ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

フロイトとラカンについて。

フロイトなんて信じないしあんなの馬鹿げてるしそんなもんに依拠してるラカンなんてとんでもないわけだけどそこが科学と哲学の違いなんだよねっつっても誤解があるからアレなんだけど文芸批評とかって科学じゃないじゃん?作者はそう述べようとしていたのであるって評論したところで実際にそういうつもりだったかどうかなんて本人に聞かなきゃ分からないじゃん?でもまぁその文芸評論ではそれを表していたという言説を定説化することで「なんたら論」みたいなのが出来上がるわけじゃん?


フロイトも一緒なんだよね。精神とか心とか夢とかフロイトが分析して評論していたもの全般がフロイトによる「なんたら論」なんであって科学じゃないんだよね。そこでフロイト派とかラカン派でもなんでもいいんだけどそれをドグマ化してるってのは科学でもなんでもないマルクス主義を科学のように扱ってドグマ化するようなバカバカしさと同じだよね。


でもだからといってマルクスの理論が意味ないか?っつーとそんなことないよね。科学じゃないし歴史ってのは階級闘争の歴史じゃなかったかもしれないけど階級闘争の歴史的な面はあったしそりゃマルクスが批判する資本主義全般にしても原理的には間違ってても言えてたり慧眼であるところってのはあるわけじゃん?だからそういう意味で思想だよね。それをどう感じてどう使うか?とか何を学ぶか?だよね。ドグマ化して権威化して人をそれで脅すような道具にするもんじゃないわけよ。


アクチュアリティって意味ではマルクスの資本主義批判ほどではないにしてもフロイトだって慧眼は慧眼でしょうっつーかディスすりゃそりゃディスりまくれるけどあんだけ無意識だのエゴだのスーパーエゴだのっつー概念を仮説として生み出してそれでどんどん自分で考えていくっていうスタイルでやってたのは凄いよね。過大評価され過ぎてるのと権威的になってるからディスられるんであって完全に非科学的だしそれこそ脳科学だの進化心理学だのってのがある時代に全部フロイトに依拠できるなんてのは無理があるよね。「まぁ俺は赤ちゃんみてこう思ったんだけどなー」っつーただのおっさんの雑感と脳自体の分析と実験と実験結果とその検証に依拠した科学的なものとどっちが妥当性があるのか?ってそんなもん言うまでもないよね。


でもだからフロイト意味ないってことにはならないのは時代錯誤で間違いだらけで全く実用的ではないって意味ではアリストテレスとかああいう時代の人たちが考えてた自然科学とか物理論とかと一緒なんだけどでも知識として意味がないか?っていうとそんなことないんだよね。科学じゃないけど考え方とか解釈とか一人の思想家がそういう風に考えていたっていうドキュメントって意味では価値あるよね。例えばハイデガー哲学をベースにした科学理論てのがあったら眉唾もんじゃん?で、フロイトだの精神分析だのってのも同じだよね。そんなもんベースにして科学やろうとしたって無理っすよって話だよね。


でも思想として価値が無いわけじゃないのはマルクスと一緒なんだよね。そのマルクスだのフロイトだのに依拠してそれをドグマ化して延々となんか述べてるような大学人の言説はほぼ意味ないかもしれないけど思想を生でやっていた人たちが考えてきたこととか仮説として生み出したことってのは常に生の価値があるよね。そういう意味で俺は最近フロイトを再評価してるっつーかまぁ科学じゃないけど思想として考えると面白いよなって思ってそれは当然ラカン然りなのね。


でもそれどころか欲望というのを考えるうえで凄いヒントになったり手掛かりになったりするし「おお!」って思うようなところがかなりあるからやっぱ生の思想としての価値だよなって思うのよね。あとまぁ脳を調べてこうでこうでしたっていうことだけじゃ分からない複雑な心の問題ってのはあるわけだし「そのイライラってさ、実は自分の不満から来てんのよね」的なこととかって心的問題じゃん?それが行き過ぎると神経症とかって言われるんだけどまぁ今は神経症なんて言い方はしないし古いんだけどただ色々と心の問題をこじらせると神経症になるっていう概念自体は依然として重要であり続けるよね。それを「そんなの無い」にしたら分からなくなる複雑な心の問題ってのは色々あるわけじゃん?


だからそこで精神的なものに対しての治療ってのがDSMみたいなどっかのサポートセンターに電話したらオペレーターがチャート式で対応しますみたいなもんになっちゃってたらダメってことなんだよねっつってもまぁ実益的な意味で精神科医は数さばかなきゃいけないからそうならざるを得ないし詳しく分析してる時間なんてないんだけどね。まぁだから自分でやるしかないってことなんだよね(笑)そこはまぁフロイトはそんなのできたら病気なんて無くなるだろうって言ってたらしいけどそこはまぁ所詮フロイトの意見だからそんなのやってみなきゃ分からないってことになるよね。


なんにしてもそうだけどドグマ化したりするとまぁそれは全体主義的なもんになるじゃん?ただの宗教になるよね。大学のディスクールってのはそんなもんだよね。で、そういうのに依拠したがるやつってのは自己顕示欲が強かったり何かの後ろ盾を得て権力的なものを得ようとするっていうようなタイプが多いんだよね。まぁそういうのがバカバカしくなってきてるからもっと自由に考えるアカデミアの人とかもいるしそれは別に年長世代にしてもそうなんだけどただまぁ大学が大学的であり続けるならこういう大学のディスクールってのは永遠と維持されるよね。で、そういうのを好むタイプに好かれて守られ続けるよね。だからこそ自由に考える人たちってのはそういうところから思想を開放しないといけないんだよね。


フロイトラカンも完全に自由人じゃないですか?「あ、考え変わった」っつって言葉の定義変えるし特にそれに言及しないまま理論を組み立てたりするしそれって彼らが自由に考えてたっつー証拠だよね。っつーか普通考えなんてそんなもんでしょう。色んなインプットによって考えは変わるしすべてが実証的であるわけがないんだから仮説的なこととか概念的なことなんていくらでも変わるよね。それをどんどん変えていったフロイトとかラカンの自由性にこそ思想的な急所があるよね。そのダイナミズムこそが思想の強さだよね。


例えばフロイトはこういうのを一緒くたに抑圧と考えて無意識に放り投げるみたいに考えてたけど今考えるとこれはどうなるんだろう?って普通に考えられるよね。そこまでフロイトっつーテキストに依拠する必要はないわけで。だって今のほうが当時より分かってること多いわけだし科学的にそれは抑圧ではないんだってことが分かってることとかも多いわけじゃん?だからまぁちょっと前にアドラー心理学なんてのが流行ったけどあんなのも科学じゃないからね(笑)アドラーによる心理学論なんであって科学じゃないしそれでアドラーがそういってたからっつーことでトラウマなんて存在しないなんてことにはならないよね。まぁすげー馬鹿げてるし古いって意味ではフロイトとかと同じだけどまぁより質が低いよね(笑)さすが流行るだけのことはあるなって感じ。でもアドラーが言っていること全般がくだらないか?っていうとそんなことはないよね。何かにおける具体的で局所的なものの分析に関してはどんなほかのものよりも慧眼だったりする場合もあるからね。


ただまぁ「アドラーがそう言っていたから」という意味でトラウマは無いなんてするのはもうただの馬鹿ですよね。それは科学じゃないわけでそんなもんは「教祖様がそういっていたから」というのと変わりないわけよね。そういう意味で本当に宗教と一緒。でも宗教のドグマ全般がデタラメばっか言ってるか?って言うとそんなことはないよね。ようは使い方だよね。まぁでも神が世の中を作ったということにはどうあがいてもそうならないわけだけどね(笑)


そういう意味でアドラーとかも「理論」とかとは考えずに乱読の対象としてあればいいんだよね。「へぇーこいつはこんなこと言ってたんだー」っていうことだよね。ダメなのはドグマ化してる思想家じゃない学者たちなんであってそういうのに気を付ければいいんだよね。だからやっぱり色々と読むうえではただの文献学になり果ててるようなものではなくて自分で考えられてるものってのが重要になるよね。まぁもちろんそれはジャンルによるんだけどね。まぁそのドグマ化してる学者が何をやってるか?っていうとなんでもかんでも「聖書ではこう言われています」みたいなのになんでもこじつけて聖書を万能のものにしようとするような連中とやってることが一緒なんだよね。それは聖書とかドグマの権威づけをするものではあっても真理を語るものではないよね。


でもそこである種の別な意味での「神的」なものを意識するのが大事ってのが例えばロックが敬虔さという意味で真実を知ろうとするということ自体がある種聖なる行為で善と言い切れるものであるみたいなね、まぁ俺はそれをいつもエロスって言ってるけどこれ自体はロジックがどうのとか合理性がどうのではない人間の精神的な活動としての思索ってのがあるわけだよね。そのエロスに準じているか?ということが大事なんだよね。ラカンもそういう意味で考えることが実践的な臨床の場で役に立つかどうか?っていうことを徹底的に考えてたわけだからまずはそれは精神病なり患者ってのもを対象にしたものであるっていう絶対的な前提は理解しないといけないよね。それをなしに抽象化しても意味ないんだよね。


それが精神病とか患者の心に関するものであるということを理解したうえで抽象化するなり色々と考えの材料にするのはいいんだよね。あ、んでラカンがなんでそんなに実践的なことにこだわったか?ってそれは彼が精神分析家だったからだよね。それが文献どうのではなく実際のアクチュアルな問題としてどうすればいいのか?とかどう考えて行けばいいのか?ということを前提にして考えられていたってことが重要なんだよね。これってのがまさにエロスなんだよね。それはフロイトもそうだったんだよね。だからなんつーのかな?位置づけとしてどちらかというとアウトサイダー系っつーかさ、まぁニーチェとかも権威になっちゃってるけどまぁだいぶいっちゃってる系じゃない?でもそれってフロイト然りだよね。


だいぶぶっ飛んでるけどぶっ飛んでるが故に自由に思考しまくって色々考えてたし色んな概念を生み出したっていうことがあるわけだよね。主義になるとクソだし完全に使えないものになるけど生の思想として考えれば有用さのポテンシャルはいくらでもあるってのは本当にマルクスなんかと一緒だよね。ただまぁ問題は色々と他にもそれを知るうえで有用なやり方があるのに時間と労力っつー膨大なリソースをそんな昔の理論を学ぶことに使うんですか?っていう合理性の話になっちゃうよね。まぁ俺にとってはそれは問題じゃないから生物学から化学から神経学とか現代における科学的なメソッドで解析されているって意味での心の理論とかってのも当然色々と研究しつつフロイトとかラカンもやるってことなんだよね。まぁそりゃやりたければ勝手にやりなさいってことだからやりたければそれでいいのよね(笑)


まぁそんな感じでまた続き貼らなかったけど続きはまた今度ね。んじゃまた。