通常営業に向けて。

とりあえずなんつーか精神的に復活したというほどではないんだけどとりあえず例の続きを貼る感じですかね。まぁんで通常営業に戻って行かないといけないんでまぁ通常営業っぽいこと書くけど音楽の話なんだけどストリーミングで聴けるのに特に気に入ったものに関してはやっぱりフィジカルを買った方がちゃんと丁寧に聴くようになるっつーのはまぁ前にも書いた気がするんだけどまぁその最たるものがレコードリリースオンリーみたいなやつよね。

 

ニッチな音響とかノイズみたいなのでそういうリリースが多い感じでメゴとかもレコードリリースオンリーだったりするやつとかあるけど前にも書いたけどっていうかいつも書いてるけど聴くプロセス自体も含めての体験なんだよね。あとまぁ本ですよね。Kindle版のほうがべらぼうに安い場合はKindle版を買うけどでもどんな金でも金は金で金払ってるわけだからちゃんと読まなきゃいけないんだけどなんか適当なんだよね。紙媒体で買うとそれが精読じゃなくてもなんかやっぱフィジカルだとちゃんと読む感じがするっつーのは結局世代の話なのかな?っていうね。

 

まぁデジタルネイティヴ世代じゃないですからね。俺は。音楽やら本はフィジカル以外選択肢が無かったっつー世代だからその名残ってのもまぁその世代特有の名残ってのはあると思うしそれはなんつーのかな、別に音楽にそこまで情熱が無い場合、今はストリーミングだからねーなんつって乗り換えが簡単なのかもしれないけどまぁそれこそCDやらレコードやらを何千と買ってきたようなやつにしてみるとまぁそれでもストリーミングとかあとまぁ何らかの媒体のものは取り込んで売っちゃうとか段ボールにしまっちゃうとかまぁ単純に場所取るってのもあるんだけどまぁそうなるってのはあると思うんですよね。

 

んでまぁ何が言いたいのか?っていうと今の俺ってまぁクラシック自体が特にボックスとかだと安いからってのもあるんだけどただまぁメインに聴いてるのはクラシックっつってもまぁモダンなやつなんだけどあれなんだよね、フィジカルを買う感じってのはまぁそりゃmp3買うよりいいに決まってるってのもあるんだけど取り込んじゃったら円盤なんていらなくなるよなーっていうある種の悟りみたいなのを無くして媒体に熱を入れていた時の感じを思い出すっつーのかな?

 

まぁコスパよりも体験優先!っていうブルジョワ的趣味なのかもしれないけどまぁCDが届いてそれを開けてライナー読みながら聴くっつーかまぁ取り込んでから聴くにしてもまぁそれが一回の体験でもそれがあるのと無いのとでは全然違うなっていうね、物理的にネットで音源を買うっつってハイレゾまで行かなくてもまぁそのうち単純に容量とかの問題だからCD音質のものが売られるようになるっつーかまぁそういうところもあるんだろうけどまぁあえてCDってのはあえてアナログまでいかないにしても結構な良い音楽体験が出来るなって改めて思ってるのよね。

 

アナログまで行くとコストが大変だけど俺が買ってるのってナクソスみたいなやつからあとはまぁペルトなんかはメジャーだから中古で相当安く手に入るから基本2000円未満ぐらいのやつばっかなんだけどそれでリッチな音楽体験が出来るっつーのは逆にいいなとかって思ってるんだよね。そこは無駄かもしれないんだけど宗教音楽コレクションを構築するとか(笑)まぁキリスト教関係のものがモチーフになった作品ってジャケがイコンだったりキリストだったりそこにあるだけでなんかありがたい感じがするんだよね。

 

まぁ音楽ソフトが本来持っているジャケの良さとかっていうそういう二次的なものなんだけどすげー重要だなって改めて思うんだよね。あとまぁ古楽とかに関して言うと圧倒的にCDの元の値段が安いんで買いやすいってのはあるよね。買いやすいから大体一瞬で揃っちゃうっていうのもあるんだけどただまぁ周りのビニールを聴く時に開封するようにすると時差の新品感っつーか(笑)まだ聞いてない買ったCDが結構あるってまぁ積読と同じなんだけど楽しいよね。まぁレコードを死ぬほど買ってた時なんて買ったレコードでまだ店の袋から出してないやつを一気に聴かないでちょっとずつ聴くってのが楽しかったっつーのと同じことだよね。

 

なんかそれって別に結果的に取り込んでファイルにして聴いてるならフィジカルもクソも無いって話になるんだけどそこはもう個人がどう感じるか?っていう体験の部分でさ、例えば何にしてもそれってただの何々だよね的な話があってもある世代にとっては新しい世代にとってはただの何々であるものでもありがたみがあったんだっつーことでそのありがたみがあったっていう価値観の実存っつーのがそのメディアを通して顕在化するっていう感じだよね。

 

だから別にそれは世代だけの問題じゃなくてCDがまだ売れてた時代にはそんなに音楽に関心は無くてストリーミング時代になってから結構熱心に聴くようになったっつー人はデジタルネイティヴ的な聴き方をするんだと思うんだよね。まぁ逆にデジタルネイティヴでもCD派って人もいるだろうけどね。

 

んでそこで最近復活してるのがDVDなんですよってのもね、まぁゴダールかぶれだった10代後半とかはアート系映画を借りてきてはダビングして常に部屋で流してるみたいな典型的な意識高い系芸術かぶれ青年だったわけなんだけど今でもやっぱ好きなんだよね。当時ほど熱心に見ないにしてもただ最近思うのはヨーロピアンアートフィルムみたいなヌーヴェルヴァーグとかまぁ50年代から80年代いかないまでぐらいに作られたアート映画だよね。

 

まぁそういうのはもう今後作られないだろうっていうかまぁたまにあるんだけどあの時代の独特の質感を持ったようなものは今後出てこないだろうって思うとぶっちゃけそれってアーカイヴだよねっていうさ、んでまぁタルコフスキーとかってダビングのローファイな映像で見てたんだけど最近レンタル落ちの鏡のHDリマスター買ったんだけど再生して一分もしないうちに衝撃を受けたんですよね。「別ものじゃねーか!」っていう(笑)

 

ニューヨークに居た頃にDVDが安かったからアホみたいに買ってたんだけどタルコフスキーは買ってなかったんだよね。あとまぁだいぶ前だけどマリエンバードのブルーレイとかも衝撃的な美しさだったけどなんつーかもうこれ以上高画質!みたいなのってしばらくでないだろうしこれだ!っつーのは持ってていいよねって思ったんだよねっつってもまぁ結構もう持ってるけどね。ただまぁほとんど売ったしあんま残ってないんだけどゴダールって好きだけど買うほどじゃないし買うほど好き!っていうのは逆に意外と無いんだよね。

 

そんな中でタルコフスキーってまぁ特に今キリスト教の流れが俺の中であるのと同じ芸術で音楽で旧ソ連とか旧ソ連の傘下にあって抑圧されてた作曲家達の宗教音楽とかがマイブームで前に書いたか分からんけどあんま面白くないとかって思ってたシュニトケなんだけど恐らく体調を崩してからまぁ本当に実存だよね。抑圧されてたから宗教的なマインドはあったんだけど曲が書けなかったっつーよりかはちゃんと評価されるようになってから色々とあって実存的に宗教性が高くなってそれが曲にも反映されるようになったっていうような、そういう実存としての宗教ってのが俺的にマイブームっつーか俺がまさにそうだからそれに近いものに凄く魅力を感じるんだよね。

 

ルターなんかも最近読んだ評伝なんかで知ったんだけどスコラ的な宗教研究っていうのが知識とか知への渇望というのをメインの原動力としていたとすればルターのそれってのは完全に実存だったっていうまぁキルケゴール的な感じの先達というかさ、まぁそれ言い出すとエックハルトとかもそうだったかもしれないんだけど宗教っていっても色々あるもんね。護教的な組織神学からブルトマン的な信仰はありつつもオカルト臭い非科学的なものは取り去った史的なものに依拠するっていうような姿勢とかね、あとまぁひたすら研究的なスコラ的な感じとかあとは宗教どうのっつーより学術ネタとして研究してて別に本人はクリスチャンでもなんでもないといったようなものから色々あってまぁそれで一貫して俺は実存的なものっていうのに惹かれるっていうか自分がまぁバリバリの実存系の人間だからなんだよね。

 

まぁめっちゃそうだよね。もうそりゃ昔からそうだわ。そりゃもうウォール伝の歴史を見ればそんなのだらけだよね。それがまぁ闇落ちしかけたり絶望し過ぎていたりっていうのを経て宗教的契機ってのがあってそれが結局実存なんだってのに実は最近気づいたっていうね、まぁそれも熱心に勉強してるからっていう結果ではあるんだけどなんかそれって信仰とかとも違うんだよな。

 

いや、シモーヌ・ヴェイユなんてもうまさにそれよ。「それそれ!」ってめっちゃ感じるのがシモーヌだよね。バルトみたいな学者っぽい神学には哲学的な意味では興味を覚えるけど宗教的な意味だと特に最近はそんなに魅力を感じなくなってきてるよね。結局は護教論でしょ?っていうところがあるしただまぁその論争とかも含めてあとはまぁバーとかのバルト批判とかも面白いし単純にサブジェクトとして面白いってのもあるんだけど根源的なところはやっぱり実存だよね。

 

だからこそなんかまぁある意味長い間防御っていう意味でも当たり前にある悪とか人間の尊厳に関わるような倫理的逸脱とかね、そりゃ心を痛めてきたんだけどもう絶望しかねーなっつーところからそれがデフォになってたっていう期間が長かったんだけど去年からキリスト教に目覚めてからはそういうところの感性がむき出しになっててすんげーナイーヴっていうとあれだけど感じやすくなるようになったよね。

 

結果心労が増えるということなんだけどただ凄く自分が人間だということを実感する瞬間でもあって絶望があるんだけど諦めないとか光を見出そうとするっていう光があるから進むんじゃなくて光を求めて進むっていう感じだよね。まぁこれも実存だよね。オカルト的な神のパワーがどうのではないリアルな実存的な宗教的主体っつーのかな?まぁキルケゴール的とかドストエフスキー的と言えばそれまでなんだけどまぁそこでタルコフスキーに戻るけどタルコフスキーってまさにそういう感じじゃん?

 

若い時に好きだったのは精神が不安定で安定剤っつーか当時はハルシオン飲んでたけど薬飲みつつウィスキーをチビチビではなくがぶ飲みして起きてるんだか寝てるんだか分からないような状態でずーっと流し続けてると良かったのがタルコフスキーだったりするんだよね。当時は今ほど利口じゃなかったから宗教的とか実存的なものがどうのなんて分からなくて見てたんだけど今はまぁその深みがようやく分かるようになってんでなおかつHDリマスターとかだと昔見ていたダビングのローファイの映像とは雲泥の差どころか全く別物!っていうところでソラリスとかはいいんだけどノスタルジアとか鏡みたいなのはDVDで持っておきたいし座右の書ならぬ座右のDVDとして持っておきたいなっていうのがすんげー出てきてるのよね。

 

それで言うとまぁ映画的に面白いわけじゃないんだけどベルイマンの冬の光とかブレッソン田舎司祭の日記とかまぁまさに実存的宗教映画だよね。宗教の薄っぺらくて胡散臭い神話的なものを拡大するとそれこそハリウッド映画みたいな超大作とかにもなるんだけど世界的にメジャーな宗教って言わばそういうハリウッド映画的な宗教なんだよね。んでガチの宗教っつーと冬の光とか田舎司祭の日記とかタルコフスキーみたいになるんだけど極めてマイナーなんだよね。まぁあくまでハリウッド映画と比べればって話で芸術映画としての評価は確固たるものなんだけどね。

 

でもそういう今映画で例えたようなベクトルで宗教を突き詰めている人がどれだけいるのか?ってことだよね。神のパワー!とか奇跡!とかっていうのを信じてるほうが楽だし馬鹿でいられて能天気でfeel good的な自分だけよければいいやっつーような思考停止のアヘンとしての宗教としてピッタリというかまぁそれがメジャー宗教なんだとすれば実存的に常に崖っぷちで神との対話というと大げさだけど対話というよりかは沈黙する神と対峙する感じだよね。そういう実存的なベクトルでやっている人がどれだけいるのか?ってことだよね。こういうのはチャリティとか活動とかとは全く縁が無いものでって別にチャリティとかを批判するわけじゃないんだけど自分と向き合う宗教だよね。

 

なんかまぁそれってのがまさに西田がエックハルトのことを中世の禅の坊主だかって呼んでたような(笑)極めて禅的なキリスト教というかさ、まぁ禅ってオカルトは無いけど必然的な神秘主義的なところってあるじゃん?非神秘主義なんだけど結果的にそれが神秘のように思えてくるっていうようなものだよね。

 

ドイツ神秘主義とかもちゃんと色々と読もうと思ってて全然読めてないんだけど神秘主義的なもののある種のオリジンみたいなのがエックハルトにあるんだとすれば神秘主義の系譜って言わばある種異端的な禅的キリスト教なわけで例えばシモーヌとかがカタリ派とかに凄いシンパシーを感じていたというのも神秘主義ではないんだけど大衆的なキリスト教ではない実存的キリスト教っていうところだったんだろうなって思うんだよね。今のタイミングでシモーヌを読むと本当にハッとさせられるところが多いんだよね。

 

以前の俺だったら不幸な私を見て!というような自虐ナルシスト女ぐらいにしか思ってなかったと思うんだけど(笑)今読むと本当に苦しいんだなっていうところが凄く伝わってくるんだよね。でもその実存的苦しさと生活の厳しさって別に比例する必要はないからね。リアルがリア充だろうが何も困ってないような感じだろうが実存的苦しみってのはそれが金銭とかが関わることで解決するような浅いものならともかく根源的に生きるとは何なのか?っていうところでそれを問うことで必然的についてきてしまう解決できない苦しさとか闇だよね。でもその苦しさとか闇があるからこそ光へのベクトルという方向に舵を切って生きていくという選択が可能になるんだよね。

 

でもそこでそうなのか!神は素晴らしい!って思ったところで世の中の不条理は変わらないからね。それが政治的だったり時代特有のものであるならともかく京アニ放火事件みたいな何もかもを根源的にぶっ壊すようなものがあったりするんだよね。よくそこで信仰が揺らぐとかっていうけどそれで揺らぐような信仰ってこの世は素晴らしい!とか神様は見ている!みたいな楽観的で思考停止的なまさにアヘン的な元々俺が大嫌いな類の宗教なんだよね。

 

でもまぁ間違ってもキリスト教に目覚めたっつってもいきなりそっちになったわけではなくて絶望とか不条理をそれそのものとして受けてなおかつでも絶望せずに光を求めて生きるっていうようなマインドセットとか簡単な言葉を使えばライフスタイルなわけでその都度悲しいけど「なんなんだこれ・・・」って絶望するようなことだらけでも生きていけるのは結局信仰があるからだっていう直にそれが命と繋がるようなものなんだよね。

 

だからそういう意味で教会だの神父だのなんだのっていう世俗的な宗教とは全然関係なくてあえて宗派を言えば禅だろうっていうようなキリスト教なんだよね。エックハルト的なベクトルのものが宗派になっていないというだけで一般的に言うとカトリックプロテスタントの二択という感じだけどそれは世俗的なものであって厳密な実存的なものを言えばなんたら派みたいな名前はついていないけどエックハルト派だとかね、あとまぁ派閥として認められているもので近いものっていうとギリシャ正教とかになるよね。ただまぁ政治とか大きい組織とかが関わらないアトスみたいな修道院自治区みたいなベクトルのものだよね。

 

なんか言うならばハードコアクリスチャンっていうかさ、かといっても別に自分は正教ですなんて言うような感じでもないし、まぁそんなのあれだよね、あなたは何主義者なの?って聞かれてニーチェ主義者ですとかヘーゲル主義者ですとかマルクス主義者ですなんつー規定とか答え方をしなくてもいいっていうようなことと同じだよね。何々主義って括っちゃうとその主義特有の決まりとか通底しているような思想ってのがあってでも思想ってのは個々で多様なわけで自律して考えて思想やってればまさに自分が思想ですっつーことになるよね。それを何かに還元したりなんたら主義者という説明をする必要もないし思想なんて常に変化して進化していくものだからそもそも形容できるものではないよね。

 

なんだろう、だからキリスト教徒ですっていうのは凄く嫌で語弊があるけどキリスト者ですって言うのはしっくりくるんだよね。まぁそれは色々と思想はあるけどファンダメンタルな部分では道元に帰依していますって告白するようなものと同じだよね。

 

なんか続き貼ろうと思ったんだけど長くなったから今日はこんな感じで。

 

んじゃまた。