ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

郡司ペギオ幸夫について。

郡司ペギオ幸夫の「原生計算と存在論的観測」を苦労して読破したんですよね。いや、なんで買ったのか?ってペギオウォッチャーになってるからだよね(笑)集めるつもりは無くても気になるんで色々買ってたら出版物のほとんどを手に入れてしまいなおかつ読破してしまったという。それにしても相変わらずの概念の乱用と独自の定義によって成り立っていて理解するのが非常に困難な代物なのであった。細かいところをツッコんでたらキリが無いので、いつも俺が書くこういう類の話を読むとイライラしてくるっていう例の生成という概念ね。いや、生成という概念が悪いわけではなくてさ、いや、圏論の用語を使って観測者なるものを定義してるんだけど、圏論で言うところのサブカテゴリーってのが観測対象になってるんだよね。


DをCの観測対象と言うっつったところでさ、いや、数学的なオペレーションに観測という行為を入れるって無理じゃないですか?っつーかさ、そのあれなんだよな、全編に渡ってその自分が考える哲学体系を数学によって表現しようとしてるのか、それともポストモダン的な数学の乱用をしてるのか、その辺がよく分からないんだよね。アナロジーなのか厳密な意味で述べているのか、それが全く分からない。で、あたかも数学的に定義できるみたいな記述をして数学的バックグランドを与えようとするんだけど、そもそもその定義とか「何々を何々とする」みたいな仮定にそもそも同意できないっていうさ、そういうのをごり押しで仮定して勝手に話を進めてるんだよね。


で、「これはこうでこうなのであるからこうなることは必然である」みたいな、それらが前提条件とされていたり定義されているから必然的な帰結が導かれるみたいなやり方をするんだけど、こういうことやっちゃったら何でも証明可能じゃないですか?気のパワーの数学的証明とか霊的存在の数学的証明とか、何でも仮定できるならなんでも証明できるでしょう。もうオカルトのレベルですよね。これって。


あとなんかさ、正直、完璧に理解してるわけじゃないから何とも言えない部分はあるんだけど違和感を頼りに話を続けるとさ、なんか何かとクリプキパラドックスを出してきては繰り返す論法があってさ、俺の理解で言えばようは「俺は存在しているかどうかは分からない」ということも言語ゲーム的には可能なんであるみたいな話なんだよね。ようは全く意味がないことや誤っていることでも言えるという権利は残されていると。いや、そんなこと言ったら何でも言えるでしょう。でも何でも言えるからといって様々な規則の基盤が揺らぐか?って揺らがないじゃないですか?こないだ書いたけど数学の加法然りなんだけど1+1=2であるということは揺らがないじゃない?1+1=3と言葉では言えてもそれは何の意味も成さない言葉なわけじゃん?


これをさ、「1+1=3じゃないとなぜ言える?」なんて言い方をしたらさ、何でも疑えるじゃん?っつーか全く意味のない収拾がつかない懐疑論が永遠に続くことになるよね。1+1=3じゃないとなぜ言えるか?って色々と証明はあると思うけど、まぁこないだの卵の話ではないけどそれは事実なんだから理由なんて無いじゃない?いや、そうなると理由なんて無いからこそ1+1=3ではないとも言えないみたいな話にもなってたりするのよ。いやいや。言葉で言えるってのはそりゃ何でも言えますよ。俺は神であるとも言えるし、勝手に自分のルールで色んなものを仮定したら俺が神であることの数学的証明も可能でしょう。いや、分裂病の人とかよくやるよね。狂った仮定から狂った結論を導き出すっていう。ペギオワールドってこの狂気の世界に近いんだよね。本人は論理的なつもりかもしれないけど、色々な仮定とか「これは自明であるから」みたいな何も検証されないで勝手に彼の世界で自明になっているということが前提になって色々な理論が繰り出されるんだよね。


いや、観測の話でもさ、彼の体系の中で比喩的にDをCの観測対象、もしくはサブカテゴリーと言うって定義してるならいいよ。でもこれは圏論によって自分の言いたいことが定義されているのだってことになってたらおいちょっと待てよ!ってことになる。カテゴリー同士の関係性の中に観測なんて概念は入らないし勝手に密輸しないでください!ってことになるわけだ。んでもそんなの無視で勝手にそういったことが勝手に定義されて使われてるからそもそもの基盤がオカルト的でガタガタなんだよね。とてもまともな人なら同意できないような仮定とかも平気で「・・・であるとする」と勝手に定義されて話が続いてるんだよね。そういう狂った仮定なり基盤から出てきた話なんてそもそもまともじゃないじゃない?霊や気などの存在を認めるという体系で確立された物理の理論って科学じゃないっすよね?でもペギオワールドだと科学になっちゃうんだな。これが。


いや、霊や気の話をね、物理学の言葉でこういう風に仮定すると存在が証明できるって言うならまだ分かるんですよ。「霊や気は存在する」と仮定されてしまってはもうどうにもならないじゃないっすか?いやいや、そう言われてもなんか証拠はあるんですか?ってことになると例のよく分からない言語ゲームの話のパラダイムなんだかなんなんだか、自分は存在するということに論拠など無いのだ!みたいな感じで、何もかもに論拠が無いんだから何でも言えるワールドが展開されてるんだよね。本人はそういう何でも言える相対主義的なグダグダな世界観は批判されるべきだから、ちゃんとした言語の捉え方とか規範の捉え方が必要なんだみたいなことを言ってるんだけど、ペギオワールドが示すのは極めて反面教師的な何でもアリの世界なんだよね。


皮肉なことにペギオワールドって完全なる私的言語の世界なんすよ(笑)論理的に話すには誰でもイデオロギーや宗教なんかに左右されない自明なことが前提とされていないといけないはずなのにペギオワールドだと明らかに自明なことに論拠が無いということになったり、全然自明ではないことが勝手に彼の世界で「自明であるから」ということになってたりするんだよね。だから論理的についていけなくなっちゃうんだよね。あとヤドカリで実験をしたっつーのがあってさ、ヤドカリ同士の貝の部分の背中同士を接着剤でくっつけてヤドカリがどう動くか?というのを検証したっつーんだけどさ、ようはヤドカリにとって突っつかれたりしたら前に進むだとか殻に閉じこもるだったか、生存本能から決められている動きをするのにも関わらず、貝の部分の背中同士を接着剤でくっつけたら前に進むということが即、貝から抜け出すということになり、前に進むという本来の防衛行動がそのまま死に繋がることになるわけで、そんなアンビバレントな状況でヤドカリはどう動くか?ということを観察したっつーんだけどさ、まぁ言ってることは分からなくもないけど、ヤドカリを観察したって原理とも言えるような生存本能と矛盾の話なんて決まるわけがないじゃない?


思いつきでヤドカリで実験をしてヤドカリを動きを観察してブール代数的に言えばとかハイティング代数では・・・と言われてもさ、そもそもなんでそのヤドカリの背中同士の接着という実験の結果を一般論にまで昇華することができるのか、いや、俺はバイオ系の人間じゃ分からないけど、本来の防衛行動であるはずの行動を人為的にそれが自分を危機に晒すことになるという状況を作ってそれを観察して論理のパラドックスをどうのこうの・・・っつったってさ、これって所謂、一般論として証明するにはもっと大掛かりで途方も無い実験が必要になるんじゃないの?って普通に思うんだけどな。ヤドカリを観察しただけで原理を発見するのは無理だろう。んじゃあ蛙の場合はどうなのか?とか猿の場合どうなのか?とか人間の場合どうなのか?とかもう途方も無い話になるじゃないっすか?全ての防衛行動を持つ動物に関してその実験をするって無理だよね?まぁその実験が出来たところでパラドックスについての証明なり理論になったりするかどうかはともかくとしても、ヤドカリだけ見てもどうにもならないじゃないっすか?それって科学的理論ではないよね。


いや、こういうレベルの話がゴロゴロしてるんだよね(笑)何を言ってるんだコイツは!ってなんかさ、すげー緻密に数学の理論を使っていたり色んな専門用語を使って説明してたりして凄く頭が良さそうに見えるんだけど、素人でも納得がいかなかったり「は?」って思っちゃうようなことを平気で自明であるとかあたかも常識のように仮定してるっていう、場合によっては馬鹿としか思えないようなことも平気で前提としてるから呆れるんだよね。おいおい、そんな前提条件で話を続けても何にもならんだろって別に専門家とかじゃなくても分かるレベルのことをね、「前提とする」って言われてもさ、困っちゃいますよね。


どうやらペギオにとってクワス算というのは凄い概念装置であるらしく色んなところでこれを出してきては利用するんだけど何にも説得されるところがないのよ。いや、数学で言えばさ、こないだ書いたようにプラスがクワスとかカンスウがクワンスウになってたりするっていうそういう前提がまず認められないじゃない?そうじゃないとなんで言えるのか?ってそれは数学的に明らかでしょうっていう。それも自明ではないということになると数学的自明性というのを放棄した体系になって、まぁそれはそれでいいのかもしれないが、大半の人がついていこうと思わない論理体系の話になっちゃいますよね?


ペギオはプラスがクワスと区別がつかないというのを細かく色々と説明してるんだけど、これもこないだ書いたようにプラスってのは数学的自明性や論理とかそれ以前に卑近な例で卵が2つあったらそれはようは1+1=2なんだっていうさ、「足す」という概念の話じゃん?いや、それとクワスの区別はこうこうこういう理由で自明ではないと言われてもさ、1+1=2っつー自明性があるわけだからそれは揺るがないじゃん?それ自体に自明性が無いというその話の根拠が分からないんだよね。で、数学的にはこうこうこういう理由だから根拠が無いと言われても1+1=2の自明性は全く揺らがないんだよね。だからもうなんかさ、詭弁なんだよね。全部。ソフィストが永遠と詭弁を続けてるような印象しか感じないし「そうか!」と分かるということが全く無い。そりゃそうだ。論理的な自明性や、そもそもの普通の人間が持ってるコモンセンスというのに立脚してないわけだから納得のしようがないわけだ。


今、俺は250GBのマックでこれを書いているけど、「可能世界では全世界全てのマックのデータ容量が実は自分のマックの容量の実際の大きさなのだ」って言えたところでこれって意味ないじゃない?明らかに違うが言うことはできるよね。それ言い出したらなんでも言えるわけですよ。このなんでも言えるワールドの意味ってあるのか?ってそもそもこれについて述べる必要性とか価値が無いじゃん?世の中全ての女性は俺のものなのだ!って言う人の話を真剣に聞くんですか?ってことだよね。もしくはそういう前提に立った人が述べる女性論って価値ありますか?ってことだよね。世の中全ての女性が自分のものではないということを示す論拠は無いと言うことは可能であるってまぁそうだとして「で?」って話じゃん?典型的な詭弁ですよね。これ言い出したら何も論拠や根拠なんて無いじゃん?そんな世界を認めてるとは思えないんだけど、それを認めてるとしか思えないような話が永遠に続くんだよね。それで物理も言語ゲームだなんて言われてもトンデモにしか聞こえないですよねっていう。


あとはまぁペギオワールドにおける「言語ゲーム」の定義で言えば物理も言語ゲームの中に入ってしまうのであるということはあると思うけども、それって共有できない前提じゃないですか?もしくは一般的な論理とは違うかもしれないから自分の論理によってこの言語ゲームを定義すると・・・的な説明がほしいですよね。説明がほとんど無いんですよ。困ったことに。で、彼の意味する世界や言葉や哲学概念が勝手に彼の中で自明なものとして展開されていくんだよね。そりゃ他人が理解できるわけがない。っつーかなんでこんなものが現代思想に「論文」として載っていたり、まとめた本が東京大学出版会から出てたりするんだ?っていう。こんなんだからソーカル事件みたいなのが起こるわけじゃん?数式や数学的概念を乱用しても査読で引っかからなくて論文として載っちゃうんだから。


っつーかペギオの本というか論理展開は毎回こうなんですよ。自分のルールを世の中でも当たり前のように共通前提として認められているみたいな前提で勝手に話が進むのね。あとAがBになる場合、CはDになるのでEということになってしまう・・・っていう推移性みたいな→のプロセスに何の説明も無くただAがBになった場合、CはDになるのでEになるということだけが述べられてるんだよね。このプロセスが理解できないわけだから理解できっこないわけだ。あとは論理的にはAがBになる場合・・・のプロセスをフォローできてもAがBになるというプロセスが全く理解不明だったり自明じゃなかったらそもそも意味がないじゃない?もし自分に超能力があったら・・・みたいな話にもならないような前提を仮定されてもさ、その後の話って意味ないよね?酒の席とかの話題にはなっても真剣な話にはならないだろう。言語的にそれは言えるということの価値や意味って無くないっすか?ナンセンスを言える価値はあれどナンセンス自体に価値は無いでしょう。ペギオワールドだとダダイズムの世界とかも意味論の世界になりかねないんだよね。意味のなさの自明性が無いわけだから。


なんかあれだな、論理的な詭弁は頓知ってのはよく見かけるけど、それらしい数学的証明を見せて実はなんの自明性も無いって酷いと思うんだよね。ましてやそれは本人の無知によるものだから意図的なものじゃないじゃない?騙そうとしてやってるわけじゃないんだよね。そういう意味での「知の欺瞞」ではないわけだ。あ、まぁそれで言えばソーカルの槍玉に挙げられてたような連中も騙そうという意図は無かったよね。天然で間違えてたわけだから。ただペギオが特殊なのはポストモダンの連中と違って一見高度に見えるし分からない人が見たらそれらしく見えちゃうじゃん?そこがマズいんだよな。


訳の分からない頓知を永遠と続けてるのはいいのよ。自分は存在してると言えるだろうか?存在していないと仮定した時には・・・っていう話が続く分にはいいんだ。全然。そりゃ思想の自由ですから何やったっていいんですよ。ただ科学の用語とか数学とかっていう定義がちゃんと定まっているようなものに対して独自の見解や定義を勝手に持ち込んで乱用するってのは一種の破壊行為ですよ。アナーキストの爆弾みたいなもんだよね。これ。しかも体裁がちゃんとした数学の証明っぽく見えるから分からない人は絶対に騙されるっつーかそういうもんだと思っちゃうじゃないですか?これが一番問題なのよ。まぁ騙してるわけじゃないか。悪意があるわけじゃないからね。ただ悪意の無い爆弾って一番タチが悪いですよね。


それで言うと高橋昌一郎の限界シリーズとかさ、分からない人が見たらそういうもんだって思っちゃうっていうミスリーディングがあるやつにしても、なんつーかああいうのって一般書だからしょうがないっつーかさ、適当な部分があるからこそ分かりやすく見えるとかね、厳密に定義をしていったら一般書の体を成さなくなるとかさ、それってまぁ一般書が持つ普遍的な問題じゃん?だから別に高橋昌一郎がそこまで悪いとは思わないんだよね。馬鹿だと思うけどだからこそ大衆向けの本を書く能力に秀でてると言えなくもないわけで。んでもペギオの場合、最悪でしょう。数学の定義や科学用語の定義そのものを壊してるんだから。高橋昌一郎の場合、あんなもんで分かった気になるなんて新書に犯されてる証拠だねっていうまぁリテラシー不足って話で落ち着いたりもすると思うんだけど、ペギオのやつは学術論文として認められているという中で凄まじい数学の乱用と勝手な定義をしてるんだからこれは破壊度が違いますよね。


いや、昔の俺だったら騙されてますよ(笑)ペギオ圏論圏論を理解したかもしれないし。今は前に比べれば数学リテラシーが付いてきたからこそこういうことが言えるようになったっつーのはあるんだけど、んでもだからこそ凄まじく許せない!って話になりますよね。勝手な定義とか勝手な解釈を数学的に定義されている自明なことのように見えるって最悪じゃないですか?「こんなことはカントも言っていることだ」とかって言っているのを批判的に見て「本当なの?これ?」っつって実際にカントを読むとかって良いリテラシーですよね。で、違ったら「こいつの言うカントは信じられない」ってことになったりするわけじゃん?他にも信じられないことがあると「そもそもこいつの言うこと自体、価値があると思えない」ってことになるわけじゃないですか?そりゃ適当なこと書いてればそうなりますよね。そういう評価を与えられてもしょうがないじゃないっすか。


高橋昌一郎はそういう余地があるからね。知識が付いてくれば「こいつ適当なこと書いてらー」って思えるじゃない?でもペギオの場合、独自のものをあたかも数学的に正しいかのように見せているという意味でさっきも書いたかもしれないけど本当に最悪なんすよ。言わば私論を数学という普遍的なツールを使って普遍性があるように見せるってことだよね。あとは数学的事実という論拠があるというように見せるとか。悪意が無い分、最悪なんすよ。本当に。天然でそれをやっちゃってるわけだから。


論理の飛躍が凄過ぎてぶっ飛んでる!っつーもんはキワモノとして面白いじゃないですか?でも根本的な部分で概念エラーがあるものに関してはぶっ壊れたコンピューターみたいなもんで何の価値も無いよね。ぶっ壊れたコンピューターが何を出力しようが壊れてるわけだから意味ないじゃないっすか?基本を押さえててめちゃめちゃな論理の飛躍をさせて独特の体系を作り上げている変わり者だったらむしろ大歓迎だよね。でも基本が完全に間違っているっつーんじゃ話にならんでしょう。「一般的な数学の証明というのはそうかもしれないが、自分の証明は違うのだ!」って言うぶっ飛び方じゃどうにもならないってことだよね。


厳密な数学の証明があってそれの解釈を巡って違いがあるっていうんだったら分かる。でも「数学の証明の仕方」という基本の作法の考え方がそもそも違う人って話にならないじゃん?証明にならないものを証明と言うような人なわけだから同じぶっ飛んでるでも悪いぶっ飛び方ですよね。ずーっとあんな調子でやってるわけだから本当に本人は気がついてないんだろうな。逆にあれだけ色々と数学について知ってるのになんであんな乱暴な数学の使い方を出来るのかすげー疑問なんだよね。俺なんかは数学の知識が付いてきてからはむしろ純粋数学の汎用性の無さに唖然とするぐらいなんだよね。それ自体がそれそのものなので、これと同一の構造やメカニズムを持っているものを自然界に見いだそうとしても非常に難しいだろうなっていうような、いや、数学の同一性ってそんぐらい汎用性が無いっつーかまぁ曖昧さが無いわけだよね。


だからこそ「これは数学のなんたらにおけるなんたら構造と同一である」なんて言うものならもう逆に書く人はさ、完全なる論証が無いと怖くて言えないわけよ。論証があっても怖くて書けないかもね。適当じゃいけないからその論証にも多大な時間と労力を必要とするわけだよね。それこそちょっとした一致を論証するためにラッセルとホワイトヘッドのプリンキピア並の分量を必要とするかもしれないんだよね。そんぐらい数学的論証って骨が折れる作業なのよ。普通やろうと思わないからせいぜい含意ぐらいにとどめておくっつーのが知的誠実さだと思うんだけど、ペギオのってそういうのが微塵も感じられないんだよね。自分の中で同一ならそれは同一なんだっていうそういう思い込みの世界なんだもん。凄まじく乱暴ですよね。そういう態度で科学をやってるっつーのが腹立つんだよね。科学者の態度と正反対だろう!って思っちゃうわけで。


んで「それを哲学は示してきたのではなかったのか?」なんて偉そうに言ったりもするんで哲学の価値をよりいっそう貶めるものにもなってるんだよね。「あ、やっぱり哲学者ってこうなのね」みたいなさ、「あー哲学者らしいなぁー。適当なことやってるわー」って印象を与えちゃうんだよね。そうそう。哲学用語でも独自の定義があるのよ。まぁ哲学用語は科学や数学と違って厳密な定義ってのは比較的無いかもしれないけど、でもまぁ大体の理解ってのはあるわけですよ。んでもこの人の場合、哲学用語も例によって本人の独自の解釈とか定義によるものがあったりして、ついていけないんだよね。そんな定義を前提に話されても困るんですけど・・・的なことが数学の面においても哲学の面においても起こってるわけで。「こんな反論が予想されそうであるが、それはこういう意味において間違っている」みたいな反論に対する回答にしてもそんなことがあるんだよね。その反論もまた答えも独特のもの過ぎて反論と回答という関係性が成り立ってないのね。独特っつーかまぁ自分の論理で答えてるからそりゃなんでもそういうことになるんだけど。


なんか書く前はそうでもなかったけど書いているうちにどんどんとイライラしてきたな(笑)まぁ興味ある人は読んでみてほしいんだよね。偏見無しに。多分理解できないと思うんだよね(笑)逆に完全に理解してるっていう人の明確な解説を聞いてみたいぐらいなんだけど。


ってことで今日はこの辺で。