ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

でいじさんへの返信。

でいじでいじ 2017/05/08 01:14

ただ突っ立ってるだけでもあらゆる情報を受けてるわけで(視覚的な四方八方360度だけじゃなく五感で感じるもの。まだ科学的に証明されていない次元のもの。)意志、意思?とかってようはチャンネルや周波数みたいなもんで、それに引っかかった事象が認識されるという事だけで、実際は意識に昇らず捨てられている情報もあるわけで。意志の本質や働きを見るとひきよせの法則やデジャブやシンクロニシティってゆーのもあたりまえの現象だと思うです。自分=世界。相互作用の関係でノンストップでお互いに強度を鍛えあっているといいますかそんな関係で。多くの人は諸行無常の実体に気付く事なくなんとなく上手く暮らせていると思いますが。別に気付く必要も無いですが。mimisemiさんが今回なんとなしに書かれた記事は自分の中での普遍的なものでして、それが明快な言葉でさらりと書かれているので嬉しかったです。ほんとに普遍的なテーマでここからあらゆる話しに派生できるくらい。


本当にそうなんですよね。まさに原理的といってもいいぐらいのもので。ただこの記事に感銘を受けたのが小林麻耶ってまぁいろんな意味で色々あった人だと思うんですけどそういう人が「でも生きていかなければ」という必然性から導き出されている原理の普遍性というところなんですよね。正直、自己啓発系とかマインドフルネス系とかってまぁもちろん凄まじい闇を経験してからのそういう方向性とかもあるとは思いますけど闇にフォーカスせずにポジティヴになろう!っつってもそれって結局能天気だと思うんですよね。むしろ闇や実存の空虚さや社会の出鱈目さとか人間の醜さとかも踏まえた上で何を引き寄せるか?とかどういう世界で生きたいのか?という内面的な自己規定ですよね。まぁでもそれは連続性によるもので「これ」というようなものがあってそれが揺るがないようなものではなくて存在と同じく流れるような水のようなものだと思うんですけど、そこで闇や人間のどうしようもない部分とかも受け止めた上で自己生成をするんですよね。


そこで最近の永遠と続くマイルドな鬱の中で感じたのはこのマイルドな鬱というのはまぁ散々書いてることなんですけどニュートラルだったらむしろ当たり前のことで実存の空虚さとかも客観的という意味ではそれは正しいんですよね。んでもだからこそそんな絶望しかないようなデフォルトじゃやっていけないから強度を求めたり陶酔を求めたり刹那的な快楽とかではない意味での精神性の高みを目指すようになったりとか、まさにそこが最近書いている絶望がドライヴするという感じなんですが、だからこそなんていうんでしょうね、ドライヴするもの自体を眺めててもしょうがないというか、


車で例えるならドライヴして綺麗な景色が目の前にあるのにエンジンをずーっと見つめてるみたいなことなんですよね。エンジンだけを見つめていたら所詮車なんてのはメカニズムなんだってことになりますが本質はそこにはないですよね。まぁ何を本質とするか?ってことになるとポストモダン的な話も含めてややこしくなるのでやめますけど、そこで人間の場合、人間は車のエンジンを眺めるような存在ではなくて目の前の綺麗な景色にうっとりするというようなことも可能な主観性の志向性を持ち合わせているっていう言わば見るものや志向するもののチューニングさえしっかりしていてなおかつそういった見たい世界や求める世界というのを渇望するという意志の働きがあればそれはいくらでも可能ということなんですよね。


言わば精神修養においてはその精神のチューニング力を鍛えるといっても過言ではないぐらいのものだと思っていて、最近弓をやっていてもそれは凄く感じることなんですよね。でもそこでやはり難しいのが欲望し続けるということで欲望にはなぜか節度みたいな自己規制がかかったりして、本当は身を崩さない程度のリアリスティックな欲望に関しては追及すればいいのに変に押さえたりするっていう悪い意味での理性が介在することで精神の世界へのチューニングがジャミングされてしまうというか、その辺の欲望のあり方とリアルのあり方とかの一筋縄ではいかない欲望と世界の関係の深遠なところっていうところにラカンに色々とインスパイアされることがあって、それは端的に言えば存在そのもののあり方とリアルの関係性とかリアル自体の構造的なあり方とかそこに人間の欲望というのが介在することで形成される独自の関係性とかダイナミズムとかっていうところで、全然端的になってませんが、この辺がポストモダン的な観点や世界観というのを踏襲しつつディオニュソス的な生成というのを育むような下地を作るポイントがあって、そこが世界がオワコンだろうが自分はThe Last manにはならないし世界がオワコンだろうがそれは主観の志向性と力への意志によって自分が超人になればいいだけの話で世界や存在の客観的な状態がどうであれそういうものに左右されないというような究極的なディオニュソス的な実存っていうんでしょうかね。


もちろんそういうものにノイズが乗っかってチューニングが乱れてしまうということはリアルライフを生きていればいくらでもあることなんですが、でもその精神性とチューニングのスキルのようなものを維持するというのがやはり精神修養であったり精神的に孤高であることの必要性だと思うんですよね。そこでやはり禅とかでもなんで座禅をするのか?というところの奥義の部分はやはりそのチューニングの維持という精神と世界との関係性にノイズを乗せないというところにあると思っていて、そういう意味で最近は道元なんかにも凄く影響を受けていたりしますね。


ただその重要な原理的な部分を抽象化するとニーチェ道元仏教も違和感無く調和して一つのマインドセットのようなものに落ち着くという整合性があってでもそれは論理的な必然性というよりかは心をえぐられるような体験とか闇を抱えざるを得ないようなことなんかも含めてそういうのをembraceしながら運命愛を感じるというところに集約されると思うんですよね。むしろそういうものは闇がないと見えない光というか、闇が必要以上に見えてしまうからこそ見えてくる光の輝きみたいなことだと思うんですよね。それはまさにsalvationなんであって別に神学とか宗教関係なしに聖なるものの介在だと思うんですよね。


でもその聖なるものは自分の精神性とチューニングが伴っていないと見えなかったり全く見失ったりしてしまうもので、でもそれは常にそこにあるものなんですよね。そこが面白いところでそれを仮に「神」と読んだとしても全く違和感がないんですよね。ある程度神学とかキリスト教なんかを勉強してそれは分かったことですね。世俗化しているくだらない宗教なんではなくてそれは精神のチューニングなんだっていうことですね。


でいじさんのおっしゃる「デジャブやシンクロニシティが当たり前」という感覚は凄いなって思います。自分は頭のノイズが多すぎて理屈では分かっていてもいつも闇に飲まれてダメになっちゃいますが、そこには常にdivine interventionはあるんですよね。でもそこでの自分の神のイメージはやはりルシファーとかデビルなんですよね。力を求めればいくらでも与えてやるというようなアグレッシヴな神ですね。自分がサタニストになったというのも全然ネタでもなんでもなくてむしろルシファー的な力というのはあらゆる柵から解放されるような爆発的な力を持ったもので悪魔学的にもそれは別に悪を志向するということではないんですよね。ようはすべての人にsalvationがあるというような一般的な神のあり方ではなく強い力を求めるものには力は与えられるというようなアグレッシヴなものなんですよね。そういう意味でニーチェとかトーマス・ジェファーソンとかがある意味サタニストと言われたりするのも分かるんですよね。


だからこそ力を求めないものにはsalvationはないんですよね。でも求めるならそれはいくらでも与えられるということですね。


そんな感じでとりあえず終わりますけどまた何かあったら書き込みください。久々にやり取りができて凄く嬉しいです!