中国拳法について。その2。

理屈で分かってても体が動かないってのはまぁ当たり前じゃないですか?体を使うことに関して知識だけ得られればできるようになるのか?っていうとできるわけがない。どんだけ精密に自転車の乗り方ってのを乗らずに研究したところで乗れるようにはならない。まぁ乗るための知識ってのは乗る練習をするときに役には立つけど習うより慣れろじゃないけどさ、自転車なんてまぁ乗る練習をすればいいわけだよね。


じゃあマーシャルアーツ全般どうなのか?っていうとそこが凄く難しいところでさ、完全に間違った体の使い方とか力の使い方とか動きをしたままその動きを練習しても意味ないどころか悪癖がついちゃってマイナスにもなりかねないんだよね。だからこそ良い師匠を見つけて師事するしかないってことになるけど前にも書いたけど道場って別にあるからっつって必ずしもちゃんとした人がやってるかどうかなんて分からないからね。だから結局やっぱ文献なんだよな。俺は幸いにも良い文献の見分け方ってのを長年本をディグってるおかげで身につけてるけどさ、やっぱり英語だと凄く豊富にあるよね。


やっぱりチャイニーズアメリカンってのがいるわけじゃん?中国系のアメリカ人とかあとはまぁ中国で生まれたけどアメリカに移住したとかさ、そういう意味でアメリカと中国って近いよね。国を隔てると知識みたいなのって劣化するような感じがするけどまぁあれだよね、ドイツとかでユダヤ系の科学者とか学者がアメリカに亡命したみたいなもんでさ、そういう意味でアメリカってやっぱ文化が豊富っつーかまぁなんつーか他国のものがそのまま根付いてるっていうかまぁようはチャイニーズコミュニティとかではゴリゴリの中国文化をそのままアメリカでやってるってことになるじゃん?適応せずに中国の領土拡大みたいなのをやってるみたいな批判とかもあるけどまぁ文化の多様性ですよね。


まぁ何が言いたいのか?っていうとまぁそういう背景もあって英文だと文献が豊富ってことなんだよね。まぁそれで言うと仏教とかもそうなんだけどアメリカに移住したチベットの僧侶とかが本書いてたりそれこそユダヤにしても実際のrabbiが本書いてたりするしね。やっぱ英語で文献にアクセスできるって本当にいいよなって思うよね。本当にそう意味で和書ってのは本当に貧弱だからな。マーケットに左右されちゃうから必ずしも良書が翻訳されるというわけでもないし、何より洋書ってのは分量が半端じゃないから一冊が分厚い辞書みたいになっちゃうからさ、だからまぁなかなか翻訳されなかったりねコストの問題だよね。だからまぁ短絡的なものとかすぐできそうな浅いやつばっかになっちゃうんだよね。もちろん日本の武道のはちゃんとしたのはあるよ。そりゃ本国のカルチャーだからね。ただ他国ってなると貧弱だよね。


ただでも英語の本を読んでて思うのは功夫自体が「アチョー!」的なステレオタイプから脱してシリアスにそのプラクティカルなマーシャルアーツとしての面ってのが注目されたりしたのって90年代ぐらいからなんだってね。だからすげー最近なんだよな。そこから結構本が出るようになって詳しく解説されてるのとかが出たりあとは翻訳されたりね、まぁ中国語もやってるから中国語の本も読みたいとは思うけどでも重要なやつとかって結構翻訳されてるんだよね。それは単純に凄いなーと思って。あとドメスティックな視野が狭いものではなくて中国系アメリカ人が近年の科学とかkinematicとかの西洋的な科学的知識も踏まえた上で解説してたりとかさ、いや、超古い本とかだとkinematic的に反してたりするのがあったりもするけどそういうところが補完されてるっつーのかな?結果的に凄く体系的になってるんだよね。


あと特に中国人か中国系の人が書いてるやつはphilosophyの部分がしっかりしてるっていうか精神性ってのを重要視してるよね。実践的ってことになるとマーシャルアーツの動きだけを抽出したものとかになっちゃいがちだけど、タオの思想とか5行思想とかさ、あとはまぁWaijiaとNeijiaのバランスとかね、まぁざっくり言うとWaijiaは物理的っていうかフィジカルなものでNeijiaは動きとかパターンとかっていう内的なものなんだけどようはどっちもやる必要があるっていうこととかさ、なんかまぁ説明しづらいなんだけどphilosophyの部分だよねってさっきも書いたけどさっき書いたのは形而上学的って意味で今言ってるのは経営の哲学とかって言われるような意味での哲学があるって意味の深さというか含蓄ね。


武術って動きだけ抽出してhow to的になっちゃうと本当に薄っぺらくなるよね。型にしても実践性という意味だと全く意味がないように見えるものでもその武術の流派を極める上で凄く重要なエッセンスってのがdaily basisでやるpracticeという意味での型に流し込まれているっていうさ、そういう深い知恵なんだよね。そこを凄まじく深く理解するっていうのかな?まぁ理解したいんですよね。まぁディスるつもりはないけどやっぱりそういう意味で習い事じゃないんだよね。カルチャーセンターとかでやってますとかっていうそういうんじゃないんだよね。それこそ中国の山奥でやるような感じのガチさっていうのかな。


で、変な自己流にならないように歴史的視座とか元の型とその意味合いとかってのを深く理解して日々修行するっていうね、これってやっぱさ、仮に習いに行ったって「もうちょっと腕上げて」とかさ、そういうディレクションを受けてもどうにもならないってのがあるよね。力学とか型の深い意味合いとかを理解するってことはやっぱり独学になるっていうか師匠が教えてくれればいいけど必ずしもそうではないわけだしさ、だから単純に動きがどうのって話になりがちだと思うんだよね。それこそ今どきそこまで真面目に武術やる人なんて滅多にいないだろうし大衆向けとかカルチャースクールっぽくやるってことになるとやっぱりまぁシンプルにしたりやりやすいようにするしかなくなるもんね。でも実際は相当良い意味で煩雑なんだよね。難しくて深くて文字で理解しても体が追いつかなかったり体にフォーカスし過ぎると動きとか型の意味合いってのを忘れたただの踊りみたいになっちゃったりとか、そういう意味での精神のawarenessっつーのかな?太極拳とかタオってそういうことなんだよね。本能のまま動くのではなくかといっても考えすぎずに自然に任せつつみたいな無の境地っつーのかな?


宮本武蔵とかも似たようなこと書いてるもんね。五輪書で。結局、武術を極めるってのはそういうことなんだと思うね。ただタオがルーツのものってのは特にそのバランスとかハーモニーとか無っていうものを特に重要視してる気がするね。じゃあ仏教がルーツの少林寺はどうなのか?とかってまた興味深いところで少林寺をやるつもりはないけど知識として歴史学的に知っておきたいって部分はあるからそういうのは調べ尽くしたいね。


あとさ、興味深いのが実戦ってことなんだけど実戦って意味だとやっぱ一番参考になるのが衝撃動画なんだよね。リアルファイト!とかってアップロードされて大抵ガチなやつはアクセス数が半端じゃないマジの喧嘩のやつね。そういうので人は怒るとどういう動きをするのか?とかさ、あんな状況になって型もクソも無くなるだろうっていうようなね、そこはまぁ新選組斎藤一が実戦だと型とか道場でやったことがどうのってことではなくもう無我夢中になるんですみたいなことを言ってたけどまぁ実際そうなんだと思うよね。


そこってやっぱ剣術について色々と研究してるときにやっぱ色々と気づいたところでさ、結局まぁ道場でやるような稽古と真剣勝負ってのは全然違うじゃないか!っていうね、実際に天然理心流は稽古では弱いけど実戦だと滅法強かったみたいな逸話とかがあるもんね。実際に剣術やると分かるけどさ、振り回すってことではなくて刃の面を当てて擦切るというか引き切るみたいな刺身包丁で刺身を切るときみたいなああいう感じなんだよね。竹刀稽古とかだと棒術みたいな感じじゃん?振り回して当てるっていう打撃なんだよね。でも実際の剣術って一瞬で相手の喉元に切っ先を入れるとか刃を入れるっていうようなさ、振るって言う動作とは程遠いんだよね。まぁそこは流派によるのか。


ようはだからリアルな剣術ってさ、剣道やってるから傘を代用にしてもそこそこ戦えるみたいな描写ってドラマとか漫画で必ずあるじゃん?でもそれっありえないんだよね。剣道のディスみたいになっちゃうけどリアルな剣術は刃を素早く相手の身に当てるっていうことだから刃が無いとどうにもならんのよね。前にも散々書いたけど剣術って戦国時代が終わるとどんどん廃れていったっつーかあとはまぁ居合にしても居合っつーよりかは軽蔑されるような大道芸の居合抜きみたいなのが横行したりとかさ、それってまぁ剣術全般そうなんだよね。そもそも実戦の需要が無くなるからそりゃ廃れるよね。それでもまぁもちろん武術としては稽古してたり道場もあるんだけど時代劇とかにもよくあるセリフだけどさ、所詮は畳剣術だったかな?道場剣術だろうみたいなガチで修羅場を潜り抜けてきた浪人とかが言うってのがあるよね。結局実戦に勝るものはないっていうことだよね。それはまぁマーシャルアーツ全般そうだよね。


だからまぁそういう意味で実戦ってどうなの?ってことで色々調べてもまぁ大体中国拳法って弱いかあとは大会とかあってもショボいよね。明らかにキックボクシングとかとやったら負けそうな感じでさ、まぁそういう意味でなんでも動画で見れるっていう時代だとまぁなんつーか幻想が一気に壊れるよね。幻想を抱く余地が無いって言うか。でもそこで中国拳法が弱いってことにはならなくてまぁ特に詠春拳なんかは実戦的で達人の動画とか見ると凄まじかったりするんだよね。やっぱこれがエッセンスだよな!って思ったり。結局体さばきなんだよね。体の使い方と力の入れ方ね。ゼロフレームから一気に打つということであったりまぁこれぞ武術!というようなね、だからまぁ中国拳法の大会とかがショボくてもあんなの本物じゃないってことなんだよねってことは本場中国で行われている大会とかも偽物ってことになるよね(笑)まぁそんぐらいesotericなものだと思うんだよね。


あと創始者から直に繋がっている本家だからといって極めているかどうかは別だし、ただ本家っていうだけでネームバリューだけでやってるみたいなところも多いだろうしね。本場中国に行けば達人がいっぱいいるってまさに幻想なんだよね。本にも書いてあるけど実際にやってる連中とか師匠みたいなレベルでもちゃんとやれているとは限らないって書いてあるよね。そういう人が教えたりしてるからエッセンスが伝わらないまま形骸化されたものが永遠と教えられたりしてて、まぁそれって制定居合とかと同じだよね。骨抜きにされた武道全般そうだと思うんだよね。


今ちょっと読んでるだけでも中国武術ってのはっつーかまぁ内家拳にしてもっつーかまぁ太極拳自体がね、まぁ凄まじくプラクティカルなものだったかはともかく中国政府が体操として制定してるっつーか骨抜きにしてるのがメジャーだしっつーか同じことの繰り返しになるからいいか。まぁ物騒なやつは規制されるか需要が無くなると消滅するってことだね。まぁそれでも伝わってるんだけど大っぴらには教えてないっつーかだからまぁ大っぴらに教えてるのってのが教育として推奨されるような無害な形骸化された武術ってことだよね。だからどれもこれも踊りみたいになっちゃうわけだ。まぁでもあれだけどね、子供に武術やらせてますっつってやってみてっつって見せてもらったらスペツナズも真っ青な暗殺術を披露したとかってまぁ社会性との互換性が無いもんね(笑)


まぁでも世俗化とか大衆化するってそういうことだよね。esotericなものってのは研究して行間読みして失われた部分を取り戻していくしかないよね。あとまぁしつこいようだけど「なんたら道場」とか「なんとか協会」みたいなのがあってもただの利権団体である可能性のほうが高いから眉唾でいるってことだよね。誰かに教えてもらうとかっていうような姿勢じゃなく秘技をdigるみたいな感じだよね。でも変に自己流になるとダメだからちゃんと歴史的なものと既存のフォーカスする型を理解し尽すってことだよね。まぁそういう意味で完全に学問なんだよな。虫食いだらけの古典を読み解くみたいな感じかな。


ただでも単純にやっぱ凄いよ。力まずに体を使って撓らせるように突くとかね、力に依存しないってところがやっぱりロマンっていうか好きでさ、まぁだからといって身体能力の強化を厳かにしていいってことではないんだけど技術次第でこんなに早く突きができるようになるんだな!っていうさ、威力も当然何も知らないでそれっぽくやってみるよりよっぽどあるわけよ。俺は力はないけど全身の力とバネを使って撓らせるということで普通の何十倍の力を出せるっていうさ、この辺って太極拳の古典とかにも書いてあることなんだけどね。ただでもほんとに見よう見まねじゃダメで本当にしつこいぐらいじっくり理解してから体を動かさないと全く良い稽古ができないんだよね。でもこの辺のちゃんとした稽古のやり方って居合である程度身についてるんだよなって今更気が付いたんですよね。マジでかなり深いところまでやれるかも!っていう確信があるね。


あとはまぁ飽きないで続けられるか?ってことだね。でも居合は結果的に続いてるからな。俺の人生のone of themになる感じってのはあるんだよね。まぁあとやっぱ体の使い方とか力学ってことに単純に興味があるんだと思うね。で、先人たちはkinematicsみたいな体系的な科学が無い時代に実戦と研究を重ねて技を磨いてきたっていうさ、そういう文化的財産の素晴らしさっていうのかな。そういうものへのリスペクトと情熱だよね。まぁあとセンスかな。やっぱ。ダメなのとちゃんとしてるのの違いが分からないとダメだよね。そこは俺は分かってるつもりだわ。あと見た目がかっこいいだけでプラクティカルじゃないとかってのも分かるしね。本当に凄いのって地味だからね。fancyじゃないんだよな。


まぁそんな感じで中国拳法に情熱を注いでますね。現在は。まさに夢中ってやつですね。でもマジで本当に武井壮だよね(笑)どう体を動かすのか?というのを俺は武術を通して研究しているというそういう感じだよね。もちろん武術自体が好きってのもあるしあとはまぁ哲学的含蓄とか思想とかまぁそういうのを色々と最近は書いてるけどまぁそういう総合的なものなんだよね。そんな感じでではまたね。