コラージュとかフィールド音楽についてのダベりつーか。

mimisemi2009-03-29

はい。では2日前のエントリーっつーかメルツの話からの続きです。


コラージュとは違った意味でね、まぁ俺がコラージュに魅せられてたのが17とか18ぐらいの時で当時のあだ名が「今コラ」だったりしたこともあったんだけど、その後にもっと空間的なコラージュに見せられたっつーのがフィールド音楽なんだよね。まぁ前にも散々書いた通りなんだけど、所謂、フェラーリ的なケージとは違う「何も無い」感じってのはね、特に何かが起こっているわけでもない何の変哲も無い普通の風景音ってのを前後関係関係なくそこだけ取り出してきて、んで他の関係ないフィールド音と混ぜ合わせることでそれを異化させて架空のサウンドスケープを作り出すって手法はさ、スカム的コラージュがダダ的なのであれば、フェラーリ的コラージュってのはシュルレアリズム的なんだよね。


そのフィールド音の何らかの音がリスナーによっては何かを想起させる音にもなるかもしれないし、それらの音が制作者の意図とは離れたところで半ば無意識的な領域でリスナーの聴覚に届くっつーのがね、凄くシュルレアリスティックだし現代的なんだよね。俺はコラージュもサウンドスケープ音楽も自分で思いついたつもりだったんだけど、過去にやってた人がいてまぁガッカリしたっつーのはよく書くことだけど、そこで元相方とユニットをやってたときにこのジレンマを話したら「フィールド音を使うということがフェラーリの特権なんではない」って言われてかなりハッとしたんだよね。ようは俺はオリジナリティという名の虚無にとらわれすぎていたわけでさ、別に手法がやり尽くされたものであれ、自分がやりたかったらまぁ自分なりにやってみればいいじゃないって話なんだよね。この辺の話は椹木野衣のシミュレーショニズムって本に詳しいんでそちらをどうぞ。


フィールド音楽の魅力ってのは凄いもんがあるんだよね。音というアイコンではなく空間という音の総合体みたいなのすらエポケーして取り出してきちゃうんだからある意味で究極的に暴力的で人間的なんだよね。俺の試みだったのは音の異化であったりフィールドにおいては様々な音を混ぜることで架空のフィールド音を生み出すっていうことだったんだけど、いまだに全然実現できてないんだよねっつーかやってないっつーのもあるんだけどっつーかまぁフィールドのやつ結局完成してないっつーか完成はしたんだけど満足してないっつーかね。このフィールド音楽っていうまぁある意味での現代音楽の手法の一つみたいになったのを現代音楽的なコンテキストを踏まえた上で実現させたのがジムオルークのThe Rules of reductionっていうメタムキンっつーフランスのレーベルから音の映画だか耳のための映画だかっつー種類で出てたシングルサイズのCDね。これはもうフィールド音楽っつーかフェラーリ的フィールド音楽の完成系なんだよね。ちなみにジョンゾーンのレーベルから出てたタイトル忘れたけど、あのネオンの看板のジャケののやつね、ターミナルなんたらってやつなんだけど、これもThe Rules of reduction的手法というか趣があるんだけど、こういうところにジムオルークの天才性を見るよね。その後まぁいきなりポップ音楽とかやりだすんだけど、ジムって何気に音の哲学者なんだよね。物凄い深い音の理解と現代音楽的な音楽の認識があるんだよね。でもまぁモンドミュージックのインタビューにもあるように前衛音楽とか実験音楽だとかの閉鎖的なね、机上の空論さ加減に嫌気が指してやめたっつーんだけど、その机上の空論の例えとしてミルトン・バビットが出てきていたのが興味深かったね。ようはすんげー数学的理論を駆使して作った音楽っつわれても別にリスナー分からないじゃん?っていうそういうジレンマね。


それを言いだすとクセナキスもダメじゃんって話になりそうなんだけど、クセナキスの場合、純粋な音の凄さってのがあるからまぁ電子音楽としての価値が高いんだよね。まぁ電子音楽だけじゃなくまぁオーケストラ作品とかにしてもそうなんだけど、よく聞けば分かるんだけど、ペルセポリスみたいなのとクセナキスの例えば70分越えるようなオーケストラ曲っつーか具体的に言うとKraanergみたいなのって、実質的な差ってあんま無いんだよね。あくまで俺の主観だけども、まぁ例えばMIDIで例えるならさ、MIDIで打ち込まれたペルセポリスのデータを元にオーケストラ作品化したのがクセナキスのオーケストラ作品って感じで、あくまでクセナキスって音を音として純粋に扱っているんだよね。だから電子音楽作品とオーケストラ作品の差ってのがあんま無いのね。どちらも純粋に迫力のあるクラスターノイズみたいな趣があって、そのバイオレントさ加減はへイターズとかハフラートリオみたいなのを連想させるんだよね。だからクセナキスってノイズ音楽系のフィールドでの評価が高いわけ。ちなみに小杉武久はチュードアをノイズ音楽のオリジンとして評価するみたいなことを言っていたと思うんだけど、確かに純粋なエレクトロニクスの饗宴って意味だとチュードアはあえてハーモニーを気にしないフリーな電子音楽という意味でのノイズ音楽のオリジンなんだよね。


インフォレストみたいなのが典型だけど、やっぱ一番威力があるのはLovelyから出てる電子音楽集ね。小杉武久が奇声を発しつつチュードアがエレクトロニクスをいじりたおすっつー構図はインキャパ的かもしれないわけで。ちなみにイタリアのね、crampsっていうところから出ている現代音楽系の流れではあるんだけどアカデミックな領域ではあんま評価されなかったみたいなね、例えばマルケッティみたいな電子音楽みたいなのがまぁもっとぶっ飛んでる感はあるよね。イタリアってあのMBのボックスを出したレーベルとかさ、妙にアカデミックな領域ではイマイチ評価されなかったラディカルな電子音楽みたいなのに凄く強いんだよね。フルクサス全般もアカデミックという視点から言えばほとんど黙殺っぽい感じだしっつーかまぁ今では歴史的な価値があるんだろうけど、例えばライリーとかヤングみたいなのってヒッピーの電子音楽みたいな感じだったわけじゃない?当時は恐らくね。でもさ、現代音楽の領域でも電子音楽に限っては割とぶっ飛んだのが多いっつーか妙にマルケッティとかライリーやヤングみたいなのとリンクするのがあって、だからまぁ電子音楽って面白いんだよね。ロシアのウラジミールなんたらスキーも面白い電子音楽を作っていたし、ドイツのWDRとかさ、フランスだとINA-GRMとかね、アメリカでも名前は忘れたけどなんつーか当時は各国がこぞって電子音楽の研究施設みたいなのを作ってたんだよね。国営でやっててさ、日本にもNHK電子音楽のスタジオみたいなのがって、有名なのがあの塩なんたらっつー人の作品集だけど、こういうのが国営で営まれてきたっつーのがなんか凄くいいよね。今はそれが完全にアーカイブ化されて聞けるわけでさ、良い時代だよね。


ちなみにフィールド音楽で言うとさ、前にも書いたけどずば抜けているのがフランシスコ・ロペスね。あいつの電子音楽とかノイズ系はさっぱりイマイチなんだけど、フィールドに関しては天才的でさ、確か彼は哲学の教授だったと思うんだけど、まぁ音に対する認識がそれこそ哲学的なんだよね。レインフォレストのやつにしてもさ、徹底的に考え抜かれているのがさ、何時間も録音したレインフォレストの音をあえて擬似的なサウンドスケープにすることに成功しているんだよね。ようは生の録音では2時間ぐらいずーっと同じ音が続いてるんだけど、作品ではレインフォレストの様々な変化ってのが自然ながらも意図的に人工的にドラマティックに仕上げられているんだよね。実際のレインフォレストにいたらあんな多種多様な音の変化を1時間で堪能できるわけないんだけど、それを人工的に作り出しているのがロペスのレインフォレストなんだよね。こりゃー凄いよ。マジで。通称アメリカ3部作って言われてるやつでは他にニューヨークのビルの音のみで構築されたビルディングっつー作品があったけど、これまた凄いんだ。音的に退屈だけどコンセプトはバッチリ。


それこそビルのさ、「ブーン」っていうモーターの音とか何かのハム音とかさ、ニューヨークのビルのノイズのみで構成されてるのね。これもありふれた音の光景を集めて布置することで架空の音の世界を作り上げるって意味では大成功してる作品なんだよね。あくまで普通にある日常の音を集めてきて過剰に聞かせることで音楽作品としての価値を作り出しているっていうか、そこに作者の手が加わるってことでそれが作品化されているっていう意味ではデュシャンのレディメイド的発想でもあるんだよね。ありふれたものではあるんだけどそれを集めてきて署名して出しちゃえばその人の作品っていうね。まぁロペスの場合、音の機能美とか構築美みたいなのがあるからデュシャン的な究極的な即物感ってのはないんだけど、でもマテリアリスティックで芸術的って意味ではデュシャンと共通しているものがあるよね。で、ロペスのアメリカ三部作の完結編であるWindってやつはまぁ名前忘れたけどどっかの島の風の音だけで作品が構成されているんだけど、風って耳によって作り出されている音なんだよね。耳がああいう形してるんで、音が耳も込みで反射して聞こえてるわけでさ、それをマイクロフォンで録音してそれだけ聞かせるってかなりラディカルなやり方なんだよね。風ってあんま音として認識されてないじゃない?ノイズですらないよね。むしろ風ってさ、風によってその場に起こっている何かの振動なりさ、音の反射だったりするわけじゃない?風自体に音は存在しないんだよね。それをさ、無人島みたいなところで風の音を純粋に採取してメスを入れるってすげーナイスなコンセプトだよね。まぁ音的にはただの風の音なんだけどね。意図的ではないんだけど、風の音が凄く効果的に音響効果をもたらしているのが水谷聖のYokosawa-iriね。これは俺の中のフィールド音楽でのベストなんだよね。これを越えるフィールド作品ってのはこの世に今のところ無いね。それぐらい空間を引き出すことに成功しつつ、手が加えられていないように見えて、明らかにそれが作者の主観によるフィールド音の音の切り抜きなんだなっつーのを作品を通して感じることが出来るのね。


これがなんつーか癒し系とかいって発売されている「山の音」とかとフィールド音楽が違う決定的な理由ね。作者の切り抜きなり編集という主観が介在していれば、それによって完成された作品ってのは音楽作品なんだよね。で、あまりにYokosawa-iriが完璧過ぎてまぁなんかあんま俺がフィールドやる必然性ってのを感じなくなったんだよね。あれは衝撃だったな。音を切り抜いてくるっていうさ、空間的なものを保持しつつ作者の作品たりうるものにしているアーティストの手腕っつーのかな?それを水谷聖のフィールド音楽に感じるんだよね。ちなみにフィールド音楽のコンピの傑作は地味ながらもThe sound of natureってやつね。あ、そうだったっけな?タイトルがThe sound of natureでアーティストがThe nature of soundみたいな言葉遊びがあるフランス産のコンピなんだけどね、その筋では有名なフィールド作家が作品を提供していて面白いんだよね。傑作っつーのは言い過ぎだけど、自然の音っつーのに焦点を当てたコンピって意味だとかなり貴重なんだよね。まぁもっと行くとまぁEarth Earのコンピみたいになるんだけど、The day of soundだったっけな?世界のフィールド作家みたいなのが持ち寄ったフィールド音がノンストップで午前0時からの世界の24時間で繋がれているっつーすんげーコンセプチュアルなコンピでさ、例えば夜中の0時あたりのマンハッタンの地下鉄のフィールドっつってさ、んで次に別の国の0時半ぐらいの街のフィールドって感じで、その世界の時間とフィールドっつーのがノンストップに繋がれているのね。すげーコンセプトだと思わない?24時間だったか12時間だったか忘れたけど、まぁそんな感じでね、例えばさ、昼間の東京の地下鉄の音っつって次に昼間のパリの公園の音っつって同じ時間の違う空間で繋がっているわけ。概念が空間的なんだよね。それを音でやってるのが凄い。ちなみに日本からはYuko Nexusが参加してたね。


ちなみにこの一連のフィールド音楽みたいなものの先駆けっつーか、一番それを意図的にやってたのがビル・フォンタナね。彼はそれをインスタレーション的にさ、リアルタイムにやっちゃったから凄いんだよね。使われていない駅の音とどっかの公園の音みたいなのをさ、リアルタイムに送信して、んで一カ所で流すみたいなのをやっててね、こりゃー凄いよね。マジで。ちなみにフォンタナの音楽作品ってのはほとんど全てが廃盤でずーっと手に入らないのね。もう10年近くずーっと欲しいと思い続けているのがフォンタナの作品なんだけど、まぁネットから聞けるやつもあるんだけどね。でもフォンタナの場合、なんつーかCDっつーかさ、パッケージで聞きたいんだよね。フェラーリがまぁまぐれで哲学的な、ケージの哲学的な沈黙の音楽作品とは対照的な沈黙の音楽作品をあくまでまぐれて作り出せたのであればね、フォンタナは地でやっちゃった感があるんだよね。まぁフェラーリみたいな先駆者がいるんだけど、自明だったかはともかくとしてそのコンセプトを拡大したのがフォンタナって感じでさ、まぁGod father of field recordingなのがビル・フォンタナだよね。で、まぁフォンタナがゴッドファーザーなんだとすれば、まぁフィールド界のプリンスみたいなのがクリス・ワトソンだよね。まぁ年齢的に両者とも変わらないのかもしれないけど、ワトソンはキャバレーヴォルテールとハフラートリオの発起人でもあってさ、歴史的に面白い人なんだけど、バイオレントなノイズっつーかラディカルな音楽とは対照的なフィールドをはじめたっつーのは別に歳とったから丸くなったってわけじゃなくて、ようは音のフォーカスなんだよね。ノイズに焦点を当てている時点ですでに彼らの頭の中ではノイズと音楽と音の境界線ってないわけでさ、その境界線の無さを考えればフィールドとノイズって静と動みたいな関係性みたいに見えるけど実は近いのね。


ってことでまぁ今日はこの辺で区切るわ。まだまだあるのでね。


PS


テストの嵐が落ち着いたんで、ちょっと気分転換にとか思ってゲームやろうと思ったんだけど、まぁローグギャラクシーとかシャドウハーツ2とかFF12とか買った割に終わってないやつがあるんだけど、あれなんだよね、FF12やってみたんだけどこれマジでクソゲーだね。ガンビットっつーやたらプレイヤーをただの観客にしてしまうシステムもさることながら、酷いのはストーリーっつーかキャラだよね。頑張って進めてみたんだけど全く面白味がないっつーか、全然進めようと思わないのね。街とかフィールドがやたら広くて歩くのが面倒でさ、しかも広いメリットっつーのが全くないんだよね。FF10に関しても酷いことを書いたけど、あれってやっぱキャラとかさ、何よりストーリーが気になって進めたくなったよね。だから多少の難も気にならなかったんだけど、12はもうヒド過ぎだね。システムも気に食わないんだけど、逆に魅力的なストーリーとキャラが展開されてたら全然気にならないレベルなんだよね。全然耐えられるレベルっつーかさ、なんか勝手に思ったんだけど、ラプラスの魔を似たようなインターフェースとグラフィックでリメイクしたらいいんじゃないか?とかって勝手に思ったんだけどね。めっちゃ広い洋館の雰囲気とかキャラがごちゃごちゃしてる感じとか街の広さとかをそれこそ再現すればバッチリなんじゃないかと勝手に思ったんだけど。なんでラプラスの魔なのか分からないんだけど、まぁ前にも書いたけどああいう時代背景とオカルトっぽい設定のやつが好きっつーのと、なぜかFF12のインターフェースがピッタリなんじゃないか?って思ったんだよね。キャラを自由に育成できる感じとかさ、悪く言えばキャラの個性のなさとかが逆に引き立つんじゃない?みたいなね、まぁそれはともかくFF12糞だわ。擁護するやつとかいるんだろうけど、みんなまとめて糞だね。


一時期さ、オールドゲーマーにスイーツとかゆとり世代とかって馬鹿にされる世代の反論としてさ、あいつらオールドゲーマーはゲーマーとしてのセンスを大人になったことで失ったんだみたいなさ、感受性が無くなったからだみたいな言い方があるじゃない?これって揺るぎなくスイーツ世代とオールドゲーマー世代との対立で必ずあるんだけど、俺に言わせればナンセンスなんだよね。オールドゲーマーの大半はマジなゲーム好き世代でさ、ゲーム黄金期に育った世代なわけだよね。俺が言い例でさ、「ゲームをやるって年齢じゃなくなったのかもなぁー」とか言いつつペルソナ4みたいなのがあると何週間も外に出ないでやったりするわけでさ、まぁ改めてペルソナ4で確信したんだけど、俺ってゲーマー感覚は昔のままなんだよね。ただそれだけ過去ほどのめり込むゲームが無くなったっつーのがさ、ゲーム離れの大きな理由だよね。学生になってちょっと忙しくなったっつー物理的要素は結局、あんまかんけーないのはさ、ペルソナ4みたいなのがあれば時間が無くなってやるんだよね。そんな筋金入りのゲーマーである俺をここまでのめり込む事を拒否させるゲームって相当糞だよってことなんだよね。FF12は始めて1時間ちょいで飽きて、んでその後はちょっとまぁ色々進めたりしてたんだけど、さっぱり熱中できなくて放置になってたんだけど、まぁ今回改めてやってみて、改めてさっぱりハマれないゲームだなって呆れたね。なんかキャラを強くしようとかってのも思わないし、あのライセンスだかっつーのもさっぱり先が気にならないっつーかさ、デビルサーガでも同じようなシステムがあったけど、あっちのほうが全然育成の甲斐があったよね。RPGを進化させるっつーアレは分かるんだけど、どうも失敗してるし、結局、昔みたいなさ、戦士タイプが戦士っぽく育って、魔法使いタイプが魔法使いっぽく育つっつーゲームが一番面白いんだよね。


オーソドックスっつーかなんつーかさ、結局RPGってシステムじゃなくてストーリーだよね。いつも書くようだけど、RPGのハリウッド化は酷いもんがあるんだよ。やたらCGとか予算がかかってるくせに全然面白くねーっつね、だからシネフィルみたいなのは名画しか見なくなるっつーさ、それを新世代は懐古趣味だって批判するんだけど、だって差が明らかなんだもんね。最新作より旧作の名作のほうが面白いって最悪だよね。まぁ旧作っつーのはね、昔の映画って意味だけじゃなくて、90年代とか2000年以降にも名画と言われるやつ全般のことを俺は言ってるんだけど、明らかになんつーか新作がこの名画に入る率ってのがすんげー減ってきてるんだよね。ゲーム然りなんだよね。90年代的なね、FFとかドラクエみたいなメインストリームの他に様々なゲームがあって微笑ましいクソゲーも多くあったっつーのはいいんだよね。っつーのはメインストリームは保たれているわけだから。でもさ、RPGって特にPS2以降は完全に劣化してるっつーか名作の続編みたいなのが見事にダメになってってるんだよね。考えただけでもつまらなくなってるのってドラクエとかさ、まぁドラクエは元々あんま思い入れないからどうでもいいんだけど、FFとか幻想水滸伝とかゼノサーガ系とかサガ系とかね、「え?なんでこれが?」っつーさ、ゲーム界を支えなきゃいけないようなメインストリームがガンガン没落してるんだよね。そんな中でメガテン系はまぁ別な意味で進化を遂げたけど、やっぱなんつーか規制とか気にしないで、本来の女神転生系のシリーズってのも作ってほしいよね。ライドウとかペルソナみたいなね、ジャパニメーションメガテン系のエッセンスを合体させて中和したようなのもいいんだけど、メガテン特有の毒ってのが無くなってるよね。まぁペルソナは全作ハズレ無しなんだけど、でもやっぱなんつーか真・女神転生4は出さなきゃダメだろっつーね、岡田さん無き後もね。まぁやれるだけやって失敗したらファンが遠のくわけだけど、でもやっぱやらなきゃダメよね。抱き合わせ商法とかオマケ商法とか分割商法やってる場合じゃないよね。アトラスってメガテン系の子孫でまだギリギリ良作出しているからまだいいんだけど、でもそれもまぁ悪質な商法によって相殺されてるんだからさ、もっと頑張らなきゃダメだよね。


なんか本当に鬱になったな。FF12やってて。これだけグラフィックが綺麗でさ、何もかもがパーフェクトに見えてあれだけつまらないって絶望的だよね。クソゲーってクソゲーなりのショボさとかを楽しめる余地があるけど、超大作でクソゲー作られちゃ遊びようがないよね。楽しみようがないっつーかなんつーか。ちなみにゲーム自体はミニゲームの集合体なんだけど、バトルシステムが完璧なのが前にも書いたようにFFX-2なのね。あの萌え系に媚びたコスプレシステムが嫌みに見えるんだけど、でもジョブシステムの数だけ衣装があるっつーのはさ、別にその対象がギャルであれガラフであれ楽しみだよね。そういう要素も含めてFFX-2って良作なんだよね。FF的には糞なんだけど、システム的には完璧。まぁもっと改善が必要なんだけど基本的にオッケーなんだよね。政治や社会にも危機を感じるけど同じような危機をゲームにも感じるね。そんな風に思ってるやつは結構多いと思うんだよな。


PS2


あ、ゴメン。ずーっとゲームやろうと思ってた時間が空いたんで色々書かせてもらうけどもさ、新作についてなんだけどね、びみょーなのがあれだよね、映画にしてもさ、それが名作だったらもうそれはそれでいいじゃんっつー考え方もあるよね。下手に続編出してコケるよりも名作はそれで完結しているんだったらそれでいいっつーね、システムとか世界観の引き継ぎを行って、んで惰性みたいなゲーム作るぐらいだったら作らないほうがマシっていうね、まぁ惰性で言えばフトントミッション4なんて完全に惰性だよね。システムはほとんどが引き継ぎだし、まぁコードベロニカみたいなもんでさ、進化無きバイオハザードみたいなもんだよね。バイオはそれをあのっつーか名前忘れたんだけど、ヒット作でさ、見事に惰性を打開した感じだけど、でもね、惰性でも惰性なりの良さっつーのがあって、それの典型がフロントミッション4だよね。システムはふつーで何の斬新さもないんだが、キャラとかストーリーが熱いっていうね、まぁ俺的にはエルザだかエリザのフランス訛りの英語がもう最高であれを聞きたいっつーのもあったんだけど、あの多国籍な感じとかもね、凄くナイスなんだよね。やっぱシステムじゃないんだよなぁー。システムが一緒でもキャラとかストーリーが良かったりすればそれって良作になるんだよね。


どうなんだろう?革新なのか惰性なのかっつーかさ、アニメとかシリーズ物が一緒でさ、例えば俺が常にべた褒めする攻殻機動隊なんかも原作は古いけど、アニメにしたってもう10年以上の歴史があるんだよね。でもあれだけ新作を出してもダメにならないっつーのはまぁストーリーやキャラの素晴らしさもあるんだけど、ファンに根付いたお馴染み感ってのもあるよね。話の展開の仕方とかさ、役回りとかがまぁある意味で決まってるじゃない?ドラゴンボールで言えばヤムチャが最初に殺されて、んで天津飯はちゅうと半端に頑張って無惨に殺されて、んでベジータが来て、んで悟空がキレてみたいなさ、まぁ役回りってのがあるよね。それがお馴染みになって定着してるんで話が展開しやすいし無駄なことに時間を割かなくても重要なところだけに注意を注げるっつーかさ、そういうアドバンテージをシリーズ物ってのは持ってるよね。でもそれがディスアドバンテージともなりうるのはさ、例えば攻殻機動隊がさ、このまままた10年とか続いたらサザエさんみたいになっちゃうんだよね。まぁそれなりの質の維持が望めればそれはずーっと存在してもいいんだし、むしろ日本だけじゃない世界の社会問題を切り抜く媒体としての攻殻機動隊みたいな存在もありえるんだけど、それもパターン化するとサザエさんになっちゃうよね。んじゃあサザエさん化を望まないで何かの革新を求めるのか?っつってさ、んじゃあ素子を外そうとかさ、バトーを殺そうとかさ、メンバーを新しくしたところでそれって表面的な変化だし、むしろファンは怒るよね。だったらノータッチで新作なんて作らなきゃいいのにって話になる。


これはメガテンにも言えてさ、また東京崩壊で宗教やらなんやら悪魔やらってのが絡んできて、んで最強装備は将門系でみたいなさ、お馴染みのパターンが続くだけのやつだったらまぁ続くだけならいいんだけど、それで質の低下とか無駄な惰性感とかを漂わせるんだったら、完全に名作のメガテン3で終わらせとけばよかったのにって話にもなるよね。そうなるとさ、メーカーっつーか映画にしてもそうだけど、作り手は凄まじいリスクを背負う事になるよね。名作の続きとか同じシリーズを作るっつーのは全作の評価が高ければ高いほど敷居は高くなるもんね。そういう意味でメガテンシリーズってアドバンテージがあるのがさ、それこそ俺みたいなディープなメガテンファンも引きつけるような独自のメガテン的要素を引き継ぎつつ、ただの新作にしないっつーね、そこがまぁキャラものっていうところなんだよね。メガテンではキャラものは出来ないじゃない?でもペルソナだとキャラものが出来るんだよね。メガテン系みたいな孤高の主人公をロールプレイするんじゃなくて物語の中の中心人物をロールプレイするっつーね、そういったロールプレイ化が可能なんで続編が作りやすいんだよね。


でもそれもまぁ時間の問題でずーっと同じの作っててもダメだってことでさ、まぁドラクエとかFFは20年ぐらい持ったんだろうけど、んじゃあペルソナの賞味期限が20年と考えて、んじゃあと7年ぐらいなの?っつーとこれまた微妙だよね。時代の流行を反映させつつメガテンの核を残していくっつーやり方もありえるけど、そもそもペルソナ召還自体に飽きてくるなんつージレンマがなくもないわけでさ、それは俺がね、例えば俺は凄いバイオのファンだったけどもう2ぐらいで飽きてたのね。あのなんだっけ?1の女警官が主人公のやつが最後でさ、三作目ね、あれ以降もう飽きちゃったんだよね。悪く無いのは分かるんだけどなんつーかもうやる気が起こらないっていうね。サイレントヒル然り。俺は1からのファンで存在がマイナーだった頃からのファンなんだけどっつーと「必ずこういうことを言う通ぶりたいやつがいるよな」とかって言われそうだけど、まぁ俺は通なんだよ、有吉が言うところのさ、深夜番組とかで味のある芸人とかを楽しんでるお笑い通みたいなやつでさ、ゲーム通っつーのもまぁ似たようなもんなんだけど、サイレントヒルもずーっと質は保ってるとは思うし、まぁ4は一番微妙だったけど、でもまぁ独自の進化を遂げたっつーかさ、それまでがまぁ同じインターフェースを使ったシリーズ物だったんだとしたら、4は違う感じでまぁ独特の雰囲気を出してたよね。まぁ敵を倒す爽快感ゼロだったけど、でもあれはあれでまぁギリギリ許せるレベルなんだよね。で、サイレントヒルのオリジンは1に先祖帰りしたような作品なんだけど、あのぐらいになるともう俺みたいな古いファンはもう飽きてるんだよね。散々やってきてるから全然面白みを感じないっつーかまぁ酔うっつーのもあるんだけどね。


サイレントヒルもバイオも先が心配なシリーズではあるよね。もう世界観とかシステム自体に人々が飽きちゃってるんじゃないか?っていうね、今は俺みたいなオールドゲーマーではなく、スイーツ世代が新しいものとして食いついてるからまだ持ってるような感じがあるけど、そのうちスイーツ達も飽きてくる時代が来るよね。そうなったときにどうするか?って話だけど、日本崩壊みたいに以外と先の話でもないんだよね。で、逆説的なのがね、そんな最初っからね、日本の質の高いゲームみたいな深みを求めてない洋ゲーみたいなのが意外と市民権を得ている感じがあるっつーのがようはメインストリームである日本産のゲームの後退があるからなんだよね。GTAとかさ、GTA系のインターフェースの一連のスカーフェイスとかゴッドファーザーみたいなのは微妙だけど、まぁあとBullyだとかさ、箱庭系にしても洋ゲーって割と今はメジャーじゃない?また通ぶってるとか言われそうだけど、俺はdosDOOMからのPCゲーマーなんで、やっぱ昔に比べると洋ゲーもメジャーになったもんだなとは思うんだけど、洋ゲーの台頭は一概に喜べる感じでもないんだよね。あくまでやっぱ洋ゲー洋ゲーに位置にあるぐらいのバランスがベストだろうと。洋ゲーの質が上がってくるのはかまわないんだけど、比例するかのようにようは日本のゲームが質を保ちつつ上げて行かなきゃいけないのに、さっぱり下がってばっかで、んで洋ゲーがマシに見えちゃうような現象ってのがここ5年ぐらいで起こってるよね。


あとアニメとかさ、人気の萌え系のアニメとかキャラとかを利用したゲームっつーのもあくまであれはキャラものとして扱われるべきで、メーカーがキャラものに走っちゃいけないのね。ペルソナ的なキャラならいいんだけど、既存の何かからとってきてポピュリズム的手法で客入れをするっつーさ、それが意味するのは政治と一緒で没落なんだよね。質なきポピュリズムってのは最悪なんだよ。そういう意味で俺はマトリックスとかペルソナ的なポピュリズムは大歓迎なんだけど、ただのキャラもののゲームみたいなのはもう最悪だって思うのね。そういうのって昔は珍しいものとしてあったわけじゃない?で、大抵がびみょーっつーね。でも今って結構な数のアニメからゲームになったっつーやつがあるよね。そっちのほうが多いんじゃない?ってぐらい多いっつーかさ、どれだけゲーマーの期待を裏切るんだ?って話だよね。


もはや質の高いゲームなんてのを作る事自体が不可能になってるのかもしれないね。そういうアイデアや才能がある人が会社に入れないだとかさ、会社でそういう位置に立てないとかさ、やたらプランが通るのは商業的見通しがあるようなやつばっかってことになって、んで結局まぁ票集めにフォーカスする政党みたいになっちゃうんだよね。政策よりも人気主義でみたいなさ、キャラものってまさしく政治のポピュリズムと一緒よ。オバマポピュリズムの一つだけど、あれはまぁオバマっつーキャラだよね。一種の。それを利用しつつまぁ黒人初の大統領!みたいなセンセーショナルな感じとかね、そういうのもあってまぁ当選したわけだよね。まぁ一部の陰謀論みたいなのではオバマウォール街から送り込まれたパペットだみたいな話があるんだけど、まぁそれについてはまた別の機会に書くね。まぁそうなんだよ。人気キャラをゲームに起用することでまぁ売り上げを上げるっつーさ、それはポピュリズムそのものなのね。で、こういうのが横行するとさ、よりいっそう表面的なものばかりを評価したり見る性質っつーのが進むんだよね。結局、マジで良いゲームを作りたいみたいなさ、政治で言うと人気よりも政策や理念だ!とかってマジで考えるのがバカバカしくなっちゃうぐらいポピュリズムが横行すると、例えば内面的なのに対しての諦めってのが生まれてくるんだよね。今、哲学とか言ったって流行らないし誰もそんなの読まないし話も聞かないとかってなるともうそれって哲学の危機だよね。


ゲームも同じなんだよね。ユーザーがライトなものばっかり求めるようになるっつーかさ、それこそDS的な電車でやれるようなやつばっかにフォーカスするようになるとさ、根本的なゲームにあった素晴らしさってのがどんどん無くなっていくんだよね。それは人々が表面的なものばかりでしか物事を評価しなくて内面を気にしないし見ないって傾向に陥るのはさ、シュトラウス流のまぁ奥義としての哲学みたいなもんでさ、まぁシュトラウスが実際に奥義継承としての哲学伝授を実行していたかは別として、内面を見るってそういうことなんだよね。表面だけではなくむしろ重要なのは内面だっていうね。そういう内面っつーかコアの部分を人々が気にしなくなるとさ、コアがあるものに需要が無くなったり、社会的価値がなくなったりしちゃうんだよね。表面的なことばかりが書いてある本ばっかが売れてさ、熟読を必要とするような本は本屋にないか奥まで行かないと見つからないみたいなさ、まぁそういう意味で俺は大衆に絶望しているんだけど、でも熟読を必要とするような本もコアがあるゲームもね、やっぱある程度存在しないといけないわけよ。需要がないっつーんでさ、売れる売れないを基準にして物作りや作品作りをしていたら、それってのは結果的に文化の低落を産むんだよね。


だから俺は人気主義的なものが嫌いなのね。それを手法として利用するのはいいと思うんだけど、それがメインになったようなやつってのは大嫌いなわけ。ただですらダメな連中を余計ダメにするだけだしね。だからこそ埋もれたようなやつを常にディグしてきて評価するような通ってのはいつの時代も必要だし、その通は例えばネットなんかを使って「これいいよー!」って薦めなきゃいけないのね。いけないって言い方はアレだけど、分かるやつらはその「分かる」感覚を利用して人々に作品の良さってのを伝えなきゃいけないわけね。そういった意味でのオルタナティブな情報源としてのネットやブログっつーのは大いに活用するべきだと思うし、まぁアルファブロガーって言い方が日本でしか通用しないっつー話しはともかくとして「こいつすげーな」って人が薦めてたような本とか映画ってのをチェックしてみたりディグしてみたりするっつーのこそがね、今の時代の情報の価値なんだよね。自分が自分の情報ソースを得るっていうね、これこそがlain的なワイアードのあり方の一つなんだよね。実体のあるメディアや活字媒体っつーのが文化を保全するのではなく、ワイアードで繋がっている人達の連帯そのものが文化的なものを保全するっていうね、これこそが究極的な情報のあり方であるし、メインメディアに対抗する手法の一つでもあるわけね。


まぁいいや。そんな感じで。明日は続きを貼ると思いますのでっつーかなんか書きたいことがあったらまたPSっつってPSどころじゃない量の文を色々と書くと思うのでっつーかさ、文の質はともかくこの言いたい事の速さにタイピングが追いつかないっつー感覚が英語で得られれば最強だって思うんだよね。これはまぁ俺の夢の一つでもあるんだけどっつーのはさ、ウォール伝的な俺の思考そのものみたいなね、思考の連続性そのものがまた次の思考を紡いでいくみたいなこういう有機体的な感覚の文章を英語でも書けるようにするっつーのがね、まぁ喋りもそうなんだけど、そのぐらいになれればなぁーって思うんだけど、まぁ夢がだんだん叶っているっつーのは前に書いた事だけど、まぁそれは強く望みつつ日々の積み重ねっつーかまぁ訓練っつーか鍛錬で養っていけば実現すると思うんだけどね。質はともかくとしてジジェク的な方法でね、とりあえずアイデアを書き留めて、んで後でそれをエディットすれば「書く」という行為が消えるみたいなね、それが理想型なんだよね。そうなると学校のエッセイとかもう楽勝でしょ。とりあえずそのトピックについて思い浮かんだ事をウォール伝風に「ガーッ!」と書いて、後でそれをそれっぽくエディットすればエッセイが完成するわけだから、これほど楽なことは無いよね。これできるようになればいくらでもエッセイなんて書けるだろうってマジで思うね。それが俺の夢の一つでもあるわけね。


PS3


久々に余裕があるんで色々な事を妄想していたんだけど、寝起きに抜いたのにも関わらず妄想の延長上としてエロいことが浮かんじゃって、んでまぁ抜かずにはいられまい!ってことで抜いたんだけど、オカズがまぁ最近お気に入りの洋モノの中だしのやつなんだけどね、クリームパイっつー俗称があるんだけども、まぁ具体的なサイト名とか出さないほうがいいよね。マジで有害情報になっちゃうもんね。まぁウォール伝って有害サイトよりある意味で有害だと思うんだけど、それはともかくさ、この中だし洋モノのやつのさ、中だしっぷりが最高なんだよね。中だしっぷりだけにプリップリの新鮮な精液が姉ちゃんのマンピーに注入されてるんだけど、思ったのがさ、これってある意味フィジカルなんだけどイデアルでもあるんだよねっつーのはさ、中だししようが外だししようがセックスっつー行為自体は変わらないわけじゃない?そこをさ、まぁあたかもなんつーか知らずに中だしされたみたいな演技をすることでサプライズしてる姉ちゃんの演技を見て、その予想外の中だし感に快楽を得るってさ、すげーイデアルだよね。芝居なんだけどそれを現実のものとして見なすっつーかさ、中には芝居が上手い姉ちゃんがいて、マジで「サプライズ?!」って感じの演技しててさ、で、終わり方とかも唐突で生々しいっつーかさ、まぁ生々しいどころか全部生なんだけど、それこそあのさ、同人誌とかでよくある「赤ちゃんできちゃうー!」みたいなののリアルバージョンなんだよね。


誰がそんなこと言うんだ?ってツッコミが同人誌にはいっぱいあるけど、この洋物の場合さ、男が「あーイキそう。イキそう・・・」とか言っててさ、んで姉ちゃんが「顔にかけたい?どこにかけたいのー?」なんて聞くわけ。男に。そしたら男が「Oh too late」とか言って中だししてさ、女の子が「きゃーマジぃ!」みたいな演技をしたりするんだけど、これってすげーメタ的なポルノだよね。まぁ中だし系のポルノって昔からあるけど、俺が気に入ってるところは女の子の質が高くてさ、ましてや俺ってこっちに来てからより洋モノじゃないと抜けなくなってきてるからさ、もうそこが最高!とか思ってまぁ抜きまくってるわけだけど、男の欲求としての生殖行動としてのセックスってのがあるわけじゃない?本能レベルで。でも俺みたいな童貞っつーかオナニー好きはそれをやらないわけだよね?やれないって言った方が正しいか。でもさ、性欲という欲求はあるわけだよね。で、その性欲という欲求の中に生殖本能っつーのがあるわけでさ、例えオナニーでそれを済ますとは言え、その行為の中にはやはり生殖本能ってのがあるんだよね。だから中だしとか「赤ちゃんできちゃうー!」みたいな言葉に興奮したりするわけでさ、それを観念的なレベルで叶えてるのがこういうポルノだったり同人誌だったりするわけだよね。特にポルノの場合、それがフィジカルな行為であるのにも関わらず、イデアルなズリネタとして機能させるために「中だしサプライズ」っつーメタ情報を組み込んでるんだけど、それがオナニーの中にあるメタ情報である「生殖」という本能を満たしているものになっているっつーのがすげーな!って思ったわけね。高度だよね。凄く。


オナニーの本質を見据えたAVっつーかさ、それこそあれなんだよね、フェティストじゃないやつが作ったフェチものAVってフェティストとしてはすぐ分かるんだよね。これ作った奴全然分かってねぇーなっつーさ、これって意外な盲点っつーかAVメーカーは気づけよって話なんだけど、中だしサプライズとかはさ、姉ちゃん達の演技もさることながら、フェチに限らずオナニー全般に渡る欲求を満たすための必要性というか情報が組み込まれてるっつーのがね、凄いわけね。マジで。マルチレイヤーなんだよね。フィジカルなレベルでの生セックスっつー映像的情報がありつつ、メタ情報として「中だしサプライズ」という観点的なものが含まれているっつーさ、まぁ基本的にフェチもののAVと構造は一緒なんだけど、でもセックスっつージェネラルな媒体でそれをやってるのが凄いよね。例えばさ、フェチもののやつとかにしても制服が私物とかさ、靴下とか靴とかブーツとかが私物とかでさ、微妙に使用感があったりするのと無いのとじゃ興奮が全然違うわけだよね?ピッカピカの制服にザーメンかけても興奮しないっつーやつらいっぱいいると思うんだよね。でも分かってないAV監督っつーのはこういうのをやっちゃったりするんだよね。それこそシミュレーションが本当の意味でのシミュレーションになっちゃってる。でもさ、AVってやっぱセックスにしてもシチュエーションモノにしてもシミュレーションなんだけど、それをマジっぽく見せるっつーのがやっぱポイントじゃない?そういうところでさ、サプライズ感が全くない演技丸出しの中だしAVとかさ、制服が衣装っぽいっつーかピカピカの女子高生モノとかさ、まぁ女子高生マジで使ったら違法になるから衣装を使うのは当たり前っつっちゃー当たり前なんだけど、でも俺が監督だったら違法にならない年齢の子の私物の制服を収録の前に何週間か来てもらって、んでただですらある着用感をよりエンハンスするために事前にミッチリと使い込んでもらうと思うんだよね。


やっぱりさ、AVってサービス業なんだよね。監督のオナニーとか商売っつー観点から作るんじゃなくて、オナニストの観点からAVを作らなきゃダメだよね。クオリティってのはそういうことだと思うね。特にAVみたいな即物的なものにしてはそうね。映画とかだと監督の表現っつーのを第一に置いたほうがそれが仮に難解であっても芸術性が高まったりするのであえて観客のことは考えない方がよかったりもするんだけど、AVは別だよね。抜く側の気持ちにならないとダメだよねっつーかエントリーが割と真面目なトピックなのに下ネタとかゲームネタ付け足しちゃって済まんね。エントリーっつってもさ、まぁ普段もそうだけど認識的断絶は無いのよね。ただその時に思った事ってのを書いてるだけでさ、エントリーっつーのはそれをただ切り取ったパーツなんだよね。なのではっきり言って独立したエントリーなんてのはウォール伝じゃありえないんだよね。だからまぁ読みづらいっつーか分かりづらいのかもしれないんだけどまぁそんなの気にしてたら何も書けないからね。


PS4


あとね、あれね、制服っつってもあれね、何も女子高生だのノスタルジックなルーズソックスだのってのに関わらず、例えばコスプレ全般でもね、それがナースでも教師でも衣装は私物感を出さなきゃいけないのね。下着とかも新品じゃダメなのよ。適度に汚れてないと。ストッキングの場合、電線してるとかね、こういうところはむしろ洋物の生のやつとかを見てその質感を学んだ方がいいね。本当のビッチの格好とかさ、本当のビッチの洋服の使用感とかね、前に凄いな!って思ったのがさ、イギリスの売女のやつだったんだけど、プロのやつとかじゃなくてマジのやつなんだけどハイヒールがすり減っててさ、ようは娼婦ってプッシーを売ってるって意味でもプッシャーと同じでさ、一日立ってたりようは外にいる時間が長いんだよね。その外にいる時間が長いマジな感じっつーのがさ、衣装の微妙な使用感とかさ、ハイヒールのすり減り具合っつーのに感じたんだけど、サオはもっと感じてきたけど、やっぱこれだよなって思ったよね。いくら優れたAVが溢れてても流出モノとか素人モノに人気があるのって生々しさだよね。でもさ、August undergroundみたいにさ、徹底すれば生々しさって何でも追求できるんだよね。シミュラクラムの芸術だって前にaugustのやつで書いたけど、AVもシミュレーショニズム的アートとして成立可能なんだよね。誰もやってない気がするんだけど。あとやっててもヘタクソっつーか徹底してないっつーかね、だから萎えるんだよね。AVだけに手抜きなのが多いわけですよ。っつーかPS4っていつ頃出るんだろうね?五年後とか?


PS5


あとね、AVなんだけどね、すんげー音声機器の進歩を感じるのがさ、まぁ当然AV見る時はヘッドフォンをしてるんだけど、たまにさ、「あれ?外から出てる?」っていうような質感があるAVがあってさ、で、実際はヘッドフォンから出てるんだけど、ようは「その場感」っつーのがすんげー録音できてるやつがあるんだよね。そんな高価な録音機材使ってないんだろうけど、でもあの臨場感っつーのがね、デジカメ付属レベル程度のマイクで録音できるのが凄いって思ったわけね。マジで。フィールド歴10年の俺が言うんだから間違いない。あのぐらいの場の感じが録音できるマイクって普通に欲しいからね。マジで。そんな臨場感を体験できるヴァーチャルセックスソフトはPS5が出るぐらいの時代には可能になってるかもね。ところでいつ出るんだろうね?PS5?10年後とか?


PS6


もう未来からこれを発信しているよ。PS6が俺の時代では発売されている。ところで洋物ってさ、パイパン率が高いんだよね。日本では陰毛のケアをするっつー風習が無いっつーかまぁ毛切り石みたいなのは江戸時代からあったんだけどっつーか江戸のソープの備品だったりしたんだけど、剃るっつー習慣は無いんだよね。むしろパイパンだと変っつーさ、生えてるのが普通っつー感覚があるけど、欧米ではっつーとアレだけどさ、1ラインを残してたり、もう完全に剃っちゃってたりするのがあってすげーケアっぷりだなって思うんだけど、それもまぁセックスがスポーツみたいな国だからだよね。日常的にオマンコを男に開帳するんでケアはかかせないっつーセックスポーツカルチャーを感じるよね。昔、一時期風俗研究の一環でエロ小説にハマってた時期があったけど、「自分の陰毛と彼女の陰毛が擦れ合っている」みたいなさ、陰毛にもエロスってあると思うんだよね。それをパイパンカルチャーはオミットしてる気がするな。スカトロマニアだったらむしろ陰毛は必須だって思うに違いないよ。あの陰毛を巻き込んで垂れてくる小便の感じね。あのエロスはパイパンじゃ無理だもんな。


PS7


ところでさ、ソープオペラっつー言い方をさ、まぁこっちのテレビドラマの俗称があるんだけど由来はね、昼間の主婦向けのテレビ番組の時間帯に放送されるような昼ドラの合間のCMで主婦をダーゲットにした洗剤の宣伝と共に放映されるような時間帯に放送されるドラマみたいなね、まぁかなり俗悪で馬鹿にしたような言い方なんだけど、俺はこれを聞くたびにエロい連想しかできないんだよね。知らない時は「ソープオペラ?ソープ嬢がオペラでも歌うのか?」とか思ってたしさ、まぁこれってエロ詩吟ならぬエロオペラってことになりそうだけど、エロオペラってまぁ可能な舞台のフォーマットだとは思うんだけど、意味を知った今でもさ、「ソープ嬢物語」みたいなドラマしか浮かばないんだよね。日本語ではソープっつー言葉が風俗用語になっちゃってるからさ、ソープってワードを聞くともうイコールそれだもんね。逆にソープオペラっつってアメリカのマフィアの情婦みたいなのが日本のヤクザとのトラブルに巻き込まれて日本のソープ嬢になっちゃったみたいなさ、そんな映画を撮ればいいと思うんだよね。


PS8


あとね、アニーホールっていうね、マンハッタンに住む冴えない小柄のハゲの絶倫のオタクが絶世のグラマーなブロンド女とヤリまくるっつー洋ピンムービーの構想とかあったんだよね。まぁAnnie Holeっていう語呂遊びで思いついただけなんだけどね、やたら長回しな台詞が多い洋ピン映画でね、基本ラインは元ネタと同じストーリーなんだけど、とにかくもうヤリまくるっていうね、映画としても面白いしポルノとしても面白いっつーまぁインテグラルな映画なのね。


PS9


映画「ソープオペラ」のアイデアが独立したんで分けます。っつーかね、映画のタイトルは「ソープオペラ」で。アメリカ人がラーメン屋ならぬザーメン屋に勤務する物語って斬新だと思うんだよなぁー。日本の風俗カルチャーを世界に伝えるって意味でもマジでいいと思うんだよね。これ。まぁ問題は18禁になるんでメジャー予算では撮れないってことで、ファックトゥーザフューチャーとかパイパニックぐらいの洋ピンムービーレベルのものになっちゃうと思うんだけどね。でもさ、アメリカのマフィアの情婦が日本のヤクザに報復としてソープに沈められるって良いストーリーだとは思うんだよね。そこから客として来た冴えないサラリーマンとそのソープ嬢に成り果てたマフィアの情婦が恋に陥って、愛の逃避行をしようとするんだけど、ヤクザにもマフィアにもそれがバレて凄まじい軍団抗争を交えた仁義無きドタバタストーリーになるっていうね、なかなか悪く無いアイデアだと思うんだよね。主人公が冴えない日本のサラリーマンっつーか派遣社員っつーのがポイントね。


マフィアの情婦はそれこそニコールキッドマンみたいな雰囲気の女でさ、冴えない派遣社員には釣り合わないんだけど、でもお互いすんげー愛し合ってるのね。ちなみに派遣社員は高卒の24歳っつー設定で、マフィアの情婦は40過ぎなんだけどすげー熟女の魅力があるっつーかさ、おばさんじゃなくて、それこそ普通のやつでもふつーにいけるぐらいのクオリティがある40過ぎなのね。で、アメリカ側のマフィアはイタリア系のマフィアなんだけど凄まじい武闘派で、それは日本側のヤクザも同じなのね。両方武闘派ってことで抗争が凄まじいんだけど、抗争してる間にもヤクザ側も女と男を捕まえて海に沈めるっつー目的があって、マフィア側も両方捉えて殺すっつー目的があってさ、派遣と情婦はタチの悪いマフィアとヤクザの戦争に巻き込まれつつ両方から命を狙われてるっつーね、その命がけの愛の逃避行を描くっていうさ、で、ヤクザとマフィアの抗争も見物でヒートぐらいのドンパチの激しさがありつつタクシーみたいなカーチャイスがありつつね、普通にヤクザとマフィアの戦争映画としても見れるぐらいのバイオレントな暴力描写とかドンパチがありつつ、派遣と情婦の愛の描写も凄くてさ、氷の微笑みたいな雰囲気のセックスシーンが至る所にあるのね。東京の夜景をバックに国境と年齢差を越えて激しく燃える男女と激しく打ち合うマフィアとヤクザがクロスフェードしつつ両方同時に描かれるみたいなね、映像は完全に俺の頭の中にあるんだよね。ヒット間違い無しなんだけどな。全部今、思いつきで書いているわけだけども。


で、最後はカリートの道みたいな終わり方でさ、偶然にもマフィアとヤクザの抗争に巻き込まれたことでひょんなことから派遣と情婦はありえない額のお金を手にするんだけど、あともうちょっと・・・ってところで派遣が殺されて情婦だけが高飛び出来て話が終わるんだけど、最後は派遣の人生の走馬灯が描かれてさ、小学校から高卒までの冴えない人生とかが回想されつつ、高卒から派遣生活に至るまでの様々なシーンがね、走馬灯として描かれつつさ、冴えない人生だったけど、人生の最後に少しの間だったけど素晴らしい時間を彼女と過ごせた・・・みたいなことを思いつつ、二人が思い描いていたパラダイスってのが描かれて映画が終わるっていうね、なかなかいいと思うんだよなぁー。誰かこのアイデア買ってくれない?で、映画化してくれないかな?あ、んで派遣は死のうと思ってたぐらい惨めな生活をしていたっていう設定のほうがいいね。死ぬ前にヤッておこうと思って行ったソープで彼女と出会ったことから物語が始まるっつーね、その短時間の非日常性とさ、死までのジェットコースターみたいなさ、それこそこの冴えない派遣が一生働いても稼げないお金を手に入れつつ、普通に生きてても体験できないような性の体験やら恐怖の体験やらっつーさ、めまぐるしい非日常性が男を襲うんだけど、死ぬ前際に残念だ・・・とか思いつつも普通に自殺するより良かったな・・・なんて思ってる派遣の気持ちがまた観客を泣かせるんだよね。なかなかいいなぁー。面白そうな映画だよねぇー。配役を決めちゃおうかな。派遣役は武田真司がいいな。まぁ年齢設定をちょっと上げるしかないか。で、情婦役はもちろんニコールキッドマンね。武田信治がどうしようもない派遣男を演じるんだけど、顔がいいから基本的に絵になるんだよね。で、マフィアのボスはアルパチーノで、ヤクザのボスは石橋凌。マフィアの若頭がディカプリオで、ヤクザの若頭に浅野忠信。で、ソープのオーナーは麿赤児・・・・みたいなのが大体の配役なんだけどふつーにヒットするだろうな。これ。自分でこうやって書いててワクワクするもん。あまりに面白そうで。


で、尺は二時間を考えているんだけど、フックとしての派遣男のどーしょーもない今の派遣の人達のノーフューチャーな生活ってのをコミカルにではなくすんげーシリアルに描きたいんだけど、そこにどのくらいの時間を使うかなんだよなぁー。仕事場の風景とかさ、何個も仕事を掛け持ちしつつ生活が貧乏で暗くて忙しくてしょーがないみたいなリアリティを描きたいんだけど、それと同時進行でさ、まぁ同時進行の感じとしてはエルフィンリートのこうたとゆかの生活と研究所みたいなああいう対比的な感じで描きたいんだけど、その派遣青年の生活の実態と、マフィアのボスと情婦の関係とかさ、どうヤクザと抗争になるのか?っつーのもさ、同軸で描きたいんだよね。で、ニコールっつーか情婦がソープに沈められちゃって、んで派遣男が死ぬ前にソープ行こうってことでまぁ衝撃的な出会いがあるんだけど、ここまででまぁ30分とか40分ぐらいかなぁー。で、またマフィアとヤクザの抗争とかもちゃんと描きたいし、ドンパチとかバイオレントなシーンとかにも時間を費やしたいんだよね。マフィアの内部の話とかも若干ディティールとして描きたいしそれはヤクザのほうもそうなんだけど、そこでまぁディカプリオとさ浅野忠信がいい味出しつつさ、アルパチーノと石橋凌ってのが凄まじい対立をするんだけど、ディカプリオと浅野忠信もライバル関係みたいな感じでさ、また独自の争いがあるんだけど、インターポールじゃないけどさ、国際警察みたいなのも動き出しつつ、日本警察も頑張るみたいなね、あ、んでまたその国際警察と日本警察のシンボルとなる配役が必要だな。国際警察をデニーロにしたら予算オーバーだなっつーか今の時点でも相当予算アウトだろうけどね。日本警察側はやっぱ役所広司だろう。あーたまんねぇー!!っつーかこの映画見てぇー!!


国際警察もさ、まぁあの銭形的なね、まぁ実際あるのか分からないけどさ、でもあれなんだよね、日本警察も意地があるみたいなさ、その日米の対立っつーのがマフィア対ヤクザでも国際警察対日本警察でも描かれるみたいなね、でもその軸に武田真司とニコールの愛の逃避行があるんだよね。いやーすげーな!壮大で!ドンパチはさっきも書いたようにヒート並で、バイオレントなシーンはスカーフェイス並っていうね、警察が来て大掛かりなドンパチになるときにもうマフィアとヤクザと警察と国際警察みたいなのがごっちゃになってさ、ヘリやら警察官やらマフィアの兵隊やらヤクザの兵隊やらが入り乱れて大変なことになるのよ。カーチェイスだのドンパチだのって。そんな中でマフィア側の若頭であるディカプリオもヤクザ側の若頭である浅野忠信も武田真司とニコールを捕まえる事に必死になっているんだけど、ここにもディカプリオと浅野のさ、俺がさきにあいつらを見つけ出して殺すみたいなね、凄い対立があるわけ。でも軸である武田とニコールは他の日米の対立とは対照的に激しく愛し合ってるのね。いやーいいねぇー!これ。


マフィア側もヤクザ側も軍団抗争に忙しいのに警察やら国際警察まで出てきちゃってさ、フレンチコネクションかよ?ってぐらい大変なことになるんだけど、でもそこでお互いの若頭があいつらを見つけ出して殺すっつーミッションを遂行しようとしてるのね。どうよ?これ。まぁ色んな映画からのパクりばっかになりそうだけど、ふつーにイケるよね。ただ予算がかかり過ぎて大変なことになると思うんだけど。ロケもまぁ日本じゃ無理だろうしね。でも日本を舞台にしたこういう話って面白いと思わない?でも軸はラブストーリーっつーさ、映画のストーリー展開のレイヤーがいっぱいあって、んでみんな主役なのね。アルパチーノも石橋凌もニコールも武田真司もディカプリオも浅野忠信デニーロも役所広司も。これマジで最高だな。本当に。誰か映画化してくれよ。原作は俺だよ。絶対。俺。大ヒットさせて俺は一生研究に人生を捧げるのだ!グワハハハハ!ところで監督は誰がいいかな?あ、んで国際警察はデニーロもいいけどジャンレノもいいかもな。ここでデニーロが出てくると焼き増し感が凄いと思うから、国際警察はジャンレノだな。で、ダビンチコードのトムハンクスの助手っつーか相方みたいな立場でオドレイね。日本警察の役所広司の相方は仲間由紀恵ね。で、役所広司の娘役が吉高由里子ね。奥さんは風吹ジュンだな。まぁあくまで贅沢な豪華脇役ってことでね。なんか至る所にシメントリカルな存在があるってことでそうなるとジャンレノの奥さんも必要になるなってことでイザベル・ユペールだな。娘は無理矢理だけどナタリー・ポートマンがいいな。無理矢理フランス語を喋らせよう。なんか話がマルチ過ぎて一個一個で別の映画が撮れそうだな。でもこれを超大作の一個の映画でやるっつーのがいいわけよ。全てがシンメトリカルでさ、シンメトリカルな対立がある真ん中に国境と年齢差を越えた愛で結ばれた冴えない派遣男とマフィアの情婦ってのがいるわけよ。あくまで中心がこの2人なのね。もう映画化決定でしょ。これ。やろうよ。っつーか俺は脚本書けないけどさ、まぁ原作っつーか原案は俺だよね。うん。俺。あ、んで日米仏合作ね。


Outside the circle of fire

Outside the circle of fire