幸せの青い鳥。

mimisemi2010-05-05

大学についてなんだけどさ、昨日書いた「レベル」の話なんだけど、これがイマイチ分からんのよね。コミカレだろうがさ、GPAってのがただのシステム的な所産だってのはよく分かるわけよ。で、GPAが高いやつとかってのが良い大学に行けたりするっていうのもよく聞くけどさ、これってスクールワークを熱心にやる人達ってことだよね?いや、バカにするつもりはないんだけど、どうもね、あまりに意味が無さそうなことを一所懸命やってるのを見るとさ、凄まじい時間の浪費をしてるなって思えちゃうんだよね。まぁプラクティカルなやつならいいのかもしれないけどさ、大学でやるものっつったって全部が全部そうなわけじゃないわけで。宿題とかもすげーよくやってくるっつーかさ、たいしたことないようなものですげー長いエッセイとか書いてくるやついるんだけど考えられないよね。よくやれるよなぁーって思っちゃう。で、まぁそいつの成績って良いんだろうけど、全然地頭とかじゃないよね。所謂、シュトレーバーだよね。努力家っつーかなんつーか。


で、俺の予想だとね、すげー高いレベルの大学は地頭プラス努力家ってイメージがあるんだよね。だからやっぱ凄いんじゃないのかなぁー?って勝手なイメージがあるけど分からん。ただホント、大学のレベルって抽象的過ぎて分からないよね。いつも書くように学科っつったってさ、教科書に書いてあるわけじゃん?全部。それ以上のことはやらないよね?それ以上のことをやるのが大学院とかってイメージがあるけどさ、例えばテキストを読むって意味だとさ、テキストを越えることはないじゃん?そこでのレベルが発生するっつーのが意味分からんのよね。プラトンのRepublicならさ、そこに階層が存在するのか?って無いじゃん?


RepublicはRepublicなわけでさ、そこにレベルとかGPAとか無いじゃん?でもレベルの差ってのがあるんだよね。哲学で評価が高い学校とそうじゃない学校ってのがあるわけでさ、でもその差って何なのかさっぱり分からないんだよね。教え方が上手いのか下手なのかっていう差なのかな?でも教わらなくてもテキストはあるわけでさ、それを第三者に教えてもらうのに何百万も払うって何なんだろうな?って意味分からないんだよね。本当に。まぁ学歴ってやっぱブランドだからさ、就職しやすいって意味でまぁ投資なんだろうけどさ、どこまでか教育的な意味でさ、どこまでが将来的っつーかブランドって意味なのかが分からないよね。少なくとも学問においてはレベルなんて存在しないはずだからね。例えば今手元にラッセルの幸福論があるけどさ、これにレベルなんて無いじゃん?ラッセルの本っていうそれだけだよね。で、結局、でもさ、知識って全部そうじゃない?


門外不出の秘伝の技とか教わるわけでもないわけだしさ、その辺に売ってるものに関する事をやるわけじゃん?そこに差が存在するのが分からないんだよね。例えば数学でもさ、例えば群論だったら群論の差って無いじゃん?MITでやる群論とCUNYでやる群論の差はなんなのかな?って気がするんだよね。実際、数学の本でさ、プリンストン出版の本をいくつも持ってるけどさ、まぁプリンストン出版だからプリンストンレベルなのだとは言えないのかもしれないけどさ、でも読めるじゃん?別に理解に苦しまないよね。レベルの高い大学だから凡人には到底理解できなさそうなことをやってるのか?っていうと恐らく違うわけでさ、学科は同じじゃん?だとすればその差は何なのかな?ってすげー思うのね。それはまぁ昨日も色々書いたけどね、あれからまた大学ってものについて改めて色々考えたんだけど、どうも分からんね。


大変なのと難しいのって違うじゃん?で、課題に難しさって無いと思うのね。むしろ理解を促すという目的なのであればさ、分かりやすいようにさ、理解をガイドするかのような道を示すっつー課題を出すじゃん?で、それって分かりやすくできてるからさ、まぁバカじゃない限り恐らく理解できるよね。で、大変なのってさ、無骨なイメージがあるんだよね。やたら出されてさ、まず何やっていいのか分からないみたいな。それってただ単にガイドがヘタクソで膨大な量を出してるわけでさ、それをこなすって別に頭が良いってことじゃなくてさ、それに時間を費やすってことだよね。ある意味まぁ修行っつーか。どんだけ理不尽な量が出ても文句を言わないでやるってのが難解大学の特徴の一つなのであればそれって作業量の問題で本質とはかけ離れてる気がするね。量なんて関係無いじゃん?全然。いや、別に俺は一流大学を批判したいわけじゃなくてね、違いは何なのかな?って思ってるだけで。


学ぶ事が大変ってさ、課題が多過ぎて大変なのとさ、内容が難し過ぎて大変なのって全然違うよね。で、内容の難しさなんてさ、親切に解説してる本とかいくらでもあるから本当に理解したければ最終的に理解できるじゃん?やる気さえあればね。でも課題の多さは違うよね。デッドラインを守るとかさ、物理的に時間配分が不可能だから睡眠時間を削るしかないとかさ、そういう大変さって全然違うよね。でもそういうので成績って決まるじゃん?課題をやってデッドライン守って・・・みたいな。まぁあとはテストの点とかね。でもテストだってさ、教師が分かりやすく説明してればさ、点数なんて取れるもんなんじゃないのかな?逆を言えば教師がどれだけ分かりやすく説明しても分からないってやつがいればそいつはまぁその分野に関してあまり才能が無いっつーか素質が無いのかもしれないよね。分からないからといってバカだとは思わないんだけど。


だから変な話さ、何かの理論を理解するのにさ、教師が分かりやすいようにやってさ、理解を促せばテストの点なんてその教師の授業を受けてれば点数取れるじゃん?でもなんかさ、なかなか良い点が取れないテストを出す教師のイメージってさ、アナウンスしてないようなのをいきなり出すとかさ、制限時間でこなすのが難しいぐらいの量を出すとかさ、そういうイメージがあるよね。それって学問の難しさなんじゃなくてその教師の不親切さが生徒に苦難を与えてるってことだよね。なんかさ、大学の大変さってのを日本とかアメリカ関わらず色々見てるとさ、大体共通してるのがこの量なんだよね。一週間に1000ページ読むってのがさ、果たして大変さか?っていうとそうじゃないよね。それは量なんであって。逆に小冊子みたいな本でも理解するのが凄まじく難しい本もあるわけでさ、これこそが学問の困難だよね。それ自体が難しいっていう。


でもそういうのは実質的に今の世の中では滅多に無いと思うのねっつーのがさ、ようは色んなところから解説書とかさ、それに関する本とかいくらでも出てるじゃん?だからいきなり原著と格闘しなくてもさ、読めるようになるっていうの多いじゃん?実際ね、前に話したルディっつーブディストのやつにさ、空に関するイントロダクションの本を渡したのね。で、すげー真面目なやつだから精読しててさ、100ページちょいの本なのにちょっとずつじっくり読んでるんだか一ヶ月ぐらいかけて読んでた気がするんだけどさ、で、読み終えたっつーんでね、次はんじゃあナーガルジュナの本を読んでみれば?って言ったらね、んじゃあ今度持ってきてっていうわけ。だからまぁ今度っつーか明日持っていくけどさ、アマゾンでWatch insideとかいって見れるじゃん?で、俺が読めば?って言ってた本をね、ルディがネットで調べてwatch insideでナーガルジュナのテキストを読んでるんだけどさ、俺にちょこちょこ「これはどういう意味なの?」とかって聞いてくるんだけど大枠は理解してるんだよねっていうのは俺が見込んだ通りルディは頭が良いし抽象的な思考ができるやつだからさ、だから空の本なんて貸したんだけどね、でもこれってアンチョコだって言っちゃえばそれまでだけど、んでもルディは最終的にナーガルジュナの哲学を理解するよね。恐らく。逆にルディがナーガルジュナの本を精読した場合、彼の精読に比べれば俺の理解なんてクソみたいなもんかもしれないね。


ようはこれってプロセスじゃん?俺が空の解説をしてさ、んで本も渡して読んでさ、「これが俺にとっての哲学書の最初の本になるよ」なんて言ってたけどさ、理解してるわけじゃん?で、明日持っていくナーガルジュナの本も恐らく精読して理解するよね。そうなったらさ、難解と言われているナーガルジュナの思想をさ、俺のガイドっつーとちょっと大げさかもしれないけど、俺が理解の手助けをしつつさ、彼に本を薦めて彼が興味あるっつーんで読むということによって難解な思想を最終的に理解することになるよね?でも別に俺はルディに凄まじい量のリーディングアサインメントを出したつもりはないし、そんなのやってないしさ、GPAがどうたらとかさ、レベルが高い大学がどうたらとかさ、そんなの関係無く勝手に個人個人でやってることじゃん?これってのが結局まぁ学ぶってことだよね。デッドラインがどうのとかさ、睡眠時間がどうのとかさ、そんな外的なもんは関係無いじゃん?短期間に無理矢理読まされるよりむしろプレッシャーが無くてさ、じっくり一冊の本を読めることで空に関する理解が深まってるわけでしょ?ルディは。でも内容は難解だよね?でも学習のプロセスは決して大変ではないってのがようは生活に根ざした学習だからだよね。読みたきゃ読めば?っていう。


で、彼は自発的に読んだわけで。で、たまにまぁ質問してきたらまぁ俺が答えれる範囲で答えたりなんかして。で、さっきも書いたけど次の本はこれがいいんじゃない?ってのも「持ってきてよ」っつって読む気満々じゃん?これってルディの才能だよね。「優秀な生徒」っていう学校に属した属性の優秀さではなく思考する人間としての優秀さだよね。こういうのは学校のシステムでは計れないものじゃん?でも彼は優秀だよね。まぁ学生としても優秀だけど。俺と違ってちゃんとやることをやる人間だからね。でもそこは別に特に凄いとは思わないけどね。やることやってるってだけの話だから。


ここなのよね。結局。やることを必死にやるだけだったらシュトレーバーでしょ?シュトレーバーが頑張って優秀な大学に行くっつってもさ、そいつの優秀さとはあんまり関係が無い気がするんだよね。どんだけマゾに膨大な量の課題とかに耐えられるか?っていうそれだけな気がするね。繰り返しになるけど学科で言えばさ、みんなアクセスできるわけだから。個々が勝手にリサーチして理解を深められるじゃん?それと大学の課題って関係無いよね。別に課題が無くたってやるやつはやるわけで。ここが疑問なんだよね。理解に対してレベルは無いだろうっていう。一流大学に行ったからっつって理解が深いか?っていうとまぁアヴェレージは高いのかもしれないけど、それはかなり詰め込み的なもんだよね。悪く言えば受動的に頭に叩き込まれるって感じだよね。能動的ではない気がする。逆に学問に対して能動的になれるならさ、いつも言うように学校いらないじゃん?本屋に行けばいいわけで。プレッシャーも何も無いよね。書かなきゃいけないみたいなさ、have toベースでやることなんて自発的な学習には一切無いじゃん?学びたいから学ぶわけでwant toだよね。want toベースなのが学習って結局一番はかどるしまぁルディが良い例じゃん?俺が押し付けたわけじゃなくてさ、興味があるなら読めば?って本を精読したわけじゃん?で、理解が深まってるっていう。それを支えてるのは彼が知りたいと思う心だよね。それが理解に繋がってる。have toでやる膨大な課題によってではないわけだ。


ナーガルジュナの思想はナーガルジュナの思想じゃん?「プリンストンレベルの」とか「ハーヴァードレベルの」とか「コミカレレベルの」とかって無いよね。まぁコミカレじゃやらないと思うけど。それは「ナーガルジュナの」思想なんであって、学校っつー属性はそこにはつかないよね。これがようは疑問なのよ。学問というものに対してなんで学校によってレベルの差が出るのかな?って。数学なら群論群論だし、仏教なら仏陀仏陀だしナーガルジュナナーガルジュナじゃん?それ以上でも以下でも無いよね。「サルでも分かるナーガルジュナ」っていう本によって猿がナーガルジュナを理解できたとすれば、そこにプリンストンでやったナーガルジュナと「サルでも分かる」でやったナーガルジュナの差は無いよね。まぁ理解の個体差ってのはあるにせよナーガルジュナの思想を理解できたのだとすれば両者に実質的な差はないよね。


そうなるともはやブランドなんだよな。大学っつー名前ね。洋服で例えれば分かりやすいね。シャツに差なんてそこまで無いよね。相当安いのならまだしも、まぁ別にそこまで高くなくてもそこそこのを買えばそれはシャツという機能を果たすわけじゃん?でもブランドモノっつーか超一流のブランドモノのシャツってさ、仮にそこ特有のデザインとかが無いような無地のやつだって高いじゃん?素材はまぁいいのかもしれないけどさ、でもたかがシャツだよね。3000円〜5000円ぐらいのシャツとさ、何十万するシャツの違いってブランドの違いだよね。首の後ろにあるロゴを見て始めて分かる。一見それだけじゃさっぱり見分けがつかない。それがようはプリンストンでやる群論と普通の大学でやる群論の差だと思うのね。どっちもできちゃえば群論群論で違いは無いわけで、まぁほぼシャツと一緒だよね。前にも似たようなことを書いたけどさ、超一流ブランドの洋服を着ていけば就職活動に有利っていうのとさ、超一流大学を出てれば就職活動に有利って同じなんだよね。シャツはシャツでさ、別に同じシャツだからシャツによってその人のことなんて判断できないじゃん?バッグとかズボンでもそうね。専攻でもそうだよね。別に同じ学科ならさ、どこの大学出てようが問題はレベルの差なんであって大学の差ではないよね。どんだけそいつがそれに詳しいか?ってことが問題なんであって大学の名前じゃないよね。でもまぁ一般的に大学の名前でそういうジャッジが決まりやすいっていう、まぁほぼこれだけの理由でみんな高い金出しで良い大学に行くわけだよね。


学歴なんて実体が無いものじゃん?問題は知識なわけでさ、で、俺は知識量の差が大学によって規定されるとはさっぱり思えないんで、だから大学の差って別に学問の善し悪しの差じゃないと思ってるのね。単純に高い金払って普通の学生よりハードに勉強したっていうそれだけの差っていうかなんていうか。でも知識はそういうのに左右されないよね。凄まじい労力と時間をかけて短期間で作り上げた絵っつーのとさ、マイペースで半年ぐらいかけて書いた絵の差って無いじゃん?問題はその絵の善し悪しだよね?プロセスは関係無いよね。芸大出てますとかも関係無い。絵を見るのに画家の学歴なんて気にしないじゃん?学問もそうだよね。そいつが言ってることとか書いてる事が問題なんであってそいつの出身校とか在籍している場所ではないよね。でもまぁ世の中では有名大学っていうだけでまぁ効力が違うっつーかなんつーか。それはまぁ前に貼ったやつがあるじゃん?高校中退みたいなやつの話は誰も聞かないけど有名大学の先生の話ならみんな耳を傾けるみたいな。まぁドラゴン桜みたいなもんだね。俺はそういう権威とか東大だっつってヘコヘコするようなやつらが大嫌いだけど社会がそうなってるんだったらそれを利用するしかないっていうさ、前に貼ったやつはまさしくドラゴン桜的な感じだよね。


http://d.hatena.ne.jp/mimisemi/20100329


そんなのもあってまぁ俺は学歴取得を頑張ろうかなとも思ってたけどさ、でも数学をやるってことになってちょっと状況が変わったよね。いきなりようはアートやりだすみたいなもんじゃん?言論とかで言えば学歴とか偉い人になることが有効な部分もあるかもしれないけど数学は全然違うよね。アートと一緒で凄いのやれれば学歴とか関係無いっていう。だから俺は数学をやろうと思った時点でアートを志したようなもんでさ、これまでの学問の形態とはかなり違うんだよね。だから学歴ってのが極めて「?」なものになっちゃうっていうか。まぁ研究職に就ければいいけどさってまぁこれに関してはこないだ書いたからいいか。でも研究って今できてるわけでさ、矛盾するよね。ルディにもさ、「キミが学校いらないっていう理由はよく分かるよ。誇大妄想じゃないというのはよく分かる。だったらさ、そこまで金が無いんだったら日本帰って研究続ければいいじゃん」って言われたんだよね。まぁ早速「来年の学費とかになると払えなさそうな感じになってきたんだけど・・・」みたいなことを昨日話したんだけどさ、でもそう言われるとそうだよね。俺がこっちにいる理由ってこっちが好きだからってのとこっちの子と付き合いたいってののそれだけだもんね。読書は自分でできるわけで。ましてや場所を選ばないようなジャンルのものだからね。そこまでリスクを犯してまでこっちにいたいからって理由だけで借金したり親に迷惑かけまくるってのもどうなのかな?って思う事もあったよね。今回のことで。何を今更!かもしれないけど、昨日も書いたように今まではまぁ4大までなら大丈夫だろうっていう長期プラン前提で話が進んでたからさ、まぁどの道4年後ぐらいに同じような状況になったのかもしれないけど、でもまぁ今回は突然過ぎるよねっていうことでかなり戸惑ってるんだけどね。


でもルディの言うことはまさしくその通りだよな。学校いらないって言ってるやつがなんで学校にわざわざ行くわけ?ってことじゃん?ましてや最先端の研究所とかにいるわけじゃないわけだしさ、何なの?って思うのも分かるよね。理由は「こっちが好きだから」って学問的にはおかしいよね。それでもまぁ俺はこっちでやりたいけどね。諦めたら終わりだし。ただプライマリーな学問という目的ではもはやこっちにいる理由なんて無くなったというのが正直なところだね。何でもかんでも自分でやれるというのがここ2年ぐらいでよく分かったからね、まぁそれも学校に行っていたおかげだし、こっちにいたおかげだから無駄にはなってないけどさ、だからといって前に抱いてた目標が意味なくなるのか?っていうとそうでもないわけでさ、微妙なところだよね。こんな風に改めて考えられるようになったのも母親との会話があったからなんでショックだけど良かったなって今は思えるね。明らかにプラスだなと。今の俺に対してかなり批判的な見方をすることができるようになったって意味で。それを含めてもこっちでやっていくだけの価値があるか?って自問自答できるじゃん?あとはもう選択だよね。学問的な差はそんなに出ないだろうなというのは分かる。別に4大でたいそうなことをやるとも思えないし。でもそれに金がかかりすぎるんだよね。だからどうするの?って話だよね。あとはまぁ正直言えばっつーかまぁ今回のエポケーで分かった事は結構こっちも飽きてきたなってのはあるね。「マンハッタンだ!やっぱいいなー!」ってのがだいぶ無くなってきてる。それだけまぁ生活圏と化したってことだよね。まぁそれでもこっちが好きではあるんだけど。でも行ってる場所と言えばスーパーか本屋なだけでニューヨークである必要あるわけ?って言われるとなかなか答えられないね。本屋で言えばジュンク堂のほうが好きだしね。


なんかだいぶ日本帰国に傾いてるように見えるかもしれないけどさ、でもこれはようはエポケーのおかげなのよ。「ビバ!ニューヨーク!」っていう主観を取り払うとこっちにいる理由なんてほとんど無いんだよね。正直なところ。まぁ客観視したらだけどね。また「俺」っていう主観に戻ればやっぱ日本には帰りたくないわけで。でも昨日書いたように日本にも今みたいな地下室があって読書が続けられるって前提があればどうなのか?って言われればこれまた微妙になるよね。一人の時間がニューヨークじゃないと取れないのか?っていうとそうじゃないわけで。街にあんま出てないって意味で日本もアメリカも俺にとって大差ないじゃん?っていう気はしてきてるよね。これはまぁ前にも書いたよね。ホント、学校と家の往復で行く場所と言えばスーパーか本屋しかないっていう。


これって俺のレベルがまた上がってるんだよね。より学問が好きになったことで場所がどうでもよくなってきてるんだよね。むしろ場所なんて物理的空間のものなんであってさ、あとこっちの可愛い子とかもまぁ煩悩じゃん?まぁ俺はそれはそれで十分いいと思ってるけどね、でもまぁコストがかかりすぎてるって意味で。別に付き合ってる子がいるわけでもないし。可愛い子とクラスメートになることとこっちの生活が好きって理由だけでようは俺はこっちにいるんだよね。学問という意味だと全部独学だから学校はマジで意味無いっていう。まぁ数学は違うんだけどね。インストラクション的なことから学べることがあるし、自分から到底やろうと思えないことも授業でやることで「意外と面白いな」みたいなことが分かったりすることがあるし、今後もありそうな気がするからちょっと楽しみってのはあるけど、まぁあくまでお楽しみ感覚だよね。必死な勉強ではない。ようはエンターテイメントだね。高等遊民のそれと全く同じだよね。今の俺は穀潰しで高等遊民やってるような感じなわけで。逆に俺の学習というのが学校に依存してれば別だけどね、やっぱり大きい理由としては全部自分でやれてるってところが凄まじい矛盾を生み出すんだよね。やりたいことなら言われなくてもやりますっていうね、そこだよね。そこが大学というシステムと矛盾を起こしてしまって、だからこそ出費が凄まじく痛くなるわけだ。


別にこれは母親との話があったからいきなり変わったというわけではなくて、その前にも書いてたでしょ?行かなくていいなら学校辞めたいってまぁあれは本音だよね。こっちに滞在だけできればいいんだけどね、そうすれば良いんだけどそれは無理なんだよな。学生じゃないといけないからだから学校に通う必要が出てくるわけで。これでバイトとかできればさ、それこそ上京したやつと差は無いよね。大学中退してフリーターになるみたいなのを海外でやるってことだよね。まぁそれは実質的に不可能だしやろうとは思わないけど。かといってそこまで学歴っつーものに価値が見いだせないような学科が好きになってしまったって意味で大学とのシステムとの矛盾がね、自分が独学の人間であるということと同じぐらいの矛盾を生み出すんだよね。アートの学歴って意味無いじゃん?アートやりたいんだったら画材買ってきて書けよ!って話なわけで。ニューヨークのアートスクールの留学生とか典型的にダメな感じだよな。デザインを勉強したいとかって思うやつの気が知れないんだけど、俺の学科もそうだよね。素質無かったら終わりじゃん?っていうジャンルって意味でさ、なんでそんなことが言えるの?っていう根拠はあるの?ってことだよね。まぁ勉強したいって理由だけでまぁ十分だとは思うけどね、でもまぁかなり「?」なところはあるよね。


んー客観視ってのは恐ろしいな。俺がやりたい!ってことの不合理さが如実に表れるよね。つまりは俺は人間らしいコミットをしてるってことだよね。損得で考えてるんじゃなくてwant toで動いてるってことだよね。そんな俺がやっぱ好きだなって親に迷惑かけすぎだけど。でも親に迷惑をかけるからっつーんで諦めるって最高に親不孝だよね。ここまで投資をしてもらってそんな理由で諦めるなんて最低じゃん?だからやっぱさ、始めの1年とかじゃないわけでさ、こんな中盤ぐらいで諦めるわけにはいかないよね。でも学歴を取るということに俺のジャンルでどんだけ意味があるのか?ってのはまぁ凄まじく疑問なわけで、まぁ凄いジレンマだな。一応、まぁ母親と話す前もね、底をつくようなGPAは数学で全部取り戻そう!ってのはあってさ、モチベーションは高かったんだよね。でもこうやってエポケーしてしまうと白けるよね。かなり。GPAとか言ってる時点でバカじゃないの?って思えてくるわけで。まぁ学費が安ければいいけど安くないからね。


昨日書いた空軍だけどまぁ仮に俺がやれたとしても学問的には相当なロスになるよね。まぁ俺がやれるわけないってのは当然としても仮に入ったと想定しても学問やれなくなるてキツいよな。そこまでしてアメリカにいる必要があるの?っていうさ、プライマリーな生きる目的が学問なんだったらそれは相当相反する考えだよね。可能世界っつーんだっけ?こういうの。俺がやれるやれないはともかくとしてまぁ空軍なら入隊したという前提で話を進めてみてんでそれが結局どうなのか?って考えるってことね。まぁグリーンカード無いからどの道無理なんだけどね。グリーンカードあったとしてもそれってどうなの?だよね。バカバカしいかもしれないけど、でもまぁ思考実験っていいんだよね。「そんなの無理だよー」とか「現実的じゃないねぇー」っていう理由だけで思考停止するのは勿体ないわけね。選択の数だけある枝分かれする人生ってのを客観的に想定してみるってのはそれはそれで面白いもんだよね。


ところでなんかさ、色々思い返してみるとさ、なんか全ては哲学のイントロダクションのコースのさ、フーコー先生の言葉に凝縮されてる気がするな。当時は現象学に興味を覚えたばっかでさ、バカな質問をしたんだよね。「現象学のコースみたいなのって大学にあるんですか?」みたいな。で、先生は笑いながら「読む事だよ。普段キミがやってる通りのことを続けるだけだよ」って言ったんだけどさ、これだよね。学問の本質ってこれだよな。本当にこれ。哲学と言えば英語学校のインテリ先生を思い出すけど、彼女はNYUだかでウィトゲンシュタインと近代西洋哲学史を研究してたらしいけど本当に意味が無かったって言ってたもんな。なによりNYUって学費が狂ってるからさ、それでまぁまた哲学のマスターっていうユーズレスな学歴のためにあんな金を払って何を自分はやったんだか分からないって言ってたもんな。まぁ哲学に限った話かもしれないけど、ようはown sakeだよね。学問のために学問をやるならそれを先導するのは自分しかいないんだよね。あとはまぁ本じゃん?変な話、本と脳があれば学問はできる。さっきのルディと一緒だね。俺然り。学校が介在しないとできないものなんてさ、まぁこれは似たような議論をしてたときに書き込みをもらったけど、まぁファクリティ関係が使えるって意味で実験とかする学科なら便利だけど、やっぱり勉強って意味だと自分でやるしかないってことなんだよね。まぁあとは図書室が使えるとかさ、まぁ俺は使わないから関係無いけど。


学力ってのも本当に謎だよな。知識と学力って違うもんだよね。学力って学校っつーシステムに対応した能力とか知識だよね。ようはまぁ知っていることじゃん?そのために容易した知識だよね。それってまぁone to one correspondenceみたいなもんだよね。学校というシステムに対応した知識って意味でシステムというものに包括された知識だよね。まぁ知識っつーデカイ体系で見れば全部一緒だけど、あまりに学校に対応した学力という知識は狭過ぎるよね。テクネー的なさ、テストの点が良いとかSATで高得点とかさ、そういうのって学問とあんま関係無い気がするんだよね。まぁ数学やり始めの俺としては東大とか受ける高校生とかが高度な数学の問題をやってたりするのを見るとやっぱすげぇーなとは思うけどさ、でもまぁあれって誰でも詰め込めばやれるもんだよね。まぁやれない俺が言うのもなんだけど。まぁこんなこと言ってどっかでつまずいたら恥ずかしいね。まぁつまずかない自信があるからこうやって書くわけだけど。


プラトンみたいな話になっちゃうけど知識ってもっとイデアルなもんだよね。学校のシステムに対応する何かではなくて、精神とか観念に人知ってものが対応するのが知識なんじゃないかな?と思うわけ。こういう観点から見ると学力ってすげーくだらないよね。まぁ有用なものはいいけどね。ただ学力のために成される勉強というのは本当にくだらないと思うね。まぁ俺の場合、結果として英語はできるだろうね。まぁ普通の人よりかは。でも別にそれはテストのために英語をやったわけじゃなくて生活の中で身に付けた英語じゃん?で、それを計ったらまぁ当然ながらそこそこ良いって話じゃん?それは結果としてテストというものにも対応するわけだよね。俺の英語力が。テストのために英語をやってるわけじゃないわけでさ、俺の英語はテストっていうものに包括はされないよね。まぁ対応はできるがそのシステム内の対応関係ではないということね。もっとデカイ言語って意味での英語なわけだから。


それでもまぁ凄いとは思うけどね。すげー量の受験とかこなすのは凄いなって思うけどね、ただそれが知識か?って言われると微妙だよね。ただの対応関係なわけでさ、詰め込みだもんね。勉強ができるのと頭が良いのは違うっていうのがまぁつまりはこういうことだよね。まぁかといって詰め込みを全否定するつもりはないけどね。結局基礎が無いとできないことは多いからまぁそれは若いうちに詰め込まれるのもまぁしょうがないよねってことだよね。俺みたいにわざわざアメリカまで来て英語学校の基礎コースとかから始めなくて済むわけで。学力で見ると俺はつくづくゼロだよな。本当に。GPAもコミカレで2.2とかだしさ、どこまでバカなんだよ?って話だよね。いつも書くけど割と成績が良かったのは既存の知識が活かせるってものばっかでさ、つまりはさっき書いた俺の英語と一緒でさ、学校の勉強としてやってきたものじゃなくて、自分の知識として好きでやってきたものがたまたま学校のテストとかっつーのに対応した結果、良い点が取れたこともあるってことだよね。ただまぁCとかDが多過ぎるとちょっとしたAなんて平均値でガンガン下がるから全然ダメになるんだけどね。


で、数学の何がいいか?ってまぁその学校でやるものってのと知識としての数学にギャップが無いってことだよね。まぁゼロとは言えないけど両者のズレが少ないって意味で学校でやるに値する学問って感じなんだよねっつってもまぁ高校レベルとかだけどね。まともに高校とか行ってちゃんと勉強してたらやらなくていいようなもんばっかだけど。そんなのを俺は4大でやるわけでさ、その価値って一体?って話だよね。だったら日本の高校でも行きなおせば?って話だもんね。あとは代ゼミみたいなのに聴講生として参加するとか。え?日本帰るってマインドになってる?いや、そんなことはないけどね。ただ客観視すると特に数学だとさっぱりこっちでやる意義が見いだせないってのはあるよね。あとはまぁ結局、結論を言っちゃえばこっちの大学って世界でもトップレベルの教授がいるようなところに自分がやりたい分野にぴったり対応した超一流の教授のもとで大学院レベルの研究とかをやるという意味において意味があるだけで学部なんてやることのレベルが低いからどこも一緒なんだよね。まぁアイビーリーグとかやることが多過ぎて自殺者が出るとかって聞いた事があるけどっつーかまぁ昔の話らしいけど、まぁ意味ないよね。こういうの。学問で自殺するなんてさ、学問的な壁にぶち当たった時だけだよね。それをやる事自体にノイローゼになるなんて不健全もいいところなわけで。大学院って意味だと俺はレベルが高い所を一切否定しないね。こんぐらいのレベルになればやっと意味があるものになるだろうなって気がするわけね。むしろまぁ留学する価値があるのってこういうレベルだろっていうことだね。それ以外は意味ないとは言わないけど、でもまぁ一番有用なのはそれだと言えるよね。


どうしようかな?マジで。すげー選択に迫られてるね。滞在理由が無くなっているというのが一番痛いよね。「こっちが好きだから」ではあまりに漠然とし過ぎてるっつーかなんつーかそんな余裕があるようなこと言ってられなくなったってのはあるよね。今までと流れが全然違う感じになってきたよね。で、まぁ昨日ぐらいまでショックだったけど、今はまぁ意外とそうでもない自分がいるのに驚いてるんだよね。あくまで学問というのを軸として考えた時にこっちにいる必要がないからさ、だからまぁあとは自分の好き嫌いっていう非合理的でバカバカしい理由でしかこっちにいる理由が無いっていうね、まぁこっちにいるのがベストだし、こっちにいれば今まで通りの感じで読書がはかどるからまぁ最高な環境ではあるんだけどね、でもまぁプライマリーな理由ではないよね。こっちである必然性はそこまで無くなっちゃったわけで。ルディの突っ込みはそういう意味でまぁ的を得てるんだよね。


思えば数学にしても哲学にしても思索系はマジで関係無いよな。場所を選ばないから。まぁ思索に適した場所ってのがあるからさ、それでもね、だからまぁこっちがいいんだけどさ、ただそれだけで何百万借金していくってどうなのかな?って気はするよね。ただまぁやっぱ現実的に危険なのは日本に帰ったら鬱が酷くなるだろうなってことだよね。精神状態が悪くなって昔みたいな酷い意味での引き蘢りに戻る可能性があるって意味で危険なんだよな。それを俺は避けたいからこっちにいるしかないってのもあるわけでさ、これはまぁ現実的な話だよね。今までまるで自分が普通の人かのように振る舞って書いてきたけど重要なことはそれだよな。こっちではさ、それが成熟するかはともかくとしてまぁ目標を措定してそれに向かうことで精神の健全さが保たれるじゃん?それプラスまぁ好きな環境と可愛い子みたいなさ、精神が健全でいるということが環境によって担保されるというところが大きいんだよね。日本に帰ったらまぁ今までのプランは全部が終わりだっていうわけじゃないけどさ、向かうものが無くなるよね。まぁ実質的に学問しか残らなくなるからさ、なんつーか社会性がゼロになるよね。今はこっちで学問でなんとかして社会性も得ようっていうことでやってるわけだけど、日本じゃそうはいかないからさ、だから精神的により内向的になってダメになっていくのが眼に見えてる感じがするのねっていうかまぁそうだよね。それは散々想像してきて思ったことだから。これは命に関わることなわけでさ、だからまぁ生存としてこっちでやっていくっていうことを俺は選んでるわけだよねってこうやって書いてて改めて気がついたね。


日本に帰ったらリアルに自殺とかしちゃいそうで怖いんだよな。自殺未遂をしたことが何度かある部屋に戻るわけだからさ、またイメージってのが戻ってくるよね。そういう意味で実家って俺にとっては最高に不健全な場所なんだよな。衣食住は問題ないけど精神的にダメになる。んじゃあまぁどっかの地下室に引っ越せばいいじゃん?ってことになりそうだけど、夢を失った俺がどういう生活をしていくのか想像がつかないっつーと噓になるわけでさっつーのは想像つくよね。まぁ絶望的になるってのはあるよね。今はある意味でアメリカっつー物語の中に生きてるわけで、それを失うっつーのは精神的なロスだよね。まぁ別に日本の大学にでも通って大学院でまた留学すればいいじゃん!ってことになりそうだけど、ようは目的っつーよりかは日本に戻るってことが精神的に危険ってことだよね。ここはまぁ精神的なところだから伝わりにくいだろうけどまぁリアルなところだよね。


これはなんつーか夢が現実的なことで潰えそうになっているというよりかは現実を知らされたことで新たに自分の状況を俯瞰するきっかけができた結果、色々と客観的に分析することができるようになったってことだよね。ようはまだ夢を追い続けるという選択もあるわけ。まぁ方法を模索していくことにはなるけどね。あとはもう一つとして学問という理由ではこっちにいる必要は無いから無駄に借金をせずに親にもこれ以上迷惑をかけずに帰るってことだよね。まぁ典型的な経済的理由で帰国を余儀なくされる留学生の例になるけど、でもまぁ俺の力不足だよね。ようはダラダラと英語学校に通ってたり遠回りをし過ぎた結果なんであってこれの場合、全部俺が悪いよね。全部俺の力不足ということになる。夢を追う場合、ある程度結果を出して借金ができたとすれば増えるけどまぁ力不足で中途半端に帰るよりかはマシってことになるよね。それによって得られるものが帰るよりかはあるという意味で価値はあると思うけどまぁリスクが高過ぎるってことだね。まぁ帰るのもリスクで夢を追い続けるのもリスクでまぁ両方リスクだからまぁ可能性が高いほうに賭けるって意味だとやっぱこっちに残って学生を続けるってのが一番いいんだけどね。そんなことは最初から分かってることだけど、でもやっぱり客観的に見ると滞在理由が見えなくなってきてちょっと「?」なところがあるよね。


で、もちろんパッと自分っつー主観に戻ると帰るなんてことはありえない!ってことになるよね。それはまぁ今まで通りだわ。ただ主観に埋没し過ぎると見失うことがあるから客観性も必要ってことだよね。あとはなんつーかさ、前にも書いたようにさ、博士号を取るとか研究者になりたい!ってことが本当にwant toベースでやりたいことなのか?ってことに疑問が出てきたって書いたじゃん?まぁそんなのを書いた矢先に母親との電話があってまぁこういうことになったから余計にまぁこっちにいる理由が見えなくなったってのはあるかもね。いたいけど理由が無いっていう。院レベルでも学校に興味が無くなったのと研究職ってのにあんま魅力を感じられなくなっていた矢先にこういうことが分かったから余計になんつーかまぁ今回書いたようなことがエンハンスされたってのはあるよね。なんかすげー笑えるんだよな。やりたいことやりたい!っつって高らかに生きてたように見えた俺がさ、結局やりたいことはどこでも自分でできるって分かっちゃったって幸せの青い鳥みたいな話じゃん?アメリカにいれば幸せになれる!とかって思い込み過ぎてると本当の幸せが見えなくなるっていう。本当の幸せって俺にとって何か?ってやっぱ面白いものを読んでる時だよね。まぁ学問だよね。ニューヨークとかこっちの可愛い子ってのはランキングで言えば二位と三位だよな。あくまで一位は学問なわけで、やっぱこれを見ないといけないよね。


まぁだからってんじゃ帰るかってわけでもないんだけど。でも客観的な分析としてそれはあるって認めざるを得ないっていうかなんつーか微妙な気持ちだよね。二位と三位が無くなれば絶望になるのか?ってことじゃん?日本に帰れば鬱が酷くなりそうな気がするのも分かるけどさ、でも一位は揺るぎないじゃん?場所を選ばないわけだから。矛盾するよね。日本に帰ることで一位を失うわけじゃないわけだから。んじゃあ何が原因で鬱になるの?ってこれがまぁようは幸せの青い鳥なのよね。別にこっちで可愛い人と結婚することが一位じゃないならそれが無くなることで何を失うのか?ってことじゃん?学問よりアメリカ人とか西洋人の女の子が好きならまだしもまぁそうじゃないでしょ?少なくとも俺は。だとすれば矛盾だよね。日本に帰って鬱になるというのはおかしいよね。でもまぁ鬱になるだろうなというのは分かる。だったらなんでなんだろうな?ってことだね。やっぱ場所かな。こっちが死ぬほど好きなんだろうね。やっぱり。それしかないね。あとはまぁ日本が死ぬほど嫌いってことだね。いつも書くように日本は文化はサブカルを含めて最高だけど社会とかはクソなんだよね。環境とか街並も好きじゃないし。でもこれも街にあんまり出ない俺としては矛盾してるんだよね。別にそんな街並とか人ごみに支配されるような生活をするようになるわけじゃないじゃん?なのになんでそこまで嫌なのか?ってことだよね。まぁでもこれは好きな場所は好きで嫌な場所は嫌としかいいようがないね。


結局は場所だな。上京した田舎のやつが田舎に戻りたくない!って言ってるのと同じってことだな。なんでそこまでトーキョーにこだわるの?って言われるとトーキョーが好きだし実家がある田舎が嫌いだからぐらいの理由しか無いっていう。別にでも俺の実家ってそんな田舎じゃないからね。仮にそんな酷い田舎だったらリアルにそういう理由でも実家に帰りたくない!って思うんだろうけど、俺の実家は違うからね。こっちの人の大半がこんな話をしたら「日本帰ればいいじゃん」って言うだろうな。彼らにとってはニューヨークが地元だからニューヨークが好き!って感じが分からないからそうなるんだよね。それはすげー分かる。勝手な想像だけど。


なんかさ、長い放浪と模索と思索の上に結局、幸せを学問に見つけちゃったってことでさ、満ち足りちゃってるんだよね。俺。ある意味ですげーレベルアップだ。4年前のバカだった俺では考えられないぐらいの進歩だよね。だからこそこんな高度なレベルでの矛盾が生まれてきてるわけで。だからリアルに学校とかに興味なくなるわけだよね。それは分かるでしょ?俺がただの誇大妄想で言ってるんじゃなくてリアルにそう感じてしまっているってのが分かるでしょ?それは足るを知るってことじゃないのね。究極な幸せを内面的なものに見つけてしまった結果、どこにも行く必要がなくなってしまったってことだよね。だから物理的なものは全て二次的なものになっちゃう。まぁこっちはこっちが好きだからいるってだけでそれ以上でも以下でもなくなっちゃうんだよね。


まぁこれは帰るための下準備なんじゃなくてね、帰るつもりは無いけどまぁ事実ってことね。博士号とかに興味なくなったとかって漠然と思ってたけど、まぁ今回の事をきっかけに気がついたことがあったってことだよね。それがまぁ昨日のエポケーに始まることなんだけども。哲学とか政治学にしてもそうだったんだけどさ、専攻にしようと思ってさ、ただ学部でやる頃には全部一通りやってるぐらいのほうが余裕があっていいだろうってことで先回りみたいな感じでやり始めた探検がさ、結局、それ自体が楽しくなっちゃってっつーかまぁもちろんそれ自体が楽しいからやろうと思うんだけど探検自体が目的化しちゃうんだよね。で、結果的に学校とかどうでもよくなっちゃうっていう。それがまぁちょうど1年前ぐらいの話じゃん?で、そんな時に数学っつー未知の領域を見つけてさ、んで勝手に「これだ!」って思って始めたはいいけど、結局、前と一緒で先回りでやろうみたいな感じでやってた探検自体が日常化してそれ自体が目的化しちゃって学校とかどうでもよくなるんだよね。


「目的化しちゃって」っつーのは良い意味でってことね。だからまぁこないだ博士号とか研究職とかがどうでもよく感じられるようになったって書いたんだと思うけどね。それ自体にあんま魅力が無いってのは色々と調べたり読んだりして分かったこともあるけど、自分で探検ができるって意味でなんつーかあえて重荷を自分に課せなくてもいいじゃん?って感じになっちゃうんだよね。自由にやりたいようにやってればいいじゃん!って。まぁそれでも数学はやっぱ基礎が重要だから基礎無しの俺がやるのはいいんだけど、でもまぁ趣味だよね。本当に。あとなんつーか明らかにそれはアメリカの4大じゃないとできないことじゃないわけで。で、さっきも書いたようにここじゃないとできない!ってぐらいの価値があるのって超一流大学の大学院ぐらいのもんじゃん?最先端の何かとかね、まぁそれも時とともにものによっては風化するし時代の産物みたいなのも多いわけだけどね。あとはまぁ一般化して別にそこじゃないとやれなかったことがどこでもやれるようになるみたいなことだよね。


まぁそんな感じだわ。変な言い方になるけど、俺がこっちにいたい理由ってさ、それこそ瞬間移動とかできるようになれば崩壊するような脆弱な理由なんだよね。つまりは物理的な理由ってことね。あまりにそれが物理的すぎるわけね。それはどうなんだ?ってことがまぁ疑問に思えてきたわけね。結局は煩悩じゃん?みたいな。そこまでそれに固執している俺は何なんだ?というのは凄いあるよね。まぁそれがまぁある種の幸せの青い鳥みたいになってるっつーのは言えてると思うわけね。