風前の灯火さんへの返信。

風前の灯火と 2015/12/02 03:39


仏教の話なんですが、あらゆる条件付け(あらゆる物語)から自由になって、ある意味究極ともいえるドライな視点に至ってもなお(むしろ、だからこそ)慈悲は生じる、ということを、最近仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か という本を読んで知ったんですが、何度も人の闇に関わりその中で苦しみを和らげて且つダメージ無く帰ってくるには、そのような境地でなければ難しいことなのかもしれませんね。


仏教に慈悲喜捨という言葉がありますね。「慈」「悲」「喜」に続いて捨という言葉が並んでいるのを初めて見たときは違和感を覚えましたが、物語に取り込まれない境地があるからこそ、厳しい物語の中で苦しんでいる人がいるところへも手を差し伸べられるんだ、というところまで思いが至って最初に抱いた違和感は薄れました。ただ、物語に取り込まれない境地にありながら慈悲はありえるのか、という疑問が新たに湧いてずっと疑問に思っていたんですが、物語に取り込まれない境地にいるということと、物語を生きている人に共感できないということは全く意味が違うということを、上に書いた本を読んで知り疑問が解けました。)


完全な悟りの状態だと善悪の区別もある意味で無いようなものだと思うので、サイコパスの猟奇殺人者にも慈悲を・・・みたいなことにもなるんですよね。というか自分の理解だと仏教って個々のモラルとか物語とかを問題にしませんよね。大きな意味での慈悲とかってのは言うけど、では猟奇殺人者に家族を殺された遺族はどうなるのか?っていうようなリアル社会でのモラルとか心の在り方とかってのは問題にされませんよね。そんなにエクストリームな状況になっても猟奇殺人者を許すのか?ってまぁ明らかに許せないわけですが、仏教の場合はすべてのものに仏性があるといいますし、まさにおっしゃるように究極にドライな視点に立っても慈悲は生じるわけですが、実際の社会や人間の心との互換性ってありませんよね。サイコパスが異常者なら異常者にまで手を差し伸べる人間というのもまた異常ということになりますよね。


あとまぁ捨身飼虎なんてのもありますが、自分の命を捧げたら終わりだろうって思うんですよね。全然感心できない。あとまぁ単純にサイコパスに手を差し伸べるならもっと差し伸べ甲斐がある人間に労力を費やせっていうことにもなりますよね。言葉は悪いですがあえて使うならメンヘラのふりをしたサイコパスかメンヘラだったらメンヘラに手を差し伸べたほうが労力が報われる可能性が高いわけですよね。でも分別をしないということはどちらもある意味で同じということなんですよね。「まだこっちのほうがいいだろう」と判断するというのがそもそも分別するということになるので悟りとは遠くなるってことなんですよね。


仏の顔も三度までという言葉もあるようにさすがに仏にも限界がありますし、手を差し伸べているのにも関わらず永遠と悪態をつかれたらさすがに嫌気が指すと思うんですよね。教義の次元の大きな形而上学としての許しとかネガティブな感情から自由になるという話はあっても、実際にこうやって生きていてそれを実践するのはどうしたらいいのか?というようなことは語られませんよね。でもそれを実践するとなるといろんな意味でモラルからの逸脱が生まれますし善悪を恣意的に判断しない結果、アナーキーにもなりかねませんよね。だからそういう無我の境地みたいなのには全然感心できなくて、やはり人間の心から見る良心とか善とはなんだろうか?ということが大事なんじゃないかな?って思いますね。


最近読んだサイコパス系の本でも心理学者とかはそういう観点から「良心とはなんだろうか?」というようなことを問い直してますよね。やはりこういったリアルな人間というものに立脚したモラリティや心の在り方や対応の仕方というのが無いと丸腰過ぎるなって思いますね。そういうところを飛ばしていきなり悟りと言われても説得力ないし何より、実社会で実現不可能なマインドセットですよね。


そこがまぁいつも道教にしても仏教にしても思うんですが、煩わしさから解放されて山奥とか寺院で修行ばっかしてたって何にもならないじゃないかって思うんですよね。この世こそが地獄なわけだし、まさにサイコパスってのは身近にいる鬼だと思うんですよね。そういう魔と対峙しながらどう生きていくのか?というサバイブ術っていうんでしょうかね。あとはまぁそういう人間が関わるもの以外での不条理さですよね。単純な不運とか「なぜ?」ってなるような理不尽なこととか、そういうものと対峙してどうするのか?ってことですよね。出家するとかってそういう不条理が起こる蓋然性というのを少なくとも身の回りから消すということなので、あれってようは逃避なんですよね。そこで悟りと言われてもそりゃ隠居してれば可能かもしれないけど、実際の世の中は煩わしいことだらけの地獄でしょって思うんですよね。


そこがまさにおっしゃるように物語に取り込まれない境地にいるということと物語を生きている人に共感できないということの意味の違いってことですよね。人間は生きている限り物語を生きるということになるし、むしろ物語からフリーである人生などありえないと思うんですよね。そういったものと形而上学を抜きにして向き合うっていうんでしょうかね。結局行き着くところまでいけば仏教とかって全然違う世界観の話で自分たちの世界とは似て非なるようなものについての言説だってことになると思うんですよね。そのぐらい互換性が無いものだと思いますね。かといっても仏教の教えが無駄というわけではないんですが、悟りというものは0か100の世界だと思うんですよね。仏教の教えから色々と学んで生活の役に立てることはできるけど悟りというレベルになると人間的感情などから相当逸脱したものになるのである意味で人間をやめるというようなことにもなると思うんですよね。まぁ大抵の人がそこで人間であることをやめられないから凡夫でいるということなんですけど、色々なことに惑わされたり心が振り回されるってそれこそ良心があるから故のものだったりもするわけで、一概に苦しみが悪いこととは言えませんよね。それを無くすのが果たして良いことなのか?ってことですよね。


色々なことに惑わされたり心が振り回されたりするからこそ「良くある」ということの価値をより強く感じるということだと思うんですよね。それはやはり煩わしさから解放されるとか距離を置くというようなことではなくて煩わしいことに日々悩まされながらも「良くある」ということを実践するっていうことだと思うんですね。それはどんなに世界がドライでも「良くある」ということは捨てないということになると思うんですね。世界がどうあれ自分は良くありたいと思うのはそれってようはvirtueの問題ですからね。感覚的には西洋的だとは思うんですが、でも僕が重要に思うのはやはりこういうところですね。だからどうも解脱とか悟りというのはある種の逃避かあとはそういったことが許される特権的な人たちのマインドセットの一種だと思うんですよね。


煩悩に惑わされているというのは環境的な要素も大きいわけで、そこをそういった煩わしさとは縁がない人が「煩悩に惑わされるな」と言っても説得力がないって言うんでしょうかね。あとまぁ仏陀とかの大昔ならそれでよかったかもしれないけど今ってそれこそネットだとかも含めて煩わしさって意味だと煩雑さを極めてますよね。だからこそなんていうんでしょうかね、意図的にシャットアウトする以外に、普通に煩雑を極めている環境でやっていかなければいけないという中で悟りなんてことはあり得るのだろうか?っていうことですよね。サイコパスの本を読んでて出てきた話なんですけど「悪って何だろう?」とは人々は言うけど「善とは何だろう?」とは言わないってことなんですよね。ようは悪があるから善があるんだっていうことですね。やっちゃいけないこととかやったら誰かを傷つけてしまうとか社会の崩壊につながってしまうとか、そういうことがあるからこそ「それはやってはいけない」という禁止が生まれるっていうんでしょうかね。


まぁそういう意味だと立脚点が違いすぎるっていうのはわかるんですね。でも僕はどうしても色々と考えていく中で話は悟りって方向にはいかないよなーっていつも思うんですね。語弊があるかもしれませんがやはり西洋的な「善とは何か?」とか「どう良くあるべきか?」ということになるんですよね。僕の場合でも単純にひどい思いをしたという経験をしたからこそより一層、良くあるということの重要性に気が付くっていうんでしょうかね。そこで何事にも惑わされない不動の心を開発するというよりかはより良くあるということの善の探求になっていくんですよね。ただその探求をする上でナイーヴな人間観や社会観を持っていたら何にもならないのである程度揉まれて苦労するという必要があるということですね。そこがリアリティとモラリティの絶妙なバランスということですね。リアリティだけ追及してもモラリティは出てこないし逆もまたしかりですよね。モラリティばかり追求していると机上の空論の形而上学にもなりかねないわけで。


あとまぁ慈悲についても「苦しみを和らげる」という前提自体が甘いですよね。同じ人間のようで全く感情や意識の仕組みが違う人に同じ論理は通用しないですからね。同じ論理が通用すればどれだけ世界は簡単になるだろうって思うんですけど、やっぱりまぁそのボトムラインの部分ですよね。仏教だと悪魔というのは内面の煩悩のことを言ったりすると思うんですが、本当に悪魔みたいな人っていますからね。そういう人に慈悲も何もないだろうってやっぱ思っちゃいますよね。結局なんかしらの形で与えるものって与えられる側と最低限の感情のメカニズムの共有とかができていないと無理だと思うんですよね。そういう意味で人間というのは多種多様なので、そういった多様さに対応した寛大な精神とか教義ってやっぱりありえなくて、明らかに害があるものに関しては禁じたり隔離をしたりしないといけないと思うんですよね。