ソクラテス的抵抗。

能年シリーズよろしくねー。


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ってことでまぁ色々とまた書くけどね、モラリティやなんで善くあらなければいけないのか?というのがアプリオリに規定されていないのにも関わらずそれに関して思考可能で理解可能であるというのがまさにイデアってことなんだけどシュトラウス風に言えばそれが哲学を可能にしているものとかってことにもなるんだけどこれってロマン主義じゃないよね?争い事とかディスり合いをしないで共存していったほうがお互いのためになりますよねーっていうような結局は自己保存の原理に貫かれている他者との調和っつーのかな?もちろん狂った人間は多いし狂っているほどではないにしても明らかな知性の不足なんかで無駄に争ったりするやつとかもいるけどそういう意味で選民的でしかありえないんだよなっていうね、それはスピノザにしてもプラトンにしてもそうだけど善へのエロスとか徳の涵養とかって意味での哲学ってのはそもそもの前提条件としてまともな環境で育ってるってこととある程度のdecentな知性ってのが要求されるわけでそりゃまぁね、争い事は良くありませんとか他人を傷つけることは良くありませんとか利己的過ぎて自分だけ良ければ他はどうでもいいなんてことは下種の極みなんですよってこととかも理解可能だからといってそれが人間に内在されている善に関して思惟可能であるということを意味するわけじゃないよね。


「そうじゃない人」ってのを考えたときに絶望に落とされるんだけど「そうじゃない人たち」ってのをオワコンな連中としてたのはニーチェだと思うんだけどニーチェのオワコンな人たちっていう定義に忠実じゃなくてもまぁでもオワコンの連中って規定して市民として見做さないっていう選民が必要なんだよね。やっぱり哲学の問題ってさ、理屈では良かったりするんだけど現実にアプライしたときにすべての人にそれが言えるの?っていうまぁようはgeneralってことを考えたときに適用できない人たちってのが大勢いるっていう問題があるよね。だからこそフォーカスを狭めるしかないんだと思うんだよね。万人に可能な哲学とかイデアへのエロスとかってのは無理だからね。


いや、シュトラウス読んでて思ったんだけどっていうかシュトラウスがロックについて言ってたのがあるんだけどTwo Treatises of Governmentの論拠ってのを聖書にしてるってのはようはどんだけ凄い人なんであっても教養がない人たちにとってはただのエッセイストとかおっさんが書いたもんとしか認識できないものに対して論拠を聖書にすることで説得力を持たせるっていうさ、でもそれは還元しているのではなくてあくまでロックの意見があってのものなんだけど理解できなかったり見向きもしないパンピーも大勢いるからパンピーも読んでいる聖書ってのを出してきてそれを論拠にすれば説得できるだろうっていうような方法論だったってことなんだけどこのパンピー問題って哲学者にとって昔から問題だったんだよね。で、まぁたまたま例に出したロックだとそういう方法を使っていたっていうケースもあるっていうさ、いや、ただまぁこれはシュトラウスの慧眼によるもので改めて「すげーな!」って思ったんだけどやっぱりそういう問題意識が出てくるのってシュトラウスもそれを問題だと考えていたからこそロックに関してもそういう解釈ができるっていう見方ができるっていうことだったと思うんだよね。まぁこれってやっぱ衆愚制と支配っていう話になるよね。宗教は支配の道具であるとかってのもイスラム国を見てても分かるし田舎のアメリカ人とかもそうじゃん?まぁ言わば超訳シリーズみたいなもんだよね。


バカにわかりやすいようにそこだけでも分かるようなパッセージを恣意的に選んで「こうなんです」って述べるっていうさ、で、理解させたように思わせるっていうまぁ虚偽意識の一種だよね。超訳シリーズとかならまだしもそれを政治的に宗教とかを使ってやるとまさにそれってイデオロギーになるわけじゃん?でもバカはそうやって支配でもしない限りバカで居続けるからそうやって統治するしかないって意味では必然的なんだよね。ようは善へのエロスを持った人たちというのは潜在的に限られているからそれ以外は変な考えを持たせないように統制しておかなきゃいけないっていうね、では自由はどうなるのだ!ってことになるんだけど自由を満喫できる人ってそれなりの人たちだよね。でもすんげーローな人たちは自由なんつっても悪い意味でアナーキーになったり利己的になったりしてまぁ結局反社会的なんだよね。政治的立場ってのもぶっちゃけこのローな人たちに対してどう考えるか?っていう見方の違いって気がするんだよな。左翼は当然差別しないし変な話、科学に逆らってまでも生まれつきの差など存在しない!とかっていうからね。まぁでもあれなんだよな、ローな人たちは問題外として思考力が無い人たちに関しても考えてもしょうがないからやっぱり分かる人たちに分かるようにするとかそういう人たちにフォーカスするしかないと思うんだよね。そういう意味で哲学なんてのは端からエリート主義だよね。


一般性を持たせたい!ってのは哲学者の望みだったりただの実存の反映だったりしてでもまぁ現状は違うわけだよね。理解できない人たちが圧倒的に多いのと別に小難しい哲学を理解しなくてもいいんだけどさっき話に出した善ということに関して思惟可能であるという半ばアプリオリな感じというのもそうじゃない人たちも大勢いるから一般性は持たせられないよね。左翼系の議論が全部煮詰まるのって結局ここなんだよね。一般性を持たせてみんなに何かが可能だ!みたいなロマン主義とかまぁ文学に失礼だけど作家って大衆に幻想を持たせるってことが重要じゃないですか?まぁだからそういう意味でただの文芸になるっつーのかな?いや、文芸っつっても超リアリスティックだったりするのもあるから文芸=幻想ではないんだけどね、ただやっぱり「我々は」とかって言いだすともうすでにダメだよね。そこで個々が過去に出会ったどうしようもない人たちというのを連想したときにああいうやつらにそれが可能か?ってまず無理だからね。


そういう意味で政治性すらも帯びることができない人たちもいるしあとはまぁ日本以外でもヨーロッパとかでも凄いけどヘイトスピーチとかする連中とかってことになっちゃうんだよね。彼らの論拠がいかに間違っているか?とか矛盾しているか?とか合理性に欠けるか?っていうのを分からせようとしてもそれが彼らの信条だからしょうがないんだよね。今挙げたような本当にどうしようもない人たちとかサイコパスなやつらとかヘイトスピーチとかやっちゃう人たちとかそういうのも含めた政治なわけでさ、そこでもう我々もクソもないでしょ。まぁだから結局帰結的にサルトルアンガージュマンみたいになるんだけどそこで少なくとも良心があって善へのエロスを持った人たちはほかの連中がクソばっかりとか社会がクソだっていうことを理由に諦めちゃいけないんだよね。そこを闘争的に居続けるっていうのかな。


そこがまあ俺の言う革命的主体ってことなんだけど立脚点とかコンセプトは似てても基本的に左翼的なものとは異なるよね。そこはやっぱ善とか徳のpreservationだからね。かといっても保守というわけでもなくてただニヒリズムとかシニシズムに対してポストモダンを超えてプレモダンな感覚でファックなこととか人たちに対して抵抗し続けるっつーのかな。善い人たちってのは善いが故にあまりにいろんなものが退廃してると諦めちゃうと思うんだよね。あとまぁ引きこもっちゃったりあんま接点を持たないようにして回避的になるっていうのかな?そこをアグレッシヴに攻めるっていうんですかね?ようはそこがラディカル過ぎるから通念とは異なるところが出てくるって意味で反社会的にもなりうるけど根本の原理的には真に社会的/政治的なものってのを問うって意味で本当はそれは社会的なんだよね。ただ一般的にそれは社会的と見做されないだけなんだよね。


だからまぁそういう意味で思考停止的なパンクとも全然違うよね。attitudeとか振る舞いは似てても思想と思想のレベルが違いすぎる。問題は外見は同じように見えちゃうってことだよね。あとまぁ雰囲気が似ちゃうとかね。そこを巻き込まれたり変に迎合したり一緒にやろうとしないで孤高を貫くっつーのかな?利害関係が一致してれば共闘すればいいじゃん!って前は思ってたけどこれは大間違いだなっていうのを本当に思ったんだよね。本当の意味で善を求めるというのは本当に稀なことで現実の社会では本当にそれを求めることが難しいんだよね。だからこそ諦めないっていう姿勢と思想を磨き続けるっていう強い意志だよね。


まぁでも結局ニーチェですよねこれって。ニヒリズムを内包しつつコミットしていくっていうアンガージュマンだよね。結果的にそのコミットが唯一実存的なニヒリズムと共存していける方法でもあるしそれしかないと思うよね。だからまぁこれが俺の言いたい実存問題ってのが即、政治的なものに繋がるっていうことなんだよね。あれ?実存主義じゃね?これって?って思ったんだけどまぁそうだね(笑)ほとんど実存主義とかサルトルとか経由してないんだけど帰結が似てるっていうね、ただまぁそこでサルトル的なペシミズムではなくてコリン・ウィルソン的なオプティミスティックな実存主義っていうのかな。あ、んでサルトルとか経由してないっつってもまぁ色々と読んではいるから経由はしてるんだけど今回のこの一連の流れの中では特に実存主義って意識してなかったけど結果的に実存主義的になるんだよね。それはやっぱり偏に俺のスタート地点がそれだからってことだと思うんだよね。あとは哲学っつーと大げさなんだけど思索するってことをダウングレードするっていうかハイブローなものとせずに飯食う、うんこする、ゲームやるぐらいのレベルでやるってことだよね。


つまりは生活化ってことなんだけど哲学って言葉に違和感を感じるのは大げさな学問っつー体系があるじゃん?それがいやなんだよね。そうじゃなくて生活でしょうっていうね、praxisなんだよね。それ自体が直に生活とか人生に直結してフィードバックしてきて人生とか生活自体が変わるっていうね、でもそれは劇的に変わるんではなくて認識的に変わるって意味なんだけどそんな中で「抵抗」という意味を脱構築していくっていうのかな?あとはまぁドミナントな記号性だよね。抵抗っつーと左翼の特権な気がするしまぁ大体デモやったりとか主張もああいう感じでしょっていうようなお決まり事があるんだけど俺が言ってる抵抗ってのはもっとラディカルなphilosopher vs cityっつー構図だよね。真理と常識に隔たりがあるように一般常識と哲学的真理ってのは相容れないよね。


まぁようはパンクっつっても哲学的パンクという意味でソクラテスをパンクスの元祖として捉えた場合、現代的なパンクスってのはただの形骸化した抵抗活動とかそういうファッションとか姿勢ってことになるよね。そうではなくて根本的に妥協せずに抵抗し続けるっていうことなんだよね。これ自体に党派性はなくて右左もないんだよね。個人の生き方だから。でも一生それを突き通すなんて大変じゃん?でもそこがまさにpraxisってことなんだよね。日々それを実践していく中でそれが身体化されるっていうかさ、生活自体がそれになるんだよね。そうなることでそれ自体が実践となって自然な意味での能動性になるっつー結果、それが生の肯定に繋がるんだよね。でもこれはダサさと表裏一体でそれ自体だとナイーヴで物凄く素朴なもののように思えるし知的にかっこいいってなんかまぁポストモダン的なアイロニストだったりするじゃん?だからまぁみんなファッショナブルな思想に惹かれたりするんだけどそこはダサさを選ぶんだよねっていうかまぁそもそもかっこいいダサいみたいな考え方なんてどうでもいいんだけどさ、でもまぁなんか抵抗にしても思想にしても言葉だけ見れば様になるじゃん?でも俺が言う抵抗は相当に色々なものを積み重ねないと成立しない抵抗だから成立するまでが大変でそれまでは常にwork in progressっつー状態なんだよね。


で、それを自明のものとして知へのエロスを絶やさないっていうミッションとquestを定立させるってことだよね。それが最大の抵抗になるしそれを貫徹するためには死をも厭わないというエクストリームさだよね。この知を神と呼べばスピノザ的になるしイデアと呼べばプラトン的になるんだけど根本的に主体の知へのエクストリームなまでの態度ってのは知をどう定義しようが基本変わらないってことなんだよね。それ自体が凄まじくエクストリーム足り得るということが哲学を可能としてるわけ。三島の自決ってのもつまりはこういうことなんだよね。ドグマとか生き様とか美学のために死ぬのではなくて知のために死ぬことも辞さないという態度だよね。まぁ三島の場合、明らかに美学があったと思うけど基本的にまぁ他人事じゃないっつーのかな?突き詰めればああいうことになるよねっていう話なんだよね。だからこそそれはちょっとでも食い違えばテロリズムにもなるし戦争にもなるんだよね。そういうエクストリームなものなんだよね。よくさ、それは独裁者が現れたら悪用されるから危ないみたいな言い方あるけど基本的に思想にせよ倫理にせよそういうもんだよね。適切な人が主権を握っていないと本当に危ないものなんだよね。


逆に主権者が誰であろうが暴走する心配はないみたいなものはシステム的に安全というだけでだからこそそういうものは形骸化したり倫理とかけ離れたものにもなったりするわけでしょ。いや、それでまさにさ、シュトラウスの誤解ってまぁどうしようもない誤解とか左翼の陰謀論によってユダヤファシストとかって言われてるけどそれ言うならソクラテスファシストってことになるんだよね。ソクラテスは哲学者と崇められていて教科書とかにも出てくるような存在でなんでシュトラウスネオコンのボスで世界を戦争に招いた危険人物みたいに言われるのか?って話だよね。それはまさに本当にpraxisの差だよね。シュトラウスは伝統的な哲学に忠実でなおかつ本人も善や徳に関して確固たる考えを持っていたと同時にニヒリズムとか相対主義の危険性なんかにも物凄く敏感だったんだよね。


だからこそで古代ギリシャ以降の哲学も色々と吸収しつつハイブリッドだけどあくまで古典的なものに依拠する哲学というのを展開していたんだけどそもそもマキャベリアン的なものというのも実際はプラトン的なものに内在されているしマキャベリアンという言葉自体が語弊を生んでいるわけじゃん?精神医学のタームで言うとサイコパスみたいな定義されてるからね。でも本来的な意味でのマキャベリアンってのはプラトニストのことを言うわけだよね。なんでもありの自由を許さないっていう当たり前のことなんだけどその自由が許されないからこそ自分たちの自由があるのにシュトラウス批判って全部何において自分たちの自由が可能になっているのか?っていう自明性を無視して自由のための必要不可欠なコントロールとか統制というのをそのまま抑圧ということにしてそのロジックに依拠してシュトラウスの文献でそのロジックにおいてディスれそうなところをピックアップしてディスってるだけなんだよね。


シュトラウスの本を一冊と言わず短い論文の一つでも読めばそんなことを言ってるのではないってのが分かるはずなのに恐ろしい誤読と陰謀論によって変な説が流布しちゃってるんだよね。で、俺はこの「誤読」というのを本当に憎むようになったね。これ自体がもう罪だと思うわけよ。いや、些細なものならいいんだよ。あと修正が必要という意味での誤読ってのは誰にでもあるし絶対的に正しい読み方なんてのを規定する必要もないと思う。ただ最低限こう理解しなきゃいけないという規範はあるでしょう。それを全く別のものとしたり勝手な思い込みで理解してそれがあたかもそう書かれているかのようにしてそれを流布するというのは重罪だよね。誤読なり誤解ってのはまぁ文献においても生活においてもありうることだけど明確な知というのを求めるのであればそういったものを最大限取り除くという努力をするってことだよね。コナトゥスってそういうことでしょ。何かのものに対しての最善の落としどころとか整合性というとアレだけど明確さという意味でのgoodというか良さというのを目指すという知的努力じゃん?それをしないというのはただの怠慢だよね。それは本当に罪なことだと思うわけ。だからそういうpraxisにおいては「何かの思想の下で」ということではなくて生き方と考え方っていうイズムだよね。そういうattitudeを指すわけだ。


でもそれを貫徹しようとすると明らかにそれが正しいことであっても一般常識とは相いれないところがあるっていうね、でもそこを貫徹するんだよね。反社会的と言われようがね。そういう意味での抵抗と革命的主体ってことなんだよね。で、それって全然ネグリとかドゥルーズの言うシンギュラリティということと矛盾しないんだよね。というよりネグリに至ってはスピノザ的な意味でのマルチチュードという概念に依拠したシンギュラリティなんで今回書いてきたプラトン的なマキャベリズムとかプラトン的な善ということとも全く矛盾しないんだよね。それをイデアと呼ぶか知と呼ぶか?ということの違いだけなんであって根本的な意味合いでは違いはないんだよね。俺の中でネグリシュトラウスが繋がってるってのもまぁようはこういうことなんだよね。ただ特にスピノザに依拠するという意味での多様性とか多数性というのもプラトン的な意味での善とか徳というのが絶対条件になってるってのは念頭に置いておかないとただのアナーキズムになっちゃうからね。そこは確固たる倫理というのがあってこそ成り立つ多様性なわけで。


そこを人間の自発性みたいなのに求める性善説ってのが左翼で性悪説ってのが右翼っていうそれだけの違いって気がしなくもないけどね。尤も大半の右翼と左翼はそういうレベルでやってるわけじゃないんだけどまぁでも抽象化した意味での右翼と左翼の違いってぶっちゃけそこなんだと思うわ。左翼は国境とか無くせばみんな手をつないでやってけるみたいなユートピア的世界観でやってるからだからまぁ軍隊とかいらない!とかってことになるわけじゃん?で、右翼は国境こそが国民に統率を与えて人間らしい生活を与えてくれる国家を保証するものである的なナショナリズムってことになるんだけどまぁ方法論の違いだよね。マキャベリがvirtueってのを愛国心に変換したのもそういう方法論的なことなんだよね。でもまぁそれは現実を見れば論理的に歴然なんであってそこに右翼も左翼もないと思うんだけどね。


あ、ようはみんな手をつないでやってけるなんてことは当分ありえないって意味と実際的な経済とか文化という意味においてもナショナルなものに依拠しなきゃやってけるわけないでしょって意味ね。ちなみに俺の言うナショナルって例えば日本のアニメが海外でも評価されてる!とかね、日本の俳優が海外の映画にも出てて世界的に認知されてる!とかっていう嬉しさっていう認知バイアスですよ。それは良い認知バイアスなんだよね。それがつまりはナショナルなものだからね。まともな感覚を持っているという前提において例えば身内が成功した!とか知り合いがなんかで成功して有名になった!ってことでなんか自分まで嬉しくなるっていう「近さ」っていう意味においてのナショナルっていう感覚だよね。左翼的な連帯ということを言うならこういったナショナルなものをベースにしないとありえないのは明白じゃん?そこでなんでいきなりグローバルヴィレッジとかになるのか?っていうそういう話ですよね。


そこでマルチチュードとか言われると相当ゲンナリするよね。主体性という意味においてのマルチチュードスピノザ的なものに依拠するという意味においてのみ肯定されるんであって左翼に概念が乱用されると一気にくだらないユートピア主義に陥るんだよね。だからこそそういう党派性を持たせたりイデオロギー化することで思想が形骸化したり陳腐なものになっちゃうからこそ党派性とかイデオロギー性というものに汚染されないように思想を純化させておくというか純粋なまま維持していくとかcultivateしていくっていう意味でのpreservationだよね。で、時代性の必要によっては根本ではなく方法論的な変化というのはありえるからそこでchangeということもありえるという多様性だよね。そういう意味でのマルチチュードだよね。でもそれには自然状態の位置づけが重要でそこで必要なのがシュトラウスとかも言っているような知性の所産としての自然法ということだよね。それを置かないとマルチチュードってのはただの空論になるしユートピア主義になっちゃう。


そういう概念装置としての自然法が重要なわけで、だからこそそこから国家の必要性と良い意味で自由のために国家に属するということの論理的必然性ってのが出てくるんだよね。そういうナショナルなものの重要さがあまりにも軽率すぎるのがネグリもそうだし左翼全般そうなんだよね。でもまさにその「国家をなくせ!」的な考えこそが党派性だしイデオロギーってことなんだよね。それが行動様式だったり思考の原理だったりするから違う人同士でも同じようなスローガンの下で活動したり考えたりすることができるんだけどまぁまさにそれがドグマであるからだよね。その正しさとか自明性は関係ないただの空虚なスローガンなんだよね。だからそういうものに毒されちゃいけないんだよね。逆にそれは右にしても同じで極端に危機を強調したりして権力を増大させるというようなことには批判的で常に目を光らせておかないといけないんだよね。ようは左がダメだから右でいいということではなくてぶっちゃけどっちもダメなんだよね。党派性とイデオロギーがあるもんっつーのは大体そういう様相を示すもんだからそこをもっと原理的に考えなきゃいけないんだよね。まぁだからそこに根本的な意味でラディカルって意味では右も左もなくてあるのはソクラテス的抵抗しかないわけよ。そこは闘争機械だのマルチチュードだの千のプラトーだの色々と言い方はあっても基本そこに帰結するってことなんだよね。あ、んでそれは衆愚的なものへの抵抗という意味も含まれてるからね。ソクラテス的抵抗というのは。そういう意味でしつこいようだけどcity vs philosopherという意味ね。


まぁそんな感じですね。んじゃまた。