだが、まぁ通俗的な意味での哲学者って意味でまぁなんつーかね、そういう意味での哲学者ね。それで言うとペギオさんも塩谷さんもスペックが高過ぎるんだよね。スペックが高過ぎるからこそ科学寄りになるってイメージがあるね。


で、あーだこーだ考えちゃうやつってある意味病的でさ、それが行き過ぎると結構凄まじいことになるんだよね。狂気と紙一重なんだけど、逆にこういう世界は理性とか脳のスペックがないほうが狂える可能性があるんだよね。ようは悩む才能とか考え込んじゃう才能ってのは地頭の良さとは相関関係がそこまで無いってことね。まぁバカは考えないから知性が低いってことはないだろうけど抜群に高くなくても深く悩むということはできるよね。どうしてもそっちに行っちゃう性っつーかなんつーかさ、数学の才能も一緒だと思うんだよね。あれも地頭が良いに超した事はないけど、んでも本質的なところでいうとそれについて永遠と考えられるような才能だよね。


あと書くと長くなるからやめるけどさ、父とここ最近2回ぐらいすげー口論になってさ、で、すげー鬱になるんだよね。落ち込むのは一時的でんでもその落ち込みという状態が後を引いちゃってもうその口論があったなかったとは関係無く鬱状態があったこととは関係無く続いちゃうっていうさ、それはなんつーか例えば電車で風邪に感染したとして、んでも風邪の症状って続くじゃん?風邪の菌を吸い込んだって時に症状が出るわけじゃなくて吸った後に症状が出るんだよねっつーかまぁその免疫系が風邪の菌に勝てなかった場合ね。それと鬱は似てるよね。いつまでも口論のことを気にかけているというよりかはそれがあるにせよなんとも言えない憂鬱な状態が続くんだよね。


で、そういう時に余計な妄想とか嫌な事を考えなくてもいいように読書とか数学に向かうってのが俺にとっての恒常性を保つ良いバランサーになってるっていうかさ、そのぐらいまぁのめり込めるからさ、それこそそこに逃げる感じだよね。でもそれはネガティブなものからの脱出っていうポジティブな逃避なんだけども。


俺ってでも基本的にそうなんだよね。大抵の場合、滅多にないけど何もしないでボーっとしてたりするとロクでもないことばっか考えるからだから常に頭をオンにしておくっていうかさ、my brain is openにしておくっつーか志向性を常に何かに向けている必要があるっていうかさ、それってまぁ組み込まれてるんだよね。ちょっとここからペギオさんみたいな話になるかもしれないけどさ、俺が何かを読むとか学ぶってこともそれが独立してあるんじゃなくて俺の環境とか精神状態とか金銭面の状況とか色々なことがあって発生するんだよね。全く違う関係ないと思われる次元のものにしても実は凄まじく強い相関関係があるっていう。いや、別にペギオさんの理論を敷衍しているつもりじゃなくて、読んで自分なりに感じたことを書いてるわけだけどね。


ちなみに生命理論っていう哲学書房から出てる元は2冊のやつを1冊にした分厚い本なんだけど面白いからすぐ読めちゃうんだよね。簡単ではないけどちょうど今はドゥルーズとかに自分の考えが凄く合ってるって意味でフィットしてきたんでマイブームが続いてるのと数学の知識が増えたから恐らくただ哲学だけ読んでた時期にこれ読んでても数学的な概念が多過ぎてさっぱり分からなかったと思うんだけど今はちょうどジャストな感じで読めたんだよね。完全に理解したわけじゃないけどね。何回か読まないとあれは無理だ。日本にもこんな人がいたんだと思うとなんか嬉しくなるよね。


あ、んで話を戻すとさ、なんつーかな?俺が帰国してきたとかさ、日本にいるとかペットホテルにいるだとかなんだとか、それも全部影響するんだよね。それ自体が生成を担う諸要素の一つになっているっていう。実際は客観的にみれば学術的な知識と俺の環境って関係無いんだけど、その関係無いものの橋渡しっつーか挟まれてるのが主体である俺じゃん?両方と近傍だよね。前者が1で後者が3でそれは完全に離散的なんだけど2があることで繋がって2を生成する主体として考えた時に1の要素と3の要素が間接的に絡み合うということで両者共に生成を担う要素になっているっていう。


その中から考えたものとか感じたものとか、それは俺としては本を読んでそう思ったって感じるかもしれないけど、でも実際は生活から影響を受けていたり状況から影響を受けていたりさ、自分でも気がつかないような要素が実は理解の助けになっていて理解に繋がっているとか考えるってことに繋がってるんだと思うとやっぱ生活って大事だよねっていう。


書物に埋没していればいいのか?っていうとまぁ俺はいいと思うけどでも自分が人間である限り物理的な外界との接触ってのは断てないわけだし、むしろ断っちゃったら生成という観点から見ればマイナスのことが多いんじゃないか?って思うんだよね。あんまり生活に終わるのはアレだけどほどほどの生活があったほうがいいっていうさ、あくまで書物や思索に埋没するというのが中心で、でもそれと実は密接に関係している生活も大切なことで関係のあることだから配慮を怠らないっつーかさ、それありきだしどちらかが欠けても成り立たないんだよね。


いや、細かい話をするとね、あ、別にだから社会との繋がりや人との繋がりは大事だなんてことが言いたいわけじゃなくて、外的なものと内的なものに挟まれているのが主体とか意識ってもんなんであって、どちらでもないんだよね。意識は内に属するような気がするけど、でも実は意識の志向性が内に向かっているだけで、それはまぁ言わばこないだ書いた観念時間だよね。内にawarenessが向けられている間の時間というのは内にいる時間なんだよね。でも体がある限り外は意識せざるを得ないしそれが存在しないなんてことはありえないし関係を絶つということもありえないし、仮に断てたとしてもそれはさっきも書いたように生成という面から見ればマイナスになることが多い気がするんだよね。何で?って言われるとなんとも言えないんだけど。


あ、んでその細かい話ってのはさ、いや、例えばすんげー些細なことだよね。俺のエロサイトのブックマークとかさ、俺のシャツの色とかあまりにもどうでもいいことで些細なことでも思わぬ所に関係しているっていうさ、関係していない場合が多いとは思うけど、んでも内部と外部という抽象化された観点から見れば外部のどうでもいいことと重要なことって主体が考える価値判断による重要さの差じゃん?内部と外部という観点から見ればシャツの色は外部だしエロサイトのブックマークも外部だよね。俺のフェチズムというのは内部だけどでもそれは俺ではなくてそれに欲情するからそれについて興奮する自分というのを知っている自分がいるんだよね。内にも外にも属さないような自分ね。


いや、俺ってやっぱ意識とか主体って内側なんだと思ってたんだよね。んでも違ってさ、常に変化する生成態みたいなもんでさ、捉えどころがないっていうか簡単な定義ができないものなんだよね。だからこそ変化をするし進化も退化もするんだと思うんだよね。


そんなわけでさ、俺が確信している重要さとかプライオリティの根拠っつーのも全然分からなくなるよね。それは相対主義的な価値判断という意味ではなくて、その根拠を持つ場所ってのが分からなくなるって意味でさ、常に変化し続けるものに対して根拠って置けないじゃん?だからこそ自我なんてないんだとも言えなくもないよね。んでその生成をコントロールするのがイデオロギーだったりするわけよ。個々は色々な特性があって違うのに「こうあるべき」とか「空気を読まなければいけない」みたいな外部的な圧力をかけて生成の形を強制的に作っちゃうっていうのかな?


こういう生成モデルで見ると不気味なほど似たような人間ばっかが前へならえしている日本ってのが凄く分かりやすくなるよね。そこでどんどんそんなの関係無いとかさ、そういうのが嫌なら抗うとかそれは人生を張って抗わなきゃいけないから大変でさ、あっち側は生存権を担保に強制っつーか適応を強制してくるじゃん?そこでノーって言えることが新たな生成を生み出すことにもなるし、そういうオルタナティブ自体が大きな生成態になるとかね、孤立していたオルタナティブ同士が協力しあうことでやっていけるってこともあるじゃん?


それが常に脱領域化を生むっつーのかな?それがないと全体の生成そのものが滞ってどうにもならなくなるし、最近ここに書き込んでくれた人達も言っていた日本のどうにもならない感じっていう飽和している感じってようは脱領域が生まれてないからなんだよね。生存権を盾にした強制的なある種の型を作るイデオロギーだの通念だのってのがその創造的な生成を殺していたりやろうとする人を村八分にして自滅するようにしたりさ、凄まじく排他的な生成システムになってるんだよね。


そこでまぁなんつーか型通りの出来上がった生成モデルってのの一つが俺が度々批判している「社会人」って概念なんだよね。あれはそれこそ鋳型だよね。こっちが石膏かなんかだとしたらその鋳型を無理矢理上からはめられる感じね。で、身動きとれないからそれで固まっちゃってつまらない社会人の出来上がりっていうさ、そこに多様性なんて求められるわけがないよね。それこそそういう鋳型がガッシャンガッシャン工場でずーっと動いて型を作り続けているっていうそういうイメージだよね。


俺がドゥルーズの思想をレジスタンスの思想だって思うのもやっぱここなのよ。オルタナティブを作るっつーかそっちを選ぶってことはもう既存のものに抗うって選択をしているわけだよね。別に対立する必要はないけど、でもやっぱ対立は逃れられないし喧嘩とか衝突無しに済まそうと思ったら結局はマジョリティが勝つからだからかなり攻撃的なほうがいいんだよね。まぁこういうのってテロの思想にも繋がるけどさ、でもまぁちょっとでも革命的な要素が入ってればそれは大抵テロの思想にも繋がるよね。でもまぁ俺はいつも書いているように一般論的にテロの否定なんてのはまずしたくないのね。そんなのただの空論だし理想論だから。


テロは有効な手段だけど、でもそれは暗殺に限った話ってことね。ようはロックなんだけどさ、もう我慢ならん!って時に市民が政府に向かってテロをするっていう形のテロだよね。まぁそれは一般的にはクーデターって言うけど権力側はそれをテロリストって言うからね。そのテラーを与えるのを仲間同士である市民同士でやってても仕方なくて恐怖を与えるならやっぱそれは権力側に与えなきゃいけないわけ。そしたらやっぱ直接襲うとかそっちのほうが良いに決まってるじゃん?実際、メキシコのマフィアなんかそれをやってアメリカの要人を黙らせてるなんて話もあるぐらい有効な方法なんだよね。まぁメキシコのマフィアは世界が協力して壊滅しなきゃいけないと思うけど。


まぁようはベーシックな革命権だよね。でも市民が他の無辜な市民を殺すとか襲うなんてことがいかなる理由でも正当化されちゃダメなんだよねってそれは当たり前だよね。市民を殺してるテロをやるやつなんてバカばっかよ。逆に政治思想がしっかりあるならあんなことやらないって。あんなことやったら上手くいくわけないじゃん?誰が市民を虐殺する人の意見を聞くわけ?って話じゃん?でも圧制者を襲ったとか殺したとかだったらまぁ相当ヤヴァイ国だったら英雄扱いされるかもしれないよね。それこそ金正日を暗殺しただとかなんだとか。みんな殺したいって思ってるわけだから。


難しいけどああいうやつを殺す権利ってのはあるってことね。結局はそれはなんのため?っていうと社会っつーか市民のためなわけでさ、つまりは今回の話に繋げると生成のためだよね。生成の多様性と自由性を担保するためにもそれを疎外するような要素はなるべく取り除くっていうさ、それは自然なことだよね。だって明らかにそっちのほうがいいわけだから。


というまぁ今日はそんな感じですかね。んじゃまた。