あけおめー!。

能年ミックスなんだけど俺がやってるのっていわゆる「あげ」なんですね。リンクを最新のエントリーに貼ることで無理やり聞かせようとしているっていう(笑)あ、んでハウスのやつできそうだから近々アップするね。


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追記。できたんでアップしました!っつーかTrilogyじゃなくなったけどまぁあっちはTrilogyでいいか。一応能年ミックスVol.4だけど番外編の能年ハウスってことにしておこう。あー車で爆音で聞きたいわー。ドライブしながら。免許持ってないけどー。



https://www.mixcloud.com/Mimisemi/nounen-mix-vol4/


ってことでやっほー!あけおめー!年末年始なのにも関わらず日々の生活は全く変わらずでなおかつ躁状態が永遠と続いてる最近ぶっ飛ばし気味な私ですが幸先の良いエンジンのかかりっぷりで2016年も爆走したいと思っておりますっていうか最近点を打たないで書いてるじゃないですか?メモで全部つなげてガーッと書いてるけどあのほうが書きやすいし読みやすさとかもういいかなと思ってるんでなるべく点を打たないで書きたいと思ってるのとあとぶっちゃけいつもどこで丸をつけていいのかとか点にしてもそうなんだけど結構考えちゃうんだよね。基礎的な文章の書き方が全くできてないからわからないんだよね。でもまぁそれも「ありのまま」でいいかなーとか思ったしあとまぁ原点回帰みたいなところもあるしね。そういうわけでだいぶまた哲学とか政治哲学に没頭してる感じだけどあくまでやっぱり動機づけが実存的なものだよね。自分ってのを主軸にしてどう考えていくか?とかこんな感じなんじゃないか?っていうのを考えていくってことで別に人生論とか社会への処方箋とかを探してるわけでもないしそれがまぁ本当に原寸大の自分だなとも思うしね。そんなわけでネグリからスピノザからまた色々とマイブームが来てるっつーかまぁ前に書いたイーストヴィレッジの頃の感覚ってことなんだけどそれで言うとシュトラウスが改めて凄いなって思ってさ、色々とまた再読しようかなーと思ってるのとあとまぁイーストヴィレッジの頃の英語力って怪しかったからあの頃英語で読んでた本とかもどんだけ理解してたか怪しいんだよね(笑)そういうのも含めて再読しようと思ってるんだけどね。


まぁそういう意味で最近の俺の何週か回った上での善とは?とか徳とは?とかどう生きるべきか?っていうこととかなんだけどそういう意味で古臭いんだけどマッキンタイアのafter virtueを学校の隣のbarnes and nobleで買ったのを思い出したけど難しかったっつーか単語が分からないのが満載で挫折した気がするんでまた読もうかなと思ったりね、まぁ結構覚えてるけど精読しようかなって思ってるんだよね。今は当時と違って時間あるからたっぷり読書に使えるからね。いや、まぁそりゃニューヨーク時代も時間はあったけどやっぱ学校あったしほとんど宿題とかやらなかったしテスト勉強とかもやらなかったけどでもやっぱまぁ拘束時間長かったからね。学校行ってるのにそれが拘束時間とかなかなか笑えるけどまぁ読書三昧ってのがね、それは数学にシフトしてからもそうだったけどそれが一番重要だったんだよね。


で、今となったらさ、逆に外に出るとか誰かと会うとかなくなったけどその分死ぬほど時間あるんだよね。あとニューヨークの頃はとにかく本読む時間が欲しかったから家事とか飯とかもなるべく時間かけないようにしてたしその早飯みたいなのが今も身についててさ、だからみっちり本を精読できるんだよね。当時は読みたい本とか哲学をやる上で最低限知っておかなきゃいけないこととかが多すぎてとにかくあたふたしてて乱読状態だったんだよね。今もまぁある種乱読だけど精読しつついろんなジャンルを横断して精読してる感じで明らかに読書のクオリティは上がってるし理解度も上がってるよね。英語力も上がってるし何よりこんだけ英語で読書ってのを続けてればさすがにわからない単語とか無くなってくるからね。


まぁなんだろうね、ネグリ的な革命的主体ってのとシュトラウス的な絶対的な善を求める感じと権力志向ってのが融合しててさ、まぁそりゃそうだよね。そういうの読んでて影響されてるから俺の主体性に影響するのは当たり前なんだけどそれが前は粗野だったんだけど今は洗練されてきた感じなんだよね。より理解度が高まってるから精度みたいなのが上がってるっつーかさ、それをまぁすげー感じたからだからまぁ改めて色々とやってみようかなって思ったんだよね。でも俺が好きなのって最初から読んでもまずわからないのばっかだから色々と読んできた結果、きっかけがあって戻ってきて色々と理解できるようになってる!って思ってまた取り組むってまぁ自分のバージョンアップだよね。ただまぁ読む量が半端じゃないよね。すでに本代が相当ヤバいことになってるからまたママンに注意されそうだけどまぁしょうがないよね(笑)昔の学者とか哲学者も本買いすぎて借金まみれになったりしてた人とかいるしまぁいいんじゃないですかね。


まぁでも大体は手元にあるから実際は昔ほどは買う量は多くないけどでも日本にいると邦訳読みたくなるよね。当時は英語で読むのがそこまで自然じゃなかったから邦訳を読みたかったんだけど紀伊国屋にあっても恐ろしい値段で買えなかった・・・っつー記憶が思い出補正みたいになって邦訳が高嶺の花みたいな感じになってるんだよね(笑)別に今は英語で読めるからいいんだけどビブリオマニア的なさ、本自体が好きなのと届くのが楽しみ!っつー通販アディクトな感じもあって買いたくなっちゃうんだよね。だってシュトラウスにしてもさ、ほら、色々とミスって一時帰国を二度ほどしたじゃないですか?そのときに邦訳買ってったからね(笑)もう英語版持ってるのに「シュトラウスだー!」っつってもう耽読してたからね、わざわざ邦訳買ってもう一回読んだりしてましたよね。いや、ああいうときの感じが今また戻ってきてる感じなんだわ。


だからまぁこんだけ燃えてるんだろうな。あとまぁ数学に鞍替えして一旦断絶があったにせよあの時ってまぁ結局は民主主義って衆愚制じゃんっつってそのままニヒリズムに陥ってて凄く偏った権力志向になってたと思うんだけど、今はそれがありつつもナイーヴな意味じゃない選民的な民主主義っつーのかな?民衆なんではなくて民ね。ようは政治的ロゴスなりエロスを持った市民による民主主義だよね。それは哲学者並にマイノリティだけど哲学者よりかは多いって意味でマイノリティとは言い切れないじゃん?まぁなんだろう、意識高い系民主主義とでも言うのかな(笑)でも新しい形の民主主義だとかそういうバカみたいな話じゃなくて単純にバカは放っておくしかないっていうそこをなんかリベラルとか左翼系の人ってみんなでやろうとするじゃん?無理なのに勉強ばっかしてんのか普通の人と接したことが無いのか民衆への期待が高すぎるんだよね。それがまぁsealds的なもんとかになるわけでしょ。ああいう衆愚的なもんじゃないハードコアな民主主義だよね。


民主主義って一緒くたにされちゃうからそこをまぁ区別するっつーのかな。まぁあれか、ムフのラディカル・デモクラシーだね。そういう意味でムフとかラクラウも再読してみようかな。まぁ別に俺の言いたいハードコア民主主義ってムフのラディカル・デモクラシーと同じなわけじゃないけどまぁ似てるよねってことね。でも結局はリベラリズムとか左翼とかネオコンとか右翼的なものってのの良い部分が抽出されて結果的に中庸になるんだよね。ようは理論の有効な部分と「こりゃさすがにダメだろ」ってところを徹底的に捨てるっていうreductionだよね。あとなるべく党派性とかイデオロギー臭いものってのを前時代的なものとして臭いものに蓋をするっていうか良い意味で継承しないって意味ね。いまだにヘーゲリアンだのハイデガリアンだのなんだのって古すぎるよね。あんな100年以上前の思想家のものをドグマとしてそれで色々と考えるとか古すぎるんだよね。でも思想ってイデオロギー臭いもんを排除していくと結構何も残らなかったりするんだよね。あーこれはただの実存的欲求とか「こうしたい!」とか「こうあってほしい!」っていう願いだなーって冷めた目で見ると相当スカスカになるんだよね。それでもまだ色々と養分が残ってるものってのが価値のある思想とか哲学だと思うんだよね。そういう意味で党派性があったりイデオロギー的なものってのは価値がないものが多いよね。でも理論的には逆にイデオロギーを抜きにすることで有効性が見えたりするものもあるからそういう読み方をするっていうことだよね。


だからまぁそういう意味でネグリを色々と再読してて「ネグリすげー!」とかって思っても所詮は左翼の人だからね。ジョン・レノン的なイマジンの世界観を提唱してるし国家の概念が甘すぎるっていうかまぁああいうのが左翼思想の典型というかアナーキズム然りだけどnationがあることで生まれる秩序とメカニズムってのがあって現状それが無いと統率が取れないというのが事実なんだからそこはnation否定したらダメだよね。その時点でもう説得力ないんだわ。でも革命的主体っていう個の在り方としては凄く有効だし常に闘争的で長いものに巻かれないっていうね、抗う力だよね。そういうもんはやっぱ学べるところが多いしattitudeの問題だよね。っつってもファッションとしての反抗とか抵抗なんではなくて思想的な抵抗とか反抗なんだよね。だからまぁ凄く危険なものだよね。あとまぁマジだとにわかかどうかとかすぐ分かるじゃん?あーこれただ運動したいだけだわーとか「やった感」みたいなのを得たいだけだなーとかさ、ああいうのも思考停止だからね。


あとまぁ共闘できるっていう考え方を持ってたけどsealds的な学生サークル的な騒ぎとか見てるとやっぱり衆愚的なものとちゃんとした思想的なものってのは分けなきゃいけないし一緒にされちゃたまらないしそこで共闘することで本当のラディカルさとかがスポイルされちゃったりするからね。だから本当にハードコアでラディカルで居続けるにはやっぱり孤立するということとは切り離せないしさ、でもそれを恐れずにラディカルで居続けるってことだよね。まぁニーチェ的に言えば反時代的でいるってことか。言説とかにしてもネットになんか書くにしてもすぐツイッターとかで反応があるような脊髄反射みたいなものを求めるんじゃなくてむしろそういう浅いものとそういうのを取り巻く環境ってのに常に批判的じゃないといけないよね。あとそういうのに流されちゃいけない。


そういう意味でネットへの幻想とかももうないよね。取り上げられるとか話題になるとかってまぁ大体衆愚的なもんばっかだし結局は浅いんだよね。まぁ一昔前のマスメディアとかよりかはよっぽどマシだからいいんだけどね。あとちゃんと考えられる人がそういうポピュリズムみたいなのに流されないようにするってのも大事だよね。ちゃんと考えられる人は孤独を恐れずにそれを貫いたほうがいいわけで。それがまぁ俺の言いたい反時代的って意味なんだけどね。創作物にしてもネットにすぐ出せてすぐ反応があったりするからこそその評価を気にしがちになっちゃうじゃん?そういうのを気にしちゃダメってことだよね。むしろネットが無かったら見向きもされないようなものをネットに出せるだけ有り難いと思わないと(笑)ネットのポピュリズムが怖いのはネット的な言説とか創作物ってのが傾向性を帯びるってことだよね。まぁそれは時代性でもあるんだけど「こういうのが受けるらしい」というモードみたいなのを作り出しちゃってそういうのができちゃうとそれが流れになっちゃって権力を持つようになるでしょ。それはまぁつまりは究極的な凡庸化なんだよね。ラディカルさとは程遠いものなわけでだからこそそういうのに影響されちゃいけないのとあんま意識しないってことが大事なんだよね。


あ、でもネットは圧倒的に良い面のほうが多いですよ。「社員をうつ病にする方法」とかを書いてたサイコパスな社労士とかがすぐ攻撃されたりブラック企業の悪評がすぐに広まったりポジティブな部分のほうが多いよね。ただ過度に期待しすぎるとユートピア臭くなるのとネットが世界を変える!的な短絡的なことにもなってしまうからだからこそ地に足をつけて思考するってことが大事になるんだよね。そこで古臭い哲学とか思想ってのがいきなり輝き始めたりするわけなんだよね。まぁ簡単に言えばデジタルなもんが普及するとアナログなものの価値が再発見されるとかファッションとかにしてもまぁヴィンテージとかまぁそういう感じだよね。そういう意味で思想ってすげーレアグルーヴ的なんだよね。時代的に旬なものとか「今はこれだ!」ってのがあったりするけどそういうのには見向きもせずにレアなグルーヴ感を持った古典をディグるっていうね、で、結果的に今が旬とされるようなもののルーツとかが分かったりしてより「今」ってのが理解できるようになったりもするわけよね。だからといって古典主義というわけじゃないけどね、まぁ基本はやっぱ科学だろっていう考えは変わらないですよ。でもだからこその科学では扱えない倫理とか価値観ということだよね。ウェーバーなんかもこの辺ですげー葛藤してたみたいだしまぁすげーこういうところは重要なんですよね。


まぁロマン主義的かもしれないけど人間が育んできた文化とか知的創造物みたいなのにこそ希望があると思うんだよね。ああいうのがあるってこと自体が希望に繋がるんだよな。爺みたいな教養主義に聞こえるかもしれないけどね(笑)まぁとにかくそういうのを再発見・再認識したところでやりたいことだらけになったんで当分これでやっていけそうです。2016年の幸先が良すぎて縁起良いんですよね。あ、あともちろん数学とか金融とかも片手間でやるけど書くの忘れたけど数学やったことによる抽象化するということの力とか思考力っつーのかな?哲学でも培われるけど数学でも培われるものってのがあってそれがもろに今の読書に反映されてるんだと思うんだよね。


そんなわけで今年もよろしくね。ではまた。