ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

ウキウキ倫理学。

ダンデス・ダイジっつー人の「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」って本があって、それがオウムで流用されただとか、麻原の師匠がダンデス・ダイジだったとかなんとか苫米地さんが言ってるんだけどさ、まぁんで気になってたわけよ。どんな本なのか?って思ったら理数系の森北出版から出ててさ、しかも普通にアマゾンで買えるっていう。で、気になりつつも買えずにいてんで最近ようやく買って読んだんだよね。クンダリニー・ヨーガのやり方が書いてある本は滅多に無いとのことだけど、まぁ正直、何も得られるものは無かったね。あとはダイジのポエムみたいなのが書いてあったりして余白の多い本で一瞬で読み終えてしまった。普通の「オトナ」から「ダメなやつだ」とか「中二病丸出しじゃん」とかって言われるような感じの内容ですよね。まぁでも恥ずかしい内容なのではなくて覚者なのは間違いないなってのは分かるんだよね。で、まぁお決まりの世の中は腐ってるとか生き辛いとかまぁ俺も普段からそんなこと書いてるんで人のこと言えないけどさ、まぁんでダイジは結局、37の時にガス自殺してるんだよね。まぁ自殺じゃなくて遷化したとされてるんだけどまぁ自殺じゃないですか?


で、何が言いたいのか?っていうと俺はこれが仏教の最大の問題だと思ってるんだよね。ダイジは実に真面目で仏教っつーか悟ることに人生を費やしたと言っても過言ではない感じの人なんだけどさ、結局突き詰めると俺も前に書いたけど体がいらなくなるんだよね。もしくはもう悟りを開いたからこの世にいる必要がなくなる。だから自殺は凄く合理的な選択になるんだよね。まぁほどほどにやってればそうはならないのかもしれないけどダイジレベルだとやっぱりそこまで行くよねってそれがすげー分かるんだよねってまぁ前に散々ここでも書いたけどね。だからやっぱりさ、そのね、色々と突き詰めると精神世界とか自己の探求みたいな感じになって引き蘢りみたいになるってまぁその人の生き方だからいいんだけど、やっぱりなんかダメだよね。俺も一時期かなりそういう思いでいたけど結局それは突き詰めると自殺になっちゃう。だからやっぱり生きるって前提じゃないとなんかダメな気がするんだよね。ある意味で救いが無いなんてのは分かりきってることじゃん?客観視すると実は何にも意味が無いって自明なんだよね。でもそもそも客観なんてのも存在しないわけでさ、あるのは主観から作り出される世界だけじゃん?まぁもしくはカントのコペ転的に主観が客観を作り出してるでもいいんだけどまぁようは全部主観なんだよね。


で、まぁそんなもんはようはイリュージョンじゃないかってのも必然的な帰結だし、じゃあどうすればいいのか?ってまぁそこだよね。だからそこで俺は倫理としての快楽ってのを追求していくべきなんじゃないかな?って思うのね。何にも無いからこそシムシティみたいに世界を作るんだよね。どういう風に生きるのが自分にとって一番いいことなのか?とかさ、快楽を倫理にしたときにじゃあ普段の生活と社会との兼ね合いはどうしていけばいいのか?とかさ、あくまで快楽の追求っつーかpotentiaなんだよね。スピノザが言うパワーなんですよ。それが。何が自分にとって生きる活力を作り出せるのか?っていうね、生きるのが嫌だったら自殺もいいと思うけど生きようと思うならやっぱり活力が無いとダメだよね。そりゃ個人の勝手でしょうってそれはごもっともだけど俺がスピノザに感動したのはスピノザはそれを他者との繋がりとか社会とか政治っていう大局的なところから見てるんだよね。我なんてのはなくて全てが繋がってるわけで、まぁざっくり言えばそれで社会も世界も出来てるわけだから、パワーは必要でしょってことなんだよね。みんなネガティブになればそりゃネガティブになるよね。それがマズいんだよな。そういうのは伝達するしネガティブな人はネガティブな言動を繰り返すからそれがまた他に悪影響を及ぼすんだよね。


かといっても毎日ウキウキしてろってことではなくて、まぁ別にそんなに真剣に捉えなくてもさ、実際は何もかもに意味が無いなんて当たり前のことで、だからこそ自分の世界を作ってそれに意味を見いだすのが生きるってことなんじゃないの?っていうさ、だからまぁ本当の自分なんてのも当然ないわけよ。ようは自分がどういう世界に生きたいのか?っていうその能動性なんだよね。あとはまぁ別に適当でいいっつーかただ生きたいだけなんだったらまぁそれでもいいじゃん!ってことだよね。どの道全部に意味が無かったらみんなイコールじゃん?偉い人だろうが金持ちだろうが全員そのニヒリズムを共有しているわけだ。あ、まぁそれは違うか。ニヒリズムって陥ることなわけで意味のなさ自体を表すことではないよね。ただまぁ意味が無いのは決まりきってるわけだ。気がつくとニヒリズムに陥りがちになる。で、気がつかない人はまぁラッキーですよねってことだよね。お気楽で毎日楽しいなら何気にそれが一番いいわけだよ。それを倫理としてしまおう!ってことなんだよね。人間としてどうあるべきか?とかどう生きるべきか?ってのは基本的にワクワクしたり楽しかったりするっていうそういうところなんだっつーさ、まぁ結果あれですよ、楽しいことが2割で他が糞ゲー並のつまらなさでもさ、その楽しいこと2割のために生きるってそれは凄く倫理的ってことなんだよね。で、目標はそれを3割とか4割とかどんどんそれを増大させていくってことで、スピノザで言えばパワーを増大させるってことなんだよね。


まぁ仕事が楽しい人とか最高だと思うけど仕事とか生きるためにやらなきゃいけないことが多過ぎて人生が糞ゲー化してる人って多いと思うのよ。だからそれは倫理的に考え直す必要があるってことなんだよね。本当にやりたいこととか自分にとって必要なことって何なんだ?って考えたときに生きるために働くことではないじゃん?さっきも書いたように仕事自体が楽しい人はもう最強だと思うんだけどね、そうじゃない人はどうすればいいのか?ってことだよね。そこで会社を辞めて自己の探求を始めてんで色々と分かって自殺じゃダメだからさ、会社を辞めてんで自分の世界とか生活ってのを自分で設計するっていうそこなんだよね。それって社会的じゃん?自己の探求って社会的じゃないからね。俺が前に書いた世界の話で言うとまずは自分の世界から始めて、んでその世界が軸になってまた色んな他の世界と繋がれたりするわけじゃん?それがようはマルチチュードってことなんだよね。まぁ俺の定義するマルチチュードなんだけど(笑)で、それってさ、仕事のために生きるんじゃなくて自分のために生きるっていう世界観でやるわけだからさ、自ずと反資本主義的なんだよね。別に政治的にならなくても世界の構築を始めればそれは現状の行き辛い世界への抵抗になるんだよね。でも別に抵抗する!なんつーパワーはいらなくて自然にやればいいんだよね。


そうすると多分必要なものの少なさに気がつくと思うんだよね。なんであんなに忙しい生活をしなきゃいけなかったんだ?ってそもそも金がかかり過ぎる生活をしてるから仕事に忙殺されるんであってさ、そもそも東京に家を借りるとか東京に住むとかそんな必要があるのか?ってことじゃん?みんなやってるからやってる的なことだよね。仕事があるから東京に行くっつってんで結局高い生活費のおかげで囚人みたいになっちゃってるっていう。ようはやりようがなくなるんだよね。生活だけで大変になる。大変な生活をするための東京に来たの?っていうさ、いやーそれは俺がニューヨークにいた頃にすげー感じてたんだよね。学校には何も期待できないしそれは別に学校のレベルとかではなくて自分が独学でやれる人間だから別に場所がどうとかじゃなくて本さえ読めればいいんじゃんってことに気がついたら生活費や家賃が高いニューヨークにいる意味が無くなっちゃったんだよね。結局だってあっちで本しか読んでなかったからね。今の生活と変わらないわけよ。今は学校とかが無いし飯とか作らなくてもいいからあっちにいた頃よりも時間があるわけでさ、まぁ一時期は進学できないなんて終わりだ!って思ってたけど、そもそも俺は大学でやっていけるような人間じゃないし、自分でやれるわけだし、そもそもああいうシステムとの相性が悪いわけだよね。嫌な思いしかしないわけだ。それでもまぁ仕事を見つけたかったから進学したかったんだけどまぁアカデミック系の業界の仕事の無さといったら無いわけだよね。だからもう全然進学する理由も必要性もなくなっちゃったわけで。


学問をやりに大学に行くんだったら少なくとも俺みたいなタイプにはそれは大間違いだよね。くだらない講義に出るために朝早く起きて満員電車に揺られながら学校に行ってそれだけで疲れて講義に出て意味の無い宿題みたいなのをやらされるって時間と労力の無駄ですよね。学問やるならガッツリ寝て、んで起きたらとりあえず何か食べて頭が働くようにしてカフェイン摂ってあとはひたすら勉強でしょう。まぁ俺は勉強って言葉が嫌いだから読書って言うけどね。研究って言葉も大げさで嫌いなんだよね。こないだ使っちゃって後悔してるんだけど(笑)


いや、こんな生活続けてたらさ、変な話一万時間の法則とか余裕じゃないですか?だって丸一日学問でしょ?逆に俺なんかの場合、こんだけ時間を費やしてるのにさ、いや、本人が全然たいしたことないじゃん!ってことにもなりかねないっつーかこんだけやってますって言っちゃうってことはさ、何かあるんだろうね?ってことになるじゃん?いや、芸人の芸歴と同じだわ。長くやってるのにつまらないとかダメだよね。俺も長くやってるのに全然たいしたことないんだけどやたら蔵書が多いとかそういうのって一番ダサいじゃん?(笑)毎日猛特訓します!っつってすんげー弱いボクサーとかやっぱダサいよね。これって学問でも同じだよね。だからここに書くってそういう意味でもいいんだよね。やたら色々読んでるとかさ、膨大な時間を費やしてるって言ってるわけでさ、で、仮に言ってることとか考えてることがたいしたことなかったとしたらそれって恥部を曝け出してるようなもんじゃん?馬鹿の考え休むに似たりだよね。


それになるのを俺は一番恐れてるんだよね。時間ばかり費やしてればいいってことじゃなくて費やしてるだけ何かが出てこないとダメなんだよね。だからそういう意味で物知り博士とかには絶対なりたくないんだよね。知識はあるっていうそれだけっていうさ、んでもやっぱり俺は思考力なんだよね。あとは知識を色々と応用するとかまぁようはプラクティカルでいるってことで、まぁそれが俺が普段から言ってるプラグマティックであるってことなんだよね。プラキシスですよね。実践しないでただ本読んでるだけってこれはただの馬鹿ですよ。もうこうなったら終わりだね。で、ひたすら蔵書だけ多いっていうさ、もうダサさの極みよ。レコードを何万枚も持っててすげーダサいDJやるDJみたいなもんだよね。あとはすんげー機材持ってて糞みたいなトラックしか作らないやつとか(笑)


で、まぁさ、ウォール伝がはてなに移ってからもう5年以上経つじゃん?だからなんか昔書いてることとかもだいぶ昔に書いてることなんだよね。で、俺は何か進歩してるのか?ってやっぱりまぁ同じ人間だから考えることとか考える方法とかは同じなんだけど何か進歩してないとダメだよね。そういう意味でさ、オワコンシリーズの話とかはやっぱり進歩なんだよね。自分としてはユクスキュルとか環世界とか知らない状態で自力でああいう考え方に行き着いたっていうやっぱそれなのよ。最近の俺で言えばそれですよ。まぁ結果、誰かが言ってたことでもさ、そこまで自力でたどり着いたってことだよね。それだよね。本当に。あとはまぁ理数系の知識か。分厚い数学書とか全然躊躇無く読めるようになってるとかまぁこれも進歩ですよね。あと書店に行っても買うのが無いっていう(笑)ようはもうシュプリンガーとかの専門書とかしか読まないから書店に置いてあるような数学の本ってもう大抵いらないんだよね。あとはもう色々と読んできたことで知ってることが多いっていう。行くとしたら明倫館だなぁー。あそこには一回行ってみたいわ。通販でしか買ってないからねっつっても数学系の本は途中のやつが多過ぎてまぁ当分買わなくていいんだけどね。本当に死ぬほど時間がかかるんだよね。いや、それでも俺はかなり適当に読んでるよ。なんかさ、紙とペンを用意して一個一個確かめながら読むとかさ、まぁ否定はしないけどそんなの誰がやるの?って感じだよね。本一冊に1年かけるとかそりゃダメだろうって思っちゃう。


まぁプロパーの人ならいいんだろうけど、いや、そんなやり方をしてるからこそ知識が偏るんだよね。数学だけ出来るってなんかカタワだよね。凄い数学者ってみんな哲学とか読んでるし博学じゃん?専門馬鹿ってダメだよね。あれも一種の馬鹿だから。だからまぁ数学だけやってるわけにもいかないからさ、そこはもう数学の本をスラスラと読めるようになるような直感力とかさ、普段から思考して色々と書いてあるようなことがすでに自分の中では自明になってるとかっていうそんぐらいが望ましいよね。で、まぁ数学の本って色々と基礎的な膳立てがあって、んで最終的に重要な定理に行き着くとかまぁ途中でも重要な定理が出てくるんだけど、ようはそこまで一瞬で行けるぐらいにしておくってことだよね。そこまでの道筋を舐めるように読まなくてもいいってことなんだよね。そりゃもう大体分かってるから肝心なところを早く読みたい!ってそれでいいと思うんだよね。数学系のやつらって絶対こんな読み方なんて否定するだろうけど。だから俺なんか数学科に進んでも絶対ダメよ。イライラするだけだと思うもん。あんなねちっこいやり方してたら頭が馬鹿になるでしょ。


厳密に精密にやるって良いこととされるような風潮があるけど悪い部分もあるんだよね。なんつーかやっぱ数学も哲学と一緒で概念なわけでさ、一個一個馬鹿みたいに確かめてやるとかそれってなんかカントとかアリストテレスの本を舐めるように読むみたいなもんじゃん?そこまで文献に依存しなくてもいいじゃん?って思うんだよね。自分で考えればいいわけで。まぁハイデガーとかシュトラウスみたいに古典を舐めるように読むことで自分の思想を形成できたりすればそれはいいんだけどさ、まぁただね、ただの研究って意味ないよねっていう。なんかやっぱ出さなきゃね。数学もそうじゃん?式いじり回してたらこういうのを発見しましたってダメだよね。とにかくダサイ。凄い数学者ってみんな概念的なんだよね。考えてそれを数式っつー言語で書き写してる感じなんだよね。mathematiciansっつー本に出てくる人たちの話を読んでると本当にそういう感じがする。だから計算好きって逆に数学に向いてないんじゃないか?って思うよね。それってただのパズル好きじゃん?数学者は意外と計算が苦手とかって言われるのってここなんだよね。パズルには興味ないしそんなにやらないから苦手な人もいるって全然おかしいことじゃないよね。


っつーかダンテス・ダイジの話から色々と広がったけども、ようは快ベースの倫理学ってことですよ。話を戻すと。思うにコアに快が無いと絶対にニヒリズムに陥ると思うんだよね。んでもやたら快にだけフォーカスしても例えば俺の場合、ただの物知り博士で終わるっていうさ、だから快っつー装置をどう自分がやりたいこととか成し遂げたいことに結びつけるか?だよね。基本的にこれが人間のパワーの根源であるというのは間違いないわけだ。当たり前のように見えて意外にそうでもないっていう。ウキウキと倫理学というのを結びつけるっつーのはいや、本当に凄いと思うわけよ。いきなりスピノザの大ファンになってしまった。もうスピノザ研究したすぎてしょうがなくて毎日楽しいんだよね。新しいネタを見つけた感じで。


ってことでなんか中途半端だけどこんな感じでんじゃまた。