規範的強制力。

ハルヒの消失見たんだけど長門ファンが増えそうな感じの内容だったなぁー。長門にもゴーストが宿ったのか。感情という名のゴーストが。そしてそこから生まれる愛が。あれだけ大変でも根底が愛なんで許せるっつーかハルヒのモチーフって面白いよね。まぁ俺がキョンだったら嫌だけどね。あんなの大変過ぎるから。こういうのを見たとき「いやー日本人で良かったなぁー」って思えるよね。ネイティブな感覚でこういうのを見れるってのは凄くいいよね。いや、まぁアメリカ映画もネイティブな感じで見られるようになるんだけどね。


まぁそれはともかくだな、あれなんだよね、「ウィトゲンシュタインはこう考えた」って本を再読したんだけど、凄くよく書けてる本だよね。これ。まぁそれとは対照的にどうもやっぱり前に書いたようにこういうのは肌に合わないっつーか「は?」って感じが常にするんだよね。ニーチェとかショーペンハウエルを読んでいると「そうなんだよな!それそれ!」っていう同感の感動があるんだけど、どうやらもう思考回路っつーかタイプが全然違うみたいで、ウィトゲンシュタインに感動を感じた事は一度も無いね。本当につまらないんだよなぁー。なんであんなに言語と論理にこだわるのか分からない。そもそも言語みたいな曖昧なもんで科学的な体系が出来るとでも思ってたのかな?まぁあの頃って論理学とかが成長してた時期っつーかまぁ発展してた時期だから分からなくもないんだけどね。でもまぁーつまらんな。本当に。最終的には良い帰結になったと思うけど初期とか完全にセカイ系になってたよね。この人。


デカルト系の引き蘢りな感じがするなってヒッキーな俺が言うのもなんだけど。合う人には合うんだろうなぁー。すげーハマるって人はハマるんだろうね。哲学って本当に相性があるよね。その人の思考形態が似てないとそれこそ電撃が走るような感じってのを哲学を読んでいて感じないよね。そういう意味で俺は学問として体系的に哲学やるつもりなんて最初から無いんだよね。むしろ地で哲学やっちゃうやつなんて体系的に出来ないと思うんだよね。好き嫌いが激しくて。でもまぁ体系的にやるのって哲学史なんであって哲学じゃないからね、まぁただ先人が考え抜いた思考のパラダイムってのを覗けるのはいいから、まぁやっぱ色々読むのはいいんだけど、深く読むかどうかはそれこそ相性だよね。


まぁそれはともかくだな、この本で言及されてるんだけど、2+3=5ってのは人間の認識が介在しないとそこに理解は生まれないっつーか命題的な意味ってのは無くなるんだけど、んじゃあ人間がいなくなったら2+3=5じゃなくなるのか?ってそうじゃないってことなんだよね。それを「規範的強制力」って言うらしいけど、ようはそうとしか考えられないというような自明さね。この強さがフレーゲゲーデルがあえてプラトニズムという苦い薬を進んで飲んだ理由だって書いてあるんだけど、それはすげー分かるなっていうかこれこそがプラトニズムなんだよね。プラトニズムって証明不可能なオカルトみたいな理論にしか見えない場合もあるんだけど、でもこういう数学的実在みたいなのを考えるときにはプラトニズムというのがピッタリ当てはまるんだよね。それこそがプラトニズムを表してるっていうかさ、だから結局まぁ善とか正義にもそれは言えるんだってことだよね。


やっぱ善とか正義に関しての相対主義ってダメでさ、善のイデアって必要っつーかその存在を認めて追い求める姿勢って必要だよね。それこそ人は殺しあわないほうがいいじゃん?餓えないほうがいいとか、殺伐としていないほうがいいとか、平和なほうがいいとか、それを求めるってのがようはイデアなんだよね。人間の生き方とか社会の理想的なあり方のイデアってのがあるわけだ。それは人によって違うって言われそうだけど、でも殺しあわない社会のほうがいいってのは当たり前じゃん?それこそが規範的強制力だよね。異常者とかじゃない限りそれは規範という以前にもう自明過ぎることであるっていうさ、そういうことだよね。


かといってまぁ一つのユートピア的な社会のあり方があるということではなくてさ、善の概念はイデアにあるけど、社会のあり方ってのもその善を元にした多様なあり方っていうかさ、つまりはでも根本はイデアなんだっていう。だから政治にはリアリズムも必要だけど理想主義的な観点も必要なんだよね。それが同居してないといけない。あとは政治を担う人々とか市民もそのイデアを追い求め続けないとダメだよね。


俺がここで書いてることとかも特に「そうに決まってるじゃん!」って言い切るやつに関してはもうイデア的なんだよね。いや、凄く困った人っつーか嫌な人がいてさ、んでもそんなに否定するのはダメだっつーか人間なんだから認めてあげないといけないとかさ、なんかそういうモラルっぽい決まり文句あるじゃん?それってのは実はポリティカルコレクトネスみたいなのを軸にした相対主義なんだよね。多様性の名の下に人に嫌がらせをするような人のあり方も認めなきゃいけないのか?ってそれはもうイデアを外れた外道だと思うから俺は尊重しなくていいと思うわけ。


迷惑かけない分にはいいけど嫌な思いをさせるとかさ、そんなの絶対イデア的に言って良くないじゃん?いいわけがないよね。そんなの。ただ悪いとも言えないってまぁそれは相対主義っつーかさ、変な社会の理論だよね。いや、社会性の名の下に認めることが大人であるみたいなさ、いや、むしろ正してこそ大人でしょうっていう。そういうやつがいたらクビにするとか争うとかしなきゃいけないと思うんだよね。そうじゃないと悪が蔓延るんだよ。言わば社会に自浄力みたいなのが無くなっちゃうわけだ。あからさまな悪すらも認めなきゃいけない社会なんていいわけがないわけで。


こないだ暴力の話で書いてのもそれだよね。そんなやつがいたらまぁ殴っていいわけだよね。問題はそういうやつが迫害とか受けずにやっていける社会が問題なわけだよね。そういうやつは自動的に排除されるみたいな世の中じゃないといけないよ。多様性というのはあくまで善のベクトルに対してのみ開かれているべきで、悪のベクトルに関しては認めちゃいけないんだよね。当たり前だけどさ、そんなもんは多様性とは言わないんだよ。あとは根拠を法に求め過ぎるのもダメだね。人として外道だけど捕まるようなことをしてないってんでもそれは外道なんだからやっぱダメでしょっていうさ、そこはナイーヴなぐらいまでのそれこそ道徳ってのを考えたほうがいいよね。道徳ってのはつまりは人の道なんだよ。哲学と一緒だね。完璧な徳には到達できないけど、道としての徳を求め続けるっていうプラトニズムだよね。徳という名のイデアを追求するというか求める姿勢が道徳だよね。だからつまりは悪の道はないわけだ。そこには。


そういう道を歩むように社会が促すってのは全然洗脳じゃないと思うんだよね。いや、ただそれが社会という機構がやるからには常にそこに批判的な観点ってのはなきゃダメでさ、それはまぁ市民のリテラシーだよね。絶対の徳の元で行われていたりすることも政治と同じで常にcheck and balanceのダイナミズムが無いとそれは腐敗するからね。自由意志もさ、善のベクトルだよね。当然。あとは善じゃなくても悪には開かれてたらダメだよね。自由といっても人を殺す自由なんてのはないんだよ。嫌がらせをする自由もないし、人を自殺に追い込む自由もないわけだ。そこで言えばやっぱ差別も同じだよね。差別を認めるやつもいるけど、やっぱあれは人類が歩んできた道徳の道によって形成されたものだよね。あ、つまりは差別しないという姿勢ね。これは絶対的な徳というかモラルと言っていいと思うんだよね。なので差別していいという自由はないわけだ。


自由も行き過ぎるとダメって言い方があるけどさ、行き過ぎるものなんて自由じゃなくて暴走なのよ。自由ってのはさっき書いた自由意志と一緒であくまで善のベクトルの中で自由が存在するべきなんだよね。そこにプラトニズム的な規範的強制力ってあると思うのね。まぁ残念ながら無いやつもいるんだけどさ、でもそれは無いやつに「お前はおかしい」って言っていいと思うのね。それは2+3=5を認めないような姿勢なんだから「それは間違いだ」って言えるじゃん?それも生き方だって認めるのはダメだね。そんな寛大さはいらないよね。それこそそんなことをしたら暴走する自由も認められることになるからね。そんなものは誰も認めたくないんだよ。


秋葉原通り魔事件とかを誰もが認めないというか悲劇と感じるのはプラトニズムだよね。人として心が痛まなきゃおかしいよねっていうそんぐらい自明なことっていうことだね。それはおかしいよねっていう合意があるルールみたいな規範ではなく反射的に違和感を感じるというか、事件に対して嫌悪感を感じるという心だよね。それはつまりは激しく善から逸脱した人間が行った行為に対する嫌悪感なわけだ。で、その嫌悪感はプラトニックなものなんだよね。ああいう人間を増やしちゃいけないっつーか、それは左翼的な観点から見ようがさ、若者を不安定にしてはいけないみたいなことになるんだろうし、まぁ過激な人ならあんなやつはすぐ殺せってことになるんだろうけど、つまりは事件そのものを憎むというか、あんなものがあってはいけないって思えるのはもう真理じゃん?それがつまりは善のイデアによって促されてるものなのよ。別に良心を持ったやつだけが心痛む事件じゃないでしょ?あれは。普遍的に惨いわけだよ。つまりはそれは善のイデアでしょ。ああいうのを求めないイデアなわけだよ。それは。つまりは正義ってそういうもんだと思うのね。俺は。秩序はイデアが無いとダメなのよ。


まぁそんな感じで今日はこの辺でいいかな。