無駄な努力。

mimisemi2008-05-11

基本的にもう物凄い類の最終試験だの林家ペーパーだのがあるわけじゃない?でも全然やる気が起こらないよね。授業とテストの繋がりが無いやつとか、それを聞いてどうするの?っていうような試験ばっかで、全く動機付けが得られない。これがシステムなんだと思ってやれる人が良い生徒なのだろうけど、俺にしてみればこんな狂ったことをやらなきゃいけないこととしてやれるやつらこそ狂ってると思うわけだよ。まぁいいや、試験のことは忘れよう。みんなカリカリ勉強してるんだろうな。今頃。何しろ最終試験だからね。でも全然準備する気が起こらないんだよ。どうしたもんだろう?俺ってそれに意味が無いと全く出来ないんだよね。あと納得がいかないと無理。システムだからっていう理由だと本当に無理。


まぁそれはともかく今日書きたいことは覚書なんだよね。まぁ最近、勝手に色々と自己分析をしてるってのは書いたでしょ?それにしてもまぁ母親とスカイプで話たときにさ、最近の葛藤なんかを色々話しつつ、色々な障害の可能性が考えられなくもないとかって説明したら母親はそこまで驚かないんだよねっていうのも、俺は生まれつきかなり変わった子で、それが例えば心理学的な幼少期にあった出来事だとかトラウマだとかっていう、そんなことじゃないんだよね。もう生まれつきおかしかったらしい。まぁそれは知ってたけどね。自分が一番よく知ってた。母親曰くでも父も母も「普通の子」だと思って育ててきたんで色々と問題が起こってしまったのかもしれない・・・なんて考えてたらしくてっていうか、特に母親がそう思ってたらしくてね、思ってたのかこの時思ったのか知らないけど、ホント、うちの母の俺の理解度って凄いんだよ。こんなスキゾでわけの分からない息子なのに全てを理解している。こういう親子関係ってレアなんじゃないかな?って思ったりしたね。まぁ俺の経緯自体が色々と問題ありまくりだったんで、家族との結束が強くなるような出来事が多かったんだけど、それにしても俺の近頃の改めて感じる自分の異常性というのが、割と説明がつくというか、生まれつきなんだったらしょうがないよねっていう感じなんだよね。後天的に何かがあって、それがコアになっていて一連の症状を引き起こしている・・・とかだとすれば、そのコアを探し出して分析して向き合うことが必要だけど、俺の場合、そうじゃなさそうなんだよ。もう生まれつき。だからあれなんだよね、俺がどうもルームメイトだの社会だのと折り合いがつけられないっていうか、どうも普通の人みたいにやっていけないのは、元々の俺の生まれついた脳の構造がそうしているのだから、もうしょうがないって諦めるしかないなって凄く思ったのね。それがADHDであれ妄想性人格障害であれ関係ないっつーかまぁいつかはちゃんとそういうところに行って見てもらったほうがいいなとは思うんだけど、とりあえず自分を責めるのはもうやめにしようと思ったのね。何で俺はこんなにダメなんだろう?とか普通じゃないんだろう?とか普通のことが出来ないんだろう?とか、そういうことばかり考えていると本当にダメになる。これはまぁ大雑把に言えば前に書いたベッキーのバインドなんだけどね。いや、普通の人がこれを見たら激怒するかもね。何を甘えてるんだ!って。普通というけど普通の人だって社会や他の人とのやりとりなんて妥協の連続なんだ!なんて言いそうだけど、それこそまさしく暢気な普通の人理論なんだよね。本当に俺みたいな脳を持っている人間の気持ちや状況が分からないからこういうことが言えるんだよ。


特に日本においてこういった障害の研究が遅れているというのは、「甘えるな!」というようなタイプの社会性があるんで、症状自体が認知されないし研究もされないというのがあると思う。いや、俺がまずそういうオーセンティックな障害があるかどうかは別としてねっつってもまぁ調べれば調べるほどそうなんだよ。過去に色々あったことなんかもスッキリと片付いちゃうぐらい今調べてるディスオーダー系のことが当てはまったりしてさ、まぁ素人判断だから危険なのは分かるし、あれなんだけどでもとりあえずこれはもう「俺の努力でどうにでもなるものじゃないな」って認めることが重要なんだよね。それがまぁ名前は分からないけど、何らかの障害というか病気なんだからしょうがないと思うしかない。これまた甘えと紙一重だけど、鬱が怠け病だと勘違いしている輩がまだたくさんいるこの世の中で、俺の人格までも障害と定義しちゃうなんてとんでもないことかもしれないけど、いや、でも悩んでる本人から言わせてもらうとそうしてほしいんだわ。治すという努力をもうしたくない。普通に合わせるということをしていると本当に気が狂うというのは昔も経験していたけど、前にも書いたように最近、それがまた顕著になっちゃっててさ、それはまぁ心の中では解決したけど、でもまぁまだまだその気分的なものは引きずっているんだよね。あと俺の鬱ってのもその普通であることにコミットすることで生まれる場合が多かったり、普通の人との差異によってそれが起こってしまったり、生体リズムによるものというよりかは外的な要素が多いというのもまぁ前にも書いたよね。だとしたらもうそれをやめない限り鬱は続くんだよね。あとパニックも恐らく俺がこういう普通じゃない人格を持っているのにも関わらず、普通にやっていこうとしてきたからストレスでダメになって発症してしまったっていう二次的なものなんじゃないか?って勝手に仮説を出してるんだけどね。その辺のボンクラ精神科医じゃ何も分からないからこういったことは自分で知識を増やして対処していくしかないんだよね。ただやっぱりちゃんとした診断が下されない限り、それを障害としては認められないわけだけど、でも仮説的に障害っぽいから、普通に頑張るということよりも、自分がやれる範囲で生きていくしかないって思うしか、恐らく心の恒常性を保っていく生き方ってないと思うんだよね。


相変わらずスキゾでごちゃごちゃしているけど、ようは何が言いたいのか?というと鬱だのパニックだのもしくは躁だのっていう一連の諸症状は自分の人格的障害に帰依するもので、それ自体は特に意味を成さないってことね。考え方とかもさ、自動思考とかのプログラミングもまぁこないだの超自我に書き込む話じゃないけど、結局、そういった自分の人格の異常さに自覚的ではないまま、無駄に周りに合わせようだとか、標準的な生き方をしようと思うから色々と無理が出てきちゃって、超自我に凄まじいバインドをかけることになっちゃう。それが蓄積した結果、恐らくメンタルディスオーダーが表面的なものとして出てくるだけで、それっていうのは例えば小便を我慢しまくってるから膀胱炎になるみたいなもんで、膀胱炎自体に意味は無いんだよ。それはあくまで物事の結果で、元々の原因は小便にあるわけ。んじゃあなんで膀胱炎になったのか?っていうと、その人の小便をギリギリまで我慢するという行動によるもので、根本的な原因はこれなんだよね。これの結果、膀胱炎になったというわけ。だからそういう意味で俺の精神病も同じ。元々狂っているというよりかは、脳の構造がちょっとおかしくて、人とはだいぶ違う考え方をするというやつが無理やり社会に順応しようとした結果、そのストレスによってホメオスタシスが保たれなくなって神経症だの精神病だのっていう類のものが出てきてしまったわけで、精神病そのものには原因は無いというか意味は無いんだよね。むしろ原因は俺の根本的な、親戚と家族のお墨付きの生まれたときからの異常性にあるわけで、もうこればかりはしょうがない。プラスに言えば多感だの頭の回転が速いだの想像力があるだの好きなことに関しては異常な執着を示すだのって言い方が出来るけど、それによって失っているバランスは物凄く大きいわけで、結局これは障害なんだよね。別に俺はネガティブな意味で障害と言う言葉を使うつもりはないんだけど、ただもう認めるしかないっていうか、こう考えると一連の精神病の原因とかが説明ついちゃうんだよね。すげー自分の中で納得しちゃう。過去の色々な出来事にしても説明がつくことが多い。


だとすればまぁ畏れ多い言い方だけど、足が不自由なのに足が不自由だということを責めてもしょうがないのと一緒で、何らかの脳のプログラミングに障害があるならそれを責めてもしょうがないってことなわけで、そういった意味でこれを自分の中で障害として認めるしかないなって話なのね。別に俺は社会的な免罪符が欲しいわけじゃなくて、自分の中でのまぁある意味での仮説的な自己分析を完成させたいから、とりあえずまぁ分からないところも多いけど、とりあえずはまぁ仮説的に打ち立てて考えていこうかなって思ったりしているわけ。そうすることによって変わってくるコミットメントなり思考なりってのは多岐にわたるからね。大学に通ったりルームメイトがいることによって今まで芽生えてこなかったような公共性ってのが凄く芽生えたような気がするわけ、もちろん今までのバイトとかとは比べ物にならないような公共性。ただそれによってやっぱり自分は他とは違うんだなっていうことを改めて痛感したし、その公共性を重視するがあまりに自分に普通性というバインドをかけすぎると恒常性が崩れるってのも分かったから、なんというか自分がおかしいという観点に立ちつつ、その主観で他人を責めるのはもうやめようと思ったのね。それはルームメイトもそうだしリア二千もそう。ただそこはあくまで自分の異常性の自覚がありつつも、「なんで普通に振舞えないんだろう?」ということに苦悩するのはもうやめるってことね。それはもう障害なんだからしょうがないし、それを無理すると情緒不安定になるから、もうそれはやらないほうがいいわけよ。ってことでもう本質的な孤独は実存主義以上に保証されたようなもんだね。もちろんこっちではそういう変わり者を楽しむバックグラウンドがあるんで失望する必要は無いんだけど、あくまで求める必要も無いって感じだよね。俺はよく人と合わないと言うけど、そんなの当たり前なんだよね。俺がおかしいんだから合うわけが無い。合う人は本当にごく少数ね。自分の趣味とか思考とか好みなんかも、こういう特異な人間のものによるわけで、他人と自分の趣味がシェアしづらいのも当たり前なんだよね。それはまぁ分かっていたけど、改めて痛感したよね。自分も普通の人間だっていう気持ちがどこかにあると、心のどこかで他人とわかりあいたいというような気持ちや期待が出てきたりすると思うんだよ。でもそうじゃなかったら分かり合えるはずが無い、だって俺がズレているんだからっていう前提に立って人間関係をやっていくしかないね。もちろんそこで普通性というバインドに縛られずに、あくまで自分を保持したままで人間関係もやっていくっていうね。


ところでまず俺への処方箋としては一人暮らしを始めることだなと思ったわけ。まず典型的な普通の人であるルームメイトと気が合うわけがないっていうのは、ルームメイトの性格が元々そんなに優しくないというのはあるにしても、基本的に俺がおかしいんだから、相手が嫌になるのも当然ってことで、もう出て行くしかないし、他人に迷惑をかけないっていうのと、何より自分の精神状態を保つっていう意味で絶対的なプライベートな空間が必要っていうことで、一人で暮らすということが本当に必要だと思ったわけっていうか、とっくに思ってたけど、最近ではもうそれが確信に変わったね。俺がいかに普通に振舞っていようとも、俺が普通の感覚を分からない以上、それが普通だと相手に伝わっている可能性は未知数なわけで、プライベートな場で普通の人と暮らすなんて俺みたいな人間がしちゃいけないことの一つなわけだよね。俺なんて一番ルームシェアしちゃいけないタイプだと思う。なにしろ狂ってるからね。ここで人との関わりも減らすべきって話がいきそうだけど、それはそうでもないのは、外ではある程度まぁ変でもエキセントリックなキャラというのを確立しているように見せている本当のエキセントリックっていう立場を確立すれば、少なくともこっちではやっていけるし人気者になったりするんだよ。マルクスブラザーズのジョークであるよね。こいつは馬鹿だけど馬鹿じゃないという風に見せかけているただの馬鹿ですっていうようなそんな感じね。そのエキセントリックに興味を持てるような人とは俺は付き合えると思うし、俺の数少ない友達なんてのはみんな俺への理解がある人達ばっかなわけだよ。でもそれは俺の努力によるものじゃなくて、彼らの理解によって友情関係が成り立っているんだよね。だから俺は普通性へのコミットなんてしてない。普通にしているけど友達になれるという人は変なやつに理解があるやつだけなんだよ。もしくはそいつも変だとかね。


普通に振舞わなければと思うことで生じる葛藤や、自分の自然な振る舞いによって生じてしまった差異に後悔するとかっていうことを繰り返しているとエンドレスなので、もうやめようってのと、孤独が好きなら徹底的に孤独でいいじゃん!ってことなのね。孤独ってのは自分の事が分かっているから選べる選択なんで、まぁある意味で精神的に自立していてタフな人じゃないと選べないことなんだよ。そういう意味だと孤独って物凄く崇高なものだと俺は思っているわけね。あとどうでもいいけどリア二千と喋るときに緊張するってのもあれなんだよな、本当に好きだから「自分を良く見せないと」みたいな凄まじいストレスフルな努力を無意識のうちにしてるからなんだよね。いや、好きだけどまぁ諦めてるよ。それは変わらない。諦めてるんだったら別に普通でいるということに全身全霊を注がなくても自然体でいればいいじゃんって思ったのね。そこまでゾッコンではないけど可愛い女の子と普通に話せるのはこの「ええかっこする」という努力をしてないからなんだよ。恐らく。何しろ俺みたいなやつが必死に自分を普通に装うったって化けの皮が剥がれるのは目に見えているし、そんなことで得られている一時的な人間関係なんて虚構もいいところだよね。嘘を装うことで生まれる人間関係なんて虚無もいいところだ。だったらそんなの最初から無いほうがいい。


ちょっと最近あれだな、原点を本当に見失ってた気がする。自分が普通じゃないのは分かっているのに、なんか知らないけど、最近はちゃんとしようとするような無駄な努力しているようなことが多すぎたかもしれない。そういうことを見失っていると自分を失っている状態で行動をするのでミスや良くない選択を選んでしまうのはある意味で必然的だよね。一番フォーカスをしなきゃいけないことって、諸外的要素というよりかは内面的要素なんだよね。自分ありきで外があるってデカルトみたいだけど、我思う、故に我ありっていうのを曲解すると、我を形成する内面的主体が無ければ我は無いも同然ってことだね。我にフォーカスしている我が無ければ、我なんて無いってことね。どうもこういうことって日々をなんとなく送っているだけだと忘れちゃうことだよね。これがまさしく自分を見失うってことなのかな。学校とかに通ってると普通の人達ばかりがいるわけで、俺もその中に溶け込んでいるかのような錯覚をしちゃうわけだよね。これは前に書いた、一週間休みがあったりすると完全な主観モードで生活するんだけど、学校がまた始まると思うとパブリックモードの自分を取り戻さなきゃいけなくて大変みたいなことに表れるような、ようは自分と外の自分とのバランスってことなんだけど、こういう風に思う自分ってのが、いかにそのパブリックモードを普通モードと意識していたかっていうことの良い表れだよね。まぁもっとも俺にとっては良くもなんともないけども。そうじゃなくてまぁ一週間の主観的世界観のままパブリックモードに突入でいいわけよね。まぁ俺の場合はね。そこで普通モードなんてのを持ってくるからストレスになるわけでさ、元々俺の中に普通なんてものはないんだよって思えば、最初からもう自然体でいることしか選択肢は無いわけで無理する必要ないんだよね。無理してやっている普通モードが効果的かというとそうでもないし、全然意味の無い努力なわけで本当に無駄だよね。


まぁいいや、そんな感じで。まずは引越しを真剣に考えないとな。普通の人と過剰に接するようなことは今後、絶対避けないとな。あくまで一時的なものだから人間関係が保たれるのであって、ルームメイトみたいな関係性だったら、俺みたいな人間が人間関係を形成できるわけがないんだよな。引っ越してきたばかりの時は普通を装って、んで慣れてくると本当のおかしい自分が現れてくる・・・ってこんなことを繰り返してたらルームシェアなんて成立しないからね。俺が嫌だなって感じることが普通の人にとってはそこまでそうでもないっていうことも本当にここ1年ぐらいで色々と学んだよね。いや、そういう意味でもさっき書いたまぁ大枠の意味での公共性が芽生えてきたってことなんだけどね。でもそれは芽生えてきたっていうよりかは折り合いのつけ方を学んだだけかもしれない。で、俺には無理だなと思ったんで別の方法を考えるしかないなっていうのが今のところの結論ね。

未来派野郎

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