ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

nさんへの私信。

西田幾多郎の「一般者の自覚的体系」を読み終わりました。ということで思ったことを書きたいんですが、まず西田幾多郎が考えるイデアと僕が考えるイデアは若干異なるということですね。ノエシスノエマ構造でイデアを定義していますが、この場合、ノエシスノエマという相互的な関係が成り立ってしまっているのでイデアの普遍性が人間主義的なものに還元されてしまっているような印象を受けました。僕が言う「プラトニックな楽園の鍵」というのはあくまで一方的なものなんですよね。イデアの存在自体はそれ自体への志向性をアプリオリに持っているので実在性があるように思えるんですが、でもそれは鍵を開けたからといって全てが分かるわけではなく、あくまでイデアを部分的しか志向できないし思惟もできないと思うんです。


部分を見ることでより大きな部分を予想したりすることは可能ですが、ノエシスノエマ的な関係だと閉じている体系同士の相互関係という感じがするんですね。そもそもイデアの全体像というのは不可知だし、比喩的に言えば神のみぞ知るみたいなものなので、そもそも全体像については不可知なものに関しての人間側の一方的なアクセスが可能な場合もあるという蓋然性だけだと思うんですね。特にそれが数学的実在などには顕著であるということです。


数のイデアが分かってもそれはイデアの部分的なもので数のイデアとして独立しているのではなく、もっと数の体系とかそれこそ数学というイデアにおける部分的な要素でしかないかもしれないわけです、というか僕はそう考えています。僕が数学における意識の拡張を感じるというのも、ノエシス的契機がより大きくなったりスコープが広くなるという感じなんですよね。でもあくまでそれはスコープ越しに見える数学なので、そこではあくまで部分的対象のノエマしかないわけです。「木を見て森を見ず」ですね。でもそれは森を見ようとしてもスコープの性能が限られているので現在では実質的に森を見ることが不可能というある種の物理的(理論的)制約があるということですね。


ノエシスノエマ構造の場合、数学の全体像をノエシスによって見ていないとこういった関係性は成立し得ないと思うんです。僕がディティールにばかりこだわり過ぎないダイナミックな数学感を養おうとしているのも、全体を見るのは不可能だけどなるべく森を見ようとする志向性を持ちたいと思うからなんですよね。


あとはノエシスノエマ構造の問題はノエシス的契機に関して、例えば現代数学量子力学といったような理論から物事を見るときもそれはノエシス的契機と言えるのかどうか?ということですね。例えばホーキング博士は確か5次元ぐらいまでの世界なら想像できるらしいんですが、普通の人間には不可能なことですよね。こういった知識や頭脳といったアプリオリなものよりかは後天的に得られた能力によるノエシス的契機の拡大というのは人工的なノエシスの強化という感じがするんですね。でも恐らく100年後ぐらいには平均的な人間のノエシスも拡大していると思うので、結局はノエシスイデアの関係性は人間の能力や知識量に依存する相対的なものということになりますね。


ここから分かるのはやはりユクスキュルの環世界的な世界感ですね。個々によって物象の世界やイデアの世界の見え方が変わるわけです。でも観察される対象の性質が個々の見え方によって変化するということはないので、例えば机という物に関して色々な見え方があろうが机自体の性質は変わらないのと同じく、イデア的対象の性質も変わりません。しかしここで問題なのはイデア的対象の見え方は机やコップといった物理的なモノ自体以上に主観に依存してしまうということです。で、究極的に言ってしまえば主観に依存したイデアの見え方なので、それが普遍的なイデアかどうか?というようなことは判断できないということになります。でもイデアを見るスコープの性能が高い人達には明らかに見えているイデア的な世界がある。でもそれはモノ的な絶対的存在なのではなく超感覚的な「なんとなく」というような抽象的なものだと思います。イデアは超越的な存在であるので意識や志向性程度のものでは把握できないと思います。


唯一、ノエシスノエマ構造が成立するのは神的な存在においてのみだと思います。超越的な視点と超越的な対象という同じレベルの超越的なものにおける関係性によってのみ成立するというものだと思います。結局、ノエシスノエマ構造を成立させない原因の根底にあるのは人間の認識や知識の不完全性ですね。でも不完全な状態でも見えるイデアはあるけども、ノエシスノエマ構造が成立するほどイデアを見るものとイデアという対象自体の関係性のバランスは無いという感じですね。でも西田の議論を応用すると、たとえ全体像が見えなくても、それでもイデアの全体像を見るためにスコープの精度を必死に上げようとするという態度がエロスであり善なんだと思います。逆が諦めやニヒリズムですね。これが悪というわけです。


ニーチェで言えば力への意志ですね。これの場合、悪の克服こそが善という構造になります。なので人間の限界や不完全性はむしろ善の追求に関しては積極的に肯定されるし必要悪だとされるわけです。僕が善く生きることがクソみたいな人間や社会で成り立っている現実への最高の抵抗になるし、それを実践して生きていれば自ずとそれはレジスタンス活動になると言うのもこういう関係性における話ですね。ここで何もかもが駄目だって諦めるのが最悪の考え方で究極のニヒリズムだと思いますし、斜に構えながらアイロニストとして生きるなんてのは完全な負け犬の思想だと思っています。勝てないだろうけど勝とうとする態度っていうんでしょうかね?そこには論理的な理由と非論理な理由が矛盾せずに存在しているという感じですね。こういうのを「弱者の理論だ」っていう人もいますが、そういう人こそがまさしく弱者であり負け犬なんだと思います。現実社会では勝っているつもりでも精神面で完全に現実に負けているということですね。つまりは根本的に奴隷と変わらないということです。


イデアへの憧れとしてのエロスというのはこういったような不完全な人間における生のパワーの源という感じがするんですね。それがあると思えるからこそ生きられるぐらいのものかもしれません。まぁ構造的には宗教と同じなんですが、でも宗教と根本的に違うのは超越的なものに依存しているということではない、言わば主意主義的なプラトニズムだからです。


なぜ主意主義的なプラトニズムなどがありえるのか?というと先ほども書いた人間の不完全性とイデア的対象の定義の決定不可能性です。あくまで「これはイデアなのだ!」と言えるのは憶測による断定でしかありえないので、結局は価値観や信念の問題になるんですよね。そんなの人間中心主義じゃん!と言われても、個人が個人のパースペクティブを通してイデアだと思えるようなものを知覚した場合、それをイデアだと決めるのは個人しかありませんからね。でも究極的に言ってしまえばそこに机があるものを「机だ!」と断定するのもまた個人ですよね。これはまさしくカントの言う「物自体」です。


数学で言えばイデア的なものを知覚すると言う経験を通じてしか存在は正当化できないわけですが、「数学自体」は超越的な神のような視点でしか見ることが出来ないので、その存在は蓋然性でしか語れないものということになります。これが言わば人間の限界ですね。でもイデア的対象ではない学問としての数学は今後も進化していくだろうし、1000年後の数学なんて想像も出来ないので、これも一概に人間の限界とは言えないところはあるんですよね。今の時代の我々の限界と言ったほうが正しいかもしれません。結局、学問としての数学の発展というのはイデア的対象へのパースペクティブを広げたり解像度を鮮明にしたりするということなんだと思います。


でもまぁなんというかそういうことを決めるにはあまりにも知らないことが多すぎるという感じですよね。ペンローズがプラトニストな理由もこういうところなんだと思います。でもまぁこれは何千年かかるかは分かりませんが時が解決すると思っています。


とまぁこんな感じでとりあえず今回はこの辺で終わりにしたいと思います。返信お待ちしております。