狸さんとのやりとり後に思った事。その2。

狸さんとのやりとりで思った事の続きなんだけどさ、あれだよね、解釈ってことなんだけどさ、俺が言うようなことも推進力を前提にして何か言わないと今のニーチェみたいな安易な解釈をされて終わってしまうって本当になんつーか致命的っていうかさ、それってどうすればいいんだろうね?っていうか、それは俺個人がどうすればいいのか?ということではなくて、哲学者とか思想家はどうしてきたのか?ってことだよね。少なくともニーチェは失敗してたわけだよね。推進力はゼロだった。


いや、でも逆に推進力があった哲学や思想なんてあったのかな?っていう。マルクスも誤読の上にバカバカしい共産主義が蔓延したし、これもまぁ本当に致命的な誤読だよね。全共闘とかも含めてなんつーか昔のマルクス主義者みたいな人達のマルクス解釈って超訳マルクス的なもんでしかなかったと思うんだよね。もちろんアルチュセールみたいな哲学者は違ったわけだけど、ああいうレベルの人達じゃないとなんつーか理解していたとは言い辛いよね。一般の人でマルクス思想を元に動いていた人なんて恐らく超訳的な理解しかしてなかった人が多いと思うんだよね。それで言えば三島由紀夫だってそうだよなぁー。推進力と言えば極めてゼロに近いと思う。つまりは狸さんがウォール伝に対して批判していたことってつまりは言論とか思想全般に言えることなんじゃないか?って思ったわけね。


ちなみに推進力で思いついたのはレオ・シュトラウスネオコンの繋がりなんだけど、まぁこれは大抵のシュトラウジアン達に否定されているし、はっきり言って陰謀論説レベルのものであるから本当に取り上げる価値が無いような話題なんだけど、んでもネオコンの中にはいたかもしれないけど、んでもそれもまぁ誤読だったよねっていう。言わば仮に影響が若干あったとしても、それはエリート支配とポピュリズムって気がするんだよね。でもシュトラウスの哲学のコアってそこじゃないしさ、むしろそこだけ取れば悪なもんばっかり目立つよね。プラトン的な高貴な噓を肯定しているだとかなんだとか。んでもそれはシュトラウスの全体像を見ないと高貴な噓の必要性って分からないし、それで言えばやたら利他的で手段を選ばない人ってのがマキャベリアンって言われるのも言わば俗流マキャベリっていうかさ、ビジネス書レベルに落とされた君主論って気がするんだよね。


そう思うともうなんつーかテキストにはやはり解釈しか介在しないというか、テキスト自体に推進力を持たせることを諦めてはいけないんだけど、んでもやはり所詮は理解とか意味ってのは解釈によって促されるものであるから、なんつーか限界があるよねぇーって思っちゃうんだよね。俺が散々書いていた啓蒙の限界ってのもそれで。だからこそまぁシュトラウスそのままになっちゃうけど、理解できる人だけ理解できればいいっつーかさ、やっぱり語る相手に大衆を含めてしまうとそもそも言論とか思想ってのが成り立たない気がするんだよね。大衆ってのは俺が批判している大衆ね。


一般人ということで言えば俺も一般人だけど、んでも大衆の中の一人ではないよね。そういう意味での大衆ね。結局、大衆に伝わる言葉というのは政治家の甘い言葉って気がするんだよね。オバマのスピーチ然り。別に俺はオバマを批判するつもりはないんだけど、あのぐらい抽象的でなおかつ分かりやすくないと伝わらないし、具体性がありすぎると分かりづらくなるから抽象的な言葉を使うしかなくなるっつーかさ、そんな中でようはそのリーダーが自己責任で社会を善い方向に動かせる自負があるなら高貴な噓もオッケーってことになるんだよね。だからまぁポピュリズムとは違うよね。ポピュリズムはあくまで目的が票を集めることなわけで、善い社会を育むためではないよね。


田中角栄に関する評論とかでよく目ににするのがさ、彼は彼自身の私利私欲のために金権政治みたいなのをやろうとしていたのではなくて、影響力という意味での権力を持つ為に汚い手段も使ったってことなんだけどさ、そこで言わば田中角栄の目的が善い社会を育むっていうか、ようは権力を持つ理由というのがようは社会を変えていくためとかさ、良くするためってことだったらつまりはそれって良いことなんだよね。手段が汚かろうが法に触れようがむしろそんなもん許してやらないといけないでしょっていうことだよね。いや、仮に田中角栄がそういう人間だったとしたら、彼はステイツマンとして高貴な噓を使う事も許されるってことになるよね。つまりはそれは善き社会を育む為の権力であり金だから、目的が私利私欲じゃないし、目的があくまで社会ということにあるという点において許されるっていうかさ、まぁ高貴な噓ってそういうことだよね。


まぁあと言葉の大衆性みたいな話なんだけど、全ての人に希望を与えるような言葉なんてのは存在しないっつーか、あったとしても内容は絶対噓だよね。噓だからこそ幻想を与えられるわけで。けいおん!で描かれる学園生活がリアルではありえないように虚構ってのは希望を与えられるよね。ではアニメで生々しいその辺であるようなつまらない学園生活を描けばいいのか?っつったら、まぁそこから面白いストーリーに派生するのならまだしも、永遠とそれが続くだけだったら現実と変わらないから面白いと感じないよね。少なくともまぁ希望は無いよね。現実的な言葉とか考えってのは絶望とか、あとは考えるってことを自ずと強いるものになるので思考停止に陥っている人達には届かないわけだ。


言葉が届く人達ってのはすでに思考という種が蒔かれる人達という気がするんだよね。つまりはまぁオープンな人達っていうか、考える人達っていうか。思考停止な人達に送るニーチェの言葉とかになるとフォーマットが自ずと超訳ニーチェみたいになるのも分かるってのがようはその辺で大量生産されてるような自己啓発本的なアフォリズムのところを集めたニーチェの本っていう言わばゾーニングだよね。それはまぎれも無いニーチェの言葉なんだけど、恣意的な編集によって自己啓発本に仕立て上げて商売することもできるわけだ。だから言葉って本当に伝わらないよねって思うんだよね。そもそもテキスト化されてると部分的に抜き出すみたいなことが可能になるからコンテキストを失うじゃん?かといって何かを書く時にいちいちコンテキストのセッティング書いてたんじゃキリがないしさ、だからもうそれはある程度シェアされている概念っつーかコンテキストってのが自明なフィールドである必要があるよね。


で、このベーシックな概念なんだけど、ニコ動で「メディアが報じないパチンコ業界の闇」ってのを見て、まさしくこれって俺が言いたい善の話なんだけどさ、いや、よかよか書房の話にも繋がるんだけど、結局、こういうのが合法でも「やるほうが悪い」って言っちゃったら終わりじゃん?この番組見て思ったのはようは政府が合法的に金になる麻薬をバラまいてるみたいなことだよね。民主党の議員に相談役だったかなんだったかが結構いるとか警視庁だかのトップだかとにかく呆れる話満載だからニコ動で番組あるからみてほしいんだけど、ようはこれなんかは明らかでさ、パチンコ依存症やらね、これが原因で破産とか生活保護費をつぎ込む連中がいるとかさ、こういうのってようはシステムが作り出してるわけじゃん?ひろゆきが馬鹿って言ってる馬鹿は多いし、俺もシステムに騙されやすい側として気をつけなきゃなとは思うんだけどさ、でも馬鹿に責任は無いと思うんだよね。いや、あるけども、でも馬鹿は馬鹿が馬鹿たる所以は馬鹿なことをするからじゃん?分かってないとかね。で、そういうのって個々が変わることで止められるものじゃないでしょ?今回の言論の話然りだけどまず言葉が届かない人達だよね。で、それをどうするか?って言えばそりゃー狸さんとのやりとりにもあったようにシステム側からなんとかするしかないよね。でもシステム側がパチンコ依存症を促してるとかってなかなかありえないじゃん?


ようは俺が問題にしてるのはパチンコそのものじゃなくて、詐欺臭かったりアンフェアだったり依存が起こるようなものに人々を向かわすようなことをしてはいけないっつーか規制しろよって話なんだよね。散々これはよかよかでも書いたけどさ、ようはパチンコ屋にしてもその場でATMかなんかで借金できるとかさ、依存症になったり借金まみれになるっていうシステムが出来上がってるじゃん?で、もう促されるっていうかさ、判断が出来る人はやめるけど、ニコ動の番組に出てたライターの人によればまともな人ですらもハマって抜け出せなくなるっつーからこれは一種のなんつーかまぁ本当に麻薬だよね。俺は買いもの中毒だけど、まぁそれは前に書いたよね。


買う商品というよりかは買うことに快感を覚えるっていうところで買う行為に快楽が発生するっていうか、その時に出る脳内快楽物質を感じてハイになったりしているっていう意味で根本的に麻薬と一緒じゃん?で、パチンコにもフィーバーが出た時の「よっしゃー!」感ってのがあるわけじゃん?これが言わばなんつーか大量の快楽物質っつーかドーパミンなのかアドレナリンなのかエンドルフィンなのか分からないけどさ、まぁ出るわけでしょ?で、それがなぜ出るのか?っていうと金がかかってるからだよね。ギャンブルが形態に問わず中毒者がいるってのはこういうタイプの快楽依存症だよね。


ゲーム自体は絶対あんなの面白いわけないんだよね。ルーレットなんだから。面白いゲームなんてもっと他にいっぱいあるじゃん?いや、仮に格ゲーかなんかでネットとかでギャンブルが可能だったりしたらそれがKOFだろうがストリートファイター系だろうが世界で合法化されたらもうシステムになるよね。チャンピョンクラスのプレイヤーはそれで食っていけるようになるしさ、それこどデカイ規模のトーナメントとか開かれたらあんなの普通に闘魂とか見てても面白いんだから、金がかかってたらめちゃめちゃ楽しいと思うんだよね。それはやってる側が賭けるのか見てる側が賭けるのか?ってまぁそんなの八百長とか色々出来るから成立しなさそうだけどさ、んでもまぁ俺が言いたいのは金賭けられるとそれが将棋だろうが囲碁だろうが格ゲーだろうが麻雀だろうが一気に面白くなるよねってことなんだけどね。


で、そんなもんを合法化したらダメじゃん?明らかに色々狂ってくるのが目に見えてるわけだし、なんでギャンブルがいけないのか?って一冊の本が出来そうだし、俺も詳しくは言えないけどさ、言わばひろゆきが一貫していってるのってゲームとしての快楽とか面白さはそれがどんなに度が超えたものであれいいってことじゃん?それは明白だよね。でもイニシアチブが金であることから発生するギャンブルの快楽については悪だからダメです!ってことじゃんね?


弁えて出来る人もいるけど、そうじゃない人も多いわけだし、そもそも収益が狂ってるよね。何兆円とかって完全に狂ってるよな。まぁそれもお金を使う自由だと言われればそれまでだけど、そんなギャンブルに多額のお金がシステム的に湯水のように使われるっていう現状をどう思うか?だよね。それは俺的に見て、それこそベーシックな善から見て悪なのは明白だよね。あれはまぁ俺もそうだったけどってパチンコって意味じゃないんだけどさ、構造を知らない人が快楽だけを求めるためにやるって感じじゃん?かといってパチンコ業界の仕組みを理解してパラダイムシフトがみんな起こせるか?っていうと起こせないと思うんだよね。


ドラッグがいくら身体に悪くても脳は快楽を覚えてるからいつでもやりたがるっていうそういうまぁ病的なもんだからさ、啓蒙すればいいってわけでもないし、啓蒙でどうにかなるならこんな収益は出ないだろうっていう。最高だよね。スキームとしては。ドラッグバラまいて儲けるなんて。こんだけドラッグに厳しい日本がパチンコを合法化っつーよりかは国の産業としてるっつーのは相当狂ってるよね。ドラッグとかにもすんげー緩い国が賭博とかにもすんげー緩いとかだったらまだ分かるんだよね。でも日本の場合根本的におかしいよね。ドラッグ的なものを何もかも薬物と定義してやったらもう人間じゃないみたいな定義を平気でしてるような雰囲気の中でパチンコを許してるとか政治やらメディアと繋がりまくってるみたいな体質を温存しておくとかってかなりありえない話だよね。ドラッグカルテルが国を牛耳ってるようなもんだよね。それこそ合法的なヤクザっつーかなんつーか、こういう国家ぐるみのことになるともうヤクザとかが可愛く見えてくるよね。


なんつーかこれって個人の自由っつーのとさ、ようは楽しむのは自由です!みたいな快楽の自由ってのと、んでもそれは自己責任で!みたいなのを上手く使ったスキームだよね。結局はやるほうが悪いんだ!って言えるし、生活保護費とかを使ってる輩にも「こいつら死ね!」とかってスケープゴート的になんつーかパチンコ自体を問題としないような軸のすり替えとかって可能だしさ、それこそ福祉とかに力を入れたくなかったら生活保護されてる人達がガンガン生活保護費をパチンコに使ってくれれば国民は怒るから生活保護の基準をどんどん厳しくできるよね。そんな感じで数えだしたらキリがないぐらいまぁ権力にとって便利なことなんだよね。それが私利私欲によるものだからもう最悪だよね。最高にセコい。で、これについて「どうでもいい」って思える人は相当狂ってるって言えるね。


元々善の感覚が無いのか欠如しているのか分からないけど、俺が一貫して問題にしてきたのはこういうことだよね。こういうこのニコ動のパチンコの話に対してどう感じるか?ってことだよね。それは物凄く感覚的なものなのよ。sensibleなものっつーのかな?「最低だ!」ってすぐ思えるのはもう論理思考とかが働いてるっつーよりかは仕組みが明白に悪であるってのが分かるからそう思えるんじゃん?それこそがベーシックな善だよね。あれを「アリだ」って言えるのは気違いか悪徳なやつか善が元々無いやつに限られるよね。ホント、この辺は俺がよかよかの件で色々と敷衍してきたことと全く一緒だね。いくら選択権がこっちにあるとは言え、それを促すようなものは絶対許してはいけないと思うわけよ。凄く魅力的なうたい文句とかさ、誇大広告っつーか誇大宣伝っつーかさ、高価買取!とかも実際そうじゃなかったら言っちゃいけないよね。むしろあんなのってもう陳腐化していて「買値には期待しないでください」っていう看板になってるのかもしれないけどね。シニフィアンシニフィエの関係がおかしくなってるっつーかなんつーか。


なんつーかそこのすげーベーシックな部分がおかしくなっちゃったらもう本当にヤヴァイと思うのよ。悪い事も悪い事と思えなくなるっつーか世の中なんてそんなもんだって言っちゃうとかアリだって思えてきちゃうとかさ、こんなの絶対ダメじゃん?まぁそれでも現実的に見ればさ、まさしく啓蒙の限界だけど、このニコ動の番組でもいいしこの人の本でもいいんだけど、読む人って限られてるよね。感化される人も限られてるよねっつーか言葉が届く人が限られてるよね。それってのがまぁ今回散々書いている啓蒙の限界ってところなんだけどさ、まぁでも無いよりかはいいけど、でもそれに全ての変化の根源は求められないよね。それ一個では無理。だからどんどんそこから派生させるしかない。


仮に善に限界があったとしてもとりあえず限界に行くまではやってみるべきだよねっつーかつまりはその感覚を問うっていうかさ、それで国民が「いや、知らん」って言っちゃえばまぁそれまでだからさ、まぁ終わりなんだけど、労働が美徳みたいな虚偽意識にしても今回のパチンコの話にしても凄くそれはメディアが先導していたりさ、例えば一切批判が許されないとかね、あとは事実が知られることがないっていうある種の洗脳じゃん?パチンコは良いものです!みたいなことは言わないけど、悪い!って言うようなものは放送しないとか封殺するっていう情報操作も言わば情報のゾーニングをしているわけで洗脳の一種だよね。だからまずそこから解かれないといけないよね。労働=美徳の話然り。まずそれは分かった上でどう人々が選択していくのか?ってのは民意が問われることだけど一方的な洗脳が行われている上ではバイアスがかかってない考えなんてできないじゃん?いや、元々の価値中立なんてのは無理かもしれないけど、でもなるべくまぁフリーっていうかさ、まぁ俺はフリーだと思うんだけどね、社会的にも思考的にも名実共にだけど、ここまでフリーじゃなくてもんでもまぁ完全洗脳よりかはフリーに近づくことはできるよね。まずはある程度洗脳が解かれてからじゃないとまともな思考なんてできないわけだからさ、民意を問うにはまずは洗脳を解かないといけないよね。まぁそれはチョムスキーが昔から永遠と言い続けてきたことと同じことなんだけど。


ってことでした。ベーシックな善が欠落しているといかにマズいか?ってそのニコ動の「メディアが報じないパチンコ業界の闇」を見てくれると本当によく分かると思う。これを許していいわけがないですよね?っていう意味での善だよね。俺は。あまりに議論の余地がなさ過ぎる当たり前の感覚の事ね。