精神分析について。

mimisemi2008-07-14

精神分析について思ったっつーか常に思ってることがあるんで書かせてもらうけども、なんつーかね、精神分析ってただの哲学なんだよね。無学な俺が批判するのもどうかと思うんだけど、まぁ俺なりに現時点での知識量で批判させてもらうと、基本的に精神分析の基礎ってのは凄く脆弱なんだよねっつーのは言うまでも無くパパフロイトのその時々の思いつきとか主観的な発見っつーのがあたかも原理のように理解されちゃっているんだよね。実際、フロイトは恐らく厳格な科学者というか医者というよりかは全然哲学者なんだよね。その時々の臨床や生活で得られたアイデアを元に色々な仮説を書いて、それをとりあえず原則として提示しているんだけど、それっていうのは思ったより原則的ではないんだよね。フロイトはどんどんいろんなアイデアを生み出しているし、前に思いついた原則とか原理なんてのに縛られたりはしてなかったんだよね。


だからそういう意味でこういう一人のコカイン好きなおっちゃんの思いつきが学問の基礎になってるってこと自体がすでにおかしいんだけどね、まぁそれはともかくとしてこれが実用的だったらいいよ。でも全然実用的じゃないでしょ?実用的なものもあるかもしれないけど、はっきりいって精神病の諸現象の哲学化の域を出てないっつーかさ、例えるなら科学を哲学してるようなもんなんだよね。その例えってのがワンパターンで悪いけど、ビッグバンなんだけどね、ビッグバンがありましたっつーのを哲学化しようとすれば、例えば神にも似た普遍的意思なるものがその意思の具現化を進めるための想像的レベルから現実レベルへの移行を作るためのきっかけだったとかさ、で、撒き散らされた分子なり原子というのは散種された精液で、一個一個に仏性が存在していて、全ての存在とその意味を規定しているとかさ、これ自体に信憑性も糞もないじゃない?適当に思いついた仮説でしょ?んじゃあこの仮説を科学の解明なり宇宙科学へと応用できるか?っつーと出来ないよね。ただの変人が考え出したビッグバン論なわけじゃない?でもこういうレベルのものが精神分析では原則として存在していて、それがあたかもワークする実用的なものかのように扱われているんだよね。そんな気がする。だとしたら精神病患者の俺としては言わせてもらうけど、せん妄だの被害妄想だの鬱だのっつーのをフィロソファイズするのもいいんだけど、脳の機能不全なのは明らかなんだから、その原因と対処法を教えてくれってな話でさ、例えばドーパミンが出すぎてますっつったらそれを調整する薬とかさ、もっと根本治療できるなら例えば脳の手術をするとかね、これがまぁ医学だと思うんだよね。だから精神分析って絶対医学足りえないし、頼れるもんじゃないと思うんだよね。


いや、学問としては面白いよ。ある意味でどうでもいいっていう意味だと究極的に哲学的だし、ディレッタントみたいなのが持て余している時間を研究に費やすみたいな対象としてのものとしては十分いいと思うんだよ。ただ哲学が現実問題に対処しきれないように、精神分析もまた観念的という意味で哲学的な無力さを兼ね備えているんだよね。911とかテロリズムみたいなものを哲学化したところで、じゃあ根本の問題は何?っつーと例えばアノミーであったり違った価値観の衝突であったりさ、そこで必要なのって哲学よりチョムスキーの歴史分析みたいなものなんだよね。無差別殺人とかの場合はやっぱり有効なのは哲学よりも社会学だよね。だから哲学っていつでも無力でさ、それはニーチェの言うような弱者の遠吠えなんだよね。実存レベルでは問題に対処しうるという意味だと精神分析は哲学的に精神に作用すると思う。それは自分が自分を自己分析してある程度出してきた答えによって今の自分が楽になってるみたいな、考察と分析の積み重ねが自分の諸症状の緩和に多大な影響を及ぼしていると思うと、そこでは哲学というか分析というかは有効なんだよね。ただ根本の原因は何か?というと恐らく遺伝性のセロトニン欠乏症みたいなもんなんだよね。嫌なことがあっても快楽物質が脳内で出ていれば恐らくポジティブに考えられるんだろうけど、基本的にセロトニンやらの脳内伝達物質が慢性的に少ないんで鬱になりやすいとかさ、ドーパミンが異常に出過ぎるとかでADDみたいな症状があるとかさ、こういうのってただの現象でそこに究極的な意味って無いんだよね。だから俺がよく言うのは人生を逃げ切るには脳をいじくるのが一番ってことなのね。結局、人間の意志なんて脳内の働きによって左右されているわけだから、その脳内物質の伝達なり生成に気をつけていれば人生ある程度はハッピーに過ごせるってことなんだよね。もちろんこういうのって行き過ぎるとドラッグ中毒とかになるんだけど、ドラッグっつっても最終的には脳がダメになるわけで、これは勘違いなんだよね。ナチュラルにハイでいるということが人生の苦痛から逃れる方法なんだとすれば、俺がいつも書いているような苦痛からの回避というのに意識的でいればいいんだよね。


それはどうしようもないやつとの人間関係を保たなくてもいいような環境であったり、自分が意味を見出せたり苦痛だと思わないことを職業にしつつ日々の糧を得るだとかさ、そういうことに尽きるよね。まずこれが最初でその後に実存とは何か?とか不安とは何か?なんてのを考察したりするのも趣味的にいいことかもしれないけど、本質的に必要なものは前者だよね。前者はプラクティカルで必要であれば抗鬱剤とか抗不安剤みたいなのを使ったりもするし、精神面でのステイビリティというのを外的なものを調整することによって保つみたいな感じだよね。それに比べて後者は外的なものというのが前者に比べれば少なくて、そこで必要になるのは哲学的な考察であったり自己分析であったりして、その基礎を作るためにはまず日々の生活が必要なんだよね。だから前者がエッセンシャルなの。ネットカフェ難民は哲学している暇ないからね。マジで。それと同じで死ぬほど鬱になってる人に精神分析なんてワークしないんだよね。物理的に不足している脳内物質を補完しなきゃいけないわけで、それにはやはり薬が必要であったり、脳内物質を増やすための対症療法というのが不可欠になるよね。で、ある程度、メンタル面でのステイビリティが確保されたところで、んじゃああの症状は何から来たんだろう?とか根本的な原因は何だったんだろう?ということを考察しつつ根本治療に向かうっていう感じだと思うのね。で、その考察やら分析というのは個々のケースによって全然違うから、フロイト精神分析みたいなのが普遍的にワークするかっつーとんなわきゃないんだよね。まぁ言いたかったことはそんなところなんだけども。


あとね、昨日、書き忘れてたんだけどロスト・ハイウェイの入れ替わりなんだけど、サックスプレイヤーが自動車工の兄ちゃんになっちゃったっつーのはサックスプレイヤーの不全を抱えたまま主体が兄ちゃんに移り変わるっていうことで、だからその不全の部分を主体で埋め合わせようとするんだよね。だから凄まじいセックスをするわけ。その一方で兄ちゃんだったのがサックスプレイヤーに変わったときはね、兄ちゃんが出来なかった、あのギャングの親分を痛めつけるっつーか殺すっていうことが兄ちゃんの不全を抱えるサックスプレイヤーでは可能になるんだよね。兄ちゃんだったら怖くて出来なかったことが、主体がサックスプレイヤーになったことで可能になったというわけ。ただ両者に共通しているのはさっき散々批判した精神分析風っつーかラカンチックになるけど、性関係の答えの不在なんだよね。絶対手に入らないものというのがあの奥さんでありアリスであって、手に入れられないものは禁止されたものであるのにも関わらず、それが禁止されたものと定義されることによって掟を破れば手に入れられるかもしれないという幻想を生み出すんだよね。それが凄くナレイティブに自動車工の兄ちゃんで描かれていると思う。でも結局、まぁ手に入らないんだけどね。それが究極的な幻想だったという意味で奥さんもアリスも究極的に言えば存在しない超越的な享楽の対象というかね、そんな風に言えなくもないと思うわけ。サックスプレイヤーは得られないことが分かったから殺しちゃうんだよね。殺すっつーか壊すっていうほうが正しいと思う。それは自分の不能を象徴的に皮肉的に表してしまう奥さんという存在を壊すことで自己肯定をしているわけ。で、精神分析風に来たから調子に乗って書くと、あのギャングの親分はフロイトで言うところの父的存在である意味での全能なんだよね。去勢威嚇にビビってた兄ちゃんは父に反抗できなくて、そのエディプス・コンプレックスを抑圧するんだけど、ファルスを失ってしまったサックスプレイヤーにとって父の去勢威嚇はワークしないんで、エディプス状態を保持しながら父を排除できたんだよね。それは去勢威嚇にビビってた兄ちゃんの望みであったし、逆もまたバリバリセックスするっつーのはサックスプレイヤーの望みだったわけで、この相互補完的関係というのを調停しているのがあの白い男なんだけどね。


まぁ俺の表面的な精神分析の理解はともかくとして、精神分析がいかに観念的かというのは、例えばそのフロイトの理論が政治理論や社会科学系などにも応用できたりするっていう意味で一つの思想的なパラダイムなんだよね。観念的で思想的なパラダイムはカバーするところが広いからいろんな応用や転用が可能なのね。だからジジェク師匠の映画分析がワンパターンながらも色々カバーできたりするのは、その精神分析というパラダイムによるものが大きいわけ。ジジェク師匠はこれに依拠して政治からサブカルまで語ってるんだよね。そういう意味で俗流思想家なんだけど、そういうところもまた好きだなぁー。そういうことが分かってるからこそ俺はたぶんフロイトをちゃんと読まなきゃいけないし、ラカンも読まなきゃいけないんだと思うっつーのはこれらを精神分析と捉えるよりかは思想的パラダイムとして捉えるわけで、それは俺が何かを考える材料になるってことなのね。そういう意味での精神分析学の重要性というのは全然あるわけで、学問的に価値が無いかというと全くそんなことはないし、まだまだ発展の余地がある学問だと思うのね。だからもっとフロイトとかラカンって読まれるべきだと思ったわけね。


まぁいいや。今日はそんな感じです。


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