ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

射のイデアを求めて。

いや、相変わらずエクストリームだとは思うけど弓だ弓だっつってそればっかになっちゃってんじゃあ他は?っていうとどうでもよくなっちゃっててっていうか弓もそうだけど身体性を伴う技術とか知識とか体験とかっていうのに取りつかれてるんだと思うんだよねっつっても弓自体がオブセッションになってるんだけどまぁ予想以上のハマり具合で逆にでもなんかね、ほかのことの強度がさっぱりないんだよねっていうか多分弓やってるときの体験っていうのが良すぎて他が薄く見えるようになっちゃったんだと思うんだよね。よりドープなドラッグにハマってライトなのだと何とも思わなくなるみたいなそんな感じかもね。


あとドラッグと言えばアブサンだけどさ、すげーチューニングがあったときのなかなかヤバい酔い方をするんだけど翌日の持ち越しがあったりしてんでもまぁあれですよ、昨日なんかね、robert ashleyのautomatic writingを聴きたくなってっつーか「これだな」ってのがなんかわかるのね。んでまぁ聴いたら凄まじいトリップ感でさ、なかなかのもんだったけど帰ってこれなくなる感じがあってっつーか日中は弓である種の超越体験をしていて夜はアブサンって完全に何気にジャンキーだよなーって改めて思うんだよね(笑)まぁでも悪くないよね。こういう浮世離れした感じはやっぱ自分にぴったりだと思うんだよね。


っつってもなんつーかブルジョワ的な貴族的な余技の嗜みとかっていうそういう雅なものじゃなくて泥臭い感じね。結局、根底には実存的な虚しさってのがすんげーあるっていうさ、んでも四巻の書っつー弓道の古典みたいな本にはそういう浮世においての迷いを断つべくっていうか精神統一的なアセンションに弓という媒体が使われるみたいななんか微妙に俺のリミックス入ってる感じだけど(笑)なんかでもマジでそうだよねって思うんだよね。


まぁもちろんプラクティカルな弓術というところにもフォーカスしてるんだけどただまぁ弓道の難解な形而上学的なところってのが今の自分に凄くハマるんだよね。まぁそれ言い出すと剣術とかも同じでまぁ剣と禅ってことにもなるんだけどさ、ただ弓の場合、自分と対峙する感じってのがもっとエクストリームでさ、なんかまぁ本当にこれなんだよな!っていう感じがあるよね。まぁでもなんだろうね、純粋数学とかを完全に個人でやるみたいな話でさ、まぁなんかその純粋数学の身体バージョンみたいな感じはあるよね。まさにそのハイパーリアルな感じってのがかっちり来てる感じってのがある。


まぁでもなんか何かにハマるとそればっかになってそれまでそういえばどうしてたっけ?っていうのがわからなくなったりしてでもまぁいいんだよね。目の前にそんだけフォーカスしたいことがあったらそれに全力投球でいいと思うんですよね。そんな色々とマルチに色々フォーカスするってのが無理なんだからこれしかないってことだよね。んでまぁ色々と模索してる結果、打ち起こしは斜めがベストかもしれんって感じになっててっつーのもっていうかあんまテクニカルなこと書いても意味ないか。まぁようは正面の場合、手の内を作るときにミスった場合、全部やり直しになるか引いちゃったら打つしかないってことにもなるんだけど明らかにダメな手の内だとまぁそれがわかるから引かなくなるっつーんで斜めのほうがそれが無いっていうか事前に弓手のほうは最善の形を作れるから取りかけと離れにフォーカスしやすくなるっていうまぁ色々試しますけどね。


なんかまぁそんなことばかり考えていてまぁでもこれでいいんだろうなとは思うけどね。ハマっちゃったらもうそういう性分なんだからしょうがないよね。ただまぁでも本当にゲームやらなくなったよね(笑)なんかそういう時間あったら少しでも弓の上達に向けて何かできることをっていうそういう感じになってるよね。んでもう毎日「弓早く来ないかなー」っていうそればっかでさ(笑)早く20キロのやつで稽古したくてしょうがない感じでさ、なんかでもまぁここまで生をドライブするものになるとは思わなかったよね。んでここまでドライブするものになってるんだったらそれにどっぷりハマってるほうが実存的にも楽だもんね。精神的にも健全だしあとよりエクストリームに極めるために辛くなるレベルで目標とするレベルってのを設定するんだよね。まぁそれがまさに射のイデアなんだけども。


その射のイデアの再現性が完全になった場合、あとはもうようは自分の身体と精神って話になるわけでそこがしっかりしてて変なノイズが乗らなければむしろ的に中って当たり前になると思うんだよねっつってもまぁ的前に一回も立ってないんで言うのもあれなんだけどまぁ巻き藁の距離もちょっと距離取ってやってもまっすぐ飛ぶと嬉しかったんだけど最近はもうそんなの当たり前っていう風になっててさ、んでもそこでやっぱ相変わらず引きがイマイチだったり離れがダメだったりっていう色々なことがあって理想を高めれば高めるほど今の自分がそれと程遠くなってなんかイライラしてくるのね。もっと楽しめばいいのに求道的になりすぎてある意味そこでまた実存の葛藤をしてるみたいな、まぁそういう性分なんでしょうね。


なんかでもさ、弓道って文化的に歴史があってハイコンテキストなものだと思うけど「それやって何になるの?」っていうところに関してはやっぱり究極的にどれもそうなるよね。でもそこで自分なりの答えが明らかな場合、「こんなことやってて何になるんだろう」という疑問すらもわかないっていうね、それがようは合うってことなんだと思うよね。そこで分析的に考えると弓道っつー文化的に高いコンテキストのものをやっているから見た目にもなんかまぁゲームとかやってるよりちゃんとしてるし(笑)やってることを誇れるし・・・みたいなところはあるのかな?とかって色々考えても結局そんなのどうでもいいんだよね。そんなどうでもいいことが介在しないぐらいイデアに惹きつけられている。


だからもうやる理由とかもどうでもいいし「それをやってどうなる?」なんてもっとどうでもいいことになるんだよね。っつーかすげーバランスが変なんだけど人生っつーどうでもいいことより弓のほうがよっぽど有意義だって思うぐらいで(笑)だったらずーっと有意義なことをやっていたいって思うじゃないですか?それが今の俺の精神状態なんだと思うんだよね。だからこそ自分の中で枯れきっているいろんな他のもののオワコン感ってのがより顕著になるんだよねっつっても別にゲームがオワコンなわけじゃないし今までやってきたことをオワコンだなんて言うつもりもないしね、ただまぁそこはステイトの変化ってのがあるよね。すんげーそれが弓やり始めてからっつーか予備知識を入れまくってて全然稽古を始めてなかった弓買ってすぐの頃とかじゃなくてちゃんとがっつり始めたここ数週間だよねっつーかそろそろ一か月ぐらいは経つか。


まぁすんげー心境が変化してるよね。それによって感受性も変化するしよりいろんなものが鋭くなってる感じがするよね。かといってもそれは常に今の射は仮の射でイデアから見れば完全に間違っているっていう前提があるから「だんだん良くなってるな」みたいな自己満足みたいなのがどんどん無くなっていくんだよね。なんかそういうレジャー的な要素ってのがどんどんなくなっていくのね。もう限界まで突き詰めるっていうそういうところになってくる。でもなんかそっちのほうが奥深いっていうかレジャーみたいな自分とのなれ合いみたいなのがどんどん嫌になっていくからより深淵に向かうっていうところで自分的に相当矢数を重ねたつもりでも全然まだ先に進めてないっていうのが実感できるっていう途方もない感じにまた魅力を感じてるんだと思うんだよね。


まぁんでなんだろう、実際にやりまくってある程度うまくなってむしろ的中しかしなくなるみたいな状態になってるんだけどでも別に作為的じゃないっていうかそれは結果として当たり前だし自分がやっている所作でもなくて技そのものというものの結果は必然的にそうなるっていう自分っていうのがほぼ介在しないような感じってのにしたいよね。だからそこでは多分的に中っても別に嬉しくないしそれは自販機でコーラを買おうと思って金入れて買ってコーラが出てくるみたいなことに別に「自分がコーラ出した!」みたいな喜びが無いのと一緒で究極的な技の形ってそれだと思うんだよね。そんな風な弓をやりたいよね。


んでもそれは変性意識状態にあるもので自分が如来になったつもりで梵我一如を体現するかのごとく弓を射るってのもそれはそういう心づもりでというよりかは変性意識状態にあるときに完全にゾーンに入ったときの射というのはそういう宇宙と一体化して射が行われているようなトランスパーソナルな体験を伴うものっていうところでまぁ極めてヨーガ的だよね。でもそこで難しいのは精神が変性意識状態にあっても正しい射が行われているかどうか?ってのは全く別問題でそこは精神状態とか観念的な形而上学だけの世界だけじゃ独りよがりなものになってしまうしそれは正しくなければただのインナートリップであって弓術ではないんだよね。


そこの技術的なポイントも完全に押さえた上での変性意識状態下にあって技の具現化がされている理想的な射を行うということだよね。まぁこれは本当にいろんな意味ですぐできるようになるもんではないわけだしヨーガにしたってすぐ瞑想で変性意識状態に持っていける僧侶なんてのも相当普段からヨーガをやってないと無理なわけなんであっていろんな意味ですさまじい鍛錬の時間を必要とするものだよね。


中てるだけなら恐らく和弓とは言えそこまで極端に難しいわけじゃないけど梵我一如の境地で射るということは色んな意味で難しいよね。でも自分的に目指すべきはそこなんだよね。那須与一が目指していたとされる的がこっちに向かってくるような弓術とかってのはようはそういうことでしょう。仏教的な解釈とか宗教とは別に技術論というところからしてもそういうステイトに自分をすぐ持っていくことができてなおかつそこで理想的な射ができるっていうのがようはdeadlyなスキルっていうことになるわけだよね。


結局それは無駄に見えるような形而上学を排した実益にのみフォーカスするような弓術という観点から見ても実際はそういう変性意識化で的が自分に向かってくるような感覚ってのをcultivateするということが実際的なスキルに直結するっていうスピリチュアルな面を抜きにして極端に唯物論的な観点から見てもむしろ合理的であるような射ということなんだよね。ようは色んな角度から見ても完璧な射というのがつまりは射のイデアということだよね。見る側のイデオロギーとか観点を超越しちゃうんだよね。イデアってそういうものだよね。


んでもそういうトランスパーソナルな領域と探求するっていうことになるとやっぱ危険性ってのは付き物なんだよね。勝手にやるクンダリニーヨーガほど危険なものはないわけでそこはやっぱり理性的なシステマティックな学びってのが必要とされるところだと思うんだよね。だから私は学びますよ。ってことになりますよね。


まぁそんな感じっすね。んじゃまた。