ドランク塚っちゃんが最強な理由。

いや、そういえば最近さ、ドランクの塚っちゃんがさ、モモクロが好きすぎて女性との交際とかどうでもいいなんて言ってるっつー芸能ニュースを見たんだけど、ようはこれですよね。相変わらずこれを現実逃避だって言う人がいるけど、本人にとってはモモクロというのはリアリティで、それは普通の女性もそうなんだけども、でもどちらがバーチャルでどちらが現実か?なんていう区別は無いってことだよね。ましてや本人はロンハーとかで色々と悩んでるっつっててもまぁ消えることはないしもう芸能界で生き残る人じゃないですか?お金にも困って無いし、ようはそういう人がモモクロに没入ってようは現実逃避でもなんでもないのよ。まさしく経験の強度でしょ。で、モテないなんつっても実際に彼女募集したらいくらでも来るでしょう。まぁ言わば勝ち組ですよね。そういう人がさらにモモクロに没入することで認識的にも勝っているということになってるわけだから俺的に言えば彼は最強だよね。衣食住は困って無いし芸人としての評価も確立されてるし、ようは認証問題なんてのはとっくにクリアできている。


で、プライベートではモモクロの応援っていう最高の経験があるわけだからもう誰も文句は言えないでしょう。でもモモクロは永遠には続かないでしょっつってもそれ言い出したらなんでもそうじゃないですか?俺で言えば死ぬほど好きなArma2をやり過ぎてシナリオとかキャンペーンとかDLCのやつなんかもほとんど終わっちゃったんだよね。そりゃコンテンツというのはやり尽くすものだからいつかは終わるでしょう。まぁ3が出たらすぐ買うけどもでもこれを5年とかのスパンで見たらさ、5年後の俺も相変わらずバーチャル空間ではスナイパーで居続けるのか?っていうと分からないよね。今が楽しいだけでこの先は分からない。でも楽しい!ってことに昔も先もないじゃないですか?少なくとも今やってて楽しいならそれで十分だし、今が楽しい!っていうそれ自体を味わいつくせ!ってことだよね。実際もう何も無いわけだから。つまらないことしかないわけよ。そんな中で自分なりに楽しい!と思えることがあるんだったらとにかく楽しみつくせ!ってことだよね。別にそれはゲームに限らず芸術でも学問でも音楽でもアイドルでも恋愛でもなんでもとりあえず今が楽しかったらそれは凄まじくかけがえのないことなんだ!ってことだよね。


ハイデガーじゃないけど在り方ってのは魂のエネルギーによる実践的な生なんだってことなんだよね。まぁニーチェとかアリストテレスとか色々とマッシュアップされてる概念だけど、ただとりあえず世界内存在というのはそういうことなんですよ。何がプラキシスなのか?ってことでしょ?で、最近の俺で言えばやっぱりサバイブ術としてのテクネーに尽きるよね。悟りを開いたような人でも余生があればどう過ごすのか?という依然として「在り方」という問題が出てくるわけだ。そこに存在がある限り生きなきゃいけない。何もしなくてもいいけど人間ってのは退屈に耐えられないようにできてるから永遠の退屈なんて苦痛でそれこそ自殺しちゃったりもするわけだ。だからこそのプラキシスなんだよね。生きるためのテクネーとしての在り方の実践ですよね。


だからそういう意味で言うと将来のために今は我慢するってやり方とかファックですよね。まぁそれで本当に何年後かには何かの結果が出ればいいけど全く分からないようなものに対して不安感からそれに全てを託すみたいな感じで今そのものっていうのを犠牲にするってのは自分の生を犠牲にしてるってことでしょ。むしろやっぱり明日死んでもいいみたいな生き方じゃないと日々辛いだけだと思うんだよね。まぁ我慢もいいけどそれで報われる保証があるならいいですよ。それは個人のやり方だから。でもよくあるのが我慢してやってきたのに何も無かったっていう惨さだよね。だから我慢してきた日々は何だったのか?という激しい後悔と共にそういう感情の中で今後もやっていかなきゃいけないということになる。地獄ですね。だからこそ日々の積み重ねが必要なわけだ。毎日些細なことでも楽しんで生きるしかないよね。楽しくないのは分かるけども(笑)


あとはそういう生き方ができないんだったらやはり生活を見直すしかない。他にチョイスがないという人はしょうがないよね。それこそ食べていくのに精一杯という人が大勢居るのは分かってて、そういう人たちに対して楽しめ!なんつってもナンセンスだってのは分かるんだけど、そこなんだよね。食べていくのに精一杯になるぐらいしかないという生き方が蔓延しているそういう生きづらい社会というのは物質的に豊かでもそんなもん豊かだとは言えないんじゃないか?ってことだよね。いや、そこなのよ。だからやっぱり俺はその食べていかなきゃいけない・・・っていうそれ自体をなんとかしたいと思ってるんだよね。自己を犠牲にするしか食べていく方法がないなんつークソみたいな構造をなんとかしたい。んでも変わらないから作るしかないってことだよね。で、今は暫定的な方法として世界の見方を変えるってことになってるわけじゃん?自分が知覚したいものを選んでそれを世界にするってことだよね。まぁ言わば方法論的独我論でもあるわけだけど、でもこれってようは多様性なんかの基本でもあるじゃん?個々の生があるってことだよね。お互いそれは認め合うしかない。ディスりあうようなものではないんだよね。そういう意味で塚っちゃんは最強だと思わないか?ってことなんだよね。金があって名声もあって仕事もあって認証もあって幸せになれることもあって・・・ってもうヤヴァいでしょ。プラキシスの達人というしかない。


あとさ、単純に脳の話で言うと将来のために我慢するとか脳に悪いじゃん?日々の生活が意識とかその人の生を形成してるなら日々がクソなら結果的に意識も生もクソになるでしょ。そんな中での我慢の結果って良いことがあるの?ってそれは日々の犠牲のほうがよっぽど凄まじい支出だと思うんだよね。それで言えば子供なんか最たるもんだよね。良い学校に入るためにくだらない暗記の勉強を詰め込まなきゃいけないっていうさ、でも俺の経験から言っても明らかだけど子供は遊んでナンボなのよ。楽しみまくって色んなものに手を出して経験したほうがそれこそ脳が成長している最中で言えばそっちにほうがいいに決まってるわけだ。俺は登校拒否になった結果、それができたんだけどね。あと大学4年ぐらいまでのレベルのことなら後でなんとでもなるってことだよね。そのラインに乗らなきゃ学べないものなんて無いわけだ。今はどんな学問にしたってアクセスが良い文献がそろってるでしょ?おまけにネットと来たもんだ。やりたい人が勝手にやれる環境が整ってるわけだよね。


で、勉強なんてこれもよく言われることだけど学問自体に興味を持つのって20代の中盤に差し掛かるぐらいのときだと思うんだよね。大学を卒業するぐらいのときだわ。俺もそうだったけどね。本格的にやり始めたのは20代の半ばぐらいだもん。で、want toベースでやってるから死ぬほど頭に入ってくるわけだ。最高に効率の良い勉強法だよね。楽しんで自分の好きなやりやすい方法でやるってのが一番だわな。とにかく「快」という感覚が人生のプラキシスの鍵を握っているのは間違いない。人間は「快」が介在するとすげー能力を発揮するようにできてるからそういうメカニズムに素直に従うのが一番ですよね。


そうは言っても・・・ってのも分かるけど実際に不幸な人が多いわけでしょ?だったら駄目じゃん?小学生が電車に飛び込んで自殺したりするわけで、そんなのが良いわけないわけで。そのさ、楽しむってのも才能なんだよね。俺は元々楽しむ才能はあると思うけど繰り返すこのニヒリズムによって凄くそういう感性が失われてたんだなってのに気がついて。自分でそういうのを封じ込めるようになってたんだよね。なんかそのみんなあまりに不幸すぎて楽しむってことが駄目なことみたいな風潮あるよね?無い?みんな苦しんでナンボみたいな駄目な感じになってるよね。だから幸せな人たちに対する僻みが半端じゃなくなってるっていう、このマインドが何もかもを駄目にしてるわけだ。これはもう確実に間違いないと言い切れることだわ。


勤勉を美徳にするんじゃなくて怠惰を美徳にするぐらいでいいと思うね。楽であったり快だったりすることを美徳とするっていう、まぁこの言葉をつなぎ合わせると快楽ってことになるんだけど、まぁなんつーかそれは人それぞれじゃん?とにかく勤勉みたいなことを押し付けるな!ってことだよね。怠惰なら怠惰でいいじゃないっていうさ、そんなもん過去にラッセルとか散々書いてたことだよね。とりあえず楽に生きていればそれでいいって感じがしてきて、逆に気苦労が絶えないなんつーのはもう死んでるのと同じだなって思えてきてるのね。それはもう収入とか生活の質がどうこうって話ではなくて。だから別に収入低くても好きなことがあってそれをやれるって人はさ、収入があって気苦労が絶えない人なんかよりよっぽど勝ってるんだよね。そこを勝ち組負け組みたいな分け方をすることで変な価値観が蔓延するんだけど、あえてこういう言い方をすれば気苦労しててハッピーじゃない人はとにかく負け組ってことですよね。まぁなかなか認められないのは分かるけどね。それじゃあ毎日楽なニートが勝ち組になるじゃないか!ってまぁ実際はそうなんですよ。でもそれを認めたくないからみんなニートに対して異様な怒りを覚えるんだよね。いつも書いてるけどあれは嫉妬の裏返しなのよ。あとは自分が頑張っていることを批判されてるように感じるとかね、裏を返せば自分があんまりハッピーじゃないってことだよね。だからニートが憎く思えてくる。まぁニートに限らず幸せそうな人たちが憎いっていう心理ってこれだと思うわけですよ。


いや、そういう意味でさ、あれなんだよね、これは前にも書いたことだけど楽しいことって有限だから片っ端から見つけて楽しみつくしてやろう!って思ってるんだよね。だからゲームなんかもあんま興味なくてもそんなに高くなかったらとりあえずやってみるとか、あとはアニメとかにしてもそんなに見ようとは思わないけどたまに面白いのがあるから色々とチェックして見てみるとか、あとは映画にしてもさ、最近は邦画のエンタメ映画ばっか見てるんだけど、こういうのってノーチェックだったんだよね。で、見て見ると結構面白いわけ。いや、面白ければいいじゃん?むしろ芸術映画とかなんかもうくそ食らえなんだよね。そういう意味で柳下毅一郎的にハリウッド映画を見て見るとかさ、ようはパースペクティブなんですよ。あと何にでもクオリティを求めすぎると不幸になるね。そこそこ楽しければもうそれはオッケーという風にしないとコンテンツなんてないですよ。ゲームにしたって神ゲーなんてめっちゃ限られてるから。そりゃ映画にしても音楽にしても同じですよね。だからとりあえず楽しめればいいやってことで見て見たりやってみたり聞いて見たりするってことが大事なのね。それを続けてるとまたいつのまにか色々と視野が広がってるはずなのよ。結果、日々が割と充実するってことになって言わばそれがリア充ってことになるわけだよね。リア充ってのはそういう内面的な自己充足のことを指すわけで、客観的に見て羨ましく思われるような状態を表すわけじゃないのね。まぁ後者の遣い方が横行してるけども、それは勝ち組負け組と同じようなナンセンスな構造ですよね。自己充足感が得られてるってことはそれは生きることに長けているってことなわけで誇っていいことなのよ。方法がなんであれ。


とりあえずつまらないって嘆いてるだけじゃ何もならないよね。日々を無駄にしてることになるわけだ。だから楽しくなるようにしなきゃいけない。環境的な要因でそれが妨げられてるならそこからは脱出しなきゃいけない。まぁようはあまりに仕事とかバイトがいやなんだったらやめろってことだよね。そんなもん我慢してても何にもならないってことだ。その後どうすんの?って言われても責任は持てないけど、とりあえず嫌でそれで精神的に病むようなことだったら我慢して続ける道理なんてありませんよってことなんだよね。それはもう自然のメカニズムに抗ってるわけで、むしろ自然の流れのままに生きるならばそれは自分がやりたいようにやるってことに尽きるでしょう。その内発性ベースのスポンテニアスなものこそが自然ってことなんだから。


いや、だから自然に任せてるとセックスしたくなっちゃって子供が生まれるわけじゃん?それもまぁプログラミングですよね。いや、そういう意味での自然に身を任せるってのをようは風流って言うんだよね。好き心という趣向を凝らす実践的生を通じて存在の在り方を規定するってことなわけだ。まぁ俺の勝手な定義ですけどね。塚っちゃんはそれを自然に実践してますよね。あれはもう才能なのよ。で、悩む癖があるやつは楽しむという才能が無さ過ぎるわけで、それは一種の欠落なんだと思ってるんだよね。俺は楽しむ才能もあるのに悩み癖が強くなり過ぎてて色々とこじらせちゃってるんだよね。それはイカン!と。言わば自分の才能を自分で潰してるわけだ。悩みも建設的な思索的な悩みならいいけどやたらネガティブになったりするものは駄目だね。行き着く先は死ですよ。本当に。死ねないんだったらさ、死なないために人間が食べたりするように楽しむっていう心の栄養も摂らなきゃ駄目だよね。そういう意味で「楽しむもの」というのは衣食住の食に値するものだと思うよね。食べるというのは食物だけではなくて心の栄養も含む食物だよね。文化というのはこの心の栄養に関するものの食物連鎖の所産なんだと思ってるね。だからなんつーか食事よりも趣味にお金をかけるってすげー理にかなったことだよね。生きる達人がやるやり方だわ。そういうのを自然にできる人はさっきも書いたようにそういう才能に恵まれた人なんだよね。


というわけで今日はこの辺でいいかな。んじゃまた。