ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/修道士による日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

キリスト教に目覚めていく私。その5。

積読が150冊に迫る勢いなんだけど分量ある本を10冊ぐらい同時読みしてるから読み終わらないんだよね。ただまぁ乱読というか同時読みがいいのは一個に飽きたらまた別の読みかけのやつ・・・って回していけるから永遠に読書可能ってところなんだけどあんま頑張り過ぎてまた燃え尽きみたいになったらヤバいからちゃんとバランスを考えつつっていう感じなんだけどまぁ読んでる最中に色々と思うことがあるんだけどもっと読んでから書いたほうがいいなーとか思いつつそればっかだとウォール伝放置になるからまぁ簡単にちょっとだけ書きたいことがあるんだけど。

 

っつーのはまぁあれだよね、まぁ絶望的っていうか宗教と政治ってヤバいよね。政治に利用される宗教なのかはたまた逆なのかっつーところでまぁ何気にあれですよね、前から関心があったパレスチナ問題とかをキリスト教に目覚めた観点からまたディグれそうだなって思ってるんだけどまぁとにかく俺はイスラエルが大嫌いってのは前から書いてるけど結局あれだよね、宗教的大義なのか人道的大義なのか?っつーところでそこがミックスされてるっつーか宗教的倫理が全て正しいからだから帰依できるんだみたいなゴリゴリの原理主義だと排他的になるよね。

 

ローザンヌ誓約っつーのを知ったんだけど驚きなことにほかの宗教との対話とか例えばまぁそれを悟りとするか救いとするかっつーところがありつつも例えばキリスト教的な奥義みたいなのをそれは言わばコンテキストであったりエクリチュールだったりっつーところから独立した普遍性によって成り立っているんだっていうところでその普遍性に仮に聖書やキリスト教っていうのを経なくても至ることができる場合もあるみたいな余地を完全に許さないっつーのがあってさ、例えば久松真一なんかが西田哲学について語ってる時に西田が禅への明らかな言及であったり引用であったりっていうようなものがほぼ無いようなところでもそこに禅的真理の現前性があるっていうようなことを言ってたりしてまぁようはあれですよねってここで改行するけど。

 

禅とは関係なくてもキリストが言ってた部分的なところが禅とか仏教とほぼ一致するようなところがあるっていうような論理っていうところだと思うんだけどまぁ何かに限らずまぁそれが例えば現代アートとかにしてもさ、全然禅とは関係ないコンテキストで発表したコンセプチュアルアートのコンセプトが禅そのものみたいな、コンテキストを超えて論理の一致というところでそれが重なるっていうところがあるっていうところを排他的な論理だとそれはキリストの名においてっていうことならそれはそうと言えるけどそうじゃないのは邪教であるというようなね、んでまた改行しますとね。

 

バルトが親鸞だかなんだかに教会教義学の脚注で言ってたみたいなのがあってまぁ細かいところはもっとちゃんと読んでから書くとしてまぁとにかくあれですよね、論理的に一致していてもそれはキリストの名においてじゃないといけないっつーところに信仰の必然性を置くとか、あとまぁバルトだったら護教的とも言えるけどキリスト教自体が色々歴史的にヤバいぞっつー中で必然的にキリスト教を守るためにそういう風な言い方をしたとかっつーまぁ歴史的コンテキストとかもあると思うんだけどっつーかほとんど丸つけないで書いてばっかだから改行するけどね。

 

結局そこって分けないとダメだよね。信仰という意味においてはキリストの名においてじゃないとありえないしそこに帰依してるわけだからっつーところがあったとしてもそれとは別のそもそも宗教を信仰するっていうこと自体が社会的行いなわけでその社会的な面で宗教的論理を第一にしたらそりゃ戦争起こりますよね。例えば他の宗教を異教扱いして異教がこういう救いもあるとか認識で言うと悟りというものがあるとかそんなのは出鱈目だ!って言い切るっつーのは凄まじいヘイトの論理だよね。基本的にテロとかやるタイプのイスラエルの右翼のテロリストとかも神がイスラエル人を選んだっつーところをそれが神が選んだ民族なんだ!っつー解釈をするんだよね。

 

それはどう考えても神に選ばれし民族というよりかはその神話が発生する歴史的コンテキストにおいて任意の弱そうなマルクスで言うところのプロレタリア的な民族を選んでそいつらに神の恩寵を与えて奴隷が建国するみたいなストーリーを作ってみるかっつーようなところなわけでプロレタリアであるという条件がマルクスで言えばそれはブルジョワを打破した労働者階級!っつー意味での革命っつー神話を成就させるためのものっていうところなわけでプロレタリアというのが神なり超越的な何かに意味付けられて選ばれて必然的に革命を起こすということになるっていうことじゃないですよね。

 

あくまで革命なり革命後の建国!みたいな神話を作るための材料なわけで選ばれたっつーところとか条件が合ったっつーことが選民という選ばれた存在っていう特別な属性じゃないってことだよね。別にユダヤ教全般がそう考えてるってことじゃなくて狂ったイスラエル右派とか過激なシオニストの一部がそんな選民思想を持ってるっつーところなんだけどそれは思想というより旧約聖書の誤読だよね。

 

相当なおめでたいアホなんだけどそんなのがテロ起こしてるとかって思うと胸糞悪いからやっぱり宗教はクソだ!ってなっちゃうよね。それはまぁイスラムの過激派原理主義とかにも言えるわけなんだけどそもそもそれってまぁようはさ、オウムみたいなカルトを指して宗教はクソだ!っていうのと一緒でそんなのそもそも宗教じゃないんだよね。宗教の形をしたキチガイ集団だったりカルトだったりするわけで宗教っつーのはユートピア的だけどやっぱり根本的に人を救うとか世界平和を目指すみたいなものなわけでさ、あとはまぁそれが個人の認識とか悟りとかっていうところであったり政治的性質を帯びなくてもまぁ基本的に救済というかさ、まぁカルト的救済っつーのもあるんだけどまぁまともに考えられるところの救済ですよね。

 

例えば空とか般若っつー思想にしても最終的に無とか空っつー認識になって宗教というよりかは思想っつーところになったりするんだけどまぁでも結果的にそれが空とか無になるみたいな認識になってもそれってまぁ宗教なわけだよね。絶対的論理じゃないよね。それはそう考えるという価値観なわけで普遍性はないよね。

 

まぁでもそれが普遍性なんだ!って考えるところがやっぱり信仰っていうところなんだよね。なんかそこをなんでも宗教的論理を絶対にするとすげー卑近な例えをすると「あのケーキ美味しそうだね!」って可愛い彼女が言ったとしてまぁそれを「そんなものは無い」とか「美味しそうというのは見た目に騙されている」とか「あんなものただの砂糖の塊ではないか」とかなんとかまぁ色々と宗教的論理で言えると思うんだけどまぁそもそも社会性っていうかまともな人間であろうとするなら宗教的にはそうでもそこは「おいしそうだね!買っていく?」とかまぁその場で食べれるなら「食べよっか!」っつーまぁその美味しそうなケーキを媒介として良いデートを育むってのが一番人道的ですよね。宗教が色々な形であっても結局立脚するところはヒューマニズムなんだとすればそこは宗教的なケーキの定義とか認識っつーのは置いておいて普通の人間として凡夫でもいいから美味しそうだっつって彼女と一緒に食べるのが正解でしょ。普遍的に正しいかはともかくとしてまぁそれがまともですよね。

 

ただそこを原理主義者は「あんなものはただの砂糖の塊ではないか。そんなものに欲望を感じるなんて煩悩だらけだな。お前は」とかって言うってことになるわけよ。社会性ゼロっつーかヒューマニズムゼロですよね。仮に宗教的な認識においてそれが正しくても仮にケーキという点においての認識がそれで正しくてもそれを口に出したりそれが分かっていても今はそういうことを考える場ではないっつーTPOを弁えるのが人間ですよね。まぁ別にそれは宗教を踏まえても一緒に彼女とそれを食べるのが正解でしょう。まぁでも俺が今言いたい極端な原理主義者はそこで場の関係性をばっさり斬るようなことを言ってしまうと。

 

そこがまぁあれなんですよね、信仰上例えばそれは砂糖の塊であっても美味しそうだね!んじゃ食べよう!っつーのが正しいわけでそこは自分とは違う宗教を信仰している人が言う真理とか神の定義とかについて議論をするなら別だけど例えばそこで殴り合いにならないようにするために信仰上は当然自分の信仰が正しいとは思うけど他の宗教を信仰している人にもとりわけ例えばその人が凄く敬虔だったらその敬虔さを別な宗教でも神の道を歩んでいるものとしてリスペクトするっつーかさ、それを建前と言ってしまえばそれまでだけど別の宗教を信仰している人を異教徒とするのはまぁ当然、なんでそこが異になるのか?っつーと自分の信仰が中心で絶対的に正しいからって思ってるからだよね。んでまぁその異教徒が言うにはこんな風な救済があるんだそうだとかルールがあるんだそうだとかなんだとかとにかくそういうのはもうキリストへの冒涜以外の何物でもないから絶対許さない!みたいな、そんな考えをした時点でもうその宗教終わってるよねっていう(笑)

 

他の宗教の存在を認めるというのは信仰上の妥協とかじゃないんだよね。例えばキリスト教を信じるならっていうか特に今の俺みたいにジーザスを中心に考えて一神教的なものとか旧約的な暴力的でいきなり地上の人間に変ななぞかけしたりチャレンジしたりする変な神はどう考えても受け入れられるようなものじゃないっていうそれを神話レベルと言っても無理があり過ぎる!っつー人間にとってはジーザス以外考えられないんだよね。逆にそういう一神教的神の存在はぶっちゃけどうでもいいから神がいるかいないか?とかどうでもいいしそういう意味でそういう創造主的なものの議論をそこまで白熱させないっつー仏教と全く矛盾しないんだよね。いてもいなくてもお釈迦様の教えというのがお経になって伝えられてて今も有用な悟りへの道を提示し続けているという意味でのありがたさってのは聖書の福音然りじゃないですか?それ自体が良い知らせだよね。それ自体が救いであるっていうね。

 

それを救いとするような立場の人間がそれが救いでそれ以外ありえない!っていう排他的立場にならないこともないんだけど相当色々と飛躍しないとこれだけ信じろ!っていう風にはならないよね。ただ信仰上はそう思ってますよ。キリストに関しては書くと長くなるし今も読んでる最中なのととりあえず本読みたいからあんまり書くことに時間割きたくないっつーのもあるんだけどまぁそれは心ではそう思ってるけど例えば仏教徒を前にしてお前は外道だって言わないわけでしょ。というかリスペクトしあうのが当たり前だよね。PC的にもそうでしょ。近代的市民の最低限の条件の一つだよね。差別をしないというのはいかなる場合においてもそれは信仰する宗教で明言されてなくてもそれはもう近代社会に生きるならそれを守らないと人間的に倫理的にアウトですっていうことなわけでしょ?

 

なのになんで異教の教えは認めない!っていうか認めない!っつーだけならともかく他の教えがあるということがキリストへの冒涜になるとかっつーのはもう本当に頭が悪い原理主義的過ぎる考えっつーかさ、まぁこういうやつらが歴史的にも魔女裁判だの宗教弾圧だの宗教的信条をベースに侵略だのっつーのをやってきたわけで基本世の中はバカが多いからとりわけ宗教ってのはネトウヨ的右翼みたいな手軽さがあるからね。鈴木邦男さんが言う右翼はバカでもなれるっつーのがようは日本に生まれて日本人で自分の国の万歳!自分の国最高!って思ってればなれるけど左翼はバカじゃなれないってのがマルクスとかを読まなきゃいけないから(笑)っていう皮肉があるんだけど宗教も同じだよね。

 

所謂お手頃な右派的な排他的なバカになるようなまぁアメリカの田舎とかで信仰されてるような福音派ってのは99パーセントぐらい哲学とか神学とか宗教学とかやってないわけでしょ。信じますっつーって頭の悪い田舎牧師とかの話を聞いてありがたがってUSA!って言いながらジーザスに愛されている神の国なのよ!USAは!とかって思ってればいいわけで(笑)まぁそこでちゃんとやろうとするならもうめっちゃエリート的だよね。

 

それは仏教の場合は明白だわ。まぁ文化として仏教徒じゃなくても葬儀は仏教式っつー形式とか文化としての宗教ってのはあるにしても仏教の教えを実践するとなるとそりゃもう仏教のコアである空の思想だとか縁起だとか般若だとか煩悩だとかっつー高度で抽象的な理論を理解しなきゃいけないわけだよね。だからもうインテリオンリーなわけですわ。

 

でもそれじゃ大抵のパンピーは救えない!っつーところでまぁお手軽な救済の宗教として例えばお題目だけ唱えてれば天国にいけるよっつーようなものを教義として宗派として立ち上げるとかね、まぁそのお手軽宗教っつってもまぁなんつーか基本大乗じゃないといけないからそういうリミックスなりアレンジをしていく必要があるっていうような改革は必要だったっつーところもある意味での宗教的必然性でそれが生まれたっていうところもあるとは思うんだけどそれで言うとまぁキリスト教も同じですよねっていうかまぁ大体どこの国でも職業神父とか牧師みたいなのが通俗的な宗教の論理内で説教したりするわけでしょ。

 

まぁあんまりアメリカのテレビ伝道師みたいなのを基準にするのもアレだけどまぁでもバカがマイノリティってのは客観的な事実なんだから宗教もそうならざるを得なくなるよね。誰がバルトの教会教義学とかアキナス全部読んだりとかするの?っていうまぁ基本的に聡明であっても例えばそれが大学生だったらまぁ割とリア充系ってのを想定したら例えば高校時代の友達と組んだバンドをやっていて学校では経済学を専攻していてバイトもやってて彼女もいてんでまぁゲームが趣味で映画とかアニメも見ますっつーんだとまぁまず神学書を読む時間が無いよね(笑)もはや先行している経済学の本すらも読めないんじゃないか?っていうぐらい時間ないよね。

 

でもまぁそれが普通ですよね。別に聡明である必要は無いか。まぁなにが言いたいのか?っていうと地頭云々は別としてガチで宗教の教えを根源的に理解をして生活の中で実践していくってことになるともうそりゃ修行僧とか修道士みたいにならざるを得ないわけだよね。今の俺なんか完全に修道士でしょ(笑)めっちゃ敬虔だよね。エロサイトは見るし欲望だらけだけども。まぁでもこんな起きてる時間の9割ぐらい本読んでるなんて生活は仮に時間があるやつですらも可能ではないでしょう。

 

相当突き抜けてるっていうか何がそうさせるのか?っていうような変なドライヴが無いと無理だよね。まぁそれを俺は召命だと思ってるんだけどだからといって俺が偉い!ってことじゃないんだよね。神学書をいっぱい読んで哲学とか宗教学とかの本も読みまくって研究しています!ってのとまぁ敬虔さってまた違うし信仰というところでも違うよね。まぁキリスト教=ボランティアとか奉仕するっていうことじゃないと思うんだけどまぁキリスト教的に善くあるということだよね。

 

それを信仰してますっつーことじゃなくてまぁ行動として実践するっつーのがまぁ真の宗教的生活だよね。つまりは善であるということがそのまま宗教的であるということに直結するようなものだよね。サルトルが逆説的に実存主義とはヒューマニズムであるなんつー飛躍をしたのも結局はだからそれがなんなのよ?っつーところでその主義にヒューマニズムということを癒着させざるを得なかったっつーかさ、論理的必然性が無いんだよね。

 

逆に実存的であるが故にニヒリスティックになって人殺しをするとか自殺するっつーのもあるわけでまぁだからヒューマニズムであるって言わなきゃ成立しないみたいなさ、危ないレベルでの必要性っつーのかな?ただ宗教はもうそれが内在されてんのよね。デフォで。宗教は別としてもうそれは善なんだっつーことが行いとして出るようになってるわけだ。間違えても他の宗教を弾圧するっていうことにはならないよね。

 

まぁちょっと本読んだだけで知識全然ないけど例えばよく勘違いされるコーランで神を信じないやつは屠られるっていうか消え去るのみだみたいなヤバいことが書いてあるとかっつーのがあったりするけどそれってようはアラーを信じないやつは殺していいってことじゃなくて神がこうしなさいっていうことに対して全く無視をしたり関心を示さないやつはとんでもないやつだ!ってことを言ってるわけででもそんなの任意じゃん?っつってもそこでの神が言うことって人間にとってベーシックな倫理的であるっていうことなんだよね。だからそれを無視するやつっつーのは無法者なわけなんだよね。

 

といっても生活がアウトロー的でも善なやつはいるよね。逆に生活は優等生とか誰から見ても褒められるようなもんでも内面はサイコパスみたいなやつがいるわけで極端に言えばそういう見た目だけよく取り繕って実際は倫理に反してるようなことを考えたり行ってるやつはとんでもないやつだ!っつーのは宗教の論理を出してこなくても常識レベルでとんでもないやつなんだよね。

 

だからまぁこれって俺が前から言ってるこういうやつらは国賊で倫理が任意であっても他人の世界とか世界自体の倫理のバランスを壊すようなやつは有害だから屠るべし!って言ってる論理と全く同じなんだよね。大体恐らくまともな宗教であれば信じないやつは地獄へ落ちるとか神から罰せられるとかっつー一見「は?」って思うようなことでも実際はそういう当たり前の実際には法的に罰せられることが無いことでも倫理に反するようなことをして他人を傷つけたりコミュニティをぶっ壊すようなことをしたら天罰が下るぞ!っていうまぁそこで特に宗教的に厳格な人間はそれを知ったら自分が天罰を下す代理人としてそいつのことを殺すかもしれないみたいな過激なことなんだけどまぁ戦前の右翼とかと論理は一緒だよね。

 

そこはまぁ普遍的な超絶的にベーシックなところでのコモンセンスのことを言ってるんだよね。そっから外れるやつは外道だってそりゃもう明白ですわ。じゃあ日々の振る舞いでその倫理のベースとなるような宗教が色々あった場合、そこは教典に明言されてない部分で異教徒は抹殺するべし!というのは例えば本当に邪道なオウムみたいなカルトを抹殺するべし!なら分かるけど異教っつっても他の宗教は宗教として相当まともなものがありますよっつーところでどう接するべきか?っつーところでもうそんなの答えは明白でお互いリスペクトしあって共存し合うっていうところに決まってますよね。キリスト教が絶対だから神社とか寺とか認めない!っつって破壊活動をするのか?って絶対しないでしょう。そんなのは聖書に書かれてなくてもキリストの教えをベースにしたら寺とか神社を破壊するべし!ってことにならないよね。

 

イスラムにおいても偶像崇拝してるようなのはその偶像をぶっ壊せ!っつってるのも例えばまぁそれはキリスト教とか仏教みたいな真っ当な宗教じゃなくて明らかに邪教の類のものをしかも人の道を外れたところで信仰してるようなものはアラーの名のもとにぶっ壊せって仮に言ってたとしてもまぁそれは別にアラーの名のもとじゃなくてもぶっ壊したくなりますよね。それは自分が宗教を信仰しているとか関係なくオウムみたいなのは害悪だから排除しろ!ってことに当然なるってのと同じレベルの話なんだよね。そういうあからさまな邪教においてはそうなんであって真っ当な宗教においてはまぁそもそも預言が成された時代とか聖書が作られた時代とかって他の大きい真っ当な宗教が念頭に置かれているわけじゃないから書かれてないところで推測しないといけないよね。

 

で、推測っつっても何も全部聖書とかコーランに依拠するんじゃなくてもちろんその教えがあるっつー中で真っ当な神の道を生きるものとしてどうあるべきか?っていうところでまぁそりゃ共存になるでしょうっていうことなんだよね。他で真理を語ってるのは神への冒涜だ!なんつーことにはならないでしょ。っつーかようは繰り返しになるけその他っていうのがカルトめいたものだったら冒涜って考えてもまぁ妥当だけど今ぐらいの色々と他の国の宗教とか文化とか考え方が分かってる中でそこで他は冒涜だっつーのを会議とかで決めちゃうっていうその宗教のレベルって何なの?って話だよね。

 

ぶっちゃけキリスト教はバカなやつらが足を引っ張り過ぎてて汚名を着せられてると思うよね。実際はそれこそ原始キリスト時代から使徒とか福音記者とかの熱心な布教と研究ってのがあって中世とかでもアキナスみたいなとんでもなく頭が良い人たちがめっちゃ研究したりなんかしてまぁそういうのが受け継がれて哲学の時代になってもまぁやっぱ神学がベースになってるっつーかさ、まぁそれはイスラム思想も同じなんだよね。とりわけイスラムは思弁的で哲学的要素がすげー強いっつー印象があるから人文的な尊い価値ってのがある意味キリスト教より派手だと思うんだよね。

 

んでまぁ神学をベースとした哲学をベースにしたまたさらに神学ってのがあってまぁんでバルトとかの近代神学に繋がって・・・っていうもう人類の宝だ!っていうような知の積み重ねがあるものなんだよね。そんな尊いものなのにトランプとかの権力ネタにされるとかさ、戦争のネタにされるとかそりゃ元がムハンマドであれジーザスであれとにかく遺憾でしょう。もう最悪ですよね。ただぶっちゃけイスラムは過激派が目立ってるだけでバカの害悪が酷いのはキリスト教って気がするよね。

 

例えばバカの害悪が酷いドゥルーズ主義者とかってなかなかいないでしょう。そもそもドゥルーズというだけで理解できる人が限られてるからバカが入る余地がないんだよね。さっき出した鈴木邦男さんが言う誰でもなれる右翼と同じ論理だわ。まぁバカの害悪とか概念の乱用ってのはインテリレベルでもあるにしてもそれが国際紛争になったりポピュリズムに利用されるほどひどいものにはならないよね。

 

ただまぁ宗教ってのはそういうものに悪用されまくりで基本的にバカがリクルートされて他のバカがさらにまた感化されて・・・ていう負の連鎖になってると思うよね。だからまぁ史実的にもキリスト教が殺してきた人たちって恐らくトップだろうしまぁそれって揺るがない事実じゃないですか?だからこそなんつーかちゃんとしたまともなキリスト教ってのを定立させないといけないっていうかそこはもうシモーヌ・ヴェイユじゃないけど極端なまでに組織的なものとかに敏感で教会にも属さないっていうまぁそもそも
そういう集まりっていうだけでもはや宗教の劣化が起こりかねないっていうぐらいセンシティヴでいいと思うんだよね。

 

何しろまぁ同じ宗派とかでも人間的にクソな神父とか牧師とか坊さんとか腐るほどいるわけだよね。そこでよく教会に幻滅してとかって言うけどそれってそこの教会のレベルが低かったり神父とか牧師のレベルが低いからそれ相応の信者が集まってきて衆愚的な感じになってるだけなんであってジーザスに帰依する分には逆に教会がどうとかってぶっちゃけ関係ない話ですよね。

 

それは現実世界の教会とか人間の集まりっていうところから来てしまう必然的な劣化なんであって信仰とか宗教自体の研究とか修行ってのは個人で出来るわけでしょ。もちろん教会に来てほしい人は個人では絶対やるべきではない!とかって言うけどまぁそもそもキリスト教なんて成り立ち自体がインディーズだからね。

 

クソデカいドミナントユダヤ教なりなんなりがあるって中でいや、律法的なものなんてクソでしょってジーザスが変えていったわけだからね。ただ史的イエス像として言われるようにジーザス自体は当然まぁユダヤ教徒だったんだよね。

 

でも別に例えば腹減ってるときに安息日であっても必要だったら麦を取って食うっつーのは安息日だからそれはダメ!ってなってるけど実際に文献にその昔ダビデ王が安息日だったか忘れたけどまぁ自分と飢えてる部下がいる中で神殿に供えてあるパンを一緒に食べたっつーのがあるでしょ?っていうそれは安息日ってのは神のためだったり律法を守るためにあるんじゃなくて人のためにあるわけで守ることに終始して人間のためにならないようなものになったらそりゃ本末転倒でしょって言ったっつーまぁなかなか歴史的な革命家を見てもなかなかその根源的なその当時の世の中でのルールをそれこそラディカルな見方で本質はそこにあるわけじゃないから腹減ってれば食べれば良くない?ってことを言って実際に実行するなりやりなさいって諭していたっていうまぁそんなんだからまぁ当然目をつけられてあいつは律法を守らないアウトローだ!なんて言われるだろうし他方ではなんちゅーお人だ!兄貴と呼ばせてください!ってまぁその生き様に感動する人もいるでしょうっていうところだよね。

 

そんなジーザスは予言通り磔になった三日後に復活して全ての人にキリスト性っていう属性を与えてくれたわけでしょ。どんなやつでもそのキリスト性を発生させてジーザスと一体となってジーザスとして生きていけばそこに救いがあるっていうかそもそもその余地がある時点でジーザスは復活してて黙示録なんてのも成立しないっつーかまぁ復活してるわけだからね。それが現前しているっていう世界になってるっていうことでしょ。キリストと一体となって古い自分にお別れをしてジーザスとして復活するっていうチャンスが平等に与えられてるっていうことだよね。ガラテヤ人への手紙ですよね。

 

2:19
わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。

 

2:20
生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。

 

2:21
わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。


これが述べることは色々あり過ぎるけど例えば今日の話だと異教の教えはキリストへの冒涜だ!なんて解釈するようなキリスト者としての生き方というのはキリストの名においてまずありえないということをパウロが言ってるわけですよ。逆にまさにソースを聖書とするならそんな考え方はまずましてやキリストの死があってしかも復活があったっていう世においてまずそれはありえないわけだよね。かといってもまぁ俺はもちろん帰依するところのロジック的な要素ではそれは普遍性だけど信仰レベルではやっぱりこの受肉したキリストとキリストの死と復活っつー要素に奥義があるよね。

 

バルトが言うインマヌエルの究極的な一回性ってのがつまりはそれがキリストの受肉において絶対的に発生したっていうことだよね。んでまぁ滝沢克己なんかはそれがキリスト性が発生するときに凡夫の間でも神との関係性においてそれは発生しうるって考えるんだけどそれはまぁ違うんだよねっていうかまぁそれは違うんだよっていうところがバルトがずーっと違うんだぜっていうところを滝沢は永遠と理解しないままだったっつーことがあるんだけどまぁ論理的エラーがあるのはインマヌエルの発生の契機が誰にでも訪れるとするとそれってのはキリストと父なる神と聖霊との間によって発生したインマヌエルの絶対的な一回性ってのが成立しなくなるよね。

 

ある意味全員キリスト性に目覚めれば神の子になれるっていうことになってまぁある種の汎神論的にもなるし何よりキリストの受肉というところがかすんじゃうよね。まぁそれは価値観の違いかもしれないしまぁもっとちゃんと勉強するつもりだけどまぁ学び始めからキリストの受肉が救いなんだ!ってそれがヤバい!って考えてた俺にとってのそのバルトが言わんとしていたインマヌエルの究極的な一回性ってのが死ぬほど分かるんだよね。そこだよね!っていうさすがにバルト大先生は分かっておられるなっていうところなんだよね。

 

そういうのも含めたバルト大先生が言うところのイエス・キリストの名において・・・っていうところの神のロゴス性というか神性っていうのと俗流のテレビ伝道師レベルのやつが言う異教の教えは認めないし対話も認めない!っつーようなことは言ってることは同じのようで全く意味合いが違うわけなんだよね。そこが簡単に理解できるようなものじゃなくてしかも説明も面倒っていうところがあるんだけど(笑)

 

どういういきさつでそういう帰結なり教えが導き出されたか?っていう論理は本当に大事っていうか必須なんだよね。それはイスラムでもそうっていうかイスラムにおいてはとりわけそうっていうかキリスト教以上に勘違いされやすいしすげーまぁ歴史的な意味合いと何より言葉だよね。翻訳されてない生のコーランにおける意味論っていうところでまぁそもそもそういう研究を必要とされるからはい。アラー信じますっつって信じるようになれないっつーまぁインテリ宗教なんだけどまぁ別にそれはキリスト教も同じなんですよね。ただもうそれが宗教である限り世俗化は逃れられないと。それはまぁ仏教然りですよね。

 

なんか思ったより長くなったっつーかまぁそんぐらい俺がアツくなってるってことなんだけどまぁこの宗教ってのを何か特有の個別のものに帰依する云々は別として、自分も実践する側になって勉強してキリスト者として生まれ変わったっつー目線で世界を見ると前見えていた世界像とは全然違うより深い世界像が見えるようになってくるっていうか、まぁようは情報が認識を変えるっていうところだよね。でもそれは自己との対話とか訓練においての認識っつーだけの話じゃなくて人間と世界を考えるうえで不可欠な宗教っつーのを通して見えてくるものってことなんだよね。まぁ有体に言えば教養ってところなんだけどでもまぁまさに宗教なんてのはましてや実践する身になるとあらゆる教養が必須になるよね。

 

自分の教養の浅さとか足りなさっていうのが凄く見えてくるからそれが見えることで補うことができるっていうかね、それが見えない限り何が見えてなかったのか?っていうことすらも分からないわけじゃん?言わばそこが直接経験としての信仰ありきでの聖書を通して得られる啓示っていう面と信仰関係なしにただ見えてなかったものが見えるようになって自分に足りなかったものも分かるようになったっていうところの神性は伴わない言わば俗流の言葉としての啓示があるよね。言わばまぁ比喩とかアナロジーとしての啓示だよね。まぁだから信仰しつつ学術的にもまた知的な啓示があるっていう点で神的なキリスト教の啓示と信仰関係ないところでの情報という点での啓示があるんだよね。

 

ただまぁそれって得られたからオッケーってことじゃなくてそれこそチャクラを開くとか第三の目じゃないけどそれこそ第三の目を開くぐらいのレベルになるためには膨大なインプットの積み重ねと思索と行動の実践が必要となってくるっていうそこでまぁ俺的にまぁ神秘主義寄りなところで言うとまぁセレンディピティ的なあたかも導かれているような偶然的な必然性っていうのが必要になってくるんだよね。

 

ただまぁ一般化して言うと当たり前のことでセレンディピティを高めるためには起こる確率を高めなきゃいけないわけでまぁようはまた別の啓示っていうのを受けるために準備万端にしておくってことだよね。人事尽くして天命を待つってことだけどそれは必然的にニーチェ的な運命愛に直結するわけでアンチクライストであるはずのニーチェ哲学なんてのも俗流キリスト教じゃなくてリアルキリスト教にしてみるとただの一要素でしかないっていうね、まぁそれが真理っていうことですよね。だからまぁ俗流キリスト教を批判したニーチェが行きついたある種の真理ってのは真理に属しているから哲学的に言えばイデアを照らす光のもとにおいて真理であるっていうまぁそれを神学的に言えば神ってことになるよね。

 

だから俺ってそもそもプラトニストっていう時点ですでに宗教的なんだよね(笑)イデアなんつーありもしないかもしれないようなものの存在を信じてるわけでそれは哲学的信仰と言えなくもないけど結局はそれはもう宗教的信仰でしかないっていうことだよね。ただそこを単純に哲学の枠組みをキリスト教に持ってきて理解するっていうことじゃなくてキリスト教に目覚めさせられるんだよね。

 

そこでよりクリアなイデアを照らす光の正体を感じるようになるっていうより明晰っていうことなんだよね。まぁ自分がプラトニストになったプロセスってのはまぁそりゃ言うまでもなく元々はクソ唯物論的で宗教大嫌い!って感じだったんだけどまずまぁレオ・シュトラウスプラトンプラトンに目覚めてんであとゲーデルだよね。ゲーデルの数学もさることながらゲーデルの哲学的思索だよね。そこでの論理的必然性としてのプラトニズムだよね。

 

だからまぁある意味でゴリゴリの論理押しなんだけどそこを突き詰めていった先に宗教があったっつーのもなかなかドラマティックだしパウロが最初はキリスト教を迫害しててそっから目から鱗が落ちる思いでキリストに目覚めた!っつー類型にシンパシーを感じずにはいられないよね。いきなり宗教に目覚めるとスピに目覚めたか行き詰って一気にある意味自殺するように中身変えたのかな?って感じになると思うんだけど俺的に地続きなんだよね。ただそこでジワジワと顕在化していたものってのがあってまぁそれは前にも書いたけど言葉にするとすげー安っぽくなるんだけど細かいところで徴として出ていたっていうところがあったりするんだよね。

 

あとまぁキリストとして生きるのだ!みたいなところも例えばだいぶ前にゲーデルの本を読んでた時にゲーデル的な思考をするためになるべく集められるだけの情報は集めてそれを元にゲーデルが考えてたかのように考えるっていうまぁゲーデルをシミュレートしてゲーデルのように考えるみたいなことを書いてたと思うんだけどまぁあれですよね、シャーロック・ホームズが推理するときに犯人に成り切って考えるってのをやるじゃん?まぁ端的に言えばキリスト者として生きるっつーのはそういうことだよね。

 

それが分かったとしても実践できるかどうか?ってのはまた別の問題なんだけどそれを日々実践していくっていうことだよね。それは別に分かったからっつってすぐできるようになるもんでもないわけでまぁそこが実践するという修行というかね、それは研究と同時に自分という肉を使ってキリストをシミュレートするんだっていうその精度を上げていくっていうことだよね。かといってもそこで完全に一致するというよりかは自分としての自分とキリスト者として生きる自分っつー二つの自己像があるんだけどそれを統合することなく今までの自分というのも持ちながらキリスト者として生きるっていうこうありたい理想像としてのキリストというところに自己をプロジェクトしていくっていう感じだよね。

 

そこでまぁ俺の言葉で言うとオワコンである現実を生きる自分というのを殺してキリストの認識において現れてくる神ゲーである現実を生きる自分というのをキリストの名において活かすということだよね。つまりは実践するということが即生の肯定になるというような究極の生の哲学であり宗教であるっていうようなところですね。

 

まぁそんな感じで今日はこの辺で。

 

PS

 

書き忘れたけどベルジャーエフが面白いことを言っていて、例えばまぁ単純な勉強不足だとは思うけどやっぱり旧約の神って何なの?っつー違和感があるわけなんだよね。だからまぁやっぱりキリスト教の神髄は新約でしょうとかってまぁ旧約も新約も通読したことが無い俺が言うのも難なんだけど(笑)ベルジャーエフは三位一体の理論として、キリストが神の子として、まぁようはその父というのが神でそれが聖霊によって媒介されて受肉したっていうまぁ聖霊論って色々ありそうで三位一体って奥深い理論だと思うんだけどその三位一体が成立しなければそれは神ではないという解釈なんだよね。ようは重要なところは三位一体で言われる父なる神というのはではどうすれば父なる神足りえるか?っていうとそれは一般論で父になるというのはどういうことか?っていうとそれは子供ができたらっていうことになるよね。

 

だからキリストの存在が無いと父なる神というのは存在できないし、そこでの受肉ということに裏付けされる聖霊というものがあっての三位一体の神だから、それ以前の、世界を作ったと言われる神と新約での神ってのはどう考えてもキャラ的な断絶があるだろうっていうアルチュセールみたいな話になるんだけど、まぁそこでベルジャーエフはその世界を作ったっていう神ってのは父なる神かどうかは分からないし父なる神である必要も無くてそもそもその時点でキリストがいないと三位一体の神というのが存在していないからそれは神の体としてありえないとして、だから世界を作ったのは神っていうよりかはなんかの力で世界が作られたって言ってるんだよね。それはまぁようは父なる神ではないんだと。キリスト不在での旧約での神というのはキリストありき受肉の媒介をした聖霊ありきでの父なる神とは別なんだっていうね、一般的に支持されてる理論かどうか分からないしベルジャーエフ自体があんなの支離滅裂な落書きだとかっていう学者とかからのディスとかもかなりあったらしいけどまぁ面白いよね。

 

マイスターエックハルト然りヤコブベーメ然りだけど当時は異端とされた考え方とかベルジャーエフ的な哲学的宗教とかっていうオルタナなところにこそキリスト教本来のインディーズ性ってのがある気がするんだよね。そういう意味で世俗のキリスト教ってのは権力とか金とか既得権とか政治的なのも含めたまぁ商業宗教みたいなもんで、でもまぁジーザスのスピリッツってのは三島由紀夫みたいに敵が1万人いようとも日本刀一本で立ち向かって俺は果てるぜ!みたいなオルタナスピリットにあると思うんだよね。そういう意味でいつの時代でも異端というかマージナルであったりなかなか合意を得られないというか、受け入れられにくいものにこそジーザスのスピリットってのはあると思うんだよね。シュトラウス的なesotericな感じっつーのかな、秘儀の部分ですよね。そこを俺はディグりたいし血肉としたいんですよね。それをもう全身全霊をもって渇望するよね。