ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

クワス算について。

クリプキクワス算ってあるじゃん?あれが規約主義とかって勘違いされるのもなんつーか分かるんだよねっていうかさ、まぁ俺が間違ってるかもしれないけどいつも感じることを書くとね、言語についての議論だとしたら分かるのよ。でも例を算術にしてるからダメなんじゃないの?って思うんだよね。クワス算なんて成立しないじゃん!とか、んなもん実際に数えれば済む話じゃん!とかさ、まぁ直感的にそう感じるだろうし議論そのものに対する違和感ってのもそれが算術だからだと思うんだよなぁー。そこはすげープリミティブな数え上げというかさ、算術もルールだから・・・っていうのも分かるんだけどさ、算術以前の事実性ってあるじゃない?ルールが無くても箱の中に5つの卵が入ってたらそれは五個じゃん?算術とか関係なく五個だよね。


なんで五個なのか?ということにルールはないじゃん?それはもう五個なんだから。ではそれをなんで五個とするのか?っていうfivenessみたいなのを考えていくと規則のパラドックスとかって出てくると思うんだけどさ、まぁようはこれって行き着く先が5というのは数で「ご」と発音するっていう言葉のルールじゃん?英語ならfiveとかフランス語ならcinqとかっていうようはただの名前ってことになるじゃん?でもこの揺るぎない五語あるという感じってのはルールみたいなレベルじゃないよね。目隠しをして手だけを頼りにしても5個って数えられるでしょう。もしくは卵に触れたらそれを箱から取り出すという作業をしてもいいわけだ。結果的になんで個数が5個と決まるのか?っていうと5個の卵を取り出した後の箱の中身には何も無いからだよね。だから取り出すものが無くて卵を5個取り出したっていう物理的な事実が出来上がっちゃうわけだ。んでもそれは箱に入ってる卵を取り出すという作業をするって決まった時点で何個の卵を取り出すか?ってそりゃ箱の中に入ってる卵全部ってことになるわけで、それが5個だから5個なんだよね。


腕立て伏せ5回の5も同じ5だよね。算術は介在しないじゃん?算術の場合、ルールとか関係なく数えられる離散的なものであったら人間がそれを数か数らしきものと理解して数えてしまうってことだよね。それは一体どういうことなのか?っていうことなわけで、これと算術のルールって関係ないですよね。プリミティブな段階では。で、そういう数えるってことを発展させていくと四則計算を発見する場合もあるみたいなことじゃん?これってもうさ、それが数えられるって段階で四則計算が成立してしまうっていう物理的な事実だと思うんだよね。事実と規則ってレベルが違うじゃないですか?なんかそれを同じレベルで語ってパラドックスとか言ってるように見えるんでどうも腑に落ちないというかさ、「は?」って感じがするんだよね。あとまぁクワス算って論理が破綻してるからさっつっても我々の足し算っていう論理のレベルでは破綻してるじゃない?


クワス算という体系は色々とやれば成立可能(?)かもしれないけど、でもそれは数学と同じようにクワス算を適用した数学が我々の数学のように成立しないとそもそも規則とすら呼べない代物じゃん?恣意的な局所的なルールの違いだけでは「何たら算」という考え方すら成立しないよね。それをパラドックスというからには少なくとも我々の数学と同じ形が無いとダメじゃん?でもクワス算を実装した数学の体系なんて全然我々の数学とは異なるわけで比較ができない代物だよね。なんかそれって物理法則が地球のそれと比べるとめちゃめちゃに見えるブラックホールの中の物理ルールと地球の物理ルールを比べるようなもんだよね。物理ルールって重力だのなんだのって規定する前に重力ってあるわけじゃん?それを記述しようとすると重力ってことになるわけで、んでもそれを記述できたからといって重力の存在が保証されるということではないよね。ようは物理学という言葉で記述できると便利なので共通語になりやすいみたいな、そういう話ですよね。だからその共通語としての重力と物理的な現象としての重力って違うわけじゃん?俺が言いたいさっきの5個っつーのもこれで言うと物理現象としての重力ってことになるんだよね。


んでもクリプキとかウィトゲンシュタインの議論はナンセンスじゃなくてそれは「規則」におけるパラドックスが示唆する哲学的インプリケーションっていう価値があるわけで「クワス算なんてナンセンスだ」っつって一蹴するべきではないんだよね。ただなんつーかまぁただの俺の解釈が悪いだけなのかもしれないけど、なんで算術にしちゃったのかな?っていうさ、まぁあと俺自身が数学を規則扱いする話に反感を覚えるってのもあってなんかやっぱイライラするんだよね。それとして成立している体系とまた別の体系と・・・って成立する数だけ体系が存在しうるっていうのは十分ありますよ。


でも別の体系同士って比べられないし別モノじゃないですか?ようは違う論理体系のものを比べたりすることは出来ないってことだよね。これって間違ってますかね?クワス算をしてしまう宇宙人っつーのはそういう意味で違うルールの算術をする人たちってことなわけでそれ以上でも以下でもないよね。クワス算はクワス算体系の中では間違いではないかもしれないが、我々の数学体系では間違いであるっていうそういうことだよね。規則の解釈次第でどうにもなる的な話は分かるけど、なんかそれを数学に持ってくるな!っていつも思っちゃうのね。数学って人間が意図しなかったりそれこそ理解不可能な部分で自然のなんかの現象と対応してたりっていうようは不可知なものも含めて数学なんで超自然学と言えなくもないよね。ある意味オカルトなんだよな。数学って。人間が理解不能かまだ理解していない部分も含んでいるから超自然的だよね。まぁ宇宙も同じじゃないですか?数学者とかが数学に何か神とか自然の神秘だとかってのを感じてたりするって言う意味でのオカルトね。オカルトって言い方が悪いかな。


いや、そういうものなんでそういうものを規約のパラドックスの例として出してきたりすると規約主義的な変な数学観を植えつけるだけで何も良いことはないからやめて!って思っちゃうんだよね。まぁ実際にそういう批判はいっぱいあると思うけどね。でも俺の場合はただ一点ですよ。算術で例を出すな!っていうそれだけね。規約のパラドックスを出したいなら規約の例を出してこいってことになる。数学は規約じゃないんだから。ゲーデル不完全性定理と規約のパラドクスって全然違うじゃん?まぁそれを言い出すと「規約」なんてのも何の規約か?ってのが凄く重要になってきて、パラドキシカルな部分だけを出してきても所詮はそれって言語ゲーム的な話なんであってさ、でも存在する規約全般って言語ゲームとは違ったレベルでのその規約を正しいとアプリオリに感じさせる何かってのがあるから規約として成立しているっていうことがあるじゃん?数学は規約だとは思わないけど、ただまぁようは根拠の無いルールのゲームだとは思わないじゃん?クリプキの話ってのは規約を規約として見た時だけの根拠の不在なんであって、大抵の規約は根拠が人間の感覚とか言葉とかのレベルではないそれ自体がそうとしか認められないものみたいなものによって成立してるわけだよね。むしろそういうのが無いと規約は規約として成立しないでしょう。


むしろ何の根拠も無い規約ってあるのかな?っていう。宗教なんかはさ、常人には理解できないロジックでも「原典だから」っつー根拠があるじゃない?これって強いよね。ようはreasoningだよね。数学もreasoningで成立してるところがあるからこそ人間を惹き付けるし取り扱い可能なんでしょう。まぁあくまで人間にとっての数学ってことなんだけど。あとあれだ、クワス算に戻るけどさ、論理的にありえないものを成立するものとして取り入れちゃうとそれが原因で全体が成立しなくなるよね。実際はこれと規約のパラドックスって何の関係もないよな。規約って体系じゃないですか?いや、急に人殺しがオッケーになりましたっつっても人殺しを人々は許容しないでしょう。それは倫理のためっていうよりかは自分のためじゃん?オッケーとされてもオッケーとされない理由の根拠がいくらでもある。明日、急に人殺しがオッケーになるかもしれないわけで倫理なんて絶対的なもんじゃないとかってありえないじゃん?それは確固たるreasoningによって成立しないよね。


あ、ちなみにイスラム原理主義者とかが自爆テロとかするじゃん?で、まぁそれも宗教のロジックなのか?って勘違いするけど自爆テロをするような過激主義ってのは原典を歪めてたり都合良く解釈してるわけじゃん?サイード・クトゥプみたいなやつなんだけど、でもそれってまぁ書かれたものの解釈ってことになるから「なんでもあり」になりがちにはなるにせよ、でもやっぱり原典っつーソースはあるからね。だからまぁキリスト教でもユダヤ教でも変な解釈すれば異教徒は殺してもいいってことになるわけで。んでも相当歪めないと無理だと思うんだよね。まぁんで歪んだ宗教の体系ってのが出来上がって自爆テロオッケーだったりジェノサイドオッケーだったりするっつーような規約ができるんだよね。んでもこれは何でもありか?っていうと違うじゃん?では「自分以外を一人残らず抹殺する」みたいなことに実効性を与えるようなものが発生するのか?ってそれは無理でしょう。気違いじゃない限り無理だ。もちろん気違いだったら何でも浮かんで何でもやるかもしれないけどでもそれってもう規約の中に入らないじゃん?


クワス算も一緒だよね。論理的だったり何かしらの理由が無いと無理だよね。やっぱり。イスラム過激派の体系は完全に気違いではあるけど、んでも原典のこういうところをこう解釈して・・・ってのを一個一個研究するなり教えられたら賛同はしなくても一応reasoningは理解できるでしょう。これこそがやっぱり体系的ってことだよね。凄く変だけど「偉大なるなんたらがなんたらの丘でなんたらをやったときにこれをやったから」ってのが原典に記載されてれば「いや、それをこんな解釈するんすか?」って思ったとしても一応は「原典にあるから」っていう理由は理解できるよね。クワス算は理由も論理も無いからそもそもそれを一つの原理として認められないってのがあるよね。それがなんかしらの理由とか論理で成立してたら別体系ってのがありうるわけよ。それはちゃんとしたイスラム教とイスラム過激派っていう全く別の体系があるようにクワス算を実装した数学大系ってのが成立するでしょう。でもまぁ無理じゃん?明らかに破綻したものを認めるっていうとさ、さっきも書いたけどそれを認めた時点でこっちの論理がおかしくなるじゃん?


それを認めた上での議論ってナンセンスに思えるんだよね。逆にクワス算のくだりで「規約のパラドックスだ!」って真剣に思える人がどのくらいいるのか?って思っちゃうね。最近まぁ真意を理解したからクリプキが馬鹿だとは思わないけどただまぁ本当に誤解されてもしょうがないよなぁーっていう。そういう意味でウィトゲンシュタインも間違えられやすいんだけど、まぁそりゃーしょうがないよな。勘違いされるような書き方とか言い方をしてるからこれって読者が悪いわけじゃないだろう。「いや、それは研究が足りないからだ」って言っちゃえばそれまでだけど、まぁでもウィトゲンシュタインクリプキの議論ってあれだよね、本当にあれよ、書き方が悪過ぎる(笑)


まぁ俺が言いたい規約の話って帰納的に必ずなんかしらの理由にたどり着くってことか。まぁ理解しがたくても帰納のプロセスの中で歪みが見えたりね、でもそれって「あーここでこんな風になったのか」って分かるじゃん?歴史を学ぶってそういうことだよね。南京大虐殺然り従軍慰安婦然りだけど、前者に関しては中国のプロパガンダだって完全に証明されてるわけだし、後者に至っては従軍慰安婦を奴隷として扱っていたのか?ってことが問題なわけじゃん?従軍慰安婦なんだったらそれはセックスワーカーなわけだから論点にもならないじゃん?まぁだから強制性ってのが問題になるんだけどね。だから問題は従軍慰安婦の存在ではなくて強制連行して無理矢理従軍慰安婦にさせたっていう事実があるかないか?だよね。従軍慰安婦が必要だったなんて当たり前だろう。なんでそういうところが論点になるのかさっぱり分からないんだけど。


これを帰納と言うかは分からんけど歴史的事実ってまぁそうじゃない?んでもよく歪められるわけだよね。「こういう根拠があるんだ!」とかってのをねつ造しちゃうから何が本当なのか分からなくなっちゃう。これぞ現実世界で起こっているクワス算でしょう。歴史に立場も無いですよね。俺は事実にしか興味がないんで。ようはねつ造を本当のことだって認めちゃったら何でもありになっちゃうってことだよね。あ、まぁ従軍慰安婦については分からないんだけどさ、何が言いたいか?っていうと歴史的事実ってのは一つしかないじゃん?解釈によって多様になるものではないじゃん?実際は解釈によっちゃってるから色んな史観ってのが成立しちゃってるんだけど、歴史は物理的に起こったことだからそれ自体にはイデオロギーとか介在しようがないじゃん?だからイデオロギーを介在させて歴史認識をねじ曲げるようなことをしている国家側が言うことなんて信じられないってことになるよね。普通は。でももう完全にやられてるよね。アメリカ人はみんな騙されてるわ。こんな感じで日本ってどんどん不利になっていくよね。っつーか韓国とか中国とかの情報発信力が強いんだよね。


The Rape of Nankingなんかもそうだけどねつ造だらけだって分かっててもベストセラーになっちゃったし、今でも読まれてるみたいだから一回発信されたら終わりだよね。だからこそ厳密な意味での歴史的事実に基づいた歴史認識って無いとマジで戦争とかまた起こりますよっていう。パレスチナ問題とか典型的じゃん?イスラエル最悪だよな。あとシオニズムもより嫌いになった。正直、あんなことされてたら自爆テロぐらいしかやりようがなくなるやつらもいるだろうって思っちゃうぐらい。最近でもまたガザ地区への空爆とかやってるし何なんだろうな。なんかそんな意味でさ、麻生がナチスがどうのっつってユダヤ人団体からクレームが来たとか言って問題になってるけどさ、まぁ麻生自体はどの道低能過ぎるから話にならないとしても、虐げられたものとしてのユダヤ人って国際的に強いじゃん?んでもその一方でアラブ人の虐殺をしてるとかアパルトヘイトをしてるとか、まぁ別にユダヤ団体=イスラエルじゃないにしてもさ、虐殺されてた側が虐殺を繰り返してるって凄まじいよね。で、虐げられているアラブ人=テロリストっつー国際認識だもんねっつーかまぁこれもイデオロギーじゃないですか?もうだからダメなのよ。厳密な意味での歴史的事実に基づいた歴史認識ってみんな持つのは無理にしても持とうとしないといつまで経っても戦争とか虐殺が終わらないんだよね。


まぁんで卵に話を戻すとさ、少なくともその物理性という意味においては最初に書いた箱に入ってる5つの卵ってこれって事実じゃん?理論とか規約とかそれ以前の問題じゃない?それを数えると5個になっちゃうじゃん?なんで数が12345って数えられるの?ってまぁそれは言語ですよね。1がビールジョッキで2がテーブルで3が椅子で4がナイフで5がスプーンって呼び名でも卵の数は変わらないよね。ようはその卵の数を指すものってのは変わらない。この卵の数と数字の呼び名って関係ないよね。数学の法則と数字の呼び名も関係ない。まぁだから記述は事実に依拠しているっていうことだよね。だからクワス算の話とかって本質が伝わり辛いと思うんだよね。クリプキの話の本質は根拠が無いものには真偽は無いってことだよね。全くその通り。クワス算の例えばマズいのは算術には根拠があり過ぎるから全然真意が伝わらないどころか間違って解釈されちゃうってことだよね。んまぁでもあれか、クワス算を認めるような体系にはつまりは事実的な根拠が無いってことでその体系の真偽なんて分からないって言えなくもないか。ただまぁ直感的にクワス算は我々の数学体系では成立しないことが分かり切ってるからやっぱり分かり辛いよね。ってことであってると思うんだけどどうかしら?クワス算ってまぁようは「素数は割り切れる」って言うようなもんじゃん?「今までの素数は全部割り切れなかったが割り切れるような素数があるかもしれない」ってそれは無いのは分かり切ってるじゃん?規則と事実の違いですよね。


割り切れないものは割り切れないわけでその事実は変わらないわけだ。っつーか定義がいくつも与えられるってそんなこと自体がそもそもありえないよね。プラスはクワス算であったかもしれないなんつったってプラスの定義って与えられてるわけだし、散々卵の話でも出したように定義が与えられてなくても直感的に分かっちゃうってところがあるわけだ。必然的に定義が決まっちゃうって感じか。うん。だからまぁやっぱり算術を規則のパラドックスの例にするってのが本当にマズいことだってのはよく分かりますよね。幾何的直感然り。直角であるということに意味なんてないし、卵が5個あるということにも意味は無いよね。ただあるならそれは事実でしょうってことなわけで。それと規則は関係ないんだよね。共同体の合意があるからそれが直角であったり卵が5個あると認められるのではなく、それ自体でそうなのだと明示してるからだよね。明示って言い方はアレかな。


前に書いたような数学に無駄な意味での「生成」とか「順序」っつー概念を介在させるとどうしようもないことになるってことだよね。観測者が介在することで数学というのは成り立っているんだとか、さっきの5個の卵で言えば「観察者→5個の卵」的な話ね。この作用「→」自体が規則なんだとか観測するっていうプロセスなんだとかなんだとか。いや、5個の卵と数学にとってこういうのって関係ないからっていう(笑)これって結構広く勘違いされてるよね。あとは作用によって実在が記述されるだとかなんだとか、これも全然違うよね。卵5個にとって作用ってのは何の関係もない。どうも言語ゲーム系の議論ってこういう勘違いしてるんじゃね?って思うんだよね。いや、真剣に研究してる人が大勢いるから、そんなスマートな人たちが間違ってるわけない!って思いますからね、俺が理解してないだけなんだとは思うんですけどね、多分深遠なフレーバーがあるに違いない!って思ってるんだけど、どうも分からないんだよね。


分析哲学とかは明らかにくだらないのが分かるけど、ウィトゲンシュタインとかクリプキのラインはなんかあるんだろうなって思ってるんだけど何にも無いんだよな。俺が理解してないだけだろうって思ってるんだけどね。相変わらずクリプキがなんで天才なのかがさっぱり分からないわけで。一般の人が「パラダイムシフトだ!」とか「まさにグランドブレイキングだ!」って思えるようなキャッチーさがあったからウケが良かったのかな?「数学」も「心」も規則じゃないじゃん?むしろなんで数学とか心ってのは「感覚」とか、こないだ変態のエントリーで書いたような、某カリスマファッションモデルと吉高由里子では100人中99人が吉高由里子と付き合いたいと思うのか?ってことじゃん?それが共同体で人気がある顔だからだって絶対違うでしょ?(笑)なんで直感的に吉高由里子を選んでしまうのか?ってことじゃん?なんで卵が5個あると5個あると認識できて、そこから二つの卵を取り出せば5-2というオペレーションが成立してるって理解できるのか?ってことでしょ?これって子供でも理解できるっていうか子供でも理解できるからこそ最低限の算数は誰にでも理解可能なわけじゃん?なんでそれが容易に理解可能なのか?ってことじゃないっすか?本質は。まぁあと幾何的直感で言えばプラトンのメノンですよね。


だから数学って規則とは最高に相性が悪いんだよね。その自明性がアプリオリ暗黙知としか言いようが無いようなものに支配されてるわけじゃん?数学を形式でしか理解できない場合はどんな頭が良い人間でも限界があるよね。人間がここまで数学を使いこなしてるっていうそれってやっぱ意味論じゃん?規則とかとは関係なくそれが人間にとって概念として扱いが可能というこの相性だよね。これが何なのか?ってことじゃん?いや、これってあれなんだよな、だから結局、とりあえず暫定的にイデアだとでも言っておこうってことになるんだよね。吉高由里子を「美のイデアを持つ美女」とするのは過大評価し過ぎだけど、何らかの普遍的な男を惹き付けるイデアを持ってるわけでしょ?この魅力って数学も同じなんだよね。まぁ吉高由里子ほど分かりやすくはないけど、分かる人は大体美を感じてるっていう。もう本当に形式とはほど遠い話ですよね。あえて分析すれば「目元がこうで口元がこうで体系がこうで・・・」とは記述可能かもしれないが、そもそもパッと見でそんな分析してるわけないじゃん?まぁ分析してるのかもしれないけど「分析する」っていう動詞ではないよね。アプリオリに「お!」って気がついたら見ていたみたいな感じじゃん?それが一体なんなのか?ってことだよね。


ってことで最後にFernando ZalameaのSynthetic Philosophy of Contemporary Mathematicsからの引用で締めるわ。

The heart of mathematics has its reasons, of which linguistic reason knows nothing. Just like Stephen, in Joyce's "A Portrait of the Artist as a Young Man", who must confront the 'wild heart of life' and choose whether to avoid it or rather to immerse himself in it, the philosopher of mathematics must confront the 'wild heart' of mathematics.



いや、普通にハリウッド映画見てるとスピルバーグの映画とか最近で言うとアルゴとかさ、イスラエル寄りとかアメリカ寄りの見方ってのを本当に植えつけられるじゃん?特にエンタメとして優れた作品でこういうことをやるからあざといよな。本当に。よくも平然と今時イラン=悪みたいな露骨な視点で映画を撮るよなぁー。アラブ人=暴徒みたいなイメージじゃん?イスラエルとアメリカのシオニストや極右が結託してアラブ人を世界から追い出そうとしてる的な陰謀論説が生まれるのも分かるよね。火のないところに煙は立たぬですね。