何が作曲なのか?っていう。


佐村河内の指示書知らなかったよ!!いや、あれでいいんですよ!ってことですよね(笑)なんだーもっとちゃんと調べてれば良かった。前に書いた「一時期のDJワーク」の話はまさにこれなんだよね。ディレクションを直接出しながらやるかこういう指示書を出すかっていうことでテクニカルなことは全部エンジニアにやらせるっていうさ、いや、なんでただの皿回しが楽曲プロデュースしたりオーケストラ風の曲を作れたりするの?ってようはこれだからなんですよ。まぁバブリーだった時期はね。今はどうか分からんっつーか金回りが悪くなってそういう大掛かりなのを作れなくなった結果、エンジニア頼りだったような人たちがリリースできなくなったなんてことは余裕であると思うんですよね。あと一時期からやけにへたくそな打ち込みっぽい曲になったよなぁーこの人とかさ、そういう人いっぱいいるよね。明らかにエンジニア変わっただろとか自分でやり始めただろとかさ、まぁようはこれって佐村河内がプロデューサーで新垣って人がエンジニアって構図じゃないですか?


まぁただ畑がクラシックとか現代音楽だから許されないだけで他の分野だったらこんなのむしろデフォでしょっていう。むしろ誰の助けも借りずに自分で全部作れる人なんて少ないんだよ。まぁそういう人は大体自分のスタジオ持ってるよね。で、自室に篭って作業をするんだよね。「佐村河内系の作り方をしてた人たちはこういう人たちです」ってまぁ例を出せなくは無いんだけど別に批判するつもりはないし良いのが作れてたらいいと思うんでだから別にあえて言う必要は無いんだよね。別にそれ自体は悪いことじゃないし特に一時期のダンスミュージックがバブリーだった頃なんて常識だったわけじゃん?ってまぁ前に書いた内容とかぶるっていうかまぁようは指示書に関して言及できなかったっつーか知らなかったのがアレでさ、「いや、まさにこれなんすよ!」ってのを今知ったからさ、だからまぁ勝手にテンション上がってるんだけどね。


あとまぁ指示書を見れば分かるようにっつーか基本的に大体どの作曲家もこんな感じなんすよ。それを自分で書くか誰が書くか?って話でさっつーか話の要点はあれだ、ようは「ここはバッハ風に」とか「現代音楽となんとかの合間ぐらいの雰囲気で」とかさ、ようはそんなニュアンスばっかなんだよね。これってまぁようは概念のコピペじゃないですか?多分大抵の作曲家なんてこれをやってると思うんだ。今読んでるクラシックの本でもそういう話が書いてあってヘンデルなんかはコピペ王だったらしいんだよね。自分のも含めつつ平気で人のをパクるってのをやってたらしい。で、そんなヘンデルモーツァルトベートーヴェンから賞賛を受けるような「最高の作曲家だ!」なんて思われてたわけじゃん?実際はコピペだらけだったわけですよ。でもその中に自分のテイストとかも入れていったしまぁやっぱ基本はコピペでも天才肌なんですげー曲がかけたらしいけどね。んでホワイトヘッドが17世紀以降から二世紀半ぐらいは17世紀の頃のアイデアの蓄積を再利用した時代だなんつっててさ、まぁそれは音楽も科学もってことなんだけどまぁようは基本的にそれがデフォなんすよね。


で、クラブ音楽ってのはネタを引っ張ってきて作るとか真似るってのをやりながらスキルをあげていって最終的に完全に自分で作るようになるわけじゃん?だからサンプリングしまくってた人が「サンプリングはどうかと思う」とかって言い出したりするんだよねっつーか確か卓球が一時期そんなことを言っててめちゃめちゃ冷めたことがあったな。散々あんなにサンプリングしまくってきて自分で作れるようになったらこれかよ!っていうさ、ちょうどAがヒットして天狗になってた頃だったのかも分からんけどまぁそんなもんですよね。で、サンプリングとは別に基本的にこの佐村河内的な概念のコピペってのはぶっちゃけ大抵の人が色んな分野でやってるわけじゃないですか?基本的にまぁ最初は模倣から始めたりネタのサンプリングから始めてスキルをあげていくってまぁ確かピカソも言ってたよね。芸術は模倣から始まる的なことを。


で、まぁずーっと模倣とか「ここはバッハ風に」とかっていうことをずーっとやってる人もいるわけよね。いや、だからさ、この指示書なんてのもさ、問題なのは指示書でディレクションを出してるだけだったってことじゃなくて肝心の作曲の内容がコピペだらけだった!ってことでしょ。それをプロまでもが絶賛してたっつーのが何なのよ?って話でしょ?でもそれ言い出したら坂本龍一とか中田ヤスタカとかっつーかまぁ大抵の「クリエイター」なんていわれる人たちの仕事ってコピペですよね。むしろコピペから抜け出せないってのがポストモダンの地獄なわけじゃん?そういうのに現代芸術の人たちは意識的でウォーホールなんかはそれを逆に利用して自分のポップアートを完成させたっていうさ、で、今現代音楽にハマってるっつーのはまぁこういうのもあるのよ。ようは現代音楽の作曲家とかってもう半世紀も前ぐらいからこういうことに意識的で形式を無くそうとしたりっつーかまぁシェーンベルクとかメシアンみたいな形式の発展をさせた人たちっているわけじゃん?で、ポスト・セリエズムぐらいまでいくともうなんか音が全部似通っちゃうみたいな世界になっちゃってるわけじゃん?50年代の前衛的な形式なんかも90年代とかに批判的に分析されたらしいよね。まぁでもそれって色々と試してたわけじゃん?で、行き詰ってはまた色々と試して・・・っていうそういう葛藤の歴史なんだよね。で、特にその初期の前衛とかはそういう歴史とか発展が見えて面白いんだよね。まぁ歴史的な聞き方か。


まぁようは音楽を作れる手法とかって限られててまぁそれを突き詰めていくと無音になっちゃうとかさ、ほぼノイズになるとかなんだとか、んでかといってもメロディアスなんつってもそういうのってクラシック期とかに作られたモチーフの反復じゃん?あ、俺が読んでる本はあとで貼っておくわ。まぁようはビートルズとかモダン音楽なんてのもまぁようはそういう時期に作られたような手法によって作られるメロディの反復なんだよね。まぁでもビートルズなんつってもまぁ元々あの人たちってブルースをああいう形式でカバーするってのをやってたんだよね。黒人音楽ってのはやっぱ独特で元々は土着のものじゃん?んでもまぁ結果的に白人が搾取してロックにしたりしたわけよね。だからまぁそういう意味で音楽のルーツって西洋の古典音楽からの流れと黒人音楽との流れっつーまぁ大きな二つの流れがあるわけだよね。


んでまぁ結局はモダン音楽ってことになるとまぁ混ざり合うんだよねっつってもミクスチャーというわけではなくてまぁ色んなもんが応用されるわけだ。まぁでもそんな中で「モリコーネ節」みたいなさ、応用なんだけど節がある「なんたら風」って形容されるぐらいのアイコン的なサウンドを生み出す人たちもいるよね。こういう人たちはやっぱりまぁモダンであれ凄いんだよね。いや、それで言うとまぁやっぱさ、デリック・メイとかホワン・アトキンスみたいなデトロイトテクノってのも流れ的に面白くて、あれってクラフトワークみたいなドイツの元祖テクノ!みたいなのと黒人だったら大抵聞いてるようなファンクとかってのが混ざって出来上がったんだよね。まぁそれはデトロイトテクノの映画があるんで後で貼っておくけど。


で、そのスタイルに影響を受けつつもやっぱり「節」がある人がいるじゃないですか?ケン・イシイだよね。まぁなんだかんだでやっぱこの人はオリジネーターだよねっていうか大枠での影響はあれ「ここはバッハ風に」とか「ここはディスコ風に」みたいなブロック的なコピペの作り方をする人じゃないじゃん?まぁ中にはそういう感じで作ってるやつもあるのかもしれないけどまぁ凄くこういう人は稀ですよね。だって何かしらで何々っぽいじゃないですか?だからまぁあれなんだよね、あんまり音楽を聴いてないライトな人たちに受ける音楽って表層的なんだよねっていうかまぁようはそういう連中って深く音楽を聴いてないから実はこれってのはこれのパクリでとかモチーフそのまんまで・・・とか分からないじゃん?


いや、まぁそれのほうが当たり前なのよ。俺もそうだったわけで。で、色々と知るようになると「オリジナルなんてほとんど無いじゃん!」ってことに気がついて結構つまらないもんだなぁーって気がつきつつもまぁ例えば俺がそうであったように生演奏っつー人間の身体性みたいなところに魅力を感じるようになったりさ、ようは形式とか構造ってのはもう出尽くしてたらあとはもうハートだけじゃん?んでもまぁ佐村河内の作品ってのは本質的にコピペなわけでさ、んでもそれは結局無知な人たちから天才扱いされるわけじゃん?耳が聞こえなかったってのはともかくとしてコピペなのは構造的に分かるからね。でもそれはクラシックとか現代音楽を聴いてないと分からないわけでさ、んでもまぁそんな人滅多にいないじゃん?で、まぁ「今話題の作曲家!」っつって紹介されるようなCDに飛びつく結果、そういうコピペの作品が10万枚売れたりするわけでしょ?そっちのほうがよっぽど問題なんだよね(笑)指示書だったなんつーのは最初にも書いたように出版でさえそんなの割と普通じゃないですか?でもまぁ根本的なアイデアとか内容ってのを本人が出してたりすればそれは作曲だと思うんですよ。だからまぁ最近俺が書いてる音楽の話の流れから言うと佐村河内は詐欺師でもなんでもないんだよね。立派かどうかはともかく作曲家ですよね。あそこまで緻密な指示書出してれば余裕で作曲でしょう。


いや、だからちょっとあれよ、ミックス待っててよ。マジで。佐村河内ミックスって名前にしようかな(笑)楽譜は読めなくはないけど作曲できない俺がコピペで現代音楽作りました的な。まぁでも何回も言うようにリミックス的な感覚とか二次創作っつー概念で言えばむしろこれでいいんだよ。これでも成立するからやれる人は著作権どうのとかって気にしないでそれを作って売ったりしない限りはフリーでやったほうがいいよ!ってことなんですよね。まぁ俺もいつかビッグになったら優秀なゴーストライター雇いまくって死ぬほど作曲してやるし本を書いてやりますよ(笑)今はなんで出来ないかって?優秀なゴーストライターやエンジニアが雇えないからなんですよ(笑)


まぁそれと成功は別としてようは何が言いたいのか?っていうと「言いたいこと」とか「アイデア」があればあとはアウトプットの技術の問題じゃん?でも俺みたいな眼高手低は腐るほどいると思うんだよ。でもその「眼高」って部分に注目するべきなんじゃないかな?って思うんだよね。面白いアイデアがあればそれでいいじゃん?低い技術力やスキルの無さはそういうのが得意な人に任せればいいわけで。いや、俺もやろうと思えば打ち込みはできなくないしっつーかまぁやってたんだけど駄目なのはとにっかく面倒なんすよ。もうすんげー時間かかるの。だから本当にこういう「何々風で」っつー指示だけで作曲するって一回でもいいからやってみたいんだよね。


いや、だからそう思うとさ、多分作曲できるやつって実際めちゃめちゃ多いはずなんだよ。本を書けるやつもいっぱいいるでしょう。いや、世に出れる人ってその両方を兼ね備えてないと無理なんだよね・・・ってことになってるんだけどそんな中でもろに指示系の作曲をする人が天才って言われてたってことでまぁスキャンダルになってるわけじゃん?いや、だからようはなんかそういう世俗的な成功ってそこじゃないですか?佐村河内的な手法を使えば作曲できるやつは腐るほどいるけどネームバリューが無いとかチャンスが無いとかさ、まぁ技術力があっても世に出れない人たちが多いわけだからね。そんな中でまぁたまたまチャンスがあった人が豊富なリソースを使えることで成功できるってこともあるってことだよね。んだからまぁんでもそれが自明なんだよね。だからこそ「あいつだゴーストライターなんてズルイ!」みたいなことにはならないわけ。そもそも世の中がそういうもんなんだからそれはしょうがないじゃん?それはオワコンシリーズでも散々書いたことじゃん?それは自分がどうなったって変わらないわけだから。


・・・とまぁそんな中で自分を見つめるともうなんか技術力の無さを嘆くしかないよね。んでもそれでやれないってことにしたくないんで「これは俺が作りました」ってつもりで勝手にマッシュアップとか今作ってるやつとかも作ってるわけじゃん?まぁ俺なりのアウトプットですよね。んでもまぁじゃあネットに出して注目を集めるか?って集めないんすよね。良いのを作れたところで別にそれは良いってだけで何にもならないんだよね。それと成功って全然別な話なんだよね。で、まぁそこで俺がアクセス数主義にならないで作ったもんはクラウド化するべきって言うのはさ、アクセス数はたいしたことなくても実際に俺のミックスとかマッシュアップを死ぬほど聴いてくれてる人ってのも実際にいたわけよね。んでもまぁそれは再生数としては出ないけどんでも実際にその人が聞いてる回数って物凄かったりようはそんな何回も聴かれてるってこと自体が凄いのよ。大勢に一回聴かれて終わりよりも精鋭に聞き込まれたほうがよっぽどいいんだよね。で、あいつのが出たら大体はチェックするみたいなさ、一応「チェックされる人」とかになったらそりゃ凄いんだよね。それってまぁようはファンってことだからね。


だからまぁようはさ、あとはもっと便利になれば技術力の無さなんてなんとかなるようになるんだよ。だからこそ「誰でも作れそうなもの」の価値って相対的に下がるじゃん?「こんぐらいデフォにOSでついてくるソフトで作れる」みたいになっちゃうわけじゃん?昔はトラックが作れるってだけで特権的だったけど今は全然そうじゃないからね。特にミックスなんて本当に増えまくってるよね。だから本当に面白かったり良いのしか聴かれないじゃん?だからやっぱ肝心なところって面白さっつーかさ、独自性っつーのかな?必ずしもオリジナリティってことじゃなくて、例えば俺がハズウェルに感じるようななんとも言えない魅力っつーのかな?決して良いとかじゃないしむしろ聴いてて不快になるようなものもあるんだけどそれも含めて好きなんだよね。なんかそういうフレーバーが出てるものってのが結局は面白いものっつーかさ、まぁそういう価値を見出されればそれって必ず聴く人はいるからね。あとまぁ本当になんつーのかな?佐村河内事件って良かったと思うんだよね。譜面が読めなくてもアイデアだけで音楽が作れる!ってことを音楽業界の構造も含めて証明したわけじゃん?


だから技術が無いやつでもとりあえずなんかやってみたいってやつはやったほうがいいんだよね。最初はコピペでもなんつーかそれは「今はコピペでスキルを磨いてるんだ」とかって思えばいいんだよね。最初からオリジナリティ云々とかってことに悩みだすと結局何もやらないままってことになっちゃうからね。でもまぁ人より音楽を聴くし知識もあるんで必然的にそれって眼高手低になるんだよね。まぁだからスキルを磨け!ってことにもなるけどまぁ例えば現代音楽の楽曲を書くなんて相当大変なことだからまぁ無理じゃん?んでもまぁ俺がやれる中で勝手にやっちゃえばいいじゃん?っていうさ、それで食うわけじゃないんだから何をやってもいいのよ。そうやって作ったほうが絶対面白いのが出来るんだよねってまぁ散々こういうこと書いててミックスアップしてつまらないとか言われたら死にそうになるけどそれ以前にまず聞かれないだろうなって確信があるよね(笑)ましてやあんな聴きづらいものを頑張って聴くなんて聴いてくれる人なんてほとんどいないだろうっていう。でも自分の中で今やれる中でこれが作りたかったんだ!ってことが出来てればそれはとりあえずそれでいいんだよね。っつーか思えばウォール伝自体奇跡だもんな。よくもまぁこんな長いものを読んでくれるよなーって本当にありがたく思ってるんだよね。でも音になるとなかなか付き合ってくれる人はいないよね。でもまぁそれはしょうがないかなって割り切るしかないよね。


まぁあと基本的に自分は普通から見ればキチガイレベルのマニアックであるってことを自覚しないといけないよね。まぁそれは自覚してますよ。そんなマニアックなやつがデフォで誰も聴かないようなものをさらにミックスしました!なんてダブルな意味で聞かれないじゃん?例えばそれがクセナキスだったらとりあえずクセナキスってだけでなんかとりあえずかっこいいしクラシックを教養的な意味で聴くって感じで現代音楽を聴けなくもないよね。そんなのクズの音楽の聴き方だって思うけどまぁそれはそれでいいんです。でもマニアックなやつが編集したクセナキスなんて誰も得しないじゃん?(笑)「へぇーこんなの聴いてるんだー」なんていうステータスにもならないし何にもならないよね。ただそこにあるのはなんだかしらない不気味な雑音だけっていうさ、そいつが勝手にいじったことでクセナキスっていう原型すらもなくなってたら全く価値ないもんね。いや、だからこそ残るのは音自体じゃないですか?だからそれでいいんだ!って思うんだけどそこまで付き合ってくれる人はいないってことだよね。でもいつも思うんだけど俺ってデフォでウォール伝上でしかコミュニケーションできる人がいないんだよねっていうかここで成立しているような話を出来るような人なんていないわけだってまぁそれはいつも書くように色々と考えているタイプの大学生にとっては今の大学なんて馬鹿だらけで地獄だってことなんだけどさ、いや、大学ですらもそうなんだからさ、普通にしててまぁまず普通にはしなさそうな会話を出来る人を見つけるなんて無理じゃん?


で、幸いなことに俺はこの場で知り合えた人ってのがすげーいてさすがに長くやっているとリアルで知り合って色々と話せる人よりも多くなってるんだよね。まぁそれはなんか脳内をオープンにしてるからこそそこにアクセスしてくれる人もいるってことなんだよね。で、俺がそのクラウド化するっつーのってようはそこなのよ。音楽はウォール伝ほど接してくれる人は多くなくても音楽も作ったものをオープンにすることで聴いてくれる人もいるわけじゃん?多くなくても聴いてくれる人がいるだけで凄いし、さっき書いたように「常にipodに入れてます」なんて言われたら歓喜ですよ。いや、正直、それが金になるなんてよりよっぽど嬉しいことだよね。


いや、そもそもその「嬉しい!」っていう基準が成功っつーのもさ、ようは成功ってお金って意味も多くあるわけじゃん?でもそれってよく考えるとおかしいんだよね。それでこんだけ稼げたから嬉しい!ってまぁ対価を払ってくれる人がいたから嬉しい!と言えるけど、それ自体としては果たしてどうなのか?ってことじゃん?お金になるか少ない人ではあるけどすげー何回も聴いてくれる人がいるかって絶対後者のほうが音楽って意味ではなんつーか作ったことに対する報酬の価値が高いと思うんだよね。金なんてそもそもシステム的に作られたイリュージョンじゃん?それ自体に価値があるわけじゃなくてとりあえず手に入るいかなるものとも交換価値があるって意味で相対的な価値があるだけじゃん?そういうシステム的な意味でのクーポンを得られたってことで
嬉しさもあるだろうけどさ、でもそれってまぁ副産物じゃん?音楽そのものとしてみたらその人の手に渡って聴かれているということが価値じゃん?それを渡したときにいただいたクーポン自体に価値はないよね。


まぁお金ももらえれば嬉しいけどクソマニアックなものなんてまず「聴いてください!」ってお願いするしかないじゃん?ましてや何でもフリーのこのご時勢にそれで金をもらうなんてとんでもないと思うんだよね。まぁようは「似たようなものを作ってる連中はいっぱいいる。そんな中でなんで君のこれに時間を割く必要があるのかね?」ってことじゃないですか?なんでもフリーってのが良いかは別としてフリーになっちゃってるからさ、でもまぁなんつーかそれによって結果的にその音楽自体は聴かれることが価値なんだっていうさ、ようは価値を見出されるっていうこと自体が価値っていうそこだけしか残らないじゃん?ただですら食えなさそうなものがさらに食えなくなって食えてた人たちですら食えなくなってるってことはもう貨幣によって交換されるものじゃなくなったってことだよね。実際にアルバムをタダで配布してライブで稼ぐってことをやってる人たちって多いんだよね。別にそれは日本に限らずね。


まぁタダでも良さそうなものをライブでもそれと同じものを流すっつーのが成立してるってことはまぁそれってもう音楽どうのっつーよりかはその人たちじゃん?アイドルなんかではそれが顕著だけどよく考えればカリスマっぽい人とかさ、あとはイケメンとか美女とかっていうのも大体それじゃん?すげー綺麗なハープを弾ける人はいっぱいいるけどその音のイメージにぴったりな外見を備えてる人って滅多にいないでしょ?だからエレガントなハープ演奏って意味ではそれは別にレアじゃないんだけどそこに「見た目」っつー音楽とは関係ない外部情報が乗っかると価値が出るって言うかまぁだからあれじゃん?クラシックとかでも美人なバイオリニストとかピアニスト多いじゃん?本人の笑顔がそのままジャケになってるようなさ、不細工だったら成立しないんだよね。これ。でもバイオリンの音を聴くときにその人が美人かどうか?って関係ないじゃん?


でも特にコンサートなんかでは見た目が重要だからんだからまぁクラシックとかってあんな美男美女ばっかなんだと思うよね。まぁ元々音大とかに行くような人たちは血統が良いから見た目も良いなんつー倫理的には認めたくないような事実があったりしつつも結局はその希少性ってそこじゃん?就職とかでもそうじゃん?めちゃめちゃ仕事できるブスとそこそこ仕事が出来る美人だったら大体後者を選ぶでしょ?っつってもまぁ組織内のダイナミズムで考えれば美人であるってことが組織的なものにもたらす良い影響ってのがあるかもしれないからそれは合理性という意味で説明がつくかもしれないけど音楽に関しては関係ないじゃん?でも関係あるんだとしたらようはそれってプロモーションの問題じゃないですか?めちゃめちゃ不細工なバイオリニストのアルバムって見たことないもんね。みんな美人だったり美男子だったりするんだよね。若手指揮者みたいなのでも「プリンス」なんて言葉がぴったりな感じの気品があるやつだったりして。


んだから逆にそういう外部情報を無しに音楽を聴くなんてことはそもそも無理なんじゃないか?って話にもなってくるよね。まぁ俺はマニアックなんでこんなことが言えるんだけど所謂「普通」な感じでいけば結局は大抵は見た目とか雰囲気みたいな外部の情報なんじゃない?ってことだよね。うちの母がスティングのファンなんだけどなんで好きか?って見た目が好きなんだよね(笑)不細工が同じ声でも多分ファンになってないと思うんだよ。いや、俳優とかは別じゃん?必ずしもかっこいいってことだけじゃなくてやっぱり雰囲気とかさ、見た目とかって大事じゃん?でもそれは根本の芝居というところから見れば邪道なんだろうけどさ、んでも実際に映画とかドラマっつーのは視覚情報なわけだから見た目の重要さってのが出てきちゃうのは分かるんだよね。そこに行き過ぎてないか?っていう話はそりゃあるだろうけどそれはやっぱり結局は人間って見た目で判断する軽薄さがあるわけでそれはしょうがないかな?って思うんだけど音楽で見た目重視って何なの?って話ですよね。いや、声優なんてそうじゃん?アイドルとして成立するぐらいじゃないと成功しないわけでしょ?


んでもこれが現実なんだってことを理解しなきゃいけないんだよね。それは俺の力が及ばないから人が見た目で判断して何でも見た目重視になるっていう傾向になっているってことじゃなくてそれはもう大きなシステム的なダイナミズムでマルクス的な疎外ってことですよね。自分じゃどうにもならないしどうにかするようなことでもないわけじゃん?だからまぁそういうもんなんだっていうさ、嘆いててもしょうがないし絶望してもしょうがないし文句を言ったところでそれはまぁ大体大衆批判みたいな感じで終わるからどうしようもないってことでまぁようは自分のリアリズムの追及ってことになるわけじゃないですか?世の中はこんな感じで腐ってるけど自分の中にはしっかりとした価値観とか基準ってのがあってそれをベースにして生きてるっていうさ、まぁ社会との兼ね合いが大変だけどでもまぁそういう価値観みたいなところに汚らしい社会から干渉されないように生きるっていう生き方も一つじゃん?高潔なんていうつもりはないけどね。んでまぁそんな中で何をやっていくか?っていうことの中でまぁ今の俺は現代音楽のミックスを作ろう!ってことになってるんだよねって話になるんだよね。


概念的に作曲できてればそれはもう作曲なんだって言ったところで同意が得られるわけじゃないし、そもそも普段ウォール伝を読んでくれている人たちですらもこれは読まないかもしれないしさ、そんな中でまぁ色々とこうやって考えてる中で「これもコンポジションっすよ」なんつって作り上げたのがありますなんつったってまず伝わらないし伝わりづらいしあと音自体もマニアックで広く聴かれるようなもんじゃないしさ、んでも俺はこれが作りたかったんだったらそれでいいのよ。で、中にはそれに共感してくれる人もいるかもしれないし、とりあえずこういうのを書いてアップしておくっつーのとあと音へのリンク的なものもあったりすることで例えば今は13歳で音楽も聴いてないけど5年後に18歳になっててまぁなぜか現代音楽を聴き始めたなんて人がたまたま何かを調べてたら俺のウォール伝に行き着いてんでそのミックスとやらにたどり着いて聴くって場合もあるわけじゃん?そこで「おーすげ!」ってことになればもう凄いことなんですよね。その可能性がゼロじゃない限り絶対にそれはどっかに置いておくべきなのよ。あとまぁ可能な限りそのときの自分が出来る範囲では納得するものを作るってことだよねってまぁそれは何を作るにしても当たり前のことなんだけど。


だからそういう意味で言ってることもよく分からんし作ってるものはもっと分からん!ってことになればまぁその「誰かに聞いてもらう」ってことが絶望的になるじゃないですか?でもとりあえず俺はこう思うしまぁそんな感じでこんなのを作りましたってのがあれば反応する人はいるかもしれないんだよね。そういう意味でアクセス数が少ないから人気が無いみたいに考えるんじゃなくて分かる人はめちゃめちゃ理解して聞き込んでくれるかもしれない!っていう潜在性を信じるしかないんだよね。いやさ、あとまぁネットとかってランキング的な数字とかでも出るじゃん?そういうので錯覚なんだけどアクセス数が多いものが良いとか凄いってことに見えちゃうんだけどさ、それってまぁ結局あれじゃんね?売れてるから凄い!ってこととなんら変わりないじゃん?多くの人に聴かれないから価値が無いのか?ってそんなことないんだよね。価値が見出せる人にはめちゃめちゃ高い評価をもらえる!みたいなものを作れば良いのよ。まぁこれって行き過ぎると評価なんてどうでもいいってことになるんだけど、そこはやっぱりなんつーか分かる人なら分かるセンスっていうところでは常に高いところを狙いたいじゃん?そこは重要なのよね。広く聴かれないからルーズな意味でやりたい放題ってことにはならないってことね。まぁようは押さえるところはちゃんと押さえてるっていうところですよね。なんかそこは「ただのめちゃくちゃ」との明確な違いですよね。


なんか色々と書きすぎてミックスのクオリティに関する敷居がめちゃめちゃ上がっちゃった気がするな(笑)っつってもまぁそれって自意識過剰で別にこれを読んだ人がみんなそれを聞こうと思うか?なんて全然別のことだからさ、まぁあと別にこれって前ふりじゃなくて最近書いていることと色々と関係することっていう話の一環だからね。あ、あとさ、勘違いしてほしくないのは自分が世に出れないとか評価されないのはシステムが悪いからなんだって全部それのせいにするっつーやつね。これは完全に負け犬ですからね。全部システムのせいにしたくなるようなどうしようもない感じってのを認めることの重要さだから。その上で何をやるのか?ってことなわけで。あと佐村河内なんだけど概念のコピペでもそいつが作ってれば作曲なんだっていうところと偽装ってのはまた別だからね。こいつが悪質なのは指示書型の作曲というのと偽装ってのがセットだからなんだよね。いや、指示書型の作曲が成立するなら共同制作ってことにしておけばよかったんじゃないか?みたいな意見もありそうだけど、これってそういう問題じゃないじゃないですか?それはまず本人の色んな意味での偽装と実際はコピペのたいしたことないのを天才だとかって取り上げたメディアだとかってこととかっつってもまぁ偽装の部分は同意を得られそうだけどメディアの部分は反感買いそうだよねっつーのもたいしたこと無いものを天才だ!っつって祭り上げてそれに喰らいつく大衆っていう構図を批判してるわけで、んでもそれは騙されてたんだっつっても色んな偽装があれどまぁようは根本は音楽じゃないですか?逆に変な話、偽装してても音楽自体がとてつもないものであったらそれはそれで凄いわけだ。


でもただのうそつきだったからってことで評価がガラッと変わるっておかしいよね。ヘンデルは実際はコピペの達人だった!って事実があってもヘンデルの諸作品の素晴らしさは揺ぎ無いわけでしょ?音楽そのものの評価をしてればむしろこういう外部情報なんて関係ないはずだからね。んだからまぁみんな音楽を聴いてるようで聴いてないなんつーまた大衆批判になるんだけどまぁこれも結局は「大衆ってそんなもん」ってことになるんだよね。まぁでも問題はもっと深くてプロの音楽家までもが高い評価をしてたってことだよね。これってまぁ小保方の早稲田問題と似てて何はともあれ嘘だったり虚構なものを見抜けないでアカデミックな評価をして学位まで与えちゃったってことと一緒じゃん?プロとかクラシック業界がこんなのを評価してたってことに問題があるよね。しつこいようだけど騙されてたんだっつっても音楽自体が凄かったら関係ないじゃん?もちろん道徳的な問題はあるけどね。なんかそういう評価する側の沽券に関わることがシンボリックに浮き上がった感じだよね。だったら評価されてるものって何なの?ってことになっちゃうじゃん?化けの皮が剥がれる感じだよね。


でもまぁ大学生とかの内部告発とかも出てるように「コピペなんてむしろデフォなんですよ」とかって話があるわけじゃん?で、音楽でもまぁコピペってデフォなんすよねっていうさ、まぁ全然意味合いが違うし、コピペっつってもコピペの意味合い自体が違うから同等には語れないんだけど問題の構造が似てるってことだよね。まぁようは数学的っつーか圏論とかで見た場合、扱ってるものとかが違っても構造が似てたりするってことがあるじゃん?そういう構造的な類似ってことなんだよね。で、まぁ根幹の「われわれは何を見、そして評価をしているのか!」ってことがめちゃめちゃ揺らいでしまうっていうさっつってもまぁそこまで重く捉えられてないんだろうなぁー。またそこってなんかまた期待しちゃうんだよね。根底が揺らいだのだ!っつってもこんなに大事でも事件が風化することってあるからね。いや、実際に事件後の対応として事件が風化しやすいっていう大衆の性質を利用してなぁなぁにして風化を狙うってやり方あるじゃん?それってまぁ舐められてるんですよ。


詐欺師とか騙す側にね。それって嫌じゃない?俺みたいに「大衆はアホである」ってはっきり言うやつ以上に大衆はアホであるって思ってるのがそういう風化を狙ったりするやつらなんだよねっつってもまぁ政治家なんで大体そんなものだし統治論的なものには大抵同じようなことが書いてあるんでまぁそれはもう大衆がアホであるというのはやはり事実として受け入れるしかないんだなってことになるんだよね。っつっても別に騙される側が悪いって話でもないんだけど、ただ小保方にせよ佐村河内せよ専門家が騙されてたっつーのがやっぱデカいよね。普通の人はそんなもん分かるかよ!って話なわけでしょうがないんだけどさ、専門家すらも騙されるってそりゃないだろう・・・っていうっつってもまぁ小保方にせよ佐村河内せよこれまた両者に共通してるのは理研とかクラシック業界の一部ってのが結託して詐欺行為に加担してたってことだよね。だってそりゃ知ってる人だっていたでしょうに。佐村河内はヒットメーカーだからしょうがないって黙ってた人もいるわけでしょ?だってあんなのああいう契約形態なんだから知ってた人なんて腐るほどいるわけじゃん?っていうか最初に書いたように出版にしても音楽にしてもゴーストライターってデフォじゃないですか?デフォは言いすぎにしてもまぁ蔓延してますよね。でもこれ自体を問題にしちゃったらこれもまた根底を揺るがすような問題になっちゃうんだよね。別にここだけの話じゃないでしょっていうさ、「騙していた」という責任を佐村河内だけに押し付けるのはおかしいよね。そりゃ小保方然り。もっと組織的な責任ってのを考えなきゃいけないし、両者ともにそういうのの尻尾きり的なスケープゴートにしちゃいけないってことなんだよね。そもそも一人で詐欺師を演じてて成立するような単純なものじゃないわけじゃん?みんな騙されてました、はい終わりじゃないでしょ?


いや、ゴーストライターとか普通にやってるところとかが今は結構警戒してるんじゃないかな?あとは実際に自分がゴーストライターに書かせてるような人たちはあんまり言及することを避けるとかなるべく火消しに協力するとかさ、こういう権力的な構造ってあるじゃん?俺がもっとも嫌うタイプの組織的なダイナミズムですよね。「これを悪としたら俺も知り合いもほとんど悪になっちゃうな」なんてことになる人たちいっぱいいるでしょ?っつってもまぁ火消しに協力するわけではないんだけどゴーストライター自体は作品を作り上げるようは生産のプロセスの一種だからね。いや、漫画家でもゴーストライターで有名な人たちとかいっぱいいるじゃん?でもまぁそれってようは時間の話でさ、その人と全く同じ画風で書けてその漫画家が書いたシナリオとか構図通りに書けてればまぁそれってまぁある意味でのオートメーションじゃん?むしろそれやってないと仕事が成立しないみたいな人たちもいるわけじゃん?だからまぁこれの問題についてはまた全然別なんだよね。これに関しても散々書いてるようにまぁ確かに読者を騙してるみたいなことにはなるんだけど、んでもまぁ根底の内容とかについては完全に著者がやっているってことであれば別にいいんじゃない?ってことだよね。まぁあとは文章を作成したのは誰々ですみたいな表記をさせるとかね。まぁそれがルールになっちゃうと困る先生方が大量にいるだろうから無理だろうけどね(笑)


こういうことに関しては都合が悪いって人たちが相当多いよね。小保方事件にせよ佐村河内にせよ。でも佐村河内とかそういうシステムでビジネスを成立させてた一部の連中ってのはまぁリスナーを騙してたやつらってことでカタがつくかもしれないけど小保方に関しては完全な国賊ですからね。国の名誉を傷つけたってのはそれだけでかいわけだ。だからいくら両者は似ているとか類似点がどうのなんて言ったところで事態のデカさが違うわけですよ。っつってもまぁ特に小保方の身の危険という意味では「似てる詐欺師たち」ぐらいの理解でいてくれたほうが変な事件的なのが起こらなくて安全って面はあるんだけどねってまぁこないだ書いたことだけどね。


まぁこれも錯覚の一種ですよね。構造が似ていても要素が全然違ったり事態の大きさが違ったりすれば両者は似ているようで全部別物じゃん?でも「似たようなこと」みたいなことで分別するっていう錯覚があるよね。これで大事が小さくなることもあるんだろうなとは思ったよね。あとあれね、やっぱり俺は言いたいことがあれば相変わらず長く書くんだなってことですよね(笑)そういう意味で特に話すことが無い=あんまウォール伝が更新されないってことになるんだよね。んでも話したいことって年々減るからね。言いたいようなことを言い尽くしちゃったら何を言えばいいのか?っていうさ、似たような話を繰り返ししてもしょうがないしなーとか思いつつ今回みたいに言いたいことがあると相変わらず長く書くんだよなーとか思ったりしたんでしたよね。


あとまぁ書き忘れたけどさ、組織的な火消しって意味だと「全部自分が悪うございました」って言えば実際に関与してた連中が火の粉をかぶらなくて済むって話があるじゃん?「僕がディレクターを騙していた」なんつってもそんなのも組織ぐるみだからどこまで本当か分からないよねっつーかそもそもあんな大きな嘘って一人の詐欺師が演じて成立するようなもんじゃないじゃん?小保方はデフォで大きな組織的な関与ってのが明白だけど佐村河内場合「全部自分が悪うございました」って言えばうやむやになる事実ってあるよね。そこはまぁ基本的にあんだけ人を騙してたやつが言うことなんだから胡散臭いって思ってたほうがいいよね。組織的なのは明白なんだから。ましてや元々衰退してるクラシック業界でヒットメーカーなんてレアな存在なわけでそういう業界がどういうところまで関与してたのか?って気になるところではあるよね。


ってことでんじゃまた。



http://www.youtube.com/watch?v=TlDMoI0ExS8


4/10追記。俺のやつの完成品です。


https://soundcloud.com/mimisemi/assemblage