オペレーターかオペランドか。

マッシュアップやってて続き貼ってないけどさ、もうちょっと待ってくれ。んでも思いついたことは書きたい。ってことでまぁ今日は短くいくとだな、いや、こないだ「世界」は機能であるなんて大げさなことを言ったはいいけど凄く気にかかるのがさ、どっちがオペレーターでどっちがオペランドなのか?ってことだよね。自分が演算しているのか、それとも世界に演算されてるのか、こないだの世界のやつで書いた内容に関してはこれがごっちゃになってるよね。例えばそのね、別に味はともかく値段と近くにあるっつー便利さでコンビニで飯を買うことが多いっつーのはどちらかというとあれじゃん?環境的な要素によって自分が左右されてるって感じだよね。ようは受動的なわけだ。もちろん食べるという行為は能動的だけども、でもあれじゃん?まぁようは自然の欲求だから能動的というのはあまりに本能的過ぎるじゃん?排泄に能動性も糞も無いのと同じだわ。ましてや毎日何を食べるか?なんてそんなことに思考を費やしたくないわけだから思考を経済化するためにもなるべくそんなことを考える必要が無くなるほうがいいってことになる。だからまぁ簡素な飯かコンビニかみたいな話になるよね。別に料理の否定ではないんだけど。


で、こっちが知覚するものを選んで自分の世界を作るっていうオワコンシリーズ以来の俺の認識で言うと、自分がオペレーターで演算対象であるオペランドを選ぶってことだよね。オペレーターとオペランドの関係は個々によって違うってのがまぁようは環世界の良い説明にもなるかなと。客観的な世界と人間との関係があるなんて言い出すとオペレーターとオペランドの関係は一般化できるっていうことになるよね。でも個々と世界の関係やそれこそ言葉とか概念の定義すらも違うわけで一応色々なことを共通前提としてシェアしてやっていってるように見えるけど実際はごまかしだらけだし適当だよね。逆に定義に厳密だったりするとウザがられたりするわけで。


適当なやつのほうがやっていきやすいってのはある意味でオペレーターとオペランドの関係性を上手く超えちゃってるっつーか自然とやり過ごすというか機会主義的なんだよね。その時に一番楽な方法を選ぶっつー原理みたいなのがあってあとはもうそれに身を任せるだけっていうさ、それで言うとまぁ原理が決まっているオペレーターのような気がしなくもないけどでももちろん人間には自由意志があるから演算対象を選ばないなんてことはありえないんだけどさ、んでもなんかあれだよな、それとこれとは関係ないか。ようはちょっと怖いのが自分が演算される対象だった場合だよね。つまりは世界に俺が処理されているっていう環世界とは逆の立場だよね。


でもこれは生物である限りの宿命である気がするんだよね。単純に外が寒ければ暖かいところを選ぶし腹が減れば食べるし・・・ってこれを考えると人間が生きていかなきゃいけないという要素がもうすでにプログラミングなんであって、だからこそ世界に自分は演算されているという感覚に陥るのも無理は無いよね。ニヒリズムに陥りやすいのもこういうことなんだと思うな。前の俺がそうだよね。世界はどうにもならないってまぁようは自分が世界に処理されてるからだよね。だから逆で自分が世界を処理しろってことになるわけだ。でもまぁ単純に言いたいことはさ、世界に処理されるかのように教えられたり振る舞うように教育されるけど実際は自分が世界を処理しちゃっていいんだよってことだよね。でもこの自分が世界を処理するっていう能動的な立場ってなんかさ、self-awarenessがついたプログラムみたいなもんだよね。それこそお攻殻機動隊みたいな話になるけどっつーか攻殻の新作が不安でしょうがない(笑)


まぁあれだ、世界にコントロールされている人たちは世界に処理されているわけで、自分が世界を処理している人たちは自分達が能動的に世界を作ってるんだっつってもさ、大きい環世界というところで言うと両者の差はないよね。これが非常に俺的にマズいと思ったわけ。ようは世界に処理されるような生き方もまた環世界だからそれしかありえないっていう一次元的な話になっちゃうわけだ。いや、俺が言いたいのはそうじゃなくて世界を処理しろ!ってことなわけだ。完全には無理でもなるべく世界に対してオペレーターになれ!って言いたいわけだ。環世界の話で言えばこのオペレーターとオペランドの話ってそんなに重要じゃないんだよね。その関係性の中で主観が感じている世界が世界だからどっちがオペレーターでどっちがオペランドか?なんてのは重要じゃない。洗脳されてる人だってまぁその洗脳された世界観を生きているわけだから、まぁそれこそ洗脳されたテロリストとかさ、あんなもんもまぁ別にそういう世界を生きているってことになるよね。でもあんなもんクラッキングされてるわけで世界を生きているなんて言えないよね。そこはなんかやっぱりあれだよね、線引きをしないとダメだよね。俺が五月蝿く「価値」と言ってるのもそれなわけだから。


で、そこは前からと同じでヴァーチューなのよ。それってのはプレモダンなプラトンが言うヴァーチューでも儒教とか仏教とかで言われる徳でもいいんだけど、ズタズタの相対主義が自明であるからこそ原理とかアルゴリズムではないヴァーチューというのが必要になるんだよね。そういう意味で西洋哲学とか東洋哲学にしてもself-awarenessを与える良いきっかけになったりもするからやっぱり有用な学問だと言えるよね。まぁさ、こんなことをあえて説明する必要はないんだよね。みんなが個々の世界を生きてるなんつっても快楽殺人者の世界観を容認するわけにはいかないだろうっていうそれは当たり前だけど個々の世界を生きているっつーとモラルの線引きが微妙になるよね。悪く言えば独りよがりになっちゃう。で、自分が思うヴァーチューというよりかは自明なヴァーチューが基本なんだよね。俺は。


所謂悪徳と言われるもんはありえないじゃない?自分が楽しければ何をやってもいいのか?ってそんなもん俺にとっては粛正の対象なんだよな。だからやっぱり「消す」という概念はそれこそ消しちゃダメだなと。それこそ佐藤優が国家論で書いてたような「思想とは殺すものである」っていうそれだよね。それこそが俺にとっての世界の処理で世界にとってのオペレーターであるってことなわけだ。個々の世界をみんな生きてるからそれでいいなんてそんな風になるわけないじゃん?変えるのは無理にしても消せる範囲のものは能動的に消せって話だわな。ようは悪徳なもんを関わらないって放っておくんじゃなくて個々の世界を生きるのに非常に邪魔になるものだからそこは仮に自分の世界が平和でも共感性っつーのかな?自分は無事だけどこれによってすげー迷惑を被ってる人たちが大勢いると思ったら放置はダメだよね。自分の周波数に入れないとなると結局それって放置じゃん?


ブラック企業だの悪徳経営者だのに俺はそもそもフォーカスしないから関係ない世界での出来事だなんて言えないよねっつーかそんなことを言えるわけがないっつーのは俺の中のコンテキストでは当たり前だけどさ、ただ環世界という概念だけ持ってることいやいや、それは違うよっていうある意味で環世界はあってるけど、それだけじゃなくてそれはただの知覚の話なんであって自分がどう考えてどう生きていくのか?っていうのはようは自分がオペレーターであれ!ってことなわけでさ、その上での行動の原理なり規範を決めていくものとしてのヴァーチューじゃん?重要なのは。重要なのはそこなんだよね。あくまでそこにコアがあって、それでそこから環世界になりますよねってことだわ。だから「俺が言いたかったのは環世界の話なんだ!」っつー言い方をしていたかは分からないけど前にも書いたようにユクスキュルの本を読んでも納得しながらも当たり前のことしかいってないよねってことになるわけだ。いや、この当たり前というのはユクスキュルへの最大の賞賛なんだけどね。


さぁそんなわけで世界は主観によって作られるからイリュージョン無しでは世界なんてありえないですよねってことになるけど、その中での話だよね。俺が言いたいのはイリュージョン無しでは世界はありえないという自明な話ではなく、そういう世界で必要になるのは何か?っていうそこだよね。そこで俺は自分なりの色々と定義したヴァーチューやテクネーって言葉が出てくるわけだ。コアはそこですよね。なんかだからあれなんだよね、言いたいこととしてはそういうヴァーチューから世界を見るってことだよね。まぁ仏教の認識ではそれこそ当たり前のことなんだけどっつっても完全に仏教だと明らかに現実の社会と折り合いがつかないし現代で言えばおかしいところもいっぱいあるから「仏教的」なんてことは言えないよね。


あくまで仏教の良いところを取っただけで、まぁそれこそさ、俺が目の敵にしてる労働への美意識とかってオリジンは改めて思ったけど仏教とか禅だよね。自分がやったことに対して何かが帰ってきて何かを食べられたり生きていけたりするんだっていうまぁ美しい話ではあるけど現代社会ではこれが最悪のイデオロギーになってるわけだ。それがまぁ働かざるもの食うべからず思想だよね。だから「働いている/働いていない」みたいなノータリンなdualismになるわけだ。そのさ、俺が言いたいのはあれじゃん?そんなナイーヴな禅の労働観みたいなのが通用する世の中ではなくなってるってことだよね。むしろそれが悪用されて大量の奴隷を生み出してるってことなわけである意味で最悪の思想なんだ。これは。いや、そのね、仏教や禅が言うような健全なgive and takeの関係性がある世界ならいいけどもうとっくに無いじゃないですか?そういうものを疎外するのが資本主義だってことはマルクス大先生が散々言っていたことでしょう。


じゃあそういう健全なgive and takeをエンジョイできるような世界にしていきましょうってまぁそれは理念としてはいいけどまず我々の生活の中で今も明日も資本主義は続いてるわけだからさ、やっぱりやっていかなきゃいけないじゃないですか?で、悪い意味で働いてないのに食ってるやつがいっぱいいるっつーかこれまたマルクスみたいになっちゃうけど働かない人ほど食えるようになるのが資本主義でしょ?で、アホみたいに働いている人は一向に暮らしが良くならないっていうそんなもん各国共通の原理ですよ。そんな中で禅みたいな労働観で「労働には価値がある」みたいなさ、労働したからその対価として食えるみたいな思想でやってたら大量の奴隷が生まれるでしょっつーか実際そうだよね。なんかね、ジジェクの講演でさ、すげー面白いのがあってさ、戦時中に鈴木大拙が日本軍の規範として禅を手本にして色々と説いてたらしいんだわ。ようは禅的なストイシズムですよね。


鈴木大拙が戦争に加担してたとかそういう話は別としてまぁようはね、まぁそうじゃん?何かのために死ぬだとか我慢するだとか足ることを知るだとかなんだとか悪用すれば何でもできるよね。何でも美徳にして我慢させることが出来るわけだから。で、ジジェクはこういうわけだ。鈴木大拙は戦争に間接的にでも加担していたのか?っていうさ、それは違うだろうっつーのは最高のアイロニー鈴木大拙が戦時中に説いていた禅の教えはあくまでオーソドックスなものであったってことなんだよね。いやー最高の皮肉じゃない?これ。いやね、洋書でもさ、中世のストイックと軍隊の規範の共通性みたいなのを書いてる本とかあったんだけど、ようはポイントは「悪用」ではないってことだよね。オーセンティックなまま軍用にアレンジすることなくその教えの通りやると奴隷が出来上がるってことだわ。


最近また色々と仏教とか禅の本を読み直してるんだけど害悪もかなり多いなって思ったね。で、それこそ仏教ってカルチャー化してるわけじゃん?仏教徒ではないけどお墓の形式とかまぁ大抵仏教じゃん?そういう形式としての仏教だよね。で、労働観なんつーのもそれがしぶとく根幹で生き残ってるんだよね。小室直樹が日本病と言っていた根源は仏教とか禅にあるんじゃないか?ってマジで思うのね。実際に禅って鎌倉時代に武士の間で流行ったんだよね。いつ死ぬか分からないとか足るを知る的なストイシズムとか、悪く言えば自分を大切にしない思想じゃん?無理矢理我慢を美徳という言葉で強いる思想にもなりかねないわけだ。で、思うに悪い部分ばっか残ってる気がするよね。なんでか知らんけど悪い部分は残るんだよな。がん細胞みたいなもんで。仏教が根付いてたら資本主義とかありえないじゃん?なのに奴隷思想的なところで嫌なところばかりに仏教とか禅の思想が残ってるよね。これはもう完全に悪のイデオロギーだよね。それこそ「それも世界だ」なんて言えないわけよ。


そんなもんは無くさないといけないわけでだからまぁみんな楽しよう!ってことになるよねっていうか無駄な苦労なんてしないほうがいいに決まってるっつーか自分にとって価値があったりベネフィットがある場合にだけ苦労とか我慢をしろってことだよね。間違っても苦労とか我慢自体に価値を感じるな!ってことだわ。いやさ、俺がバイトしてたころにさ、やけに忙しくてレジのやつらも倉庫のやつらも一丸となって深夜まで作業してたことがあってさ、んでなんかみんな「やっと終わったね!」的な感じでさ、で、俺は相変わらずだからドライに「残業代って出るわけ?」とかって聞いてたわけ。そしたらある倉庫のやつから「そんなこともう言ってられないっすよ」なんて言われちゃって。ようは目の前の仕事を片付けて結果、深夜になったけど超過分はいらない!っつーか仕事を終わらせたってことに価値を感じるっつー世界感だよね。まぁそれはいいかもしれないがみんなそれをやられると凄まじく生きづらくてブラック企業が横行したり殺されて当然みたいな経営者どもがその辺をドヤ顔で歩いてたり平然とテレビに出てたりするっつー環境が変わらないんでそんなもんは完全なる粛正の対象にしなければいけない!ってことですよ。


そういう意味での俺の根本的な暴力思想は変わらないどころかむしろ個々が世界を生きるからこそ邪魔するようなものは排除しなきゃいけない!ってことになるよね。より社会的により暴力的にですよね。事なかれ主義なんじゃくてちゃんと自分の世界を他人に侵略されないためにアタリマエの権利の主張や道理を通すということとかなんとかそういうのは最低限みんなやらないとみんなが我慢することで我慢がデフォになる社会ってのが生まれてやけにストイックでなのにも関わらずみんな他人に冷たくてエゴイスティックみたいな最悪の社会が出来上がるわけよ。今の日本って完全にこれでしょ!今までにない分析力じゃね?これ(笑)もちろん今までの話ありきだけどオワコンシリーズ以降の認識や仏教/禅の再読なんかもプラスされてなんかよりクリアになった気がするね。ようは生きづらい社会をみんなが作り出してるってことだよね。


「いや、ルールはこうですよね」っていう阿吽の呼吸と空気で世界を作り出すわけじゃん?で、それに無理矢理付き合わされることになるわけよ。それを無視するというのは不可能でしょ。みんながやってることでそれを強いられるなら俺みたいな孤高のアウトロー(笑)はともかくとして普通の人は無理じゃん?あとそれが分かっててもそんなことを実践できるパワーや気の強さがないっていうさ、それってまぁ切実な問題だよね。みんなが俺みたいに考えられるわけじゃないってのはすげー俺が分かってるわけ。いや、俺俺っつってるけど俺が偉いんじゃなくてデストロイヤーとしては最高のお手本でしょってことだよね。これをみんな同時に出来ればいいけどそれが不可能だから困るわけだ。特殊な人や奇抜な人だけが実践できるアイデアなのでは一般性がなくて全く意味がないと言わざるを得ない。俺みたいなやつが言うことはこういう特殊から一般へっていうプロセスを経ることが出来ずに特殊なまま終わっちゃうことが多いと思うんだよね。で、ここだけのカタルシスで終わっちゃってて、それがコンテンツみたいになってるっていうそれははっきりいってファックですよね。そんなもん「世界を変えろ!」って言いまくってる主人公が活躍してるドラマを見てるようなもんじゃん?それはダメだよね。


実行できて実践できなければ全く意味がない。それが俺が最近言うプラキシスってことじゃない?あくまでプラグマティックにってことだよね。ホント、この場は世界を変える系のコンテンツになってたらもう完全にダメだね。それが俺は凄く嫌だよね。うん。とても嫌だ。自己啓発的な映画とか本を見せられた後に来るあの虚無感っつーのかな?カタルシスの後の虚無感を与えるような場になってたんではそんなもん逆にダメだろう。だからやっぱり未熟でもプラキシスとテロスを中心にしたプラグマティックなやり方じゃないとダメだよね。それはもう出来るまで永遠にやり続けるし無理でもあがき続けるよ。いや、徹底的に政治的にはプラグマティックであるべきってローティーなんだよね。ローティーが良いのはさ、大陸系の哲学とか小難しいやつとか分析哲学とか色々やってその結果、政治的な部分に関してはプラグマティックである以外ありえないだろうってことに帰結したところなんだよね。いや、本当にそれですよね!っていう。で、ローティーは政治的にプラグマティックであるというのは別に哲学をやっている人とか知識人だけが出来るものじゃなくてその辺の人たちでも誰でも出来るってことなんだよね。ファックなことに問題意識を持ってそれに取り組むとか考えるとかそれなんだよね。そういうことを取り組むにあたって知識云々は関係ないっつーのをローティーが言い切っててそこに惚れたよね。あんだけ頭が良い人がこういう帰結っつーのが凄くいいんだよね。まぁ例によって最近ローティーを読んだときに「ローティーよ!お前もか!」ってことになったんだけど(笑)だから共感なのよ。それを読んで知ったのではなく「やっぱりそうだよね!」っていうそこだよね。それに尽きる。


なんかあとあれだよね、プラグマティックってことはさ、卑近な例で言えばさ、どうやったら明日出社して嫌なやつの顔をぶん殴れるのか?ってことになるよね(笑)プラキシスで言えばそれでしょう。でもそれは捕まるからマズいんだけど、でもみんなやりたいことってそれじゃん?ファイトクラブみたいな話になるけど。あれって環世界という観点から見るとすんげー面白い映画だよねっつーか環世界の話なんじゃん!って今思いましたよね(笑)それやったらアウトってそれで終わっちゃうのが嫌なんだよな。なるべく殴るに近いようなことを出来るようなやり方は無いのか?ってことだよね。極端な非暴力主義とか平和主義は最悪の結果を生み出すわけじゃない?みんな事なかれ主義になって最悪の事態なり最悪の暴君がやりたい放題できるようになっちゃうわけだから。そこはもう小室直樹が言ってたことまさしくその通りだよね。


ヨーロッパがやたら平和主義だの戦争回避をしてきたからナチスがあんだけ簡単にヨーロッパを侵略していけたんだってそれだよね。なんかオワコンシリーズの話で言うと俺の中でのコンテキストは決まっててもそれだけで見ると事なかれ主義に陥っても無理無くなるよね。単純に嫌なものと波長を合わせるなってことになるから。いや、むしろ嫌なものを排除するのよ。で、自分の世界を作るわけだ。だから邪魔なもんは排除しなきゃいけない。でも暴力思想って流行らないじゃん?そこがダメだよね。なんでも平和に解決しようとするから結局何も解決しないわけだ。ようは俺が言いたい「タブー」なんつーのも世界が自分に作用している結果現れるものなのよ。逆に自分が世界を処理すればそんなもん無いでしょ?あるのは自分のモラルだけだよね。それがテーマになってるのがカルネ/カノンだわな。まぁあの映画のように生きろ!ってことじゃないよ。ただまぁ現実そういうことになりますよねってことになるわけよね。


だからそれでどうすりゃいいのか?ってむしろ現場で最悪の事なかれ主義と最悪の空気に支配されまくっているっつー人たちに対してさ、そういう戦場にいるわけじゃないやつらは戦場にいる人たちの代わりに考えなきゃいけないよね。だから時間があるやつは少しでもなんかしろよってことになるよね。放置でいいの?って良くないじゃん?そんなもん生まれと環境で「自分は良かった!ラッキー」っつー最悪のくじ引き世界になるわけよ。そういう世界は最悪ですよ。だからそういう意味で俺はニート万歳!なんてことを言いたいわけじゃないのよ。むしろニートの武装化を提唱したいぐらいだわ。武装っつっても物理的にではなく精神的にね。


で、結果、物理的に武装することになってもそりゃ個々の選択だから俺がとやかく言うもんではないわけで、なんつーかもっとギスギスしたほうがいいよね。政治的に攻撃的になったほうがいい。あまりにそれが無さ過ぎるんだ。コモンセンスで持っていていいレベルのものを持ってないから海外から「なんで暴動が起きないんだ?」ってしょっちゅうディスられるわけじゃん?それはみっともないよね。平和主義だ非暴力だなんつってる中で大量の人間が管理されきった社会で疲弊して自殺してるなんてそんなもん健全じゃないよ。暴動が起きた方が健全なんですよ。そういう意味で争いを避けるとか調和を至上のものとする思想とかさ、そういうのも根本は仏教だろ?って思うんだよね。それは今の日本で言えば最悪最低の思想なんだよね。もう完全に仏教の悪いところじゃん!っていう。悪が横行し過ぎなんだよ。人類の救済なんてのを仮にマジで考えてるなら非暴力なんて口が裂けても言えないと思うんだよね。そういう意味で言えば仏教って政治的には全然有効じゃないどころか最悪なんだよね。大量のインポを増やす原因になってるわけだ。無駄なカルチャーだよね。無駄に残ってしまったカルチャーだよね。完全に仏教として残ってる上でならそりゃ非暴力でいいけど完全にアナーキーみたいなやりたい放題な中で奴隷は我慢して働けって最悪でしょ。


なんかそういうわけで考えれば考えるほどより暴力とか破壊ってのものが世界の構築にとって必要だなって思いましたね。環世界の話ばっかしてたから偏り過ぎてた気がして凄く重要なところを書いてなかった気がするな。そこがまぁ今日のアレですわ、短く書こうと思ってまぁ結局長くなった今日のこれですわ。まぁここはほんとに今までと変わらないっつーか当たり前のコアの部分だよね。認識が変わったっつってもこれありきだからね。端的に言えば変える!ではなく作る!でも最低限の破壊や暴力は必要ってことだわ。それなくしては作るなんてことはありえないよねってことだね。最悪なのは「働かない」ってことじゃなくて「何もしない」ってことだね。それに尽きる。だから絶望からのアパシーなんてのは最悪!ってことになるわけだ。逆になんとかしたい!って思ってるならそれ自体がもう宝だよね。それ自体がヴァーチューだよ。


何も考えないで働いてるだけのやつなんて何もしてないやつと同じなのよ。いや、生活のために何かするなんてむしろアタリマエのことで他人に強要したり自慢したりするようなもんじゃないじゃん?なんでそんなアタリマエのことが美徳とかやらなきゃいけないこととか他人に「やってるか?」って確認するようなことなのか?ってことだよね。「お前糞してる?」って聞くようなもんじゃん?納税者だっつー道理を使うやつって大抵政治的に糞なやつばっかだよね。それで無職の人間をディスるとかカス過ぎるよね。例のどっかの飲食のチェーンの社長とかねっつーかまぁ飲食のチェーンの社長とか会長で糞って特定できないぐらいいるんで困ったもんなんだけど(笑)


ってことで今日はこのへんで。まずね、本当に「働いてる/働いてない」なんて「愛してる/愛してない」ぐらいナンセンスでどうでもいい個人のことなのよ。収入があるかないか?でしょ。無けりゃ今はいいけど将来詰むから何か準備なり磨いておこうとかそんなのアタリマエのことじゃん?それすらもやらないニートたちが社会問題になってますっつってもそりゃそういうやつらは親の遺産で食えるか先のことなんてどうでもいいってやつらなわけで社会問題じゃないんだよね。食えるやつもいて食えないやつもいるっつーむしろ社会的に当たり前のことなんだよね。社会があれば食えるやつと食えないやつがいるのは当たり前でそれをニート問題にのみ適応するのは相当おかしいよね。


そんなもんみんなの問題じゃん?そいつが食えるか食えないか?なんてのはそいつの問題なわけで取り組む取り組まないもそいつの問題だから関係ないじゃん?そういう人たちは将来孤立する確立が高くなるみたいなコラムとか新聞の記事とか必ずあるけど個人の問題なんて社会学では扱わないじゃん?あくまで社会問題を扱うわけでしょ?デュルケルムが自殺論を出すときに個人の問題なんてのを扱わなかったのと同じですよね。統計的にニートみたいなやつが増えているっていうのが問題なんであって、そいつが働くか働かないか、将来食っていけるか食っていけないか、孤立するかしないかなんて学問的に問うことじゃないじゃん?なんでそういうのを学者が色々書いてたりするわけ?もうバカだよね。そういうのを見るたびにイライラするんだよね。またこういうニート系の記事か!っつー。働かない方が得だから本能的に働かないことを選ぶことが生き延びる術として有効になってしまっているっていう環境が問題なわけじゃん?そいつが生きやすい方向に流れることなんて個人の問題でなおかつ動物の本能的なことなわけでそんなもん問題じゃないでしょっていう。


なんか止まらなくなってきたからそろそろやめるわ。いやさ、親の財産とか遺産とかがあるからミュージシャンをやれてるとかなれたとかさ、芸術でやっていけるようになったとかやっていけてるとかそういうやつらいっぱいいるわけじゃん?でも批判されないよね。親のお金で何かをやってるってその辺のニートと変わらないのに自己満足の歌とか書いててもミュージシャンって認知されればそれでいいんだもんね。いや、そんぐらい判断が恣意的ってことですよ。それ言い出すとそもそも働いてるやつと働いてないやつの差なんてないでしょってことになるよね。単純に社会的にどう見られるか?っていう世間体の問題なんであって個人レベルでは食えてるか食えてないか?ってことなわけだから、そんなもんさ、いや、どうやって生活してんだ?っつーミュージシャンとかいるじゃん?で、絶対親とかじゃん?あとアングラミュージシャンに直接聞いたこともあるんだよね。そしたらツレに食わせてもらってるんだと。それってニートも同じじゃん?言わば形態が同じなのよ。


誰かに食わせてもらってるっていう体では。でもそれでやっていけてるなら食えてるってことなわけだから文句を言うことではないよねってことだよね。パラサイト然り。そんな個人の生き方の問題を社会問題として見なすなんて完全的に学問的な誤りでしょう。なんであんなドヤ顔で個人の問題をあたかも一般問題のように分析して語ってたりするわけ?で、なんでそういう誤った学問のやり方をしてるやつらが大学で教えてたりするわけ?あ、もう終わりにしよう。あ、んでね、最後にちょっとだけ(笑)こういう問題でちゃんとした学問的な方法論をとってるっていう人だと思い浮かんだのが山田昌弘なんだけど、この人の著書を読んでも分かるように「今の若者はこんな感じで困ったもんだ」みたいなことは一切書いてないわけじゃん?こういう流れがあって事実があってこうなる人が増えていますっていうそこじゃん?「働かない人が増えてます」なんつーことなんて一切問題にされてないわけで。結果「働かない人が増えてます」というのは問題になれど「働かない人が増えている」っつーところから始まってるやつはもうやり方が間違ってるよね。メディアの大半がこれね。だから話にならない。で、そういうのって結論ありきのニート批判だったりフリーター批判だったり若者批判だったりするじゃん?いや、そういうのは単純に手法として学問じゃないですよねってことなのね。でもそれに騙されちゃうっつー人が多いのがしょうがないところなんだけどっつーとまぁメディアと洗脳みたいな話になって結局騙されるやつが悪いってことになるんだよねぇ。まぁ最近ではだいぶマシになってきたと思うし良い意味でメディアの影響力って無くなってきてるからね。洗脳しづらくなってるからね。分かっちゃった人たちがどんどん増えてるし。


ってことでんじゃまた。