我、お多福となりて。

mimisemi2009-08-02

今の俺のっつーかさ、すげーいい呼び方を思いついたんだよ。っつーのはね、「フルタイムの思想家」ね。思想家っつーと大げさっつーか思想家っつーのが哲学者並にまぁ象徴的な意味が強烈過ぎてさ、村上龍が作家として本名名乗れなかったみたいなのあるじゃん?そういうのはあるにしてもでもさ、思想とか思索の質とかはともかくとしても色々考えてるって意味でさ、なんつーのかな?学者とかって大体そうだと思うんだよねっつーのはさ、数学者とかでもそうだけど大体昔からさ、思想家とかでも実家が金持ちとかさ、パトロンがいたとかさ、実益っちゅーか金にならないようなことをサポートしてくれる人達がいたから出来たみたいなのがあるじゃん?


で、結果的に知の体系だとかさ、人類に貢献したわけだけど客観的に見ればただの引き蘢りとかニートだったみたいなね、そういう意味で俺は一生フルタイムの思想家でありたいんだなって思ったわけね。それはかっこいいさ、知愛的な態度っつーかまぁそりゃー俺の個人的な動機としてさ、客観的に見てもさ「あいつ電波だなーみっともねぇー」とかって思うような人多いじゃない?多分。そういう客観的な観点も含めたアイロニーとしての思想家なんだよね。思想家っていうとかっこいいけど「フルタイム」がつくと趣味度が高いっつーかさ、パラサイ度が高いっつーかさ、金になってねぇーなっていうね、ニートを「自宅警備員」って呼ぶのと同じって意味でね、「フルタイムの思想家」なのね。「何してはるんですか?普段は?」ってはんなり言われたときに答えれるっつーのかな?で、俺の前の表現の話に繋げるとつまりは外部でやる表現活動ってこういうことだよね。実益とかあんま考えないで電波だろうがなんだろうがとりあえず出しちゃうっつーやり方ね。


そういう意味でさ、考えたことを書いてさ、んでそれを少ないけどもね、誰かが読んでくれてたまに共感してくれたりとかさ、そういうのってもうブログっつーかネットで可能じゃん?たまにここでコメントとかもらうとさ、もうなんつーのかな?人生の目的果たしたような気分になるんだよね。ブログレベルでいいのか?って話があるけどさ、んじゃあ例えば俺の書いてることが思想とかさ、まぁ哲学とか政治学とかに分類されたらさ、それを例えば出版レベルにするとかさ、論文レベルにするとかって結局体裁の話なんだよね。俺が考えていることとかさ、思いつきとかをね、例えば論文調にするならなんつーのかな、理論的なバックグラウンドとして「シュトラウスによれば」とかさ、「マキャベリによると」とかさ、そういう枠組み使うじゃない?でもそれっているの?って感じだよね。


それって結局、論文っつー体裁を整えるために必要なリファレンスっつーかさ、後藤なんたらが言うところのエビデンスだったりするわけじゃない?俺はそんなのどうでもいいと思ってるんだけどね、だってさ、理論的根拠なんてさ、根拠っつったって誰かが作った根拠じゃん?所謂、全知全能の神がお造りになった絶対的な知の体系とかって無いじゃん?限られた存在としての人間が限られた知性で考えられる範囲で妥当とされているものが根拠だったりしてさ、結局その根拠って人間の認識に基づくものであるからさ、まぁ全てがグダグダになっちゃいそうな言い方になるけど、どの道人間が考えだしたものだったらどっちも同じじゃん?


俺が勝手に言ってることがさ、たまに過去に作り出された概念とか理論と若干かぶってたりさ、そういうのってあるじゃん?で、俺の中で存在するものってそれについて知ってるか知ってないかだけなんだよね。逆に知ってたらまぁ「そう思うんだけど」なんて書けないよね。だって誰かが作り出した概念の転用になっちゃうじゃん?でも俺としては地でやってるつもりなんだよね。地で考えてるっつーの?で、その結果、誰かとかぶっててもかんけぇねぇーどころかさ、権威のあるね、それこそすげー学者とか哲学者と理論なりフレームワークがかぶってたら光栄なことじゃん?まぁそこで自己言及的なね、「俺ってすげー論」みたいになっちゃうと意味無いんだけどさ、つまりはそれを日々でやっていくっつーのが思想だよね。つまりは考えるってことね。


恐らく外部とかを過剰に意識し始めた時点で思想は終わるよね。だってそれって外部との関係性とさ、繋がりの連関性によって出てくるただの所産になるじゃん?まぁヘーゲル的に言えば地でやってるつもりの俺でも結局はそういうシステマティックなものによる所産が俺の考えだったりするんだろうけどさ、でも少なくとも主観のレベルで外部によって雁字搦めになる必要は無いよね。グレートディベーターっつー映画を見た時にさ、デンゼル・ワシントンだったかな?まぁ黒人万歳映画なんだけどね、すげー疑問だったのがさ、デンゼル扮する教師がね、生徒にディベートを教える時にさ、「ソースは?」って聞くんだよね。裏付けが必要だ!って言いまくる姿勢って例の後藤なんたらにそっくりなんだけど、俺はこういうのにちょー疑問だね。だってさ、さっきも書いたようにさ、ソースっつったってその先にあるのも人間の思考の所産じゃん?地頭とかね、程度の差とかはあるよ。でも同じ脳から出てるものならさ、脳汁みたいなもんで一緒じゃん?大トロでもシリアルでもハンバーガーでも胃の中に入っちゃえば一緒じゃん?ゲロだよね。食物っつーか味の差って意味無いよね。マジで。一時的な味覚による科学反応っつーか脳反応じゃん?俺が普段書いてるような恋愛とかと一緒でさ、ただの科学反応だよね。それを美味しいださ、コクがあるだなんだって騒ぐのってバカバカしいと思うんだよね。どんだけ食への煩悩がデカいんだっつー。


結局思想っつーかさ、アイデアっつーかさ、そんなのも胃の中のゲロと一緒なんだよね。口当たりが大トロのようだろうがさ、ハンバーガーだろうがさ、栄養剤だろうが胃に入っちゃえば一緒じゃん?問題は栄養だよね。体裁はともかく栄養があればいいと俺は思うのね。不純物が少なくてさ、癌とかにならない健康食っつーのかな?そういうのでいいじゃんって思うのね。で、結局口当たりとかを気にしすぎるとさ、文体とかを気にしすぎたりさ、学会に通用するか?ってようはグルメ達に通用する味のレベルなのか?って考えるとかさ、そんなことに雁字搦めになるってバカバカしいと思うのね。自分で好きで作ってる料理でさ、自分の家族とか好きな人とかさ、友達とかが「旨いねぇー」って食ってくれてればいいじゃんって思うのね。それとビジネスになるレベルとかって関係ない話だと思うのね。


で、胃の中ゲロ説をもっと敷衍するとさ、結局思想とかだって同じじゃん?かなり雑で荒い分析でもさ、ある程度は読者っつーと大げさだけど誰かに伝わったりね、もしくは伝わった上で反論が生まれたりっつーのも含めた建設的なダイナミズムみたいなのが生まれればそれでオッケーだと思うんだよね。それを学会で発表するだとかさ、出版物にするだとかって全然違う話じゃん?あたかもさ、一番上のレベルが学会っつーか論文だったり出版物だったりみたいな考え方があるけどそんなことは無くてさ、別に文章だったらどれもこれも同じなんだよ。ようは咀嚼して栄養になったりね、それが栄養として伝わる何かなら形とか関係ないわけ。胃の中っつーか頭の中に入っちゃえばさ、大トロもシリアルも一緒なんだから。


文章の美しさとか構成の素晴らしさとかを追求するエクリチュールの美学みたいなのがあっていいと思うよ。俺は。でもそれは全然違うジャンルの話だと思うのね。言いたい事を上手く書くとかさ、レトリカルにポエティックに書くとかさ、学術論文っぽく書くとかさ、俺に言わせればそういうのを追求している人達こそ読みづらい文章を書いてると思うんだよね。あ、まぁ上手く書くことを追求するのはいいんだよ。伝える事を追求するのはいいのね。ただ文体の美しさとかさ、それらしさっつーかそれっぽさみたいなのを追求しまくるのは別の世界の話だってことね。で、特に俺が嫌いなのがランシエールアガンベンね。アガンベンについては概念とか理論は好きだけど書き言葉が大嫌いね。この2人は共通しててさ、二人とも美学とかやってる人達なのね。だからなんか妙にレトリカルな文とかさ、ポストモダン系の晦渋に書く悪い癖っつーのがすげーあるんだよね。例外状態だのさ、集合論と所属の話とかさ、もっと噛み砕いて分かりやすく説明すればいいのになぁーって思うのになんでああいう文体で書くのかね?


ランシエールに関してはもう彼の政治思想が俺は大嫌いなんで書き言葉も思想も両方嫌いなんだけど、比喩とかもさ、分かりやすさとかを追求するなら美しさより卑近さを重要視するべきだよね。別にギリシャ神話とかさ、古代のバビロニアなんたらと王の話とかで例える必要ないわけよ。ソーカルとかが批判してたのもこういうポイントだよね。まぁこれが全てではないけど、ようはさ、例え話をもっと分かりづらくするっつー悪癖ね。例え話ってのは分かりづらい事柄を分かりやすくするために他の概念とかさ、他の事柄で脱構築して説明したりすることなわけでさ、ソーカル達が言うように逆ではないんだよね。で、ポストモダンの連中とかさ、全員がそうとは言わないけど、ああいう連中ってさ、アガンベンランシエールもある意味でポストモダンの残りかすみたいな連中じゃん?ああいうのを見てると胸くそ悪くなるよね。ポストモダンの悪い面が出過ぎてるっつーかなんつーか。


で、仲正昌樹が言ってたようなね、最近の思想家の小粒感は凄いってことなんだけど、それもあるじゃん?フーコーとかデリダみたいにデカくないんだよね。そいつらの腰巾着っつーか付随物の残りみたいなのがさ、メインが死んだからマイナーだった残りが出てきてるみたいなもんだと思うんだけど、小粒のくせに分かりづらいって最悪だよね。逆にデカかったらいいよ。それこそすんげーカリスマティックでさ、どんだけ難しい文体で書こうともなんかの威力がエクリチュールにあってさ、信者が多いみたいなそんぐらいの人物が晦渋な書き方をしてるとかならいいよ。廣松渉みたいなね、内容があるんで「晦渋な文章だ」ってだけでスルーできないみたいなさ、そういうのがあればいいんだけど、ランシエールとかアガンベンってさ、簡単に書けるぐらいの概念のレベルのことを難しく書いたりさ、変な語彙とか使って説明するもんだから読みづらいんだよね。その読み辛さでいかにもな「思想感」を出してるっつーの?過剰包装みたいなもんだね。ちなみに俺はアガンベン好きなのね。基本的に。概念も勝手に転用して色々書いたりしてるしさ、依拠するって言うと大げさだけど色々勝手に借りてきたりしてるからね、アレなんだけどでもまぁーあの文章にはイライラするな。ネグリとかもそうね。マルチチュードぐらいのレベルで他のも書けばいいのにさ、なんであんな難しく書くわけ?


思想って他人に伝えるって前提があるからエクリ化されるわけでしょ?なんでそれを難しく書く必要があるのかね?解説書とかじゃ説明できないぐらい難しいことが書かれてるならいいよ。つまりは簡略化出来ない概念なりね、語彙とかを変えてしまうと本質が変わっちゃうようなさ、ようは法華経みたいな神秘的な晦渋さみたいなのがあればいいよ。でもネグリとかアガンベンとかランシエールって別にそこまで凄いこと書いてるわけじゃないじゃん?なんかの既存の思想とかに依拠してさ、それの脚注とかさ、敷衍とかを書いてるっつーレベルじゃん?いや、レベルが低いって言いたいんじゃなくてね、例えばフッサールとかさ、デカルトとかね、もしくはハイデガーとかさ、あんぐらいのレベルじゃないじゃん。ああいうレベルの人ならね、デカルトはそうでもないけど、仮に難しく書かれてても読む価値があるからさ、まだ許せるんだよね。頑張って読む気になるけどさ、ネグリとかってそうじゃないじゃん?結局要約すると薄っぺらい解説書になるレベルのことばっかじゃん?だからマイナー止まりなんだよね。


インテリ左翼とか分かってるふりするなんちゃって左翼とかさ、カッコ付きの「難解な哲学書」を読む事に喜びを感じたりステータスを感じたりするやつらにウケてるだけっつー内輪のレベルになっちゃって、本来の思想が持っているべき他人へのある種の超越的な霊的なものを伝える威力っつーか強烈さみたいなのを無くしちゃってるんだよね。それはまぁ元々書かれたものはもう死んでるみたいな話は別としてね、俺はこれには異論があるけどね、っつーのは前に書いたからいいか。その書かれたものが死んでるから生きるわけがないっつー議論がバカバカしいのはさ、音楽に例えればmp3なんてデジタルデータだって言ってるようなもんなんだよね。そうなんだけどでも良さとかを感じるのってリスナーじゃん?耳に届いて生きるんであってさ、mp3自体が生きてる必要は無いんだよね。エクリチュール然り。エクリチュールが死んでるなんて話は本当にバカバカしいよ。本当にバカだなって思う。分からん。デリダ発とかなのかもしれないけど、まぁ俺が理解してないだけなのかもしれないけど「は?」ってレベルだよね。思想とかに精通してない素人でもツッコミを入れられるぐらい脆弱なレベルの話だよね。


で、まぁ伝えることでしょ?だったらブログでいいんだよね。ウォール伝が読みやすいかはともかくとして口語体で高尚な思想について語っちゃうとかさ、解説しちゃうとかね、自分の思想語っちゃうとかさ、極端な話、最近だと漫画とかで思想入門とかさ経済学入門とかあるじゃん?結局ね、情報レベルで両者ともにね、例えば真面目な教科書と不真面目に見える萌えキャラが経済学を解説してるようなやつがね、頭に入っちゃえば情報は同じだったら楽で分かりやすいほうがいいわけ。ようはインフォーメーションってレベルで考えちゃば漫画だろうが教科書だろうが同じなんだよね。漫画で理解できちゃえばそっちでもいいんだよね。それがさっき書いた胃の中ゲロ説ね。頭に入っちゃえば一緒じゃん?高尚な本と長年付き合って得た知識とさ、漫画で一瞬で理解しちゃうのってまぁ理解へのプロセスとか咀嚼のプロセスとかの重要性もあるけど、そういうのはさておき情報っつーレベルで考えたら一緒だからね、だから別に漫画でもいいしさ、漫画とかでなんたら入門みたいなのを何も劣化させることなく伝えられることが出来ればね、前に書いたような同じ話で学校の入門コースとかマジでいらなくなるんだよね。みんな漫画読んでりゃいいんだから。


マルクスだって虚偽意識とかさ、疎外だとかさ、物象化とか物神化みたいな概念だって漫画で説明出来ることだよね。読み解く時点で書き言葉が分かりづらいからっつーんで挫折する人が多いのがマルクスだみたいなことがよく書かれてるけど、だったら別に漫画でもいいよね。漫画だったら誰も挫折しないだろ。少なくともマルクスの分かりづらい文章と付き合う必要は無いんだからそれはそれでいいよね。漫画で読破とかってシリーズ知ってるけどね、まぁ読んだことないけど、エッセンスが劣化してなければ別に吸収の仕方なんてどうだっていいんだよね。そこをエクリ派はさ、自分がエクリチュールと格闘してきたっつー自分の実存を肯定したいから「漫画なんてもってのほかだ!」って言いそうだけど、こいつが仮に学ぶって段階で漫画があればそっちを利用してるかもしれないんだよね。


ようはさ、昔手作業とかでやってたことをさ、今は便利になったっつって簡単にできるようになったことを精神論とかでさ、「ワシが若い頃はな!」みたいな感じで苦労して生み出すことの重要性を語るみたいなナンセンスがさ、難しいエクリチュールと付き合うってことだよね。そんなのただのオナニーだよ。ただ全部を漫画化するわけにもいかないからさ、学習者はまぁ最終的には専門書とかに行くようになって、まぁ必然的に分かりづらいタイプの文章を理解する必要が出てくるかもしれないわけだけど、それにしてもまぁ別にショートカットがあるに越した事は無いよね。漫画でオッケーなところはショートカットですぐに理解しちゃってオッケーなんだよね。浅田彰の構造と力が売れたっつーのもようはそういう理由でしょ?難解なフランス現代思想をチャート化したからみたいな理由で。まぁそれでいいんだよね。原典の難解なフランス語とかと格闘する必要なんてないよね。


逆を言えばさ、エクリチュールと格闘することでしか得られないものがあるんだ!っていうならそれは何なの?って思うよねっつーかそう思う人に説明してもらいたいよね。概念とかを原典とか晦渋な文章から理解することとさ、漫画とかで簡単にサクっと理解しちゃうことに差っつーのをね。読み込むって作業はまた別だけどね。それはもう研究ってレベルでさ、概念を理解するってレベルじゃないじゃん?ただまぁ俺が言いたいのは取っ付きとかはさ、ようは導入とかは形なんてどうでもいいってことね。


でさ、眼光紙背に徹しないと理解出来ないような文を書く必要性って今は無いじゃん?言論の自由は一応あるしさ、過去の思想家とかが迫害とかを恐れて遠回しに書いていたみたいなことを今はやる必要ないじゃん?そうなるとますます晦渋に書く意味って無くなるんだよね。必要性がなくなるっつーかなんつーか。なんかさ、晦渋に書く必要があったという伝統が倒錯した形で哲学とかに受け継がれちゃってさ、んで形骸化されたフォームだけがスタイルとして残ってるっつー可能性はあるよね。哲学は晦渋に書かれてきたんでああいう感じの文体で書かないと哲学っぽくないしかっこつかないからそれっぽく書くみたいなね、特にさっき書いたネグリとかアガンベンとかランシエールってそういうのがヒドすぎて読んでて笑っちゃうんだよね。難しい文章ってのは二種類あってさ、理解しようと必死になるぐらい引きつけられる何かを感じる文章と呆れて何も言えなくなる文章ね。ようは中身がある文章と無い文章ってことなんだよね。そういうのって本読んでると分かるようになるからね。たいしたこと言ってないくせに難しくそれっぽく書きやがって!って分かるからね。押井守とかの晦渋な感じって分かるじゃん?ああいう衒学趣味っつーの?ポストモダンとかもモロに押井守的に鼻につくような感じなのね。だから嫌いなんだよね。押井守のそういう姿勢も大嫌い。


ただ作品は好きなんだよね。手法とかあり方を別にすれば俺はどちらかと言えばポストモダン思想なんて大好きだし、アガンベンに関しては大好きな部類に入るぐらいだからね。ネグリも嫌いじゃない。あんま読んでないけど。で、ランシエールは思想も嫌いってことね。あとランシエールの場合、ナルシスティックな感じがして余計に嫌いなのね。美学とかやってるやつってナルシストが多いような気がするな。ブサイクとかって美学とかやらなそうだもんね。イケメンインテリがやる感じっつーの?イケメンかどうかはともかくとして雰囲気として浅田彰みたいなやつね。ああいう感じのインテリなやつがやりそうな雰囲気っつーのかな?俺に言わせるとそういうのって激かっこわるいんだけどね。


で、分かりやすくて分かりづらいものの最頂点がプラトンだよねっつーかまぁシュトラウス系の学派に今の俺がハマり過ぎているっつーのはあるにしても、所謂、プラトニックダイアログの数々が意味するやり取りとかさ、プラトンソクラテスは一貫してないとかさ、その一貫してない理由とか、なんで皮肉屋のソクラテスをマウスピースとしてプラトンが使用していたのか?とかさ、なんでマウスピースが作品によって違うのか?とかさ、まぁ謎解きみたいなレベルになるけど、こういうのが俺は行間読みの最たるもんだと思うんだよね。つまりは表層の難解さではなく、本質を理解する上での難解さね。眼光紙背に徹しないと理解出来ないというのはつまりは例えばプラトンのこういうところだったりするわけだよね。


あとはマキャベリにしてもさ、直接的には言ってないけど、言葉の隅々を分析すると実は世間で理解されているマキャベリとは違うマキャベリ像が浮かび上がってくるみたいなね、つまりは言葉とか議論の進め方とかを見ていくと直接的にマキャベリがそうは書いてなくても結局、他に書いてあることなんかでそうと言ってしまうような論理的帰結みたいなのってあるじゃん?こう言ってるってことはつまりはこういうことだよねって理解出来ることっつーのかな?それが眼光紙背だよね。文体とかの難解さとかって全然かんけぇーねぇーんだよね。だから。マジで。ようはさ、小学生でも理解できるようなグリム童話とかでもさ、実はすんげー教訓が背後に隠れてるとかってあるじゃん?「えー!!」ってなるような驚愕の教えとかってあるじゃないあ?まぁ具体的な例が無くて悪いんだけど、そういうのあるじゃん?ナイーヴに絵本とか読んでるだけじゃ理解出来ない深いレベルでの教訓っつーか教えって。まぁシュトラウスの言うesoteric teachingってまぁこういうことだよね。童話とかの例だとマジで分かりやすいよ。


まぁ実際そうはともかくとして浦島太郎の話は実はタイムスリップの話だったとかさ、かぐや姫の話は実は宇宙船の話だったとかさ、まぁバカバカしいオカルトのレベルっつーかトンデモレベルの話だけど、つまりはこういうことなのね。例えが悪かったね。いや、仮に浦島太郎の話がタイムスリップを意味するという話だったらね、つまりは浦島太郎におけるesotericな意味というのはタイムスリップの話でしたってことなのよ。「不思議な話だねぇー」じゃなくてさ、誰かが実際に経験したタイムスリップとしか思えないようなことをさ、直接それを話しても気違い扱いされるんでお話にして伝えたとかさ、まぁ解釈学みたいな話になっちゃうけどね、でもシュトラウスの古典解釈とかはさ、こういうことなんだよね。


ディティールを理解して言葉なども一語一句理解していれば自ずと演繹されてくる事実が見えてくるみたいなすんげー丁寧な読み方なんだけどね、まぁただそれはカッコ付きのシュトラウスの解釈になっちゃうけど、むしろさ、細部を理解した人が解釈する解釈のほうがさ、一般的に言われている解釈より深いことは間違いないよね。解釈学の問題はその客観性にあるよね。客観的に演繹された帰結だったとしても、そこにどう解釈者の主観が介在していないのか?というのはさ、説明出来ないじゃん?まぁシュトラウスに関して言えば、シュトラウスマキャベリ解釈を完全に理解した後、マキャベリを再読するとかね、まぁすんげー労力のいることでさ、もう素人が手に負えるレベルじゃないだけどね。


いやいや、こういうレベルの話になればいいのよ。もう仕事が違うから。でもね、少なくとも中世のテキストの理解法とかっつーような話じゃないさ、現代のここにある書き言葉にしてみればさ、学術論文だろうがブログだろうが人間によって書かれた書き言葉だってことでまぁ変わらないじゃんってことなんだよね。エビデンスっつったって過去の人間が作り出してきた体系に寄り添ったエビデンスならそれは人間が作り出したエビデンスなわけでさ、絶対的なもんじゃないよね。例えばフロイトとかユングとかをソースとかエビデンスにしたとしたらさ、少なくとも俺は「笑わせんな」って思うよね。元がただの電波みたいなもんにさ、ようはおっさんのただの解釈じゃん?ああいうのって。まぁフロイトは体系化されるべきようなもんじゃなくて、彼自体は相当フリーな思想家だったからさ、思想家としては価値があるんだけど、体系化されたフロイト理論みたいになると一気にクソになるんだよね。でもさ、アカデミアとかではフロイトによればとかって書けばとりあえず裏を取ったことになるわけじゃん?そんなのさ、俺が勝手に思いついたこととの差なんて無いんだよ。


だからさ、俺がいつも言うっつーかまぁ思ってるのはさ「ソース?俺がソースだ!」ってことなんだよね。ルイ14世だかの「我は国家なり」みたいなのと一緒ね。少なくとも俺という思考分野では俺が法なんだよね。俺がソースなんだよ。それでいいわけね。そうじゃないと思考なんて出来ないからね。外部を気にしてる思考なんて思考でもなんでもねぇーよって話。物事を考える上で重要だったり参考になる外部のデータならガンガン取り入れるべきだし、その取り入れる必要性こそがまさしく基礎を勉強するということなんだけど、それとソースとは別ね。様々な基礎をベースに勝手に自分が思った事があればそれに対するソースなんて必要ないわけ。ようはその思考とか理論を裏付けるソースなりエビデンスなんていらないわけ。そこでは「俺がソースだ!」って言えるわけね。「我、お多福なりて思索を行う者なり」ってわけだよ。


まぁいいや、学会の動きとか自分の社会における立ち位置とかが気になる人はまぁそういうのはやらないほうがいいね。従順な方がいい。まぁやれる人だけお多福なりて思索を行えばいいのね。まぁー俺だったらねぇー、引用2割、孫引き1割の本なんて読みたいと思わないけどねぇー。元相方がさ、ベンヤミンについてね、彼はリファレンスとか引用をほとんどしないで自分で色々書いてるから凄いって言ってたんだけど、まぁまさしくそれだよね。論文調になると思想なんて死ぬんだよ。評論然り。ベンヤミンがなんで凄いか?ってあれだけのことを自分で勝手にやったからだよね。まぁあんま読んでないから分からないけどね。元相方曰く、「分析が繊細で女性的ですらある」らしいよ。まぁエッセンスってそういうところに宿るんであってエビデンスとかソースとかじゃないよね。


ってことで今日はこの辺で。恐れずに何かを書きまくるっていい事だと思うんだよね。マジで。思う事然り。で、最終的に自分が体系的なものを打ち立てちゃえばいいんだよ。我、お多福なりてね。


PS


「自分で好きで作ってる料理でさ、自分の家族とか好きな人とかさ、友達とかが「旨いねぇー」って食ってくれてればいいじゃんって思うのね。」っつーのはね、好きでやってる料理の話のみで、思想とかは別ね。思想は外部にも通用すればそれに越した事は無いけど、ただ別に外部を意識してやり始める必要は無いってことね。あとあれね、トップ画像だけど前のが気に入ってたんで戻したね。サイズ的にこれってぴったりだよね。デカ過ぎ?まぁいいや。


三酔人経綸問答 (岩波文庫)

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