ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

今後はDJ路線?。その9。

では続きです。


まぁでもあれだよね、DJっつーか特に生音DJの奥深さってのを再認識して「DJ極めたくなってきた!」ってまぁそれは他がいろいろと冷めてきたり先が分かってきたから「なんかないかなぁー」ってことになって今のところDJになってるんだけどまぁなんつーか別にそれがやりたかったらやればいいって話だよね。結局。いつも書く内発的な動機付けで好きなことをやるっていうことなんだよね。別にそれで食えるとか職業として成り立つかどうかみたいなのとは関係なしにやるっていうさ、逆に「やっても食えない」って理由がやらない理由にはならないからね。まぁでも大体そうだと思うんだよね。内発的に好きだ!っつってやりたい!って思うことなんて大抵実利は無いもんでしょう。いつもこれってあるよね。


実利にしようとする場合、それまでが大変でただ好きだからやりたいっていうところからはみ出ちゃうっていうさ、んでもそう思うとそれ自体と現代社会においてそれを社会的活動としてやるって全然違うよね。学問にすればただ研究するだけじゃなくてまぁ色々やり方はあるにしても所謂、プロの場合、博士号を取ってアカポスをとってアカデミアに在籍しながら日々の業務をこなしつつ研究も進めるってことでお金が払われるって意味でプロなんだろうしさ、まぁ論文書いてちゃんとした学術誌に掲載されればその時点でプロってことでまぁやってる数学のクオリティでしょってことでもあるんだけどさ、ようはでもなんつーのかな?アカデミシャンであるってことはまぁようはそういう業界でやっていくっていうことじゃん?


それこそ普通に通勤するだとか職場の人間関係とかなんだとかっていうさ、で、まぁ大抵教えるわけだから指導者としてどうなのか?っていうところだったりもするじゃん?まぁ指導者として優れているってのはそんなに重要視されない気もするけどまぁでもなんつーかDJも同じだよね。DJだけだったら一人でもできるけど業界でやっていくってのはまた別だし、まぁ散々書いてきたように結局はネームバリューが勝ったりするわけじゃん?それはまぁセレブDJみたいへのディスってことなんだけどね。もっと職人DJを尊重しろと。声優で言えば芸能人とか俳優起用するんじゃなくてちゃんとプロの上手い声優を起用しろよ!って話だよね。宮崎駿みたいにプロの声優の演技が好きじゃないって理由でプロの声優を起用しないというのはあるにせよでもまぁ大抵の場合、見てる側が不快になるじゃん?


上手ければいいけど下手だとその俳優の顔しか浮かばなかったりして物語に集中できないとかさ、あとやっぱまぁその声優のテクネーに対するリスペクトだよね。それはソーシャルキャピタルみたいなもんじゃないですか?そこに金を払えばそういう人たちがプロとしてやっていけるけど何でもネームバリューだなんつって有名な人を起用ってことになればそりゃ芸能人とかセレブってことになりますよね。こういうの全般を俺は芸能臭さってさっきから呼んでるんだけどね。


でも別に芸能人じゃなくても結局はDJとして有名になるには芸能臭さを発揮するしかない的なさ、芸能臭い売り方をして有名になってるDJってのもいるよね。で、そういうのは大抵まぁ選曲良くないんだよね(笑)あと大衆に媚びてるような選曲をするだとか。まぁでもDJはサービス業だから客が喜ぶものをかけるのがDJだっていえばそれまでなんだけどさ、でもやっぱそこって違うと思うんだよね。だからまぁDJの価値っつーかそもそもDJって何なのよ?って話になるんだけどさ、例えばレアグルーヴ的な価値観って骨董品とか茶道みたいなのに通じるものがあるじゃん?


無名のそんなに演奏も上手くないやつらが無骨な演奏をしてるんだけどその朴訥さがクールで異様なグルーヴをかもしだしているとか完全に骨董品とか茶碗の価値みたいなもんだよね。それ自体は美術品として作られたわけではなくて普通の人が茶碗として使うものを作っただけなんだけど、茶人的な見方から見ると絶妙な寂び寂びがあるとかさ、まぁレアグルーヴってそれ自体がやっぱかっこいいからそこまで通な話でもないと思うんだけど、でもまぁ大衆的な音楽とかトップ100のEDMとかとレアグルーヴを比べるとってまぁ全く別物だから比べてもしょうがないんだけどただでもやっぱ玄人から見ると「なんでこの良さが分からんかなー」みたいな世界にも成りかねないじゃん?


職人的なDJっつーか特に分かる人には分かるみたいな玄人好みのDJとかってそういうまぁ閉鎖的な感じにもなりかねないんだよね。まぁでもあれかな、俺の印象だと90年代はクラブとかも音楽通がまだ多かったって気がするわな。2000年前半以降音楽リテラシーが著しく落ちてるって気がするよね。で、パーティーがどんどん下世話なものになって音楽好きはクラブに行かなくなっちゃうみたいなそういうイメージを持ってたけど今色々調べててもまぁ実際そうだなって感じはあるよね。結局まぁくだらない曲ばっかかかるパーティーが増えてるとかどこ行っても同じような曲が流れてるってようはそういうことだもんね。あとまぁbeatport的なインターフェース自体がDJの選曲に影響してくるわけじゃん?


インターフェースが何かに影響を及ぼすって色んなこと全般に言えるじゃん?電子書籍がメジャーになることで読書が変わるとかさ、まぁ実際は日本ではそんなに電子書籍は普及してないんだけど、まぁDJに関していえば昔はレコード屋とあと店のPOPとディスクガイドと雑誌のディスクレビューとかDJのヘビロテランキングぐらいしか情報源無かったじゃん?80年代とかになるともう現場にしかなかったわけで。でも今ってランキングってのがあってそれで1分以上視聴できちゃうからランキング100みたいなのを流しっぱなしにして気に入ったのをチェックするみたいなのが可能になってるんだよね。多分みんな同じようなことをやってるから選曲も同じになるんだろうけどさ、まぁ今のほうがそりゃ便利だし音を聞いて買ってるからそりゃいいんだけど、まぁそういう意味で別に昔が良かったってわけじゃないんだけどさ、まぁそりゃあれですよ、まぁそもそもディスクガイドとか無かったからさ、ディスクガイドとかなんて2000年以降だからその前はやっぱまぁ雑誌のGrooveとかをチェックって感じだったと思うんだけどっつーかまぁだからDJチャートとかに入った音源が高騰するみたいなことがしょっちゅうあったにせよでもまぁ人によるって感じだったし、あとはまぁひたすら掘って視聴して気に入ったら買うっていうやっぱ元のDJの掘り方ってのがあったよね。


ネットでEDMランキング100視聴ってことになると変な話、DJと一般の消費者とのチョイスの差が生まれないよね。DJってよくこんな曲知ってんなぁーってのがあったりするんだけど今はインターフェースが便利になったから時間さえかければ普通の人でも死ぬほど音は聞けるよね。まぁだからDJ的でいるかどうか?ってのがモロに音源探しに影響するわけなんだけど、んーまぁでも書いてて思ったけどまぁどっちとも言えないね。やっぱ今は便利だから昔のほうが良いとは言えないわな。あとジャズとかのデジタル音源解禁!っつって色々買ってるんだけどいや、ようやくmp3リリースっての結構多いよね。2010年から今ぐらいまででちょうどジャズとかレアグルーヴが流行ってた90年代から2000年代前半ぐらいに再発されたっきりだったのがようやく最近になってmp3リリースされてるってのは結構あるね。だからまぁ色々買えるのよね。


あ、んでさっき骨董品って書いたけど骨董品ってのは単純な希少性って要素が多いからあれだね、レアグルーヴは茶器とか茶碗みたいな茶道的な価値観なんだよね。あとファンクの45回転とかもまぁそんな感じがするよねっつってもまぁ侘び寂びっつーよりかはやっぱ単純にすげーグルーヴ感があるっていう即物性があるんだけど。なんつーのかな?だから分かる人には分かる的な世界観ってサービス業としてのDJとしてはタブーだよね。集客力がある人がやるなら別だけど。やっぱ単純に踊らせなきゃいけないとか場を変な空気にしちゃいけないとかってのがあるからね。まぁでもそんな制約実際はいらなくない?ってことになるとターンテーブリズム寄りになるんだよね。タンテを使って演奏するっていう部分にフォーカスするっていうさ、まぁでも良いDJってサービス的な面も当然クリアしながらターンテーブリズム的な演奏するみたいな世界観も提示してるよね。


でもまぁこれもホントにあれなんだよね、ブラインドっつーか誰が回してるってのが分からない中でさ、まぁ料理とかワインとかと一緒でさ、何個かミックスがあってどれがペーペーのミックスでどれがキャリア20年のミックスでしょうか?ってまぁこれもジャンルにもよるけど「分かる」って言ってる人でも間違う場合もあるよね。ましてや演奏自体はそりゃそもそも音楽をかけてるわけだから上手い下手ないし。あ、ようは音源ってことね。ベースが下手糞だからこれはペーペーだってことにはならないってことね。ペーペーがかけるJBとキャリア20年がかけるJBでもそこだけ見ればそりゃJBだから違いは無いよね。流れを見たときにやっぱ違うなってのがあるわけで。あとまぁ単純なスキルの部分は相当PCDJによって楽になってるってのはあるみたいね。なんかこうやって色々書いてると興味が出てきたからseratoとtraktorの解説書を注文してしまった。ようはあれなんだよね、リサーチ対象になってるからDJ機材周辺に関するテクノロジーの変化ってのも考察対象になるんだよね。DJモードってそういうことなんだよね。DJやるっつーよりかはDJそのものを研究対象にするって感じだよね。


あ、あと分かる人には分かる的な世界観と言えばあれなんだよね、高橋悠治小林秀雄的なスノッブな感じのクラシックの鑑賞に関するディスだよね。確かこんなんだったと思うんだけど、大阪だったかの歩いてるときにモーツァルトのなんたらって曲が頭に流れて云々・・・っていうなんつーのかな?茂木とかもモロそういうブルジョワ臭い似非教養人臭い音楽鑑賞をしてると思うんだけど、っつーかこういう場合、引用が最適なんだよねってことで引用するっていうかその「例の部分」を引用するために原書から読み直してってのは大変なんだけどネットの場合、その引用したい部分だけをまた引用できるじゃん?で、その「例の部分」ってよく話題になる部分なんで引用されてたりするページってのがあって適当に検索して当たったページからの引用をするんだけどね

「ある冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである」。この一行は、以後の日本の音楽批評のパラディグマになった。だれもが音楽との「出会い」を書くことで、音楽論に替えようとする。そのとき、自分をできるだけあわれっぽく売りこむこともわすれない。
 

この種の出会いを書くことは、実際にはたいへんむずかしい。何気ないたったひとつの記憶を伝達するために、プルーストは「失われた時」の全体を必要とした。「ある時モーツァルトのメロディーが頭の中で鳴った」などというのは、読者には何のかかわりもない偶然にすぎない。そこに引用された楽譜は、何でもよかったのだ。「自分のこんな病的な感覚に意味があるなどというのではない」。そのとおりだ。


批評は文学であり、「批評の方法も創作の方法と本質上異なるところはあるまい」と言う。このねたましげな表現にかくれて、小林秀雄は作品に対することをさけ、感動の出会いを演出する。その出会いは、センチメンタルな「言い方」にすぎないし、対象とは何のかかわりもない。冬の大阪で、小林秀雄の脳は手術を受けたようにふるえたかも知れないが、モーツァルトのメロディーは無傷で通りすぎてゆく。出会いは相互のものでなければならない。
 
この本は、つまらないゴシップにいやらしい文章で袖を引き、わかりきった通説のもったいぶった説教のあげくに、予想通り、反近代に改造されたモーツァルト像をあらわす。
 

作品について書かれた例外的な個所では、そのまわりをぐるぐるまわるだけである。うす暗いへやで古いツボをなでまわしながら、「どうです。この色あい、このつや、何ともいえませんね」などと悦に入る古道具屋には、かつて水をたくわえるためにこのツボをつくった職人の心はわかるまい。
 

ゴシップのつみかさねから飛躍して、「誰でも自分の眼を通してしか人生を見やしない」とか、「ヴァイオリンが結局ヴァイオリンしか語らぬように、歌はとどのつまり人間しか語らぬ」などの大発見にいたるそのはなれわざには、眼もくらむおもいがする。やがては、「雪が白い」とか、「太郎は人間である」というような大真理だけを語ったことを感謝しなければならない日もくるだろう。


日本の音楽批評は、小林秀雄につけてもらった道をいまだに走りつづけている。吉田秀和や遠山一行や船山隆が、まわりくどい文章をもてあそんで何も言わないための「文学」にふけり、音楽の新刊書はヨーロッパ前世紀の死者へのレクィエム以外の何ものでもなく、死臭とカビがページをおおっている。「近代は終わった」とか「現代音楽は転換期にある」などと言う声をきけば、吸血コーモリのようにむらがって、できたての死体の分け前にあずかろうとするが、自分たちが二世紀前の死体の影にすぎないことには、とんと気がつかないらしい。


引用の引用元


http://d.hatena.ne.jp/n-291/20101006%23p7


この「うす暗いへやで古いツボをなでまわしながら・・・」の部分ってオーディオマニアのジャズ親父的なものも一緒じゃん?っつーか俺が昔から嫌悪してるタイプの音楽鑑賞の仕方なんだよね。オーディオマニア批判ってのは散々書いたから今は書かないけどさ、なんかでも結局、オリジナル盤にこだわるみたいな部分って少なからずそういう部分があるよね。レコードマニアの気持ち悪い部分ってここだよね。まぁ俺はそれはありますよ。レコード自体が好きだから。でもなんかもっとそういう媒体とかヴィンテージだとかオリジナルだとかそんなこと抜きにさっきから書いてる音と自分の感性っていうところだけで考えると媒体なんてどうでもいいんだよね。レアだからとかオリジナル盤を手に入れた!なんてどうでもいい話で音がどうなのか?って話なわけだから。で、レアグルーヴ系って逆にここが便利なのかさっきから書いてるように盤で言えばただのフュージョンだったりして目当てのキラー曲以外は何の興味も無いみたいなものも多いわけよ。


でも昔はその曲のためにアルバム全体を買う必要があったんだけど今はピンポイントで買えるからコストもかからないし場所も取らないしってことで便利ってことになるんだよね。骨董趣味的な部分を無くすとまぁ凄くすっきりしてるっていうか。あとまぁ誰でも買えるからレア度とか関係ないじゃん?いや、こういうのを無くしたところにこそ本当の価値ってあるよね。どっかのコンピに入ってレアじゃなくなっちゃったからもう興味ないっつーのはただレア度っつー特権性だけで回してたってことじゃん?いや、レア度で言うとそれこそ有名DJとかでもプロモなんつってレア音源を限定でヴァイナルカットして高額で売ってたりとかさ、レア度って何かと不健全なところが多いんだよね。ミックステープなんかもまぁ別にブートってこと自体は別にいいとしてっつってもヴァイナルカットの音源そのものを売るブートはどうかと思うけどっつってもまぁそういうので助かってたって部分もあるんで俺はなんとも言えないんだけどねっていうか俺が持ってたっつーか今でも持ってるのはヨーロッパとかのブートのコンピなんだけどね。


まぁそれはともかくレア度って意味だとそれだけが価値でなんかあたかもそれ自体に価値があるように思えてきちゃうじゃん?でもこれに関する違和感は変わってなくてさっつーかそこまで思考力が無かった昔の俺でも感じてたことで当時はユーロジャズなんてのが有名DJの間で回されててみんな血眼になって探してるみたいな感じだったんだけど印象としては別にあんなのアメリカのハードバップのコピーなんだからジャズメッセンジャーズとかかけてりゃ音的に別に変わらないじゃん!ってことだったんだよね。3000円ぐらいまでだったらまだしも何万っつー単位になってまでそれを手に入れなきゃいけない必然性があるのか?って話じゃん?ましてやいつの時代もにわかってのはいるからなんちゃってDJが「誰々がかけてた」って理由で全然ジャズの基本も押さえないままいきなりレア盤とか買ってクラブでかけてるみたいなさ、これってすげー表層的っつーか薄いよね。


一昔前のクラブジャズブームってこういう薄っぺらさがすげーあったと思うのよね。で、当時から俺はそれよりかはUK Jazz DanceとかUKの原初的なレアグルーヴっつー感覚が好きだったからacid jazzレコードとかから出てるコンピとか買ってたんだけどさ(笑)安かったし、あとverveとかそんなに高くないものも多いからね。いや、余裕で踊れそうな曲入ってるよねぇーっていうさ、なんでそれでユーロジャズなんだろうな?って思ってたよね。サントラにしても別にレアなのじゃなくても普通にレコファンとかで売ってるのとかでもラウンジでかけれそうなのとか結構あるからさ、なんかやっぱああいう取り上げられてレア度とか珍しさで価値が上がるみたいなのはすげー嫌だなって思ってたんだよね。で、今ってそういうのが中立化されてるよね。


まぁ今っつーか音源をネットで買うのが主流になって以来そうなんだけどさ、ようはそういうのでレアだとかって騒がれてたのも残酷なぐらい安い値段でmp3で買えちゃうじゃん?再発CDとかはやっぱ媒体がCDってことで再発自体も値段が高くなってたりするのが多いからやっぱmp3がベストなんだよね。まぁベストって言い方はおかしいか。まぁそりゃCDのほうがいいんだけどあとまぁ別途に送料かかるからこまごまとしたものを色んなところから買ってるとそれだけで馬鹿にならないっつーコストの問題もあるよね。まぁそこはだからあれだよね、本当にDJやったときに使う頻度が高いやつは高くてもCD買うとかね、マスターの音がそもそもあんま良くないやつだったら別にそんなCDとかにこだわる必要も無いと思うんだけどね。


ってことでまた続く感じです。んじゃまた。