人間性をメタ的に楽しむ。

結局やっぱりなんつーか合理性とかさ、そんなことだけじゃダメなんだよねぇー。色々と考えれば考えるほど自分が人間として生まれてきたという事自体を肯定しないことにはベタな言い方になるけど幸せになれないっつーか救われないんだよね。いや、前にも書いたけどだからなんつーか仏教的な滅却っつーのが凄く嫌になったんだよね。あれってどう考えても突き詰めれば身体いらないっつーかさ、仏になることなわけだからなんつーか悟りを得た後に自殺っつーのが一番納得のいく答えっていうかさ、それは西洋哲学とかでもそうだよね。まぁ全部が全部そうじゃないけど自殺が答えになるっつー帰結は凄くもっともらしいんだよね。


んでもそれってやっぱ論理のレベルなんだよねぇー。感情とかをそもそも滅却するし、そういう不安定なものがわき上がるから不幸の種になるから滅却するのが一番っつーまぁそういうスタンスになるじゃん?でもなんつーかさ、そこがやっぱ人間として生まれてきたところのポイントなんだよね。機械じゃないわけだからさ、そもそも矛盾するんだよね。生まれてきたということと。生まれてきたらもう肯定するしか無いんだよね。人間っつー属性に縛られるわけだし、そこから人間である限りは抜け出せないでしょ?「あー電脳と直接リンクしたい・・・」とか思っても今は無理なんだからさ、やっぱ生を肯定する方法しかないと思うんだよね。そうなるとやっぱ人間臭い感情なんだよね。喜怒哀楽だとかね、寝起きに炭酸飲んで「うめぇー!」ってなるとかさ、体に悪いとか関係なくさ、好きなんだから飲むっていうさ、まぁそれでも糖尿とかになったらアレだからそりゃ考えなきゃいけないんだけどさ、んでもたまに飲む炭酸とかおいしいわけでしょ?


そういうの無しで言うと結局は水と玄米が一番ってことになるんだけどさ、でもやっぱ炭酸とか美味しいしピザとか上手いもんねぇー。本当に「あんなもんもういらん!」って思ってるならいいけど俺は心底ピザとかなんつーか所謂俺みたいな世代が好む味ってのが大好きだからさ、そりゃ玄米とピザがあればピザを選ぶんだよね。そこで合理性とか理性で玄米を選んでるとそこには絶対的なやせ我慢があるんだよね。やせ我慢なしで玄米を選べればいいと思うけど俺には無理な話だしそこまでしてピザを食べるってことをやめなくてもさ、そもそも元々頭が悪いわけじゃないんだしドカ食いしまくってデブになるとかありえないわけじゃん?そういう理性があるわけだからなんつーかそういうのがあるからこそ人間性を楽しまなきゃ!ってことなんだよね。


所謂ピリミティブなものね。アレ欲しい!とかムラムラしてきた!とかさ、そういう下世話なもんなんだよね。そういうのをいかに理性的に楽しむか?ってことなんだけどさ、それだけだとまるで動物的なんだけどそういう動物的な振る舞いをメタ的にやって楽しむっていう感じっつーのかな?かといってもあえてノッてるって感じじゃなくて本能に率直な感じで楽しむんだけどそれは理性的に本能に身を任しているって感じだよね。思うに自分が好きな事をやり続けられるとかさ、いや、客観的に見るとやっぱ「よく続くよねー」とかって思われるみたいなんだよね。逆に俺としては何かにハマってない人生を送っている人は何が楽しくて生きてるんだろう?って思うんだけどさ、んでもそのハマるって感覚は極めてプリミティブなんだよね。それが高尚的なものであるとかっこいいんだけどまずさ、普段からも書いてるようにそれってアプリオリじゃないでしょ?先験的に高尚なものなんてないわけよ。


勝手に世間みたいなのが高尚だって決めたものが高尚なんであってさ、「ハマる」という行為自体は別にギャンブルとかセックスとかアニメとかゲームとかと何ら変わりないんだよね。まぁ明らかにこの中に哲学とか数学を含めるとこの二つが高尚に見えるけど、んでも本当にハマるということは下品にハマるってことなわけでギャンブル依存とかセックス依存とかアニメオタクみたいなレベルと同等だと思うんだよね。「高尚さ」で何かをやるなんて他人からの認証欲求とかさ、あとは自己陶酔とかまぁロクでもない理由ばっかだよね。でもプリミティブにハマるならまぁハマるということで何に関しても変わりないんじゃないかな?って思うよね。


これがまぁ言わば人間的なことなんだよね。その対象が仮に凄まじく論理的な世界であってもそれにハマるという行為は極めて人間的だと思うのね。その人間性と論理性の間の中で人間だからこそ生の肯定ができるっつーのかな?まぁそれしかないって気がつくんだよね。神様のパズルの女の子がさ「バーチャルリアリティと現実の差なんてないじゃないか」とかって言ってたけどそれって客観的っつーか論理的に見ると本当にそうなんだよね。ましてや認識系の哲学だとかさ、まぁ脳科学でもなんでもいいんだけど別に深いレベルじゃなくて齧ったレベルでも分かるぐらい明らかなことなんだけどさ、そこでやっぱ出てくるのが身体性なんだよね。


論理の世界だとヴァーチャルもリアルも差はないんだけど、でもそこに人間であるっつー理由からある意味でその人間原理的に違いを人間的に語れるっていうか考えられることってのが言わば生の肯定だと思うんだよね。それはまぁ逆に論理とか客観性の世界で見ると馬鹿げていて洗練されてないように見えるからかっこわるい主張なんだけど、でもそのクサいほどの人間性っていうのをメタ的なレベルで分かってるとそれは凄く人間として強いということに繋がるんじゃないかな?って思うんだよね。自称詩人みたいな人が語る人間性とかと一見変わりはないからダサいんだけどでも紆余曲折があって観点が違うから同等のことを言語で指していたり表していても意味合いの深さが全然違うんだよね。それは客観的に分かるものじゃないからなんとも言えないんだけど。


例えばだからやっぱ俺は本当に愛だな!って思うんだよね。めっちゃクサいでしょ?クリシェとしての「愛が全て」と色々と考えた末に出てきた「愛だな!」ってのは認識のレベルが違うんだよね。まぁ「全て」じゃないにせよ愛の重要性ってのはさ、ダサイクリシェも深遠な愛もまぁどっちも同質なものなんだよね。ただ主観的な意味合いは違うんだよね。客観的には一緒なんだけど。いや、やっぱ愛に関するものを感じているときが一番人間幸せなんだって。俺が犬と接していて感じる可愛さとかさ、まぁそこから愛情ってのが出てくるわけじゃん?で、それが自分の心から自然に溢れ出してくるっていう感じがまぁようは多幸感を生み出しているんだけど、その軸が愛なんだよね。質は違えど俺が数学とか哲学好きなのもまぁ結局はそこなんだよね。


逆にまぁ俺ってすげーカタワな人間だから人間に愛を注ぐことができないんだよねっつーかまぁ経験から色々と裏切られたり勝手にこっちが期待を抱き過ぎていたりでまぁロクな経験しかしてないからもう経験的に無理なんだよね。でも結局は軸は愛だからそういう感覚をシェアできる人とかね、「こいついいな!」って心底思える人がいたとすればそれは幸福に繋がると思うんだよね。まぁ確立が低過ぎるから確立が高い犬とか学問のほうがいいっつーか裏切られる確立が人間より低いってことで安全圏じゃん?なんかそのうち人造人間16号みたいになりそうな気がするんだけど。


でもそれはさ、「人間なんてクソだ!」って思ってるわけじゃないじゃん?良い人に会える確立がめっちゃ低い!ってことで期待値がめっちゃ低いから能動的にコミットしないっていうだけでさ、別に見限ってるわけじゃないんだよね。ただまぁ期待しないからどうでもよくなるんだよね。すぐレスポンスがある学問とかコミュニケーションでも犬とかのほうがよくなるわけだ。それは別に楽をしてるってことじゃないんだよね。まぁ苦労をして築き上げた信頼関係とかっていいとは思うけどさ、それってやっぱどうしても成功者の美談になりがちなんだよね。大概はそんな良い関係性を築けない人が多いわけだから。んでもかといって否定しないのね。


否定したらただの世捨て人なんだよね。偏屈系の世の見限り方は隠者レベルが相当低いと思うわけ。グロタンディークとかそんな感じだろうなって勝手に思ってるんだけどね。マジな隠者っつーかレベルが高い隠者っていつでも機会があれば世の中にコミット出来る人だと思うんだよね。ただ必要性がないからやらないことが多くてひたすら自分の好きな事に没頭するとかさ、そもそもプライオリティで考えれば世間的なことってやっぱ低いじゃん?だから隠者になりがちってことになるんだけど、なんつーか断つ感じではないんだよね。別にいつでも対応できますよっていうかさ、語れる人とかいればめっちゃ語りますよ!みたいなさ、本当に楽しい事があれば行きますよ!的な感じっつーのかな?だからまぁなんつーか都市型隠者っつーのかな?仏教でもあるもんね。本当の修行者っつーのは世俗に塗れて生きる人だっていうね、それとまぁ似てるよね。


あ、んで話を愛に戻すとさ、まぁ俺って童貞のくせに性文化は大好きだから色々と読んだり見たりするけどさ、やっぱエクスタシーって凄まじい快楽だよね。それこそ叫びとかが出るのが分かるんだよね。理性的になると「なんつー野蛮な動物的な行為なんだ!」ってことになるんだけど、人間性とか身体性ってのを考えるとあれは凄まじいことだなって思うんだよね。元々無い人は別にいいけど我慢してたらさっきのピザの話と一緒なんだよね。完全にタイプのヤリたい美女とヤラないでオナニーっつーのの二択があってオナニーを選ぶぐらいのオナニストだったらそれはそれでいいんだけど我慢してオナニーじゃダメだよね。その我慢があるともうダメなのよ。


本当はヤリたいのに・・・っていうさ、それがあるんだったらもうそれは欲望があるってことだからなんとかせにゃあかんよね。もうそれがある時点で滅却なんてできないんだよね。低俗な修行僧のやせ我慢レベルになるわな。「ふん!下品だ!」って本当はやりたいのにそんなこと言ったらまぁ知的詐欺みたいなもんだよね。超越者ズラして実はただ我慢してるだけっていう。いや、昔の俺はそうでしたね。仏教がどうのって書いてた4年前とかそんな感じだったわな。


そもそも自分はあらゆる欲求を完全に滅却できるようなタチじゃないわけよ。まぁそういう風に考えることはできるけど欲求があるからそれを我慢するとか瞑想して滅却するとかさ、それってまぁようは我慢だからね。本当の悟りの境地ってそもそもそんな欲求すら生まれてこないっていうことなんだからさ、いや、まぁそれは俺は無理だなって完全に思ったよね。いや、あとまぁ悟りがそんなある意味で非人間的なことだとは思わなかったしね、あれはまぁ万年修行僧になっちゃうよなぁーっていう。無理だから永遠と修行するしかないっていう。


あとやっぱまぁ俺は刺激が欲しいんだよね。とにかく。知的刺激もいいけど他のは無いの?って思ってもないんだよね。だからまぁ性愛ってことになるんだよね。やってないことを超越者ぶって「くだらない」って思うのはやっぱおかしくてやっぱ経験しないとダメだよね。で、本当にたいしたことなかったらたいしたことないでいいわけでさ、まぁそれって童貞じゃ無理だからねぇ。やってみてガラッと変わる認識もあるわけだからまずやってないってのがダメだよね。経験してないってのがダメだね。だからなんかまぁ昔は筆下しとかいって村とかでさ、姉さんみたいなのが筆下しを手伝ってくれたとかさ、なんかようやく理解出来た気がするよね。


ある意味での社会化だし認識を作るプロセスっていうかさ、やっぱ経験って大事だからね。ただまぁ俺が言っているのは凄まじいセックスなんだけどね。普通の筆下し的なのは当然目に見えてるよ。すげー地味だろうなっていうのは童貞ながら分かるんだけど、俺が言ってるのはalter state consciousnessみたいになるようなトランス的なセックスね。普通のセックスとかだとやっぱあれなんだよね、オナホールとかのほうがよっぽど気持ちいいって言う人もいるけどまぁそうだろうなーって思うよね。射精の快感って意味だとまぁそうだと思うんだよね。だからまぁ俺は本当に普通のセックスに興味は無くてまぁ変態プレーとかね、まぁ詳しい話は前に書いたし書くと長くなるからやめるけどさ、あとはまぁそのトランス状態になるようなねって書いてて思ったけどこれもオナニーだなー。やっぱ。


自分主体の快楽だもんね。セックスってコミュニケーションって面もあるからさ、快楽だけで言うと究極的には超変態的なオナニーとかさ、そういうのには敵わないよねって自分でも何書いてるのか分からなくなってきた。オナニー死したキルビルの人とかさ、まぁ分かるよね。そんだけまぁオナニーって究極的なもんだよね。なんかでもそれだとつまらないんだよなー。


俺はなんつーかやっぱあとは興味なんだよね。性というよりかは結局どういうもんなのか?とかさ、セックスが意味するものとは?とかさ、あとは自分の認識がどう変わるのか?とかさ、メインはそこなんだよね。それで言うとやっぱただ知りたいだけって気がしなくもないんだけど。まぁでもいいじゃんね。経験って大事だから。そのなんつーか「俺にはいらん!」っていう態度とやせ我慢はもう絶対やめようと思ったのね。まぁただ機会はないだろうけどね。そう思うとお転婆娘とヤル寸前まで行ってたって今思うと凄い事だよな。ただまぁ俺は彼女とやろうとは全然今でも思わないんだけど。まぁようはセックスとか性を俺とは縁のないものだと考えるんじゃなくて興味の一つとして考察するってことね。なんであんなに出し入れにこだわるのか?とかさ「バカじゃねーの?」路線じゃなくて「気になるなー」っていう路線なんだよね。実践があるに超した事は無いと考える路線っつーかなんつーか。


まぁそんな感じですね。まぁ今年の抱負はこれだね。まさしく。人間性をメタ的に楽しむということに関して上手くなるっていうかなんていうか。自分の人生をそれで操縦する感じだよね。滅却自殺路線はもうやめようと。ようはまぁそれはレベルが低いんだよね。まぁ超低いわけじゃないけどありきたりな哲学的帰結なんだよね。そうじゃないだろってところだよね。


そんな感じで今年もよろしくね。マッシュアップは飽きたしミックスはネタがもう恐らくないから結局俺にはここしかないんだよねぇー。だからまぁ今後も長い話にお付き合い願えれば幸いなわけですね。