ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

ヴァーチャル系の話。その8。

あ、んでルジャンドルなんですけどね、ドキュメンタリーがあったんで貼っとくね。



ってことで続きです。


別にそういった幻想の共有ができるということが可能性を意味するわけでもないし恋愛を意味するわけでもないんだけどただこういう認識に至ることでしかアイロニーでしか恋愛をできないってのはつまりはそういうことだよね。見た目がどんだけ良くてもどうせ空っぽな中身に残念に思うだけだしあ、んでそこは俺はいつも男目線で当然まぁ男だからジェンダーバイアスってのがかかるけどそりゃまぁ女子にしても完全に同じじゃないにしてもそんぐらいのアイロニストになっちゃった場合、世の中はクソ男だらけでしょう。それはまぁ概念的な帰結として不可避だし当然と言えば当然なんだよね。


ただ「それでもやる」というところに奥義があるよね。デリダの来るべき民主主義の完全に「来ないってわかってるけどねー」バージョンみたいなもんか(笑)ただ色んな意味でポストモダンも経由しちゃうとアイロニーしかなくなるよね。だからまぁ哲学ってラカンで終わったっていう人もいるらしいけどラカン経由で最終的にローティーで終わってると思うんだよね。まぁ別にそこで終わらせる必要は無いんだけどただ一旦ピリオドが置かれたって意味だとそこは絶対ローティーだと思うのね。あ、もちろんラカンとかドゥルーズとかデリダを経由してるって意味でのローティーね。


あ、んでその恋愛におけるアイロニーなんだけどね、「どうせ幻滅するだろう」ということに対する防衛としてのアイロニーじゃダメなのね。それはただのアイロニストぶったニヒリストか根源的に恋愛にイデア的なものを求めているロマンティストになっちゃうじゃん?根源的にアイロニストであるっていうことは仮に厳密しても「まぁそんなものだよね」っていう防衛としての居直りなんではなくてそもそも最初からそうなんだっていう意味での認識においてなんだよね。ディズニーランドにいってもそりゃいつかはパレードは終わるし閉館するでしょう。パーティーやり尽くしてもグレートギャッツビーみたいにパーティー後の虚しさってのがあるでしょう。結局現実はそれなんだと冷静に認識することだよね。でも享楽を渇望するものとしてそれでもパーティーやっちゃうしディズニーランドいっちゃうしディズニーランドにいけば子供以上に子供として楽しんじゃうっていう凄まじいナイーヴさがあるのね。そういう洗練と程遠いところに真のアイロニーがあるんだよね。現実へのクリティークとはまさにそういう主体の態度ってことなんだよね。


ただまぁあれだよね、「なにあいつ」的な後ろ指刺されるようなことは常にあるし例えばなんだろうね、勝ち組になったことで羨望の的になるということとは無縁だよね。むしろ負け組として見られてて惨めな奴と思われるでしょう。でもそれは結局認知的な共役不可能性だよね。結局、「凄い人だなー」とかって思われるっていうのは仮象のそれこそ分かりやすいシンボリックなものが必要でまぁ自己承認欲求地獄ってまぁそれを永遠に求めるっていうことだよね。求めるところが「勝ち組と思われたい」っていう惨めな自己承認欲求だからそれは永遠に終わらないんだよね。まぁそういうのとは無縁なんだけどあえて難点で言えば実際はある種の超越者であるのにも関わらず全然リスペクトされないってことですね(笑)まぁそれでいいんだけどね。リスペクトされるためにやってるわけでもないので。


そこがまぁいつも言う価値観の軸ってことだよね。世の中的にそんな考えとかやり方は微妙だったりイケてなかったりしても自分の中でそれが良ければいいわけだしまぁこうやって論理的に書いていくと実質的にどんなもんにも勝ってるでしょう。唯一負けているものと言えばまさに真の愛ですよね(笑)偶然性に裏付けされた出会うべくして出会ったカップル!みたいなのには敵わない。別に勝ち負けじゃないけどそういう意味で希望のロマンってのはそれは偶然性によるものだから色々と考えて読んでアイロニストになった上でこういうプロセスを経て真の愛に恵まれる・・・ということではなくて別に何もやってなくても出会いは出会いでそれが運命的なものであればそれは誰にでも訪れるってことだよね。そこを根源的に渇望しているっていう意味では超越者ぶってるアイロニストも普通の人と同じなんだよね。


ってことでこの辺で終わってたんだけどレズオーガズムっつーAVがあってさ、まぁそれについて書いてたらまた長くなったのとまぁ実質続きみたいな感じになってるんで今度はそれ貼りますね。んじゃまた。