ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

まぁ雑談ですよね。うん。

なんかさ、数学の本読んでてさ、イマイチ理解できないのって俺の地頭はともかくとしてやっぱ用語もあるなと。いや、英語で知ってる単語でも数学的な用法が分からなかったりするからだからイマイチアレなのかもしれん・・・とか思ってさ、んで日本語で持ってるマックレーンの本をチラチラ見てたらなんつーか直感的に分かりやすいところが多いのねっつーのが日本語ってさ、それだけで分かることが多いじゃん?「電脳中心」とか書かれてればゲームセンターかPCショップかな?とかって予想がつくじゃん?数学然りなんだよねー。っつーかそう思うと自分の英語力にまた「?」がつくんだよね。いや、やっぱ日本語のほうが結局ええんかい!的な。


久々に日本語の政治哲学の本とか読んでてもなんか気持ちいいんだよね。まぁ最近ここ数ヶ月英語ばっかだったというのもあるけど、パッと見で分かるから逆に特に既知なところが多い場合、日本語の本のほうが読みやすいと思ったね。ようは英語ってアルファベットの組み合わせで意味が発生するけど日本語とかの場合、漢字の場合はそれだけで意味を成してたりするじゃん?だから逆に専門用語とか慣れちゃえば日本語のほうが楽かも?って思ったりしたんだよね。さんざん今まで英語のほうが読みやすいとか言っててなんだけど。


あと数学の本って人によって用語の使い方とかが微妙に違うんだよね。あと記号の違いもあったりして混乱するし、まぁそこが俺の基礎学力の無さなんだろうけどさ、なんかね、英語の場合、分からない単語が出てくると前後関係のコンテキストでeducated guessみたいなのができないやつはもう完全に分からんのよ。でも日本語の場合、なんたら値とかなんたら域とか「恒」とか「等」だとか「包」とか「含」だとかさ、漢字字体で意味を成すから直感的に分かりやすいんだよね。これは漢字の力だなーと思ったわけよ。だから一概に数学書は英語のほうがいいとも言えないなって気がしてきてて。いや、まぁ慣れの問題なんだろうけどね。


あとやっぱ所詮俺は英語ネイティブじゃないなってのは思うよね。日本語のほうがやっぱ読むのは速いよね。でも明らかに文献って英語のほうが多いわけだからそんな差は無くしたいんだけどやっぱ差があるのかーとか思うとなんかあれですよね、本当に。さんざんこんだけ英語で読んでてもこれなんだから。いや、やっぱハイデガーとかフッサールのテキストは英語でも読み辛いよね。独語ならではのあのクドい長さっつーの?


あとはもうリアルに消費するものがなくなっちゃって、例えば英語で本を買うとなると明らかに安いっつーか凄まじい分量になるんだよね。ドル安円高もあって洋書が限りなく安い。んでもこうなるとさ、例えば数学の本なんてあらゆるジャンルのものを一瞬で買えちゃうんだよね。そんなに元手が無くても。あれほど燃費がいいものはないし。んでもかといってもさ、前にもPDFで数学書を読むって話にも繋がるんだけど、例えばさ、なんつーのかな、高木貞治の本とかってデータ化するプロジェクトがあったりして読めるでしょ?でも恐らくアカデミア側っつーか出版社は高木ブランドを維持したくてベラボウな値段で本を売ってるわけだ。


アカデミアってそうらしいね。安く出せばもっと多く読まれる可能性がある本もブランド維持のために安く出さないみたいな。まぁこれはバカバカしい話だとは思うけど、んでも例えば戦前とかの貧乏話ってあるじゃん?学者系の。どこにもいかないし飯とかも貧相なんだけど勉学がやりたくて今で言えば例えばバイクが買えるぐらいの値段の洋書を買って読み尽くすみたいなさ、それってなんつーか凄まじい対価が発生しているからっていうのがモチベーションになってたりもするよね。


今で言えば情報が基本フリーになってるからこういうありがたみって無くなってるじゃん?少なくとも俺はもうあれだね、アメリカの頃の音楽体験だな。mp3が一曲99セントで買えるっていう世界観でもう完全にさ、いや、それ以前にももうあんまり音楽への価値って感じなくなってきてたけど、もうこれで完全に決まった感じだよね。今なんて本当にCDの扱いが雑だもん。あとこないだ踏んじゃって割れたCDとかあるんだけどどうせ何百円とかで買えたりするしってことでもうさ、いや、昔なんて凄かったでしょ?10代の頃のCDの価値といったらさ、俺の世代で言えばまだ国内盤なら2500円から3000円がデフォの時代だったからさ、扱いが親の世代のレコード並だったと思うんだよね。


まぁ未だにモンド系とかの絶対手放したくないレコードの扱いは超丁寧だけどさ、他のレコードじゃなきゃ嫌!みたいじゃない音楽と言えばもうなんつーのかね?データだもんね。本当に。いや、前からデータなんだけどデータ感が半端じゃないわけよ。下手するとYou Tubeとかで聞けたりするやつとかもあるしっつーかむしろネットで聞けないやつなんてあんまりないんじゃない?ってぐらい氾濫してるよね。


メーカーとかの希望小売価格とかとは関係無い過剰なデータ化による観念的なデフレっつーのかな?あと色々と見かけるけど音楽自体に価値がなくなったっつーか金を払いたいと思える音楽が無くなったと思ってるのってやっぱ俺だけじゃないんだよね。別に俺みたいに死ぬほど音楽を聴いてきた人達じゃなくても別に普通にそう思ってるわけだ。やっぱさー、俺の中の三角形だったんだよね。ゴールデントライアングル的な。映画/音楽/本ね。でも今は全部価値が下落してるもんね。あとさー、英米系の一般書とかでもさ、thinking fast and slowって本とかって結構話題になったらしいんだけど、ああいうアメリカ系の悪い所のお手本みたいな本でさ、やったら長いんだよね。


書きたいのは分かるけど読者のことを考えてもっと要約しろ!と言いたい。そういう意味で最近は俺は日本語の本を逆に評価するようになってきたんだよね。いや、日本語の本って洋書に比べて明らかに活字量が少ないけど、でも別にそれが内容の薄さに必ずしも直結するわけではないんだなってことなんだよね。特に良く書かれてる新書とかの価値は凄いよね。もうさすがに買う必要がないから買わないけどでもやっぱあのコンパクトさって凄いな!と思って。さっきあげたthinking fastなんてさ、対してモチーフが面白いわけじゃないし、あんなリサーチ結果をいちいち書かなくてもさ、それだったら専門書として出せばいいのにさ、なんかすげー中途半端なんだよね。あれを要約した本なら面白いと思うけど元はもう苦痛だね。とにっかくつまらん。本当につまらない。


あんなのを有り難がって読むアメリカ人って何なの?って気がするぐらい無駄に長い。あと共同研究者とのエピソードとかまぁ入れたくなるのもわかるけどさ、全然場が和むっていうか文章としての効果になってないんだよね。ちょっとリサーチ結果とか固い話が続いたからちょっとラフな話を・・・的な効果で入れてるところとかもあるんだろうけどそれがさらにまた長文化に拍車をかけているのではっきりいって泥沼化してると思う。無駄に長いで言えばブラックスワンもそうだよね。ああいう洋書独特の長さね。なぜかマンデルブロのThe Misbehavior of Marketsは面白いのが不思議なんだけど。この人ってなんか文才あるんだかすげープロの研究者の割に気の効いた本を書くんだよね。


フラクタル幾何学とか普通に面白いのよ。一般の読者への配慮とかが尋常じゃなくてさ、分量があるのに嫌な気分にさせないんだよね。これはなんつーか学者として以外の作家としての才能があるから何だと思う。多くの研究者とか学者は作家としての才能が無いからリサーチ結果は面白くてもつまらない本しか書けないんだろうな。やっぱさ、読んでて楽しい!って重要だと思うんだよね。そういう意味だとやっぱ未だに証明と定理だけの教科書的な数学書って慣れないっつーかダメだな。もう読むの諦めようかなと思って。


今はinfinityっつー無限系の話をまとめたアンソロジーみたいなのを読んでるんだけどいい感じで納まりがいいんだよね。こういうコンピ的なのが一番読みやすいな。学術書でもケンブリッジガイドっつーかコンパニオンってあるじゃん?カタカナで書くと女みたいな感じだけどさ、あの哲学の一連のシリーズね。あれって全部30ページちょいの論文集だから読み切りがいいっつーかなんつーかさ、いや、その読み切りの悪さなんだよねぇー。さっき書いたthinking fastね。いや、アメリカとかって何なんだろうな?ってぐらい異様にアカデミックで長い一般書がベストセラーになるよね。民度たけぇー!って思うんだけど、でも正直つまらない本が多いと思う。


内容は面白くても本としてのクオリティが高いか?っていうと高くないのが大半だよね。なんでもっと削らないのかなー。よくあるもんね。訳書を出すにあたっては3分の1ぐらい削ったとかさ、いや、そうだろうなーって思うもんね。無駄に長いから。あの長さ意味あるかね?長くなっちゃうのも分かるなーって感じた本は一冊もないんだが。専門書は別としてね。一般書なんてむしろ一般のオーディエンスに向けていかにクドくならないように説明するのかがポイントな気がするのによくあんな長い分厚い本を地で出すよなーってのが多いよね。


まぁ長さで言えば俺も人の事は言えないからアレなんだけどさ、でもまぁ長さの質が違うじゃん?とにかくね、for exampleっていうさ、アメリカでさんざんやらされるまずは例を出して主張を裏付けろ!的な学校でやらされるエッセイの書き方が染み付いたやつらが多くてさ、んでそればっかやってるから全部同じなんだよね。作家性が無いっていうかさ、最初に「我々はなぜ何々を感じ、そしてこれらのことに関して嫌悪感を感じながらも、一定の距離を置きつつ、持ちつ持たれつの関係を自然と続けて行くことが可能なのだろうか?」みたいなさ、お固い出だしとともに「なのだろうか?」と問うっていう定型の書き出しあるじゃん?ああいうの変えていこうと思わないのかな?


もうああいうの大嫌いなんだよね。あっちの大学でエッセイ書かされる時に本当にこれは苦痛だったな。最高に俺に向いてないっていうか宿題と言われても出来ないぐらいの苦痛だよね。チャラ男が真面目な男を課題で演じなきゃいけないみたいなそんな感じね。「あなたは綺麗だ」って本当は「キミかわうぃーねぇー!』って言いたいのに言い続けなきゃいけないみたいな。すげーストレスだよね。


英米系のってそれで何年もやり続けてるから文体とか構成が昔っから変わってないんだよね。よくあんなので続いてるなと。誰もダメ出ししないのかな?っていう。まぁ無難なワールドスタンダードな形ではあるんだろうけどさ、んでももっと多様性があってもいいと思うんだよね。ユニークな学術書とかってもっとあっていいと思うんだけど。それこそウォール伝みたいな口語体の数学書とかあっていいと思うんだよね。何々のとき何々であるから何々は明白である。2からこれらが構成されることは自明である。とかさ、医者のカルテみたいな口調でなんで書かなきゃいけないの?っていう。明白なわけじゃん?とかさ、それだけでもだいぶ雰囲気違うよね。最近なんか萌え系の受験参考書とか色々出てるけどさ、萌え語とかの数学とか物理の教科書出してほしい!って思うよね。漫画とかのはあるみたいだけど。でもあの擬人化の技術って凄いよな。アートの域だと思う。質量とか抵抗力とかを擬人化するとか凄いよね。


いやさ、でもなんかあれじゃん?漫画とかっつっても結局中身は真面目だったりするじゃん?肝心のところが普通の文章で普通の数学書みたいな文体になってたりするじゃん?なんかそういうのすげー冷めるよね。もう学術的過ぎるものを極端に崩したやつとかってあっていいと思うんだよね。それこそ崩し過ぎなのがあっていいと思うし崩すということを目標にするので若干厳密性に影響が出ても気にしないぐらいの男気があっていいと思うわけよ。なんかんでさ、予算的に無理なんだろうけどマックレーンの「数学 - その形式と機能」ぐらいの体系的で辞書みたいなボリュームのやつを漫画で出しちゃうとかさ、口語体で出しちゃうとかさ、どっかやってくれねぇーかな?って思うんだよね。局所的なのはいくつかあっても全体的なのが無いもんね。


微積分とかフーリエ級数とかさ、そういう部分的なのはあってもずばり「数学」と言えるぐらいの全体的なのって無いじゃん?それこそプリンストンから出てる数学事典みたいなああいうぐらいのやつが欲しいね。あとは連載とかで無理なのかな?まぁーそれで言えば数学ガールでやっていけばいいのか。そういう意味で俺はまぁラノベとか小説とか青春みたいなモチーフが苦手でも数学ガールを評価してるんだよね。まさしくこういうのだよ!っていうさ、それをまさしくやってくれているわけだし漫画まで出ているわけだからまぁ本当に偉大だよね。あれは。


漫画道みたいな事典みたいな迫力のある分量で中身が全部数学に関する漫画で出来てる本とかって作れないのかなぁー?本って1000ページ以上あるとそれだけで迫力あるからね。かといっても超訳ニーチェ的な見かけ倒しの余白だらけみたいなバカさ加減じゃなくてガチのページ数っていう。それにしても日本人の民度の低さといったら本当に凄いよな。愛蔵版だっけ?超訳ニーチェのなんかギフト版みたいなのあるじゃん?箱みたいなのに入ってるやつ。贈るニーチェとかいって。あんなの贈るほうのIQが84ぐらいじゃないと贈れないよな。


そういう意味で無駄に長いけどガチで長い本がベストセラーになるアメリカはかなりマシなのよっていうかすげーなって思うのね。この差凄いじゃん?ブラックスワンとかthinking fast and slowとかよくあんなもんがベストセラーになるよね。かといっても長けりゃいいってもんじゃないってのはさっきも書いたけど、かといっても日本みたいにパンフレットぐらいの分量の本がデフォで1冊としてカウントされるみたいなのもどうかと思うよね。それで年間300冊以上読んでますとか言われてもパンフレット300冊読んでても別になんでもないんですけどって話だよね。冊数でどうのこうの言うのって本当にばからしいよなぁー。洋書で1ページの活字の量が新書の四倍って本の500ページ越えのやつもフォレスト出版の本も単位としては「1冊」だからね。比べるのがアホらしい。


なんかでもさ、前にも書いたかもしれないけどさ、全然話が変わるんだけどさ、仲正昌樹みたいな人とかって研究者としては超一流なんだろうけど思想家としては全然ダメじゃん?本ばっか読んでて人と交流が無いが故に思想書の虫みたいな感じで死んだ思想にあたかもアクチュアリティがあるかの如く現実を思想から語るみたいなことをしててもなんか本当に意味ないじゃん?あれはニーチェ的な意味でも最後の人だよなー。ああなっちゃ終わりだ。だからまぁなんつーか最近は読書量がどうとかも本当にどうでもよくなっててさ、あとアカデミックな動機づけもなくなったじゃん?大学でやっていくみたいな予定がとりあえず頓挫したわけだからさ、あとはもう自分が何をやっていくか?っていうそれこそそのままの裸の主体性に全てがかけられてるっつーかさ、それをなんか物語的な将来のビジョンとかに乗せるみたいなことが前見たいにできなくなっちゃったじゃん?


かといって詰んでいるということではなくて、将来が分からないという意味で言えば昔から変わってないし、リスクで言えば借金をしなくて良くなった分、安全ではあるんだけど物語上に自分を置けないというところからくる実存的な不安というかさ、まぁ裸の実存だよね。「剥き出しの」とかっていうとアガンベンとか哲学用語っぽくなるから嫌だから使わないんだけど。誰とは言わないけど若手の批評家とかって本当に言葉の濫用が酷いよね。自分のコンテキストに歴史的な哲学用語を勝手に持ってきて新たな定義づけを与えたりだとか。まぁその話はいいか。


いや、ああいう批評家とかも本当に終わってるなーと思うからさ、なんか結局、自分が学問なりなんなりをやっていて、結局はそこで何をやっていくか?なんだよね。思想を学ぶことが目的となるほど惨めなものはないわけじゃん?仲正的なダサさとか三島的なロマンティシズムとかさ、なんか全部ダメだよなー。シュトラウスとかも結局はロマンティシズムからのシニシズムっつーかニヒリズムじゃん?そこからの権力志向ってことでまぁなんつーか形が決まってるんだよね。


なんかだからマジで分からないんだよね。分からなくなったからこそ数学に逃げたのかなー?俺。2年前のあの何をやっていいか突然分からなくなった感が今なんか明瞭に分かるようになった気がして。それは数学に没頭しててってほどやってないけどまぁ結構メインになってきててさ、んで最近ふと思い出したように政治哲学の本とかを読み返してみるとまぁ政治哲学とか思想の感じってのが甦ってきてっつーかまぁそりゃー普段も読んでるんだけど、そのね、2年前の感じが明瞭になるような類の本を読んでたのよ。これは個人的な話だから言っても分からないだろうから書かないけどさ、なんかそれで呆然とするんだよねー。


別に仲正昌樹とかじゃなくても英米とかでも思想とかずーっとやっててどうにもなってない人達っていっぱいいるじゃん?だからなんかさ、意味が分からんのよね。本当に。かといっても行動か?っていうとそういうわけでもないし。簡単な行動に帰結するほどシンプルな話じゃないんだよね。なんか抽象的に「思想を磨く」的なさ、そういう物言いで現実へのコミットメントをずーっと先送りにしてるんじゃないか?とかさ、それはなんつーか逆に数学やってて思うんだよねっつーのは数学ってやることそのものがコミットメントじゃん?考えたり予想を立てたりするってのがもう数学をやるってことになっていて考えるということ自体がもうイコールで行動になってるんだよね。


でも思想とか哲学の場合さ、実存的な問題ならともかくとしてやっぱ政治とか社会的なこととなるとさ、おかしくなってくるんだよね。マキャベリアがどうのだのルソーだのアーレントだのさ、それで語ることに何の意味があるのか?っていうさ、それ自体を研究する分にはいいし、別にそれは勝手にやればいいんだけど、それに興味は無いってことはもう明確になったわけじゃん?


うん。考えれば考えるほど分からないね。どうすればいいのか。いや、実際に今回書きたかったことはさ、買うものもないし、日本語っつーか邦訳とかの高い数学書を贅沢品と看做して丁寧に読むってことを商品を消費するということと同一にしようかな?って思ったってことだけなんだけどね、消費に関しても分からなくなってるし、物欲もリアルに本以外なくて、んで簡単に安く本が手に入っちゃうと逆に欲望できるものがないじゃん?だから寂しいんだよね。凄く。


あとはまぁコミットメントの話もそうだけど、それはまぁ哲学とか政治学の本を読んでて感じる虚しさね。数学は知的刺激を受けつつそれについてまた考える・・・っていう永遠ループでいいけど思想はそれやってると本当にただのオナニーだからさ、なんかならないもんかなぁー?ってところなんだよね。まぁとりあえずそれに意識的になろうかなってことなんだよね。思想研究なんて絶対やっちゃダメだってことで。中二病的な意味ではないダサさがあるんだよね。やりたければやればいいんだけど相当アウトだな。自分の中では。自分の思想ありきならいいし、自分の思想を形成するために・・・みたいなことがあればいいけど、やっぱそれ自体が研究対象になるって無いよなぁーっていう。


まぁいいや。今日はこの辺で。