数の概念についての続きみたいな感じになっちゃったので。

mimisemi2010-03-11

いや、なんかあれだ、Thinking about mathematicsって本をようやく読み終えたんだけどさ、なんつーかなんなんだろうね?このボリューム感。で、日本って新書が割とメジャーじゃん?なんか一瞬で読めるような本が多い気がするんだけど、なんで英米系の出版物ってデフォルトが多いのかな。まず1ページの文章の量が多いよね。Thinking about mathematicsは割と多い方だと思うけど、こんな感じで300ページぐらいあるんで疲れるよね。


後半に行く頃にはもう結構飽きてきてるみたいな。あ、まぁそれはともかくね、結局なんつーかあれだよね、数が実在するのか実在しないのか?みたいなのって結局答えが出ない形而上学的な問いなんだなってことなんだよねっつっても考えるのを諦めるってことじゃなくて、もっと深くディグって行こうと思うんだけどね、ただまぁなんつーか数学者ってのはあくまでまぁ数学やるんであって形而上学的な数学哲学は哲学なんであってあんま気にしてないっつーかさ、かなり分かれてるよね。数学やるってことと数学基礎論をやるってあんま関係してない感じがするね。そんなことないのかな?


で、思ったのはね、数っつーかそもそも数学って何なのか?って結局まぁフロイトの無意識とか自我と超自我とイドみたいなもんだと思うのね。まぁサイコロジーとかではまぁ学派とかの違いはあれど、まぁある程度のセオリーとして成り立ってるわけじゃん?でも俺が言うように心理学全般そうだけど、特にフロイトみたいなのは仮説もいいところでさ、こういう風に過程してこんなモデルで精神ってのを考えてみましょうっつー過程だよね。無意識にしても超自我とかにしても別にその実体が掴めてるわけじゃないわけでさ、ただまぁそういう前提で話を進めると分かりやすいし、それがワークしたように見えるのもあるってことである程度はまぁ信憑性のある理論として支持されてるわけじゃん?


でも人間全員が自我と超自我とイドを持ってるか?なんて分からないじゃん?あと肛門期だのさ、赤ちゃんのダーゲームだったか、あの糸を垂らしてどうのってやつとかさ、penis envyだとかなんだとか、突っ込みどころ満載だよね。よくもまぁあんなお粗末な理論が通ってるよなって思っちゃうよね。いつも俺は書くけどフロイトは精神系を扱った哲学としては面白いけど、あれを科学みたいなパラダイムで理論的に捉えるのは大きな間違いなんだよね。なんだけどさ、前のセメスターに取ったフロイトおばあちゃんの話とか聞いてるとマジで信じてるからねっつーか当たり前の事のように話すんだよね。


歯はフロイトのタームで暴力を象徴するものだから、暴力がらみのトラウマがあったりすると、それが歯痛という形になって顕在化するとかさ、somatoform disordersなんかもさ実際は症状としてあるけど、でもフロイト的解釈とかするとなんかおかしいんだよね。 蛇がチンポを意味するだとか、まぁなんつーかシンボリズムとかを軸にした心理哲学っつー話ならいいんだけど、心理学とかいってさ、真面目に理論として捉えられてるのを見るとバカじゃねぇーの?って思っちゃうよね。


で、数学も酷い言い方をすればフロイトの理論とあんま変わらないってところだよね。そうらしいけど実体が無いんじゃ分からないじゃん?っていう。でもそれが本当なんだっつー過程で話を進めると色んなことが説明できたりするわけでさ、ただ数学の場合、物理学にせよ普段の金勘定にせよ経済学にせよまぁこの世は数学だらけなわけであってさ、フロイトの無意識っつーよりかはまぁもっとあえてトンデモな理論を出すとpenis envyみたいなね、そういうのに比べれば実体があるっていうかまぁそれで世の中の色々なことが説明できたり道具として使えてるわけで、まぁそりゃーあるものでしょって言えるけど、まぁ実体か?って言われるとさ、そこは結局、概念っつーのが実体と言えるのか?ってな話で、結局はそれをあるものとして考えるのか、実体としては考えない立場で考えるのかっていうことになるよね。


言ってる意味分かるでしょ?心理学っつーか人間の心ってすげーブラックボックスだよね。で、その心理状態とか諸症状を記述する文法とかツールってのが心理学だったりするんだけど、まぁ近年では言うまでもなく脳科学とか認知科学による精神病の分析のほうがよっぽど信憑性あるよねっつーのがようはそれが脳とかさ、脳のなんたらの値が落ちてるからとかさ、そういう物理的なレベルで脳の状態を捉えることで心が分かったりすることもあるわけじゃん?これってのは脳なりさ、脳内物質っつー実体をベースに心っつーブラックボックスの内容を記述しようとしてるんだよね。で、その因果関係なりなんなりが証明されればまぁそりゃー本当でしょ?っていう。そうなるとフロイトとかラカンとかまぁあとはあの辺の哲学よりの人達の分裂病解釈とかもうどーでもよくなるじゃん?ああいうのは分裂病っつーのを題材にした心理哲学なんであって科学ではないっていうね。だからまぁ精神分析とかって胡散臭いんだよね。


ようはキーワードは「記述」だよね。物理学で言えば物質の振る舞いなんかが数式で説明できたりするんで、数字っつーのは普遍的な記号としての言語ということが言えるし、実際の物理空間における何かに対応しない数学でも、その数学っつーパラダイムで何かが証明できればそれは真になるんだよね。ようは定理になるってことだ。ようは数学の実在論みたいなのはさ、人間の生活の中に溢れる数学によって担保されてるといっても過言ではないよね。ようはそれがさっき書いた金勘定もね、プリンが一つあって、んで誰かがそれを食べちゃったらプリンはゼロ個になるとかさ、物理学にしてもなんにしてもまぁそういう数というものを扱う概念としての数学というのはそういった諸現象を記述するための言語として成り立ってるっていうことが言えるよね。まぁようはそれが数学っつーフィールド以外でも何かが数学を通して記述することが可能なら、その数学は実在しているって言えるよねってことね。


っつーのは逆でさ、数式から物理状態を記述するんじゃなくて、物理状態を根拠にそれを数学で記述することが出来るって意味で、まぁ名前と一緒だわな。猫ってまぁ猫を表す記号だけど、猫という言葉を通して猫の実在が証明されるなら、まぁ猫はあるよねってことだよね。ただまぁそれは記号の問題なんであってね、英語ではcatだしさ、他の言語で言えばって分からんけどまぁその言語の数だけあるわけでしょ?でもそれは記述する記号が違うだけで、猫は猫じゃん?記号が違っても猫を表すという記号があるということから、それはどんな形であれ実在するって言えるよね。言葉が実在するのか?ってまぁこれまた難しい話だけど、んでもやっぱ数学って言語なんじゃないの?っていう感じだよね。


それって猫っつ実体が猫っつー言葉を通して記述されるなら、いかにも猫って言葉がなんかありそうな気がするけど、例えばネイピア数って実体はないけど、数学世界では微分を通してしか分からない数だけど、んでも数学宇宙では存在する数だよね。微分が正当な数学のモデルだっていう前提で、そこから導きだされるネイピア数ってのは実体のある数学モデルから導きだされた数なわけで、まぁそれは実在するってことになるよね。結局まぁそれは数学宇宙の中にいる猫を記述するものがネイピア数みたいな感じなわけよ。ってことはまぁあれだよね、別にそれが物理空間だろうが数学空間だろうが違いは無いってことになるよね。もちろん物理空間に対応しているということが数学の信憑性を担保してるわけだけど、その数学宇宙で数学宇宙にしか存在しないものがあったとしても、それは数学宇宙の中での猫みたいなもんで、物理空間と数学空間の差はないと考えれば、まぁ本当の猫も数学空間にいる猫も同じ実体なわけだ。


何気に普通に使われてる無意識って言葉もあるかどうかは別として、んでもまぁ無意識っつータームを使って無意識と呼ばれていることを説明すれば説明がつくっていうか、無意識っつーものの定義と人間の心の中にある構造が対応してるように見えるってことで、それはあるものだろうって認知するわけだよね。これもまぁなんつーか人間の行動っつーものと概念が対応して実体が見えているっていう概念の実在だよね。だからまぁそれはあるでしょうってことになるわけ。でもそれは完璧なものではないよね。脳科学とかの研究が進めばもっと人間の心の中が分かるようになればさ、今、無意識って呼ばれている無意識のモデルが変わるかまぁアップデートされる可能性はいくらでもあるよね。現状でもワークしているが、それはクローズドな完璧なシステムなのではなくて、常に変わる可能性がある絶対的ではない概念ってことだよね。これって数学と一緒じゃんね?結局。土台から全部変わるってことは無いにせよ、なんかの数学的概念は基礎論の研究を進めていくことで変わる可能性はいくらでもあるわけだ。正当性は分からんけど、ただあらゆるジャンルにおいてワークしているから、それはまぁ恐らく正しいし道具として機能してるからまぁいいじゃないってことだよね。


ただまぁそこを俺みたいなのはまぁ分からないことはいいやーで済ますんじゃなくて、まぁ分かるまでやってみようよって思うわけだね。そういう意味でまぁまだあんまり分かっていることが少ない脳みたいなもんだよね。数学も。またちょっと思いつきたんだけどさ、まぁアニメのキャラクターってのはまぁ実在しないよね?でもインターネットサイトって存在するよね?例えばウォール伝って実体あるじゃん?触れないけど情報空間では存在しているわけで。でもさ、アニメのキャラクターは実在しないのに、インターネットサイトは存在するってちょっとおかしくない?両方物理的な実体は無いのになんでネットだけ存在するって言えるの?って話だよね。例えばアマゾンって店は無いけど注文すれば商品が届くじゃん?これって実体だよね。店はネット上に存在するってことでさ、その存在って商品が届くっつーまぁ店の役割を果たしているから実在するって言えるわけじゃん?アマゾンの例えで言えば数学を使うことで物理空間で何かが得られるっつーか答えが得られたりさ、数学的処理をして生まれるものってあるでしょ?プロセッシングによって生まれるものね。ってことはプロセッシングってあるって言えるよね。これってアマゾンで注文して商品が届くのと同じことなんじゃないの?っていう。


・・・ってのを昨日書いてたんだけど4時ぐらいになってたんで寝ようと思って寝たんでね、続きを書くけどもね、猫の例えは分かりにくいようで分かりやすいと思うんだよねっつーのはさ、影絵みたいなもんでしょ?数学って。影絵と絵の実在の違いって何かな?絵は実体があって影絵は実体が無いっつっても影絵作って写真撮ればそれは静物になるよね。微分からしか見えない猫ってのは影絵の猫みたいなもんなんだよね。実体はあるか?っていうと物理的にはないけど、んでもまぁ存在を確認できるっていうことだよね。なんかさ、色々考えてるとさ、なんかますます存在ってことが分からなくなってくるねっていうのはさ、やっぱ基本的に人間って実体っつーか物理性があるものを実体を看做す傾向があるよね。でもそれって物理空間に存在する実体が認識されて実体として人間の主観の中で顕在しているって意味でさ、まぁだからといって認識が全てってことではないんだけど、んでもまぁ認識からでしか実体を感じられないわけじゃない?人間って。だとしたら別に物理的なものと概念的なものって差はないんじゃないの?っていう。


あとは仮にさ、すげー変な話するけどさ、変換可能なものって実在なのかな?例えば俺が去勢して女になるってことになってさ、で、女の俺ってのは存在してるのか?っていう。蓋然性で言えばまぁなんかおかしいことになったらなるかもしれないけど、んでもまぁ可能性だよね。それは。不可能ではないという意味でまぁあるよね。あるかもしれないっていう蓋然性だよね。これと同じでさ、物理的な何かってのを元素とかに変換して記述しちゃえばその物理的な何かってのもただのデータになるよね?もちろん意識とかはデータにならないけど、物理的なもんはデータとして記述可能じゃん?まぁマトリックスみたいな世界になるけど、まぁ実質世界ってそうだよね。だからようはそれって見方次第なんだよね。人間の目とか認識っつーものを通して見れば実体がある人間とか建物とか乗り物とかが実体としてのリアリティを持つわけだけど、んでも仮にデータとしてみることが出来るみたいなスカウターみたいな道具があったらさ、そこから見える世界ってデータの世界だよねっつーのがあのあれじゃん?


マトリックスでさ、データが浮かんでるだけの画面なんだけど、慣れれば実体が見れるようになるってあの船の乗組員の一人がネオに言うじゃん?あの場合のマトリックスの世界はデータの世界なんであってさ、むしろ実体のように見えるっていう世界が仮の世界でまぁ実際はデータなんだよっていうさ、ただマトリックスにいる人間には実体として見えるデータしか見えてないっていうさ、データによって作られた仮の実体を実体だと信じ込んでるわけだよね。


そうだよなー。まぁ俺は正直まぁ色々と読んでるから何の影響があって実在論とかの思想が形成されてるのか分からないけどさ、でもまぁ俺は本当にそう思うね。この現世もまぁやっぱマトリックスでしょーっていう。まぁ噓って違う意味で噓だらけって意味でも実体って相当胡散臭いじゃん?可愛い子がバカだったりさ、性格良いと思ってた人が悪いどころかベクトルが真逆なぐらいの人だったとかさ、ようは見せかけだけっていうのが多いじゃん?世の中。社会のシステムもそうだしさ、民主主義は擬制だしさ、ほとんどまぁ噓じゃん?まぁそんな中で俺は「噓はイヤだー!」とか勝手にマトチューしてるからまぁナイーヴだとかって言われるんだろうけどさ、いや、前にさ、数学やり始めの頃にさ、ニヒリズムの極北としての数学みたいなことを書いてたと思うけど、これってやっぱ変わってないね。いや、そうだろうなっていう。こんな噓だらけの世の中で真であるものって何気にレアだよね?数学ってだからちょーレアな学問なわけだよ。まぁもちろん散々書いたね。基礎論的なところで地盤は揺らいでいるかもしれないけど、でもまぁ噓が無い世界だよね。本当に。


俺が最近気分的に楽なのはもう完全に世界を客観視するようになったからだと思うねっていうか、俺がこういう噓だらけの世界にいるってことに前ほどは葛藤してないってことがあるね。去年とかは葛藤がすげー強かった気がするけど、今はもうしょうがないってことでさ、客観的に世の中を見るって姿勢は崩さないで、んで自分の居場所は抽象空間っていうさ、恐らくその自分の居場所ってのが数学を通してよりよく分かったんだと思うよね。それは別に数学宇宙に生きるってことじゃなくて、もっとジェネラルな意味での抽象世界ね。それはイデア界とはまた違う世界でさ、妄想の世界でもなくて、まぁ俺の精神がいる場所って感じだよね。そこが真の俺の場所でこの世にいる俺は仮だっていうことだよね。なんか最近はそのおかげなのか分からないけどさ、くだらないこととかにいちいち怒らなくなったね。授業とかがクソだったりさ、すんげーイヤなやつがいたりしても別に特になんとも思わなくなってるね。まぁ比較的だけどね。完全に無くなったわけじゃないんだけど。それは恐らく仮の世界で起こっていることだからいちいち怒ってもしょうがないっていうところなんだろうなとは思ったね。


まぁいつも書いてるさ、草薙素子みたいになりたいってところだけどね。もう体の意味が無いから意識だけを抽出してデータベースの中で泳いでいたいっていうさ、まぁだからといって自殺ってことにはならなくてね、まぁ前は結構そういう自殺の傾向があったけど、最近はまぁそれでも現世を肯定しようとしてるのねっていうのがまぁ俺が措定した妄想ビジョンだよね。現世は噓だらけなのは確かで仮なのも確かだけど、んでもまぁ現世でしか味わえない楽しいことってのがあるわけだから、そういうのを楽しみながら、まぁメインの住居は抽象界でいいんじゃないかってことだよね。抽象界だけじゃ味わえない現世の良さってのがさ、やっぱ人間関係であったりするわけじゃん?まぁ滅多にいないけどね、でもたまにそういう人と巡り会えたりするとすげー現世に希望が持てるんだよね。現世っつーか現世にいる俺に希望が持てるってことね。


あとはまぁいつも書くようにまぁ可愛い子と付き合うってことだよね。これはもう生きてるうちに絶対やらないとダメだ。これは意識だけじゃ味わえないことだからね。可愛い子を見て「うわー!可愛い!」とか思いつつさ、「あー可愛かったなぁー」とかって悶々とするのもまぁ煩悩丸出しだけど、でも楽しいよね。可愛い子を見て「可愛い!」と思うあの感じは楽しいよ。で、まぁいつかそういう感じの可愛い子を付き合ってやろうじゃないか!っていうのは俺の現世での願いじゃない?それは別にいいことだよね。それこそ現世にいなきゃ出来ないことなわけで。だから別に俺は厭世的じゃないんだよねっつーかまぁ厭世的だったけど、だいぶまぁ厭世観は無くなってきたかなっていうのはあるね。まぁ今日のエントリーなんてまぁ厭世観丸出しだけど、でも仮の世界にも価値を見いだせてるってことでまぁいいじゃん?俺なりの進歩だよね。


で、数学に話を戻すとさ、猫の話に戻るけど、猫ってのは猫っつー動物を表す記号なんであって、だから猫自体が実体として存在するか?っていうと存在しないよね。それは猫っつー概念だからね。呼び名ってそうじゃん?人の名前もそうだよね。俺の名前にしたってこういう名前だからこういう名前なんですとしか言いようがなくて、別に名前の実体とかって考えないじゃん?んだからまぁあれだよね、その呼び名とか猫っつー分類分けの言葉にしてもさ、それと物理的で具体的なものに対応させることでその記号と実体の関係性から存在性ってのを規定させるわけじゃん?だからまぁ猫はいますって言うことが出来るわけだよね。それはオートマティックに猫は猫を表す言葉だからだよね。で、まぁ数学もそういう意味で概念だから対応関係で考えるしかないんじゃないのかな?って気はするよね。そんなものがあるのか分からんけど、んでもデータ分析とかっつって数学のアルゴリズム使うとワークするよ?ってところでそれはアルゴリズムがデータ分析でワークしてるっていうところで現実的なものとのリンクっつーかまぁ対応関係があるじゃん?それによってまぁ実体っつーと語弊があるけどまぁ存在は感じることが出来るよね。


コンピューターに名前つけたりさ、ハッキングのソフトを人格化したりするのもさ、まぁあとはノートンでもいいけど、ノートン先生だったかノートン博士だったさ、ウィルス検出プログラムが擬人化されてるじゃん?あれってのはようはアルゴリズムの人格化なんだよね。それはなんでか?っていうとそのアルゴリズムがあたかもPCのドクターになってるように見えるからってことじゃん?ウィルスって別にばい菌じゃないけどさ、でもまぁウィルスを検出して削除することが出来るからなんつーかドクターノートンみたいなさ、なんつーかウィルス検出プログラム全般がなんつーか擬人化するよね。それは人間がそのアルゴリズムに実体を感じてるからだよね。


プログラムはあるか?っていうとあるでしょ。そりゃ。だってこうやってマシンが動いててさ、テキストでこうやって書いてるわけだからプログラムはあるよね。でもそれって結局数字じゃない?データの世界だよね?ってことは結局まぁバイナリとかさ、プログラムっつーものに落とし込んでいくとそれって数字になるじゃん?数字によって構成されているものだよね。それがまぁプログラムなりなんなりっつー実体を帯びたものになってるわけだよね。ってことはまぁ数字って結局はまぁ素粒子みたいなもんなんじゃないの?っていう感じだよね。ライプニッツで言えばモナドだね。


可視化はされないけど振る舞いによって実体を感じることが出来るってことだよね。そう思うとまぁイデオロギーみたいなもんなのかな?イデオロギーって人を動かすじゃん?で、数字ってのはイデオロギーとは違った意味のプリンシパルとして人を動かすよね?ってことはむしろその実体のないようなものを取りまく実体がある者達がそれによって影響されたりさ、それが原則で何かが動いてるっていうのであれば、それはあるとしかいいようがないよね。それはむしろ胡散臭い人間とかさ、胡散臭いビジネスとか広告みたいなのよりよっぽど実体があるよね。ベネディクト・アンダーソンみたいなのはさ、読んだ事ないから分からんけど、国家とか共同体っつーのもただあるという前提で進められているからあると思わされてるんであって、実際はただの妄想っつーか想像であるみたいなことを言ってるんだと思うんだけど、本当にアホだなって思うよね。


国家は実体あるよね。共同体然り。それが物理的なものか?っていうと概念的なものが物理化されたものが国家であり共同体じゃん?だからまぁ概念としての国家はそりゃ実体無いけどさ、でもその概念によって作られた国家ってのはあるわけでさ、無いわけないよね。数学なんてただの記号のゲームじゃないか!っつー批判とかがあるとすればこれはこのアンダーソンレベルの国家幻想批判と一緒だと思うね。そりゃー手で触れるような実体はないけど、それを通して諸現象が見えたりさ、何かが説明できたり、それがフレームワークとなって何かが動いたりしてるんだから、そりゃ実体あるよね。


繰り返しになってるけど、それがまぁ結局現実のっつーとあれだけど物理空間に存在する具体的なものと関係が対応してるって意味で存在はあるとしか言いようがないよね。結局やっぱ言語だな。記述言語だね。数学は。映画のパイでマックスがMathematics is a language of natureって言ってるけどまぁ本当にその通りだなっていう。まぁウィトゲンシュタイン言語ゲームみたいなもんだよね。特定の何かにおける機能だよね。数学全体のシステムをGとして定義したとして、そこに何かを放り込むと答えが出てくるっていうような函数として捉えるのがいいんじゃないか?とかって勝手に思ったね。それこそFunctionって意味での函数ね。まぁもうちょっと考えてみるけどさ、とりあえず今日のエントリーの締めとしてはなかなかいい感じだとは思うけどね。「数学自体が函数である」ってことで。


ってことで今日はこの辺で。