行方不明の象を探して。その26。

あいつにリクルートされちゃってさってそれはオルグって言うのでは?ムーの後、ウィニーとせないはい。腰にこの組むかに、今後も有効、ヒアリングの引用の日本アロマちゃん、金流行の可能性もあるという意見、離婚だのガチャの区分変更を組み込もうだの、今度ブログの中に銀貨とお茶とお坊ちゃんをイオンに連れて行って、女の子五人組がグールドもいいが、家賃が安いほうがいいと言っていた。みんなーラリってる?うん!もちろんラリってるー!

 

シャブっているノリピーのスクラッチの鋭さ加減。それを日本語から中国語に変換した後にさらに日本語に変換したら「ノリピ傷の鮮明さ」になった。やったー!俺は小学生の頃にチュンリーのことをシュンレイって呼び続けていたからね。あーなんかそういうのも前に書いた気がするわ。大昔だけどね。一人が書けることなんて限られてんだよ。クソっ!ファックだぜ。パワフル騙し。ジャスラック回避の手法とカスラック乖離。著作権ヤクザ。堅気のフリをしているやくざ。

 

LSD3Dがフロアでかかってからはアシッドの名曲メドレーのような選曲になり、トラック名をいちいち書くのが面倒なので、なんて説明したらいいのか分からないのだけど、EvolのAcidメドレーのフルバージョンといった感じかしらね?

 

倍打Way、最近。毎日つまらなくてしょうがない。いつもそういうことを言っている気がする。それは毎日がつまらないのではなくて貴方がつまらないのだと西村が言う。西村はドラッグ仲間で若い頃によくつるんでいたりツルンツルンだったりした。

 

でもそういうことじゃあない。本質的なつまらなさを心底嘆いている人間に処方箋はないんだ。ググれば出てくる解決策やアイデアでなんとかなるレベルの絶望など絶望だと勘違いしたある種の希望だ。絶望というのはそんな生易しいものではない。本当のことに気がついてしまうからつまらなく感じるのだ。

 

だからみんなドラッグをやるのだろう?気がついている人も気がついていない人も、貧乏人ならクラックで、ハリウッドのセレブなら上質なヘロインで。俺にも小説で一発当ててやろうなどという野心があったものだ。でも書きたいものが書けるようになると野心は途端になくなってしまう。

 

パッケージングしなくても小説が俺の中にあるからそれはいつでも生成できるわけだから、例えばそれは野心を抱きながらおしっこをする人間がいないのと同じで、勝手に出てくるものに野心も何もないんだ。足を鳴らすのは得意なんだ。

 

ブーツフェチだが最近の底がエンジニアブーツみたいに分厚くなっているブーツにはイマイチムラムラこない。昔みたいなタイトでいかにも蒸れていそうな、蒸れに耐えながら男を誘惑しようとしている女の厭らしい脚を想像しながらマスをかくのが最高だったのに、最近は外に出てもムラムラすることがなくなった。

 

こないだなんてオナニーしなさすぎているからか外でおしっこを漏らしてしまった。駅から家までの帰りだったので誰にもバレなかったにしても、音楽にだって野心はないだろう?勝手に浮かんで勝手に作れるものは排泄物と同じようなもんだ。うんこを売る美術家もいるけどね、でも排出物を売るということは言わばスカトロジーの領域に入ることだろう。

 

表現ですらない。勝手に出てくる。そうなるともう磨くものもなくなる。より良い作品を作ろうというモチベーションもなくなる。出てくるものがただのおしっこになる。おしっこに野心はないから何の感情もなく小説を書いたり音楽を作ったりする。もちろんただのおしっこだから出したものに思い入れなどあるわけがない。

 

中原中也は「文学業界は糞だ」とか「自分が書くものはごみだ」とかっていうことを芸風にしていたしマジでそうだったのだろう。ゆわーんゆよーんゆわゆよーん虐殺ソングブックという名著がある。クソみたいな小説が置かれている場所にレモン型の爆弾を設置する文学テロリストの物語だ。といっても文学を書くわけではなくてただのテロリストの話なんだけどね。

 

でもまだそこには小説への愛がある。だから糞みたいな小説が置かれていることに憤りを感じる。でも小説なんてそもそも20世紀の初期ぐらいに終わっている。終わったところから何を始めるか?ということから始めた作家がすでにレジェンドになって死んでいる。

 

気がついてよかったね。昔みたいにさ、数学とか政治哲学とかで身を立てよう!なんて思ってた時期があったじゃない?でも無駄だし無益なわけでしょう。見切りをつけるということは大事だよね。諦めとは違うんだ。俺はいつでもテロリストさ。

 

俺の先生は何をやろうと思わずに気が付いたら武術の練習をしちゃっているのだという。俺の先生は天才だ。ああいうのを天才というのだ。気が付いたらやっちゃっている。「やろう!」がない。頑張ろうともしていない。勝手に体が練習を始めてしまうし頭は武術のことでいっぱいなわけだ。

 

先生は生活や武術クラス運営の煩雑さに追われることなく武術を極めてほしいのに生活の煩雑さに追われているのだろうとも思う。ああいう天才が技術だけひたすら磨き続けることができる環境が必要だ。

 

現代に武術は必要ない。だからフィットネスとか健康促進用になる。そう言わないと「人殺しの方法、教えます」ってアートオブノイズの曲にありそうなタイトルの広告を出していて「うわーいっぱい出たねー」って言うのは女ではなくて男なわけで、プロっぽい感じではなくて素人っぽいぎこちなさに興奮するとかっていうディティールに興奮する場合、もう後には戻れなくなっている。普通のセックスは児戯に等しい。ここで児戯という言葉を出すとチャイルドポルノのようになる。

 

言わば私小説だ。俺が小説って意味で。ケツの穴がムズムズする夢を見たとする。で、実際にケツの穴をほじくっていたらケツの穴の中まで指が入ってしまってこの指はどこまで行くのだろう?とワンダーしたりしていたら目が覚めて「これは夢だったのか?」って指の臭いを嗅いだらモロにアナルの匂いがする場合、それは夢だったのだろうか?こういうことだ。胡蝶の夢はレトリカルで美しいだけでみんなそういう感覚は持っている。ただ表現形態とか文章が下手糞なだけで本質は持っている。

 

本質などないとかっていうやつを俺は片っ端から刺し殺してきた。撲殺もあったし絞殺したこともあった。気に入らないならすぐ殺すってどうなの?って言われたこともあったけど、相手の人生なんて考えたことはない。クソみたいなことを俺の前で言うからああいうことになるんだ。だから俺とは関わらないでくれ。Leave Me Aloneという曲がマイケルのやつであっただろう。あれはそういう内容の曲だ。

 

多かれ少なかれ大体人はそんなことをやっていたり考えたりするもんだ。三島も日本を変えるにはテロしかないって言って自決したとかっていう話もあるし決起した理由には色々ある。ただ少なくともダラダラと小説を書いているだけでは何も変わらないと悟ったのは間違いない。

 

それにしても三島の居合が下手糞すぎてテロリストの風上にも置けないのはいただけない。よく考えれば小説もあんまりおもしろくない。憂国は好きだけど。小説は面白くないのが問題だ。だから小説である必要がなくなる。そういうことを考えてばかりいるとどんどん根暗になっていって鬱っぽくなっていく。そして最終的に自殺する。そうなるようなメカニズムが文学には内在されている。文学という言葉が嫌いだけどね。

 

俺はミュージックコンクレートの話をよく出すよね。具体音のコラージュなんて誰もやってないだろう!って思ってたらシェフェールが半世紀以上前にやっていたというね、感動はしたけどね、やることなくなったなって。で、コンクレート作家で俺がやりたいと思っていたことを凄いクオリティでやっている人がいてその人の作品を聞いてコンクレートを作る必要がなくなった。

 

小説も同じだった。「顔のない作家」が俺が書きたいことや思っていることを言いつくしていたし考え尽くしていた。練習用の武具の携帯は軽犯罪になるのか?凶悪犯罪が増えていますよね。だからみんな武器を携帯しましょう。嘘ですよ。そんなの。他の国に比べて刺される可能性が極めて低いのがジャパンです。三島ジャパン。みつまじゃなくてね。

 

全く世の中のニーズに合わないものばかりに才能があった場合、どうなるんだい?それをやり続ければいいんじゃない?あと承認欲求地獄に入っちゃいけないよ。拳児にも出てくるでしょう。功夫は人に見えないところで積みなさいと。人に知られても見られてもロクなことにならないからって。凄い言葉だな。全てに言えるんじゃないか?それは。

 

功夫という概念には深遠な哲学的含蓄が腐るほどある。そもそも功夫という概念が哲学的だ。まさに「お里の修行」をそのままいく感じだ。ただ誰にも知られないし自慢するものでもないし「俺、格闘技やってるんだ」なんて言ってる時点である意味、やってない。少なくとも武術的には死んでいる。なんで分からない相手に手の内を明かすんだ。

 

「危ない人」が昔より嫌われている風潮にあると思う。だから凡庸なやつらが腐るほど増えてしまった。憂国どころじゃない。もう憂う対象が無い。憂う対象が必要だ。何かを憂いたい。終わってしまったものに興味はない。

 

最近マジでつまらないからまた小説でも書こうかなって思ってる。オリジナルキャンタマンって書こうと思ったらその話ももう書いたなと思ったらもう書きつくした感がある。すでにあるものと俺の中から出てきそうなものは大体書きつくしてしまった。気分がトルストイだ。戦争と平和ってトルストイだよね?戦争と平和を書いた後に燃え尽き症候群になったらしいぜ。

 

ドストエフスキーと間違いやすいよね。だからドストエフスキーは地下室の手記みたいなのを書くやつだと思ってればいいと思う。何かを研ぐと研ぐことにハマる。西部劇でも手持無沙汰でナイフを研いでいたり意味無く木の枝なんかをナイフで切ったりして適当に決起前の時間を潰しているシーンなどがあったりするだろう?ワイルドバンチが浮かんだのだが。