foobarhogeさんへの返信。その4。

foobarhoge 2013/11/12 21:05


概念って本来的に帰納的で経験的なもの、っていうのがここで耳蝉さんが言いたかったことだと思っています。


それで話を整理すると、"概念とは何か" について考える際は 3 つのアプローチを別々に考えないといけないと思っています。


つまり、


1. 概念をどう知覚するか
2. 概念をどう定義するか
3. 概念をどう伝えるか


は全く異なることを指しているんですね。1 の概念の知覚方法は 2 つあって、概念を概念によって説明するか、自分で実際に経験するかのどちらかでしか知覚することは出来ないんです。2 の概念を定義するかは、これから述べるように現実の対象を観察して帰納的にしか定義するしかないんですね。3 の概念をどう伝えるかっていうのは概念の共通元を取ることなんです。


これから、1〜3 について少し詳しく説明してみたいと思います。


まず概念をどう定義するか?ですけど、これを宇宙人とのコミュニケーションで例えてみたいと思います。


例えば SF とかで宇宙人が地球に来る話がありますけど、だいたい SF 映画に出てくる宇宙人は "音" や "言葉" を使ってコミュニケーション取ってますよね?んでもあれはよく考えると、人間の想像力が欠落しているからそのように描写になっているだけで、別に "音" や "言葉" 以外でコミュニケーションを取ってもいいわけですよ。


そんな方法あるの?っていっぱいありますよね。例えば手話とか、モールス信号とか、これもコミュニケーションで概念のやり取りしてますよね。だから、例えば極端な話 "石の移動する方向" で概念のコミュニケーションをやり取りする宇宙人や "ATCG..." っていう遺伝子をくっつけた化学物質でコミュニケーションをやり取りする宇宙人がいてもいいわけです。概念を表現できれば、その "表現型" と呼ばれるものは何でもいいんですね。


ここでは "ATCG.." っていう感じで化学物質でコミュニケーションを取る宇宙人がいたと想定しましょう。あくまで想定ですよ?でもいたと頭の中で仮定することは可能ですよね?


んで、頭の中にこういう感じの宇宙人を想像します。僕の中ではすごい小さいアメーバみたいな感じでイメージしているんですが、別になんでも結構です。それが化学物質を通じてコミュニケーションを取っている訳です。だから当然として、その宇宙人には化学物質を生成する生成機と読み取り機みたいなものがあなきゃいけないですよね?人間に例えれば、これは口と耳に対応するんですが、だからこれは宇宙人にとっての口と耳ですね。


それで、ここからがポイントなんですが、宇宙人 A, B がこの化学物質の生成機と読み取り機を通じてコミュニケーションを取っているところを想像して下さい。で、その化学物質を人間がつぶさに観察できるとしましょう。


で、人間がこの化学物質から何か分かるか、っていえば何も分からないですよね?いくらこの化学物質を丁寧に観察しても、そこでどんなコミュニケーションや概念のやり取りが行われているかって絶対分からないんですよ。それは量の問題じゃないですよ。いくらその化学物質の量が多くても分からないんでよ。


なぜなら、なぜならですよ。ここが重要なことなんですが、その "化学物質" と "現実の事象" っていう対応関係を表す辞書が存在しないから、っていうのが理由なんですね。だからその対応関係を表す辞書を作るしかない。で、その辞書は帰納的にしか作れないんですね。


例えば、その宇宙人を何もない部屋に隔離して、餌を与えないで観察しましょう。で、最初はいろんな化学物質が観察できるんですが、2日目とか3日目とかになってくると、同じような化学物質を観察できますね。んで、これをメモしておいておきます。同じようにして、別の宇宙人を隔離してしばらく放置すると、またまた同じようなパターンが出て来ます。
....


ってのを繰り返すと、この "化学物質のパターン" は "お腹が減っている" とか "食べ物が欲しい" とかいう概念を指していると理解できますよね?まぁようは帰納的な理解ってこういうことですね。


んで、こういうのを今みたいに何度も繰り返し、観察することで、辞書の種類が増えますよね。その結果として、この化学物質を通じてどんなコミュニケーションが起こっているのか?みたいなことが人間でも理解できるようになるんです。


ここまでが 1 番目の概念をどう定義するか?ですね。


それで、2 番目のどう概念を知覚するか?についてです。


これを僕はあえて、言葉をどう理解するか?という質問に言い換えたいと思います。概念ってようは言葉で知覚するものなので、こう言い換えて問題ないんですね。


言葉をどう理解するか?っていう疑問は特に外国語学習している人にとっては自明ですよね?辞書を引けばいいです。


言葉っていうのは概念的に捉えると "世界の事象" <-> "表現型" っていう mapping のことです。で、日本語を表現型とする場合 "世界の事象" <-> "日本語の表現" になりますね。さらに "日本語の表現" <-> "英語の表現" っていう辞書を新しく自分の頭の中に作ればよいわけです。この時いわゆる推移律(A ~ B, B ~ C ならば A ~ C)が働いて "世界の事象" <-> "英語の表現" っていう mapping 関係を作ることができます。これがいわゆる英語の理解ですね。 


じゃあ、こういうそもそも "世界の事象" <-> "表現型" っていう mapping 関係がない場合はどうするのか?ってことですね。実は子供が言葉を理解するプロセスって、まさしくこれですよね。だから、このプロセスは実は誰もが一度経験しているんですね。


んで、ここで 1 番に戻りますけど、ようは子供がじゃあどう概念を理解するのか?って帰納的ですよね。


僕はこの帰納的な概念の理解と、概念と概念の対応関係を作る理解の違いを "直接理解" と "間接理解" って呼び名で分けたいと思います。


例えば耳蝉さんの欝の話なんかはまさしく "直接理解" と "間接理解" の違いに当たりますよね。ようは欝っていう言葉を辞書で引いたら、その症状がその病状がどんな感じかを自分の概念体系に照らし合わせることで理解することはできます。ただその理解と、自分で欝を経験することでは、全く違いますよねっていうことです。


最後に 3 の "概念をどう伝えるか" ですね。これは、集合論的に考えると、概念を "素概念" っていわれる基本的な概念の集合体に一回分解して、この素概念の共通元を探すプロセスだと思っています。


だから、そもそも論として、この "素概念" の共通元をお互いに取ることができなければ、その概念を伝えることはできないんです。


例えば、僕が宇宙人が住む惑星に行って、その経験を地球に返ってから共有するとします。そして無事地球に帰還して一言、 "宇行" って表したと仮定します。ようは宇宙人が住む惑星に行くって経験って概念そのものに対して、新しく "宇行" って言葉を作ったんですね。でもこれってナンセンスでアホらしいですよね?ナンセンスでアホらしいっていうのは、その言葉で表す概念は、人類のその他の人にとって意味がなんにもないからんです。


ようはこれは概念の粒度が大きすぎるのが原因なんですね。だからお互いに共通元をとれるところまで細かくしなければならないんです。


でも、この議論はまだ続きがあって、"宇行" って言葉には本当に意味がないのか?って考えるとそうでもないんですよね。少なくともそれを経験した僕に取っては意味がある言葉です。そしてさらに文明が進むと、僕だけでなく全ての人類がその宇宙人の住む惑星に行く世界が出来たとしましょう。その時は別に "宇行" って言葉はナンセンスなんてことはなくなってるんですね。それを通じてコミュニケーションが出来るんです。なぜなら、それを指す概念を経験して理解できているからですね。


これは共通の経験を通じて、概念の共通元を取る事ができたからですよね。


ここで言いたいのは概念を伝えるのに重要なのは概念そのものではなく、コミュニケーションを取っている主体に依存しているって点です。ようは、共通元を取れるかどうかってことが重要だということです。


で、最初に戻りますが、こんな感じで考えると概念とは "帰納的" で "経験的" なものの集合体ってことなんでしょうね。


ところどころ間違っているかもしれませんが僕が普段思っていることを書いてみました。


foobarhogeさん、書き込みありがとうございます。めちゃめちゃ感謝です!!


foobarhogeさんのアプローチを踏まえた上で色々と書きたいんですが、そういったアプローチがあるのは承知した上で僕が気になるのはまた概念そのものとは何なのか?ってことになるんです。知覚された美しさや鬱症状における辛さや数学をやっているときに感じる高揚感などは、ちょっとここで固有名詞を出してしまいますが、西田幾多郎という哲学者による純粋経験によるものだと思うんです。ようは意識などが存在する以前の経験そのものということですね。


これはどちらかと言えば感性的なものよりも感覚的なもののほうが多いのかもしれませんが、それは例えば胃の痛みとか倦怠感みたいなことなんですが、美しさとか数学における高揚感というのは意識が介在しないと感じられないものですよね。もちろん直感的に美しさを感じるとか、例えば街を歩いていて可愛い子を見つけて「あの子とヤリたい」とかって思うのは純粋経験的な高揚感だと思うんですが、これも本能という感覚が介在した感覚で直接性があるのかどうかはイマイチ分からないところがあって、ようは何が言いたいのか?というと概念そのものと本能や感覚などを経て概念と至るものの違いとは何か?みたいなことなんです。


本能や感覚などを経て至る概念の場合、その概念そのものに感覚や本能というものが付随して成り立っているもので、純粋な概念とは言えないのではないか?ということですね。アプリオリに美しいものなど存在するのか?みたいな話なんですが。結局、美しさなども人間の感性に依存するもので「美しさ」という概念そのものは人間の感性や感覚に依存しないと成り立たない普遍性がない個人的な概念だということになりますね。まぁ一般的に言えば美意識ってやつでしょうか。それに比べてよりピュアな概念というのは人間の感覚に依存せずに概念そのものとして存在しますよね。もちろんそれが理解できるかはこれまた人間の感覚に依存するところではありますが、概念の存在そのものは人間の感覚に依存せずに普遍的に存在しています。


こういうものが数学において凄く重要なところで、よく僕が言っている証明云々計算云々以前のアプリオリな事実みたいなことなんですよね。1の次には2が来るというのは証明がなくても自明であるということですね。選択公理などがその典型的な例で、選択公理の自明性は証明も否定も出来ない独立なものです。でもそれ自体の自明性はなぜか疑いがない。これが不思議でしょうがないんです。一体その自明性という概念は一体なんなのか?ってことなんですよね。これは知覚にも定義にも依存しない自明性だと思うんです。あ、ちなみにこれって連続体仮説の話とかと関係していて個人的に凄く関心があることの一つです。


あと宇宙人とのコミュニケーションの話なんですが、これは数学で言うところのゲーデル数化に対応するかと思います。あとサールの中国語の部屋という思考実験にも通じますね。SFなども含めた色々なバージョンにおけるコミュニケーションを考えれば方法は比喩的な意味で無限に存在すると思います。でもこれは概念の伝達や定義という側面しか扱えないものだと思っていて、僕が気になる概念そのものと知覚や感覚に依存した概念と純粋経験から得られるような概念そのものみたいなこととはほとんど関係がない話といっても過言ではないんです。


人間の頭がデジタルコンピューターみたいなものであるという仮定なのであれば定義と伝達によって色々と説明できると思うんですが、人間の理解のプロセスとか知覚ってそういうものではない思うんです。変な話、定義と伝達と知覚によってコミュニケーションが成り立つ場合、実際は概念を全く理解していなくても形式的なコミュニケーションは可能ということになりますよね。全く心がないような機械同士のコミュニケーションに見える形式的なやり取りが人間においても可能になるということなんです。でも人間は心によってコミュニケーションをしていたり物事の理解や概念の把握をしているので形式的な意味合いとかやり取りというのはアウトプットの部分の問題で、前の数学の話で言うところの数学的概念は頭の中にあって、それを他人にも分かるような形にする場合、数学という言語が必要になるみたいなところですよね。


これは凄く逆説的なところで、僕がいつも感じていることなんですが、人間は言語を使って他者とコミュニケーションをしているが、実際は概念と概念が数学のように綺麗にマッピングされるようなことは滅多になくて、それこそコミュニケーションは主体に依存するので、そこでの理解の齟齬や実際はあんまり伝わってないなんてこともよくあるというか実際はほとんどそんなことばっかなんじゃないか?って思うんですね。僕が言いたいのは日常的なコミュニケーションにおいての話です。逆に今回のfoobarhogeさんとのやり取りみたいな概念そのものを語り合う場合、純化された概念そのものについての会話なので齟齬が生まれ辛く、こういった潤滑なやり取りが可能になっているんだと思います。もちろんお互いの言語による表現力の明瞭さというのもありますけどね。


でもなんて言うんでしょうね?日常会話だとコミュニケーションギャップみたいななのがありつつも中には「話が合う」とか「波長が合う」なんていう表現をしたくなるような関係性がある人っていますよね。で、この波長が合うということは言語のマッピング関係というよりかは、先ほど書いた選択公理における自明性のような、計算や証明といったプロセスに依存しない自明性によってコミュニケーションギャップが埋められていたりすると思うんですね。でもかといってもそれによってマッピング関係が促されてより明瞭なマッピングが可能になっている結果、話が伝わりやすくなっているということではないと思うんです。ここがある意味、凄くファジーなところで「なんか分からないけど合う」みたいなところなんですよね。


僕は仕事柄24時間犬と接しているおかげで現実世界では犬とのコミュニケーションがメインなんですが、言語を介していない犬にもこちらの言いたいことが伝わったり、問題なく同じ部屋で一緒に生活できるっていうような、言語とは違うもっと根源的な伝達のプロセスがあるとしか思えないようなことを感じるっていうことがよくあるんです。といってももちろん「自分の気持ちが伝わった」なんて言う人間中心の独りよがりな考え方になっているわけではないんですが、犬との関係性でも気が合うと合わないってあるんですよ。それは犬同士でも当然あって、犬はそういうところの感覚が人間なんかより凄まじく優れていて合うか合わないかが感覚的にすぐ分かるようです。でもこれは犬だからなのか?というと違うと思っていて、人間は鈍いけども同じような感覚的なものって持ってるんですよね。動物全般に比べて感覚的なものが鈍いからこそ言語というものを使わないとコミュニケーションが成り立たないのかもしれませんね。でも言葉にした時点で絶対に概念って劣化しますよね。それは表現する側の問題もありますが、ましてや受け手にもちゃんと伝わらないということもあるので、一昔前のビデオのダビングみたいなコピーが永遠と続くわけですよね。


この言葉とかマッピングではないような概念そのものというのを感じたことが最近あって、それはある環境保護をやっている学者の方を取材したものなんですが、その方は青木ヶ原樹海を自殺防止という趣旨で巡回しているんですね。で、これは青木ヶ原樹海の巡回を取材したものなんですが、この学者の方は凄く口ベタなんですね。自殺の後が生々しい切れたロープの後などを見て淡々とその状況を説明しているんですが、別に何を説明するわけでもなく色々と言っているんですが何かを説明しているようで何も説明していない。でもなんて言うんでしょう、凄く言葉に重みがあるんですね。言葉ではどうにもならない感じっていうのがその淡々とした何を説明するわけでもない感じというのに凄く含まれている感じがするんです。


もちろんこれはこちらの知識としてその人が巡回を何年も続けてきた熟練の人というものがあって、その知識がそう思わせているみたいなところはなきにしもあらずだとは思うんですが、なんて言うんでしょう、まさしく「肝心な所」というのが言葉で説明されているわけでもないのに伝わってくるんですね。それはこの学者の方が意図的に伝えようとしているということではないと思うんですが、でもなぜか伝わってしまうんです。もちろんこれは僕が勝手に感じたことでコミュニケーションや言語という領域の話ではないのかもしれませんが、でもやはりその学者の方の言葉や喋り方や立ち振る舞いという色んなところから意味合いを感じてしまうんです。必死に巡回をしているというよりかは本当に環境保護を研究している学者が森を散策しているみたいな振る舞いで自殺防止の巡回をしているんです。


この学者の方の振る舞いや言葉自体が、国がやっているような表層的な「自殺はダメ!」みたいなくだらないキャンペーンなんかよりも凄まじく重みのある、しかしながら「絶対ダメ!」というような強いメッセージではない、重い含意を含んだメッセージのようになっているんです。言葉ではどうにもならないから活動で示すしかない!みたいなこととも全然違うものです。その捉え方は個人に依存しますが、明らかに概念的なレベルで伝わってくるものが直接的な伝達手段以外のものから伝わってくるんです。



↑首つり死体の写真とかが出てくるので、見たくない場合は見ないでください。


これって知覚とか定義とか伝達といったような単純なことではないですよね。むしろ僕はそういったものにはエッセンスは何も感じないんですね。僕がエッセンスを感じるのは形式では掴めない何かっていうところなんです。それを心とかニュアンスとか感情といったことで片付けるのは容易なんですが、それでは気が済まないですよね。数学は心で理解するというのもつまりは数学はエッセンスそのものなのであって、形式や伝達や定義というものはそのエッセンスを取り巻く存在というだけで、だからこそ形式主義構造主義は方法論的には優れていても、意味論的には全く意味を成さないし、むしろ哲学的に言えば最高にナンセンスで惰性を極めるものに成り果てるわけです。


でも色々と考える上では非常に重要な概念で、なんというか方法論的に優れていることと意味論とか概念的に優れていることって違いますよね。僕の偏見ですが、理系の人たちって形式主義的な人たちが多い感じがするんですよね。まぁ理系に限らずなんですが、哲学でも机上の空論が多いというのも、理論だけをピュアに考えていったらそうなるかもしれないが、実際の現実との兼ね合いやファジーな人間という存在を考えればそんなに簡単に行くものじゃないというのは自明なのにも関わらず、理論的で論理的な帰結をゴールにしてしまったりしていますよね。現実に対するobservationが足りなさ過ぎるというか、まぁあとはある意味での感性の欠落なんだと思いますけどね。経済学者でもそういう人間が多いですね。


なんだか分からない、言葉では表し辛いものというのを形式的に考えたり何かに分解してしまうというのは場合によっては致命的なエラーを生み出すものだと思っています。酷い例だと詩や芸術や文学全般は工学的な関数による記述で表せるなんて考えるドアホがいます(笑)Dead Poet Societyという映画の冒頭でロビン・ウィリアムス扮する教師がまさしくそういう酷い方法論を使って詩を分析している最悪な教科書を生徒に読み上げさせてその教科書をビリビリに破かせるという痛快なシーンがあるんですが、僕が言いたいのはそういうことです。詩に限らずエッセンスを扱った映画としてこの映画は本当に最高な映画です。そういったエッセンス的なものはアカデミックな分野や世の中との兼ね合いはあまり良くないというような含意があるのも見事です。



音楽がcombinatorialなものだとは言ってもそれとエッセンスは別のことだって書いたのもまさしくこういうことなんですよね。数学然りで形式や数学的言語なんてものがあったとしてもエッセンスはそれとは全然別のところにあるっていうところなんですよね。なので数学は実際は芸術とかと同じような感性的な分野のものであるってことになるんです。それが今のところの僕のボキャブラリーでは心としか言いようがないというそういう感じですね。でも「心」で済ますなんて簡単なことなので、だからこそcomputationとは何なのか?とか概念そのものに関することとかそれと頭のプロセスとの関係性などが気になるんですね。


先ほどのDead Poet Societyの場合、対象が詩なので酷い方法論の分析がバカバカしく思えるのですが、何もそれは詩に限らず概念そのもの全般に言えると思うんです。もちろん数学の場合、先ほどの映画の詩の方法論的分析ほどバカバカしくありませんが、数式や証明にエッセンスがあると勘違いしてしまうと結局は同じようなことになると思うんですね。で、結局はなんていうかここで色々と飛躍しますけど、特に数学に関してはイデア的なものが本質だと思うんですね。美などのイデアもあると思いますが、やはりそれはコミュニケーションと同じく主体に依存する部分が大きいと思うんです。でも数学の直接性というのは主体に依存しないピュアな概念ですよね。この直接性となると伝達や定義や知覚とは全然違う話になると思うわけです。そういった要素はあくまでその直接なものに付随するものであってそれ自体ではないということですね。


ラマヌジャンという数学の魔術師と言われたインドの数学者がいるんですが、彼の頭の中で起こっていたことはまさしくこの直接性による数学だったと思うんです。本人は「夢の中でナマリーギ女神が教えてくれた」と言っていますが、多分マジでそうだったんだと思います。それは実際に女神が教えてくれたかどうかは別として、直接そこで起こっていたということですよね。ケクレが夢の中で原子同士が繋がっていく夢を見てベンゼンの構造を思いついたみたいな話もありますが、これはポアンカレが数学の問題など全く考えてないときにいきなり前に考えていた問題の解答を得たみたいな話と同じで、考えていなくても頭は実際は色々と考えているっていうことなんだと思いますが、ラマヌジャンのそれとは全然違うんですよね。ラマヌジャンのそれはより直接性が高いというんでしょうか。だからラマヌジャンは証明という概念を持っていなかったんだと思います。そういう意味で僕はラマヌジャンはまさしくその「肝心な所」のみで数学をやっていた希有な人物だと思っているんですね。


foobarhogeさんへの批判をするつもりはないんですが、概念の共通元という考え方は人間の脳はデジタルコンピューターのようなものであるという前提に立たないと成立しないものだと思っています。僕の勘違いであったら申し訳ないんですが、このパラダイムは一時期の脳ブームのものとあまり変わらないと思っています。何でも脳の機能だと考えるのは言わば機械的だったり関数的な脳の見方ですよね?でも結果、それでは何も心についてのことが分からないというのが現状だと思いますし、パラダイム機械的であったり関数的な考え方だと心についてはいつまで経っても分からないと思っています。それは先ほど引用したDead Poet Societyにおける詩と同じことだと思うんです。


色々と長くなってしまいましたが、これについてでも他のことについてでも意見があれば是非またよろしくお願いします!