ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

iyiさんへの返信。

iyi 2015/02/10 22:50


お疲れさまでございます。私は渋谷のウォキニというバーが大好きです。ところで耳蝉さん、私は最近人工知能に大変興味があるんですが、あそこら辺のことについてはどう思われますか?私が大好きなブログ書きは三人いるのですが、みんな「いらない」というか本質でないよと言いそうだなと思ったので、あえて伺います。やっぱりウォール伝は最高です。いつもお話してくれてありがとうございます。追伸、美とは予測観点の発見だみたいなことを、人工知能関係でこの前お会いした方がFacebookで書いててなるほど!と思いました。


直接的に人工知能について書いたわけではないんですが、今書いているこの一連の音楽シリーズの中で「インターフェースによってアルゴリズム化されるDJ」みたいな感じのことを色々書いています。ようは盛り上がる要素とかをなるべく数値化して盛り上がってるときの状況とか曲順とか曲調みたいなのを統計的に分析すれば人工知能的DJは可能だと思うんですねっていうか僕が今回ディスりまくっているEDMトップ100のシャッフルみたいなのしかかけないやつらみたいなのは本質的に人工知能と変わらないじゃん!っていうことなんですよね。まぁまだ貼ってないかもしれませんがそのうち出てくると思います。


で、まぁ一連の最近の流れの中で感性的なものというのの重要性というのを凄く感じているんですが、それはやはり結局はただの選曲ということでもやはり感性的なものというのがDJプレイによって出る瞬間っていうのはあると思うので、ではそれは一体何なのか?っていうことになるんですよね。でもDJ自体は美術品とかと違って受け手の価値観に依存しますから、そんなものは幻想だと言われればそれまでなんですが、でもそれが幻想であるなら人間が感性的だと思っていることも結局はアルゴリズム的な処理の塊なんじゃないか?っていうことになるんですよね。この辺はペンローズとかが色々書いてたと思いますし、あとチューリングゲーデルなどがモチーフになっている計算可能性と計算自体みたいなことになるんですよね。まぁ結局は数学ってことなんですが。なので人工知能というのは言わば数学のジャンルの一種なのでどう思うか?というところに関しては意見を持ちづらいというのはありますね。


結局その質的なものというかまぁ一時期茂木さんが使ってたことで有名になったクオリアみたいな概念も、ようは全ては計算とかプロセッシングなのか?っていうことになるんですよね。で、まぁ心ってやっぱりそれとは違うものだろうっていう漠然としたものを大体の人が持っているわけですが、でも中には結局は全部計算なので脳も言わばコンピューターみたいなものであるって考える人もいるんですよね。ただこの辺に関してはそんなに簡単な話ではないってことで80年代後半ぐらいに話が一気に陳腐化して廃れたっていう感じがしますね。それと計算可能性と数学としての人工知能ということ自体の研究は別に廃れてはいないんですけどね。ただ心もプロセスとして語るようなアルゴリズミカルな考えというのが陳腐化したということですね。


今書いてるところで言えば改めてDJということを考えてみると今って別にクラブに行かなくても音を知れるしそれこそ僕みたいな探求型の人間はむしろネットで探したほうが色々探せるみたいな感じになってますよね。昔あったDJの特権性みたいなのが無くなって、ではそれでも成り立つDJって何なのか?っていうのを考えていく中でやはりそれは楽器の演奏などと同じような表現ということなんだろうなってことになってるんですけどね。でもこれって凄く簡単な話っていうか全部それは表現だのアートだのって話に帰結させるとそれで一応ロジックは成り立ってしまうのでそれではつまらないので分析的に色々と考えているんですけどね。まぁ言わばアルゴリズム的な処理で代替可能になるものが増える中で中には表現みたいなものも元は人間がやっていた人間臭い表現なんかも再現できてしまうわけですよね。まぁ方法論的に機械を使うみたいなコンセプチュアルなのは別として。


だからなんていうんでしょうかね、アルバートアイラーのサックスをそのままコンピューターで再現可能だったとして、それでも結局まぁアイラーのような激情型の人間の演奏を譜面に起こして分析しましたと言われても凄く違和感がありますよね。そもそもあれってのは粗ぶる心みたいなのが表面化したものなわけで。でもそれは客観的に見れば同じデータというかデータとして処理できたとしても、それをデータとして処理できるという計算可能性やアルゴリズム化できるというようなことと感情とは似て非なるものなんじゃないか?って思うんですね。いや、それは直感的に誰もが機械と同じわけがないって思うんですけど、ある程度数学をかじってから色々考えてみてもそもそもの人間の感情みたいなファジーなものというのは再現不可能で、あとは仮に再現できたとしてもそれはあくまでシミュレーションなのであって本当の心というのはやはりその感情が起こっているその場で起こっていることなんだって改めて思うんですね。かといっても唯心論みたいな話に帰結するわけでもないですし、身体機械論みたいなのともまた別なんですよね。


シミュレートされたピアノ演奏と実際の生のピアノ演奏って今はおそらく生のピアノ演奏のほうが色んな意味で優れてると思うんですが、結局これって精度の問題ですよね。精度が優れれば単純な聴覚上のデータとしては違いが分からなくなったりすると思うんですね。でもそんな中でやはり生は違う!とか感情がこもっているって言えるものは何なのか?っていうことなんですよね。あ、もちろんピアニストが演奏しているという視覚的な情報は抜きにしてです。まぁようは例えば凄く感情がこもった演奏というのとそれを完全にシミュレートしたり違うバリエーションで色々と再現可能なものがあったとして、では前者と後者の違いは何なんだろうな?っていうところなんですよね。まぁ端的に言えば昔から論争がある心と機械って話なんですけどね。でも心とか例えば痛い!みたいな刺激から来る感情みたいなのって数値化しようにも何を数値化するのか?って話になるわけですが、アウトプットが演奏だったり絵だったり表現だったりすると途端にわからなくなりますよね。動きにしてもモノにしてもシミュレートは可能なわけですからね。


で、これってようはそれを言い出すと何らかの外的なアウトプットなりもしくはインプットなりでそこから想起されているものとか沸きあがってくるものの媒体となっているものを分析すれば何をもってそれが想起されていたり感情というのが生まれてくるのか?というのは全てとは言いませんが分析可能ですよね。物凄く野暮ったいんですが。じゃあこうなると美というのは色んなパラメーターの絶妙なバランスのことを言うのか?っていうことにもなりますし、あと僕はそれは予測観点と言えるほど明確なものではないと思っているんですね。凄く直感的なものですよね。で、自分が「これは美しい!」と思ったものを評価するとかDJならその曲をかけるみたいな形で他者にその価値観を提示するっていうことになるんですよね。その美しい!と感じた物自体を媒介として。でも美を感じる瞬間って「これがツボなんですよね!」って言えるほど明確じゃなかったりしますよね。これって思わぬところで性的興奮を覚えてしまったみたいなものと同じなんですよね。情緒的なもののアンバランスさというんでしょうかね。


あ、長くなったので続きは今書いてるやつに書こうと思います。でも大体今書いたことは僕が今思ったことの要約になっています。まぁ結局でもなんか書いてて思ったんですが、どこに心が宿るのか?っていう古典的な哲学の話になってますよね。性癖とかって分析するの難しいじゃないですか?なんでそれに興奮するのか?と言われてもまず興奮が先にあってその後に賢者モードとかになってみると自分の傾向が分かるみたいな、でもそれはAVのようにパッケージングされるほど明確な性癖ではないっていうことですよね。「欲情するコンピューター」ってのは一体何なのか?って話なんですよね(笑)でもやっぱりそれは違うと思うんですよね。欲情するっていうポイントを分析したとしても細部にいたってはやはり個体差がありますし、シミュレートにも限界がありますよね。それは演奏然りなんですが。なんかやっぱり僕はそこは実は演算とは一番遠いものなんじゃないか?っていうのを感じてるんですよねって言ってもまぁ最近の感性的なものを重要視するっていうテーマがある中でバイアスがかかってるだけなのかもしれませんが。


なんかまとまりが無くなってしまったんですが、こんな感じです。あ、あと書き忘れたんですが、千利休の侘び寂びという概念が凄く重要になってるんですよね。自分の中で。DJで言えばいかにも盛り上がりそうな曲ではなくて一見地味な曲なんかを場を演出したりそもそもの価値観の提示を行うことでそれを美として提示するみたいなセレクトするっていう行為なんですよね。まぁもっとも千利休の侘び寂びってそんなに単純なものではないし、単に地味ということでもないんですが、千利休が凄いのは別にその辺にあって誰でも作れるみたいな平凡なものに美を見出すという美の感性なんですよね。凄くまぁレアグルーヴ的って言うか本来の意味でのDJ的なものですよねって言っても今のクラブは特に派手なものばかりが求められるようなので、そういうオツなものってのが分かるリスナーが果たしてクラブに行くのだろうか?っていう話でもあるんですけどね。あ、長くなりそうなんでこの辺の話はまた続きとして色々書きますね。


あ、それでまた書き忘れたんですがレアグルーヴは「実はかっこいい」というだけで客観的なかっこよさがあると思うんですがっていうか自明なパラメーター的な良さがあるんですが、千利休のような侘び寂びのような美的感覚というのはパラメーター的な美ではないんですよね。まぁそれすらもデータ化されれば別ですが、侘び寂びっていう概念が無い中で、一般的に美しいとされるものの統計を取ってデータ化してもそのデータが「ではこれも美しいのでは?」とサジェストできない美しさっていうんですかね?もちろん今ではそれは伝統的な美として認識されていますが、でも僕らが美しいとかって感じているものの中でやはりデータベースや統計ではサジェストできないようなものってのも多いと思うんですよね。なんかやはりそこが心なんだと思うんですが。あとはまぁ情緒ってやつですね。