物性と観念性の境。

半ば諦めかけてたFallout3なんだけどTweakGuidesだったかiniっつー細かい設定をいじれるソフトがあってさ、んで色々と調べたらまずFallout3はソフト自体が昔のやつってのもあってかデュアルコアCPUに対応してなくてなおかつメモリは上限が2GBなんだけどさ、メモリは2GB以上使えるようにするMODがあって、んでそれを入れてからiniで設定すると使えるようになるんだよね。あと重要なのがデュアルコアっつーかマルチなんたらっつーCPU設定を2にすることね。


なんかやってない人にとっては分からない情報で知りたい人にとっては全く分からない書き方でどうしようもないけどさ、まぁとりあえず色々といじったら割と落ちなくなったんだよね。まぁとりあえずなるべく演算量を低くしてゲーム自体を安定させるってのが鉄則みたいね。まぁどのゲームでもそうだけどんでも常に爆弾をかかえているといっても過言ではないFallout3では凄く重要なことだなと。いや、んで画面も800x600なんだよね。いやー結構軽いよ。室内とかすんげー移動速いし。


こういうゲームのフィックス系とかでさ、それで色々苦労したり調べたりするのって楽しいんだよね。俺みたいな古いPCユーザーなら誰しもがゲーマーなら絶対経験してることなんだよね。今はもうインストしてオッケーだけど昔のは大変なのが多かったよねぇ。いや、Falloutもxpとかでやれば安定するのかもしれないけどね。互換モードとかどんぐらい互換なのか分からんし。あ、んでとりあえずあれだわ、Fallout3は強くしなきゃ!とかって思ってたら終わっちゃったんだよね。メインが。で、DLCの後日談が始まってる感じで、んで他のDLCも二つ終わらせて結構あっという間に終わりそうだなっつーかこういう箱庭RPGのスケールに慣れてきちゃったのか短く感じるね。すでに何十時間やってると思うんだけど。


あ、んでさ、こうやってまぁ細かいことっつーのかな?どうでもいいことは色々とあって書きたいんだけどさ、夜は店で数学モードになってるからもう書くっつー習慣が無くなっちゃってさっつーか手元にPCがあればいいんだけど持ってってないからねぇーなんとかしたいなぁーとか思いつつ。Ipad的なやつにキーボード繋げて書くって感じがいいよね。あ、んでまぁ書くことと言えばあれかな、ペンローズのさ、The New Emperor's Mindってあるじゃん?あれ読んでるんだけどさ、ペンローズが一部から批判されるっつーのも凄く分かる気がしたねっつーのはさ、まぁなんつーかこれって茂木さんのベースだよね。茂木さんの元ネタって感じだわな。


まぁそれはともかくさ、乱暴に要約するとっつーか50ページぐらいしか読んでないんだけどさ、ようは意識の本質的なところはcomputationどうのって話ではなくて、computationalではない何かっていうところにあるっていうさ、クオリアとかもまぁこんな感じじゃん?でもnon-computationなものって科学的に定義できないっつーかまぁそれを研究しようとしてるのかもしれないけどさ、オカルトって言われてもなかなか言い返せないところはあるよね。ペンローズの雰囲気だとアタマが良さ過ぎて色々とアイデアが湧いてきて色々と飛躍して筆を滑らせちゃってるって感じがするよね。


ペンローズの本がなんであんなに長いのか?って物理の基礎的なところとかを毎回ちゃんと説明してるからなんだよね。だから他と重複するっつーと変だけど「またこの話か」ってのが例えば最新のcycles of timeとかでも出てくるんだよねってまぁ基礎だから当たり前なんだけど。なんかだから読んでる側としてはベースがどうのって話はどうでもよくてペンローズの仮説の根本の部分に紙面を割いてほしいんだよね。そこに行くまでが長過ぎるんだよな。あと意外と読んでて面白くないんだよね(笑)


んでもThe Road to Realityは格別なんだよなぁーってのがこれはいつもやってるペンローズが色々と説明するために敷くベースの部分をすげー長く細かく説明してるからある意味での数学概論的な部分とか物理概論部分とかがあるんだよね。一通りの大学数学とかをとりあえず終えた人が読むと物理に目覚める可能性が高いってぐらいまぁ凄くenlightenな感じっつーのかな?んでもこれがベストセラーになるってホントにイギリスとかアメリカのインテリ層ってどうなってんの?って感じだよね。日本じゃ邦訳出してもネグリの帝国2巻分ぐらいになっちゃって誰も買わないだろうなっていう。


んでもホフスタッターの考える計算という概念とか意識って概念とかさ、あとはまぁ哲学サイドから言うとサールとかさ、認知科学/認知哲学をやるっつーとなるとペンローズって必須なんだよな。ホフスタッターも読まなきゃいけないからなんか大著ばっかって感じで。でもなんかトピック的になんつーか長くなるもんだよね。んでもやっぱこういう認識的なものってもう哲学じゃダメだよねっつーかホーキング博士のさ、これまた最近読んだんだけどGrand Desighって本があってさ、最初のほうで「哲学は死んだ」とかってprovocativeに書いてあるんだけどさ、それはようはどういうことか?っつーと哲学が最新の科学に追いついていないってことなんだよね。これ言われたら哲学者は何も言えないよね。


で、それをあざ笑うかの如くホーキング博士の哲学の造詣の深さといったら笑えるぐらいなんだよね。あー一通り読んでるんだなぁーっつーあんな完全な数学脳で哲学までやられちゃったら誰も勝てないだろうっていう(笑)あんな頭脳が欲しいなぁー。俺はそうじゃないんだから後天的に強化人間的に脳を強化していくしかないよね。まぁでもとにかく憧れる頭脳だわ。本当に。


哲学者って現存する人達だとあんな頭脳が欲しい!って思えるような人いないよね。まぁ一昔前の哲学者でも同じだけどね。なんか凄い頭脳って科学者なんだよなぁー。アインシュタインとかも死ぬ前まで哲学読み続けてたらしいしゲーデルは言うまでもないし、科学者が哲学やるとある意味で最強だよね。かといっても科学哲学みたいな安っぽいものではなくてハードコアな哲学を科学者がやるって感じね。それで言うとソーカルなんかもそうだよね。あの人はまぁ哲学に対しては批評だけどすげー読んでるなぁーってのがこれまた伝わってくるよねぇ。


なんかでも俺なんかはやっぱりそこでホーキング博士が言うような「哲学は死んだ」って言うようなさ、そういうことではない哲学じゃなきゃ出来ないことってあると思うんだけどそれをやっぱり哲学サイドは模索していかないといけないよなぁーとは思うよね。あ、んで話を戻すとさ、あのね、認知と計算ってことなんだけどさ、これの決定的な欠点はあれだよね、認知ってことで言うと脳について分かってないことが多過ぎるから色々と述べられる段階にあるわけじゃないってことだよね。哲学の認識論とかがout datedなのは言うまでもないけどさ、いや、でも意味が無いってことじゃないんだけど、でもペンローズのやつとかも結局はなんつーか時代の産物になるよね。


分かってないところに関して既知の理論から色々と予想をしたり仮説を出したりしてるじゃん?でもそれって結局はリサーチで分かることなんだよね。まぁリサーチのための仮説でもいいんだけど、なんかペンローズにはpractinalなものを感じないんだよね。凄く理詰めだなって感じ。んでもなんとなくだけど分かってないブラックボックスのところには既成の概念の理詰めでは行き着けないんだよね。絶対飛躍が必要なんだけどペンローズは華麗な飛躍ではないんだよね。そういう意味で凄くリアリストではあるんだけど、でもまぁプラトニストで数学主義なところがあって、それが色々とcontroversialになるんだと思うんだけど、なんかでもあれだけ長くて、んでも決定的な何かってのが得られないっていうさ、そうなると読む側がゲンナリするんだよね。ペンローズの思考の軌跡って感じでまぁある意味で哲学書なんだよね。


かといっても文系が簡単に手を出せるほどイージーではないっていう難点があるんで科学と哲学の溝ってのはやっぱり埋まらないなぁーってのは感じるよね。まぁただ時間だとか認識に関してはもうあれじゃん?哲学の領域ではないよね。時間論っつー領域はあるけどありゃ本当に意味が無い代物だよね。認識も時間もようは物理的なものじゃん?前者で言えば脳が作用してるってことなんでそれは物理作用だし後者は物理的な概念でしか理解できないじゃん?物理っつっても学科としての物理ってことじゃなくて物事の道理みたいなアプリオリな感じね。


10秒後にこの速度なら車はここまで進んでるだろうっていうような、そういう観測っていうものが介在するときに測定の一つの要素になるっつーのかな?ようは人間が色々と考える時に必要不可欠な要素っつーのかね?普段は時間についてなんて考えもしなくても時間っつー概念が無いと考えられなかったりするものって多いでしょっつーか大概そうだよね。時間という概念を無くしたら考えられなくなるものってすんげー多いわけじゃん?歩くだとかさ、「歩く」ってもう時間が包摂されてるもんね。


なんつーか要素というよりかはfunctorな感じね。ほとんどのことに随伴するものなのでソースとターゲットという関係性が発生しちゃうんだよね。演算でも時間という要素を抜きにしたらやれないことって多いでしょ?でも何がソースで何がターゲットなのかがよく分からないよね。そもそも時間ってそういうもんじゃないじゃん?あくまで擬似的にしか関手的であるとしか言えないっていう。でもなんつーか動的要素というのは時間というものが発生しないとさ、その時間の記述ってのが常に生成されてないと成立しないじゃん?でもそれが動きそのものというものにターゲットになってるのか、それともまぁソースが自分でターゲットも自分なのかさ、ギターフィードバック的なものだとは思うんだけど、なかなかそれを簡素に記述できないんだよね。記述し辛いからこそ定義し辛いわけで。


でもアプリオリに感覚でそれはもう分かってるっていう。いや、記述出来ないから存在しないとか記述しようとすると矛盾に陥るみたいなことはさ、それは前にも書いたようにそれは記述する言語なりなんなりが時間を記述する能力が無いだけでそれは欠陥じゃん?言語がパーフェクトって前提なんて無いでしょ?ようは論理で記述しようとしても無理ってことね。まぁ試みはいいから別にマクタガートとかを執拗に批判する必要は無いんだよね。ああいうのは時代的に十分ありえる議論じゃん?ましてや論理学のルネッサンスみたいな時期だったし。ただムカつくのはそういうのに乗じて科学とか無視しで現代でもそれをベースに時間を語ってたりするっつーやつね。それはないだろうっていう。で、これと全く同じことが認識なんだよね。


でもこれは科学万能主義とかじゃなくて科学とか数学っつー言語は普通の言語では表現し難いものも用意に表現しうるって意味での科学の領域ってことなんだよね。んーでもなんつーか認識にしても時間にしてもさっき書いたようなターゲットが無い関手みたいなもんっつーのはようは本当にオカルト的だよね。相互作用であるはずなのに何との相互作用なのか、何から発生しているのかが分からないっつーかまぁ発生するものではないんだけどさ、でもここがようは肝だよね。完全な概念なのでそもそも物質的な定義を与えたり物理的な手法を使うのが間違ってるんだけど、んでも数学みたいな完全に概念的なものが物理的なものに対応したりなんかすることもあって、この物性と観念性の境が曖昧になるんだよね。そこの差が無くなってくるはずだっつってたのがゲーデルだけども。


俺がハイパーリアルとかって呼んでるのもそれね。そういう境が無い認識ね。っつっても認識を鍛えていくとかそういう絶対精神的なことではないんだけど、んでもこれについては俺もまだよく分からんので考えるテーマではあるんだけどね。ただなんつーか凄く最近はそのね、コドメインが無いさ、写像なんだけど写像する先が無い写像という現象そのものってのが凄く気になるんだよね。もしくはそれは全て発散するものに関しての写像だから全部実質的に発散しちゃってるだとかなんだとか。俺の勝手な解釈だけど岡潔が計算とか概念だとかそういうものではない数学がやりたいって言ってたのはなんつーかこういう現象そのものについての数学ってことだったような気がするんだよね。


いや、現象って言葉がかなり誤謬あるんだけどね、でもそれはメタ的であるはずだから上が見えてないと何とも言えない曖昧な世界っていう。でも俺が思うに認識とか時間ってのはそういう世界の話なんだと思うんだよね。今の語り得る次元で語ってても無理っていうことね。かといってももちろん語れないから沈黙しかないってことにはならないわけだけども。だからまぁそのためには言語以外の何かが必要ってことでそれが数学だったり物理だったり科学全般だったりするわけね。まぁその上ってのは新しいカテゴリーだとかロジックの体系だとか、スピリチュアルに上なんではなくて現実的に上ってことねって言うまでもないか。あとソースとターゲットはなんかさっきは時間がソースみたいな書き方で一方的にターゲット側に移される感じだったけど、どっちがソースでどっちがターゲットかは分からないわけね。いや、分からないっつーか区別する必要が無いってことね。


なんか今日はもういいや。とりあえずまぁ書きたい時に書けるようにするってのがあれですね、今後の課題ですね。