ってことで昨日の続きね。

mimisemi2009-08-13

二週目始めたんだけどさ、ライドウね、カオスエンディングは見たいけどなんつーか一周目でやりこみ過ぎてなんか飽きたな。マサカドとカオスエンディングのためだけに時間を費やすならもうやらなくてもいいやっつーかそこまでニートでいられないしね。まぁライドウやってるときもオーディオでネットニュースとかさ、レクチャーとかずーっと聞いてるからまぁ完全にゲーム三昧ってわけじゃないんだけど、ただやっぱ文字に向かわなきゃいけないじゃん?特に俺の場合、英語ね。英語が死活問題なわけだよ。まぁ日本で大量に本買ったからさ、それも読まなきゃいけないっつーかまぁ読みたいっつーのはあるけどさ、ただでもあれなんだよね、ずーっと本ばっか読んでると本を読むということ自体に飽きるんだよね。だからなんかリフレッシュが必要っつーかさ、リフレッシュの必要性ってあるよね。ようは記憶に対するリフレッシュメントなんだよね。それは。


主観がさ、ずーっとそれを経験してるから違った主観の感じとかさ、感覚とか雰囲気に浸ることで主観の連続性を打ち切るんだよね。ずーっと読書という生活が続いてたらその連続性を断ち切ることでまた新たな連続性を生み出していくみたいなさ、まぁパソコンの再起動みたいなもんだよね。それが必要だから例えば運動とかさ、まぁ俺はやらないけどね、たまには外に出るとかさ、誰かと会うとかさ、まぁ俺はやらないけどね、で、まぁいつも書いてることだけど、その一つとしてゲームがあるんだよね。まぁ映画とかでもいいけどね。ずーっとそれだけやってるって意外と効率悪いかもしれないんだよね。惰性でダラダラやってる可能性が無くも無いじゃん?だから他の事をやってまた新たな気持ちでっつーか新鮮な感じで読書に取り組むっつーのかな?その証拠と言ってはなんだけど、ゲームに没頭した後本読むと面白いからね。新鮮っつーかなんつーか。


逆にゲームだってそればっかやってたら飽きるじゃん?まぁソフト変えればゲームはいくらでも出来るから怖いんだけどさ、ただこっちって日本ほどソフトが充実してないからさ、やるの無いんだよね。PS2で。サイレントヒルとかバイオみたいなフォーマットのやつはもうやらなくなったしさ、ファイナルファンタジーとかもう終わってるじゃん?で、ドラクエは酔うし、俺はドラクエはやっぱ3が一番いいみたいに思うやつだからさ、結局まぁ今のやつって面白いと思えないんだよね。ドラクエ3ってウィザードリー的な趣あるじゃん?勇者は選ばれてるけど他の連中はウィザードリー的に自分で制作するみたいなさ、TRPG的な感じっつーのかな?それが好きなんだよね。俺。キャラものはキャラものでいいんだけど、それだとやっぱペルソナ3とか4ぐらいの良さが無いとハマれないよね。


でもさ、やっぱなんかまだまだなんだよね。英語は聞いてても読んでてもやっぱセカンドランゲージ感があるっつーかさ、自然じゃないんだよね。まぁただね、読むってことだとライドウなんてアドベンチャープラスRPGみたいな感じで活字読む時間長いじゃん?だから結果的にまぁ相当な英語を読むことになるからいいんだけどさ、まぁゲームで英語っつーのは前から書いてるから繰り返さないけどさ、なんかでもやっぱまだまだ日本語には敵わないっつーかあれだよね、まぁ基本的に違うからね。言語学でどう言うのか忘れたけど、中国語とかハングルみたいに文字そのもので判断するっつー言語とさ、アルファベット系みたいなさ、何かの文字の配列によって意味が決まるみたいな言語だと言語系みたいなのが違ってさ、子供の頃にどういった言語系で育ったかによって全然言語的な感覚が違うんだよね。で、下手するとその差ってのはどう足掻いても一生埋まらない可能性もあるわけ。10代でアメリカ来てればいいかもしれないけど、成人してからだとなかなか埋まらない溝っつーかね、まぁ俺はコツコツやればなんとかなるとは思ってるけどね、ただそのためにはコンスタントな取り組みが必要なんだよね。受験勉強的に一気にやるんじゃなくて、常に勉強する感じね。もうひたすら分からないワードが出てきたら辞書で調べて覚えたりさ、イマイチ文法で分からないところがあったらシステマティックに覚えるとかさ、ただまぁ文法とかは会話したり色々読んだりして自然に覚えるのがいいんだよね。時間かかるけどこれで覚えると一生忘れないからね。俺がそうだけどね。で、そういう感じになってから分からないところとかがあったら意図的にグラマーブックみたいなのを頼るみたいな感じでまぁ局所的なアプローチね。全体は自然に色々なものに触れて覚えるのがいいんだよね。


あ、まぁそんなところで昨日の続きね。


あーもうあのセブンイレブンの店長とかぶっ殺してやりたいな。あ、こういうこと書くと捕まるんだっけ?ようは悪い雇用者の見本として吊るし上げたいっつーのかな?「こういうことやると捕まります」とかさ「こういうことやると殺されます」って見せしめにしてやりたいんだよね。そこを殺さないのが従順な日本人なんだよね。自分を殺してまで死んだ生を生きるっつーのが日本じゃん?そんなんだったら自殺したほうがマシだっつーのはまぁ俺は普段から言ってるしまぁそれは今も変わらないよね。日本で生きていかなきゃいけなかったら俺は嫌だね。家族とか友達がいても悪いけど先立たせてもらうって感じ。まぁ今は状況が変わったから自殺しようとかって考えなくなったけどね、ようは借金とか残したまま死ねないじゃん?まぁ借金が消えるなら死ぬけどさ、消えないでしょ?親が払わないといけないとかじゃん?


そんなことはできないから生きるしかないけど、でも仮に思考実験として一切そういうのが無くてんでも日本で前みたいな感じで生きていかなきゃいけないってなったらそりゃ死んだ生を生きるしか無いってことでそれだったら人間らしい生があるうちに死のうって思うよね。ゾンビ映画とかに出てくる勇敢な警察官とか兵士みたいな感じね。ゾンビになる前に頭をぶち抜いて自殺するみたいなね、体なんていくらでもあいつらにくれてやる!みたいな潔さね。武士道とは死ぬ事と見つけたりってつまりはこういうことだよね。食うためには生きないっつーさ、なんかの美徳とかさ、なんかのために生きるって感じだよね。まぁ日本の場合、忠誠心みたいなのがよく言われるけど実際は日本ほど忠誠心が無い歴史を持っている国も無いんだよね。状況が変われば自分の君主のクビを次の君主に持っていくみたいなことが平気で行われててさ、んで唯一武士らしく死んだのが忠臣蔵の人達ね。で、なぜか日本人はみんな忠臣蔵好きなのね。実際はあれは時代から出たただの例外なんだけどね。


で、やっと伝統の話に話を戻すとさ、伝統ってのに普遍的な社会に対する良さとか効果を保証っつーか機能させる何かが内在されてたらそれはさ、逆に壊したらいけないんだよね。一見、意味無さそうに見えるけど実際は意味があるっつーのを見なきゃいけないじゃん?もしくはその伝統なり儀式が持っていた効果っつーのを時代に合わせた何かに変えるとかさ、そういうのがようは適合だよね。ここは飛脚に頼むんじゃなくて電子メールでっていう感じね。で、その究極的な例が日本のお祭りじゃん?実際に神様とかがいなくてもハレの場を作るってことが共同体にとって大きな意味を持っていたっつー意味でのお祭りだよね。トランス状態に陥る場としてのお祭りっつー意味もあるし無礼講って意味でのお祭りもあるよね。昔のアメリカだとさ、クリスマス前後になると一週間前ぐらいからみんな働かないでずーっとお祝いやっててんでその時は奴隷でも主人でも無礼講だったらしいんだよね。奴隷が泥酔して主人と肩を組むみたいなことも起こっていたかもしれないってぐらいの無礼講だったらしいんだけど、これはようはケに対するハレだよね。まぁパラダイスガラージのエントリーで散々書いたからここは繰り返さないけど、そういう意味でむやみやたらに合理性と科学性を主張して脱魔術化をやみくもに続けるのはよくないのね。


むしろそこは清貧の精神とかと一緒でさ、俺で言えば小食が結果的に経済的にいいし買い物行かなくていいし時間作れるし体にもいいってことでそれが合理的なことになるんだよね。逆を言えば毎日酒とか飲んで腹一杯食べるってことがいかに不合理なことか?ってことでもあるんだよ。でもそういうのってさ、清貧の精神を理解しないと分からないじゃん?まぁこれは俺の勝手な定義だけどまぁ俺で言えばやっぱ幸福っつーのは解脱だよね。解脱とまでは言わないけどエピキュロスだよね。リダクショニズムね。欲望に振り回されてると大変なことになるから欲望を抑えようってことだよね。ストイシズムってのは引き算による足し算だよね。結果的にそれが合理的で自分にとって一番いいってことなんだよね。それを伝統に置き換えるとさ、なんとなく清貧が良いことっつーかさ、かっこいいみたいな感じってやっぱそれが良いこととされてきた歴史があるからじゃない?仏教的な概念ね。ちょーストイックでかっこいい!っつーさ、春日みたいな貧乏くささではなくね。それってまぁある意味でドグマ化された清貧の精神じゃない?


で、それはともかく大前提として良い事なのだっつー価値判断がもうすでになされてるじゃん?だからそれがどの時代でも通るようなドグマとなり得るんだよね。で、実際その背後には人間の生活における利点ってのがすんげー多いっていうさ、だから一概に「貧乏臭い」っつって批判したりできないってことになるんだけどね、伝統然りなのね。金の節約と清貧は違うんだよっていうさ、ただ金の節約の面から言っても合理的っていうさ、その真の物事の背後にあるメリットとか合理性とかさ、意味とかなぜそれがよいとか必要とされているのか?ってのを理解することだよね。それが理解出来てはじめて伝統についても判断が出来るようになるよね。


まぁ結局のところ自分で考えて判断するってことが重要ってことは言うまでもないよね。ただ伝統は思考能力ゼロの人にでもルールとしてそれに従わせるというシステマティックにそれに取り込ませるという作用があるからさ、だから能無しでも凄い合理的な判断に見えるかのような行動が伝統によって可能になったりするんだよね。まぁ俺が今言ってるのはエトスみたいなもんだけどね。エトスっつーソフトウェアみたいな感じ?操作方法知らなくてもディスクの断片化を防いでくれるとかセキュリティは万全とかさ、そんな感じね。何が背後で行われているのか?を知るには割と高度なコンピューターの知識が必要になるしさ、それを完全に理解してそれが合理的か否か?って判断するのって結構高度なことじゃん?もしくは設定をちょっといじって効率化を計るとかさ、完全に意味が無いものを意味があるものとして金儲けのために売り出されたソフトウェアなんだって分かればアンインストールしたりさ、買ったりしないじゃん?でも半ばインフラ化したコンピューターを使う全ての人達がそういう判断を出来るかどうかは分からないっつーかまぁ無理だよね。だからそのために詳しくない人でも全部万全になるさ、セキュリティパックみたいなのがあったりするわけじゃん?


インストールするだけでもう全部が万全になりますみたいなもんね。そのハビトゥスに根ざすエトスとかもまぁ同じようなもんだと思うんだよね。理由は分からなくてもとりあえずパソコン操作の上でセキュリティには気をつけるみたいなさ、そのためにはこれをしなさいあれをしなさいとかこういうソフトを入れなさいとかってのがシステマティックに決まってくるじゃん?それがようは憲法とかさ、箇条書きにされたルールってことだよね。誰でも理解出来て従えるっていうものね。で、なぜそれに従う必要があるのか?とかなぜこれが必要なのか?ってのを知るためにはさっきのコンピューターの話と一緒でさ、例えば憲法の重要性とか意味とかってその背後に歴史によって培われてきた政治哲学的な人権の概念とかさ、推定無罪の原則にしてもホッブズ的なリヴァイアサンの恐ろしさとかってのが背後にあるわけじゃん?イメージとしては憲法ってのがリヴァイアサンっていう化け物を鎖につないでるって感じだよね。でもそのリヴァイアサンの元を辿れば自然状態における人間の凶暴性にたどり着くわけでさ、だからこそ憲法の重要さとか法律の重要さとかルールの重要さってのが理解出来るんだよね。それは「ルールだから」って理由だから重要なんじゃなくて、その背後にそのルールを守る事の重要さとか意味ってのがあるからそれに沿うことが大切なこととなるんだよね。でもコンピューターの話でも伝統の話でもそうだけど、その背後までを完全に理解して吟味したり出来る人って多くないじゃん?


前のルームメイトとかキャリさんみたいな人なら「だってあなたは暇人でしょ?普通の人はそんなこと考える時間も余裕すらもないのよ」みたいなバカ丸出しみたいなことを言うよね。こういうバカな人間のために伝統もエトスもルールも憲法も法律もあるわけだよね。時間があろうがなかろうが思考力が無い人間にもルールですって言うことで価値判断とかをさせずに従わせることができるっていうね、まぁ便利なツールなのよ。ただそれもそのバカ達のためにあるものでさ、権力者の横暴を許すためのものではないんだよね。だからこそバカだろうがなんであろうが圧倒的に数が多い大衆の生活を守るようなルールが必要なんだよね。で、共同体レベルになるとそのルールとやらが一見したところ意味無さそうに見えるものもあるってことなんだけど背後を理解すれば意味があるってことが分かったりするわけ。


で、孔子はさっきの生け贄の牛の儀式の背後にある重要さってのを見抜いてたっつーか大体儀式全般にはそういう意味があるって分かったから表面の残酷さと意味の無さだけを見てそれを批判する弟子にさっき書いたようなことを言ったわけだよね。ようはその儀式が無くなることのほうが惨いってことね。儀式を執り行うっていうことだけで生活してる人もいるかもしれないしさ、まぁ色んな解釈は出来るけど、伝統ってそういう意味で価値判断は難しいよね。魔女裁判みたいな完全な非科学性とファナティックな宗教性と大衆のバカ加減に端を発したようなものだったらそれは明らかに間違いでなくすべきものだって言えるけどさ、でもそういうのだけでもないんだよね。仮にそういう風に見えるものがあったとしても実際はそこに意味があるみたいなさ、マキャベリだったか忘れたけどある意味で恐ろしいことを言っててさ、ようは人口が増えてくると住む場所も無くなるし食料も奪い合いになるし何より仕事の奪い合いが起きるじゃない?で、その人口過多において自然ってのは人口操作をすると。ようはペストとか大災害とかで多くなりすぎた人類を掃除するんだみたいなことを言ってるけどさ、でも今後、リアルにそういうのって問題になるよね。こんなペースで人口が増えていったら明らかに世界はダメになるだろう。


なんにもしなくてもみんな食えるぐらいの安定したシステムがあればいいけどさ、やたら子供だけ増えてロクなものも食えない人達が出てくるとかさ、金が無くて病死するとかさ、それって世界のアフリ化だよね。ようはイメージ映像とかでさ、餓えてる人達って自分が餓えてるんだから子供作らなきゃいいのに作るじゃん?セックスぐらいしかやることないっつーのはあるのかもしれないけどさ、自分が餓えてるのに子供を作ってそれを殺す理由なんて無いよね。ただ子供を作る人を批判は出来ないじゃん?作るな!とは言えない。それは生きるな!とほぼ同意義だからね。では何が必要か?っていうとそういう人達が餓えないやり方を構築することだよね。それによってのみ人口過多による大災害は防げると思うね。今みたいな今ぐらいの人口でも失業率が凄いみたいな世の中でさ、ましてや石油とかリソース系も地球のやつは使い果たしてるわけじゃん?で、そんな中でもやたらみんなセックスだけはして弧度をも増やしてたらさ、増えた子供達が死ぬしかなくなるよね。まぁ日本は少子化が進んでるっつーけどまぁそれはいいことだよね。ようは自分も食えない立場なのに子供を作るような無責任なことはしないってことでさ、まぁある意味での先進国ならではの教育の行き届きっっつーのは感じるよね。


アメリカでもあれだよね、ある程度の経済基盤を作ってから余裕のある環境で結婚して子供を作るって家庭が増えたっつーからね。その一方で特に今の学校とか見てると自分すらもロクに生活出来てないくせに子供を作ってる人とかもいてやっぱまぁ生殖欲求ってのは食欲みたいなもんで抑えれられないのかな?って気はするよね。経済面でも配慮の面でも親が忙しいとか精神的に余裕が無いとか経済的に余裕が無いっつーそんな環境で育てられた子供って大体グレるよね。ましてや人種差別とかあって頑張っても上限が決まってるみたいな社会だったら完全にグレるよね。そういうのが今でも継承されてるのがまぁアメリカのマイノリティだよね。特に黒人ね。いつも書くけど黒人が暴力的なんじゃなくて、まぁある意味で部落の人達が差別されで金もないんでどーしょーもないってことでヤクザに入るしかないみたいなさ、そういう構造があるわけね。部落だからバカで暴力者ってわけじゃないわけ。


チョムスキーの言語論じゃないけどさ、部落育ちの親がアクシデンタルに作った子供が富裕層の家庭に引き取られてんで良い環境で育ったらそりゃ良い人間になるわけよ。まぁ金があれば良い人間になれるとか富裕層に良い人間が多いってことじゃなくて、ある程度の経済面とか愛情の面での配慮とかがある家庭に育てば個体差はあるにしてもまぁ大概はまともな人間になりますよってことだよね。地頭の差は個体差はあれ下から上までの差がIQで言うと30ぐらいのレンジだったらさ、特にそこまでの大きな差は出ないんだよ。ちょっとトロいやつとインテリ君みたいな差ね。それが上と下でも基本的なレンジは30ぐらいってことね。まぁIQで言えば20ぐらいか。その辺が一番上手くやっていけるし共存出来るレベルでさ、仮に民族的なものによるIQの差があったとしても差が20ぐらいなら全然問題ないのね。重要なのは人間性だよね。あとは幼少期から育まれる教育的なものね。それによって元々ノロマでもまぁある程度は環境的なものによって変わるからね。


それですらも変わらないっつーのがもう頭が良さ過ぎる人達だね。こういうのがようは別になるわけ。ただなぜか精神を病んでたり変わった人達が多いんだよね。具体的な因果関係はあまりにフラクタルでさ、要素が複合的過ぎて一言じゃ説明出来ないけどまぁ因果関係はあるよね。さっき名前が出たウェーバーなんかも精神を病んで病院だかに入れられたっつーか入れられたんじゃなくて絶対安静みたいな時期がずーっと続いたんで研究に没頭出来たわけだよね。こういう要素が絡まってうまいこと出力されるとルソーとかウェーバーとかさ、ちょっと病んでる凄い人達になれるわけだよね。まぁもちろんその病んでる頭が良い人達の中にも幅広いレンジがあるけどね。ただまぁIQテストとかじゃ計れないけどさ、でもやっぱ地頭の差って分かるよね。そりゃ本人が一番分かってるよね。多分。古代ギリシャ文字のプリントを印刷するのを見せびらかす知能指数のやつが多過ぎるってことだね。


で、これは自然の摂理なんでしょうがないってことだよね。バカさってのは批判できないわけよ。マルコムXみたいなさ、地頭があるのに悪い方に使ってたっつーかさ、ハスラー時代のマルコムXはやっぱダメなのよ。それは良い意味でバカなのね。ポテンシャルがあるのに悪い方に使ってるみたいな理由でバカなのね。でもマルコムXみたいになれるギャングってそこまで多くないし、多くないということ自体は批判出来ないんだよね。だってそれがそうなんだからさ、それがそれ自体であるってことじゃない?そういうのに自覚的だったというか、その構図を師匠の死というシンボリックで衝撃的なものとして見たのがプラトンだったわけでさ、別にプラトンファシストだったとかっていうことじゃないのね。スターリンとかヒトラー的な権力者とプラトンとかマキャベリとかシュトラウス的な権力志向は全然違うのね。前者がまさしく暴君的で後者は君主的なんだよね。似ているように見えて実際はすんげー差があるわけ。でもごっちゃにするからさ、だからすぐファシズムとかって言うんだよね。ちなみに北一輝も後者だし、当時の226系の人達は大体後者ね。世直し目的の超国家主義で権力目的の超国家主義ではなかったのね。だから社会主義者だろうが右翼だろうがさ、共闘出来たんだよね。


226あたりのクーデターは本当に素晴らしいクーデターだったと思うね。みんなすんげーモチベーションの高い人達でまさしく今の日本人が見習うべき人達が彼らだよね。いや、別にクーデター起こせと言っているんじゃなくて志の高い憂国の精神ってことね。実際、彼らはっつーか北一輝は別としても決起した人達って別に決起後の国家のあり方とか具体的な政策の進め方とかのビジョンがあったわけじゃないんだよね。一部のイデオローグは別として、とにかくまぁ現状があまりに悪過ぎるからってことだったわけでさ、226とかあの辺の人達の裁判ってのは日本におけるソクラテス裁判みたいなもんだよね。彼らの志を理解出来ない人達と彼らの行動を罵倒して死刑を求刑する人達ね。まぁ彼らの志は天皇も理解できなかったっつーかまぁ理解の余地がなかったのかもしれないけど中身を見れば凄まじい志士達だったわけだよね。北一輝は死刑にされたけど、日召にしても橘にしても恩赦とかある種神懸かり的な偶然が重なって凄い減刑があったからね。なんか俺はそこにある種の神的なものの力の介在を見るよね。


ライドウで言えば国神達の怒りを代弁したのが彼らだったのかもしれないよね。ライドウをやってても分かるように全然さ、国神にしても何にしても彼らを誰も批判出来ないんだよね。ライドウで言えばまぁユートピアニズムの狂信性と憂国の精神がごちゃまぜになった感じで出てきたのが大国主のイベントだったと思うんだけどさ、大国主だったっけ?あの孤島の電話ボックスの地下のイベントね。依頼のやつ。あれもまぁ示唆的だよね。大国主が言うユートピアニズムははっきり言って狂ってるんだけどさ、ようは極端な不平等はみんなが死人になることでイコールになるみたいなさ、ただ不平等と富の偏在の酷さとかを見るとまぁ言えてなくもないなって思えちゃうんだよね。考え方は狂ってるけど現状を杞憂するのはすげー伝わってくるみたいなね、狂った考え方も杞憂が原因のなっているというのが226とかのクーデターの核なんだよね。攻殻機動隊の個別の11人然り。


社会ってのは落ちるところまで落ちればカリスマみたいなのが表れて再建をして社会がよりグレードアップするっつーのは歴史が繰り返してきたことだし、それはアメリカのなんたらって学者が言ってることなんだよね。社会的な底辺の経験は人々のウェイクアップの契機だみたいなね、まぁ絶望を経験した後、それを乗り越えると人は強くなれるってまぁ人々で成り立ってる社会もまぁ大体同じ事だよね。その絶望の奥深さとそれに対峙しつつ夢を失わずに現実に真剣に向き合って意志の力を突き通すっつーことの大切さをプレイヤーにロールプレイさせるのがライドウのアバドン王だよね。ペルソナ4も凄くメッセージ性が強かったけど、アバドン王はその設定っつーか成り立ちもあってストーリー重視じゃん?ペルソナ4はキャラ重視だけどライドウはストーリー重視である意味で伝統的なメガテンの系譜に入ってる気がするよね。


ようは「伝統的」なメガテンの系譜ね。能動的ニヒリストになりつつ「神は死んだ」と言いながら現実と対峙しながら闘い続ける態度ね。まぁメガテンの場合、神々へのリスペクトがそこにあるからいいんだよね。コミュニタリアン的でありつつプルーラル的っつーかさ、近代性と自然の共存とか、神と悪魔の共存とか人間と悪魔の共存とかさ、凄く共存ベースだよね。まぁただそれを押し付けてはいないけどね。そのためにまぁ選択肢ってのがあってLawルートでもChaosルートでも選べるようになってるんだけど、そこに「選ぶ」っつーことを介在させてるのがいいんだよね。一本道じゃなくプレイヤー自体がまさしくロールプレイをする感じってのが本当にうまく出来てるって気がするよね。完全にダメになったファイナルファンタジーとかとはえらい違いだよね。映画を見る観客であるということとロールプレイは全然違うからね。それは映画を見るのと映画に出ることぐらいの差があるんだよ。ファイナルファンタジーとライドウの違いってのは同じRPGでもこのぐらいの差があるんだよね。そこに俺はRPGの真髄を見るしメガテン系統のゲームに魅力を感じ続けるよね。


モノローグ形式で語りすぎたんでこの辺でやめるね。


・・・・ってことで終わりでした。明日はたぶん溜め放出だな。なんつーかさ、ADDとかにしてもさ、結局現状にアダプトしないとダメだからっつーあれで必要になるんだよね。薬とか診断書が。放っておいてくれたらまぁいらないよね。スローライフで自分のペースでやっていけたら薬とかいらなくなるかもしれないよね。あ、でも俺は違うかな?こんな俺ですらも言いたくなかったけどでもさ、疲れたりさ、精神的にヤバくなると軽い幻聴とか幻覚見えるからね。で、分裂病の本とか読んでると俺っていくつかは典型的な症状を持ってるんだよね。被害妄想とかもそれの一種だよね。かといって分裂の薬を飲むほど酷くはないとは思うけど、でもそれも精神状態次第なんだよね。今みたいにずーっと休みがあるとまぁストレス要素が無いから安定するじゃない?でもリアル社会っつーかリアルピープルとやっていかなきゃいけないときにストレスが出てきてホメオスタシスが崩れたりするよね。すげーバカな生徒とか教師とかバカバカしいシステムを目の当たりにしたときの俺の落ち込み具合って半端じゃないからね。恐らく絶望なんだと思うよね。失望というかなんというか。鬱の源は他の要素にあるんだよね。俺で言えば内在されているものと外在的なものが半々ぐらいって感じだね。これが100パーセント内在だと精神病院とか施設に入らなきゃいけなくなるけど、そこまでじゃないんだよね。だからすげー中途半端。社会保障っつーか生活保護とかを受けられるレベルとかじゃないんだけど、でも実質的に本当に自分に合ったところを選ばないと精神が崩壊するってやっぱ微妙だよね。いや、生活保護受けたいとかじゃないんだけどさ、でもこういう微妙な位置にいる人ってどうなんだろうね?とは思うよね。まずふつーの生活は出来ないじゃん?サラリーマン生活とか絶対無理なわけだからさ、かといってそれやらないと生きていけないってなると相当人生が微妙になるよね。それを微妙じゃなくするための企てが今の亡命なんだけどさ、まぁいいや。この話は。


社会保障もまぁ微妙だよね。なんで頭の具合が悪いやつの面倒まで健常者が見ないといけないわけ?ってまぁ市民社会にあってはならないことなんだけど大衆はそう考えるだろうなってやっぱ思っちゃし、そのアレは分からなくもないよね。車いすに乗っているだけで働かなくていいなら俺も障害者になろうかなとかって2ちゃんねるとかに書かれてるけどさ、これってある意味まぁ今の社会の疲弊だよね。普通ですらもまともに食えないっつーかさ、ロクな生活が出来ないんで障害者になってでも障害者保険とかをもらって生きたほうが今よりマシっていうね、障害者のほうがマシな生活を送れるってまぁあれだよね、刑務所に入ればメシが食えるからっつって出所後にまた犯罪を犯すのと一緒だよね。完全に不健全な社会だな。「学校行けてるじゃん?恋とかしてるわけでしょ?大丈夫じゃん」とかって言われるのは分かってるんだよね。キャリさんにそんなこと言われたからね。たださ、そう見えても内面的なものなんて表面的なもんじゃ分からないじゃない?どれだけ内面が大変か?なんて見た目じゃ分からないよね。それを見た目だけで判断するなよって言いたいよね。学校に行けてるからオッケーってさ、こんな俺みたいなもんが毎日外に出てどっかに通うなんてことをしてるだけでも奇跡的なのにさ、それってまぁ当たり前のことだから「当然でしょ?」で済まされるんだよね。俺の葛藤っていう基準値が一般値にはあるわけないんでだから表面的なもので判断されちゃうのね。俺がずーっと薬持ち歩いてるとかさ、そういうの知らないからね。「大丈夫じゃん?」って言う人とか。


あーもうそういうこと言う人と二度と会いたくないんだよね。本当に嫌だ。だからやっぱり無知であることってのはある部分では罪だよね。本当に。吟味の無い人生は価値が無いってソクラテスだけど本当にそうだなって思うね。キャリさんにしても前のルームメイトにしても俺の衆愚観を強めるような人ってなんでこんなに多いんだろうね?最近書き込みをしてくれたkazさんなんかも学校とかに行くとバカが多くて困ってるってよく言ってるけど本当にそれ分かるな。それはkazさんの驕りじゃなくてさ、ただの実感なんだよね。「下々の者共め」みたいな見下し感は無いわけよ。ただ「うわー・・・」ってなるのね。それってもうしょうがないじゃん?「うわー・・・」ってなるわけだから。政治哲学に一貫してるのってさ、まぁ俺の勝手な印象だけどいつの時代もある衆愚観だよね。プラトンからの伝統的な衆愚観ね。モブ共をどう統制するか?っつーかさ、まぁロックとかルソーは別としても、なんつーか「バカが多い」ってシンプルなテーゼを大っぴらには語れない歯痒さみたいなのを常に感じるよね。政治哲学に。


直で書くとアウトだから遠回しに書いてるようなのもあるけどさ、でも別にいいんじゃないかな?そんなのが務まる人なんて多くないって言っちゃっていいと思うけどね。シュトラウスの「リベラリズム 古代と近代」の第一章と二章は政治哲学的な衆愚観の集大成っつーか集積って感じがするよね。シュトラウスの哲学者っぽさって近代の哲学者と呼ばれる人達がポリティカルコレクトネスとか近代的価値観とかによって書かなくなったっつーか振るわなくなったようなものを堂々と出してるところにあるよね。凄くトラディショナルな哲学者っつーかなんつーか。だから俺は惹かれるんだろうね。シュトラウスぐらいしか思い浮かばないからね。古代とのコネクションがある哲学者って。あ、でもあれだ、三木清とか日本の京都学派みたいなのも凄く哲学者らしい哲学者が多い気がするね。ああいう硬派なのだよな。やっぱ。ポストモダンとかじゃなくて。そう思うとやっぱ現代思想ってダメだよね。まぁダメとは言い切らないけどなんつーかやっぱ昔からの哲学には到底敵わないみたいな小粒感は否めないよね。ああいうのの価値は現代性にあるだけでさ、そこにある今在る現前性といってもいいけどさ、ただ歴史的なパースペクティヴから見たら何百年後とかにまだ価値を失わずに読まれ続けてるのか?っていうとすげー疑問でさ、むしろああいうのの価値は社会学的な価値だと思うよね。ようは当時のっつーか今の社会情勢から出てきた時代的な思想っつー意味でのさ、まぁa son of this ageだよね。そのリフレクションとしての価値っつーかさ、ただそれだけで思想的な価値ってイマイチだと思うんだよね。やっぱ。思想と言えるほどのものじゃないっつーかそれこそ既存の哲学の脚注レベルっつーかさ、そういうのが多いよね。やっぱそういう意味だとフッサールとかニーチェを頂点としたシュトラウスとかを含むハイデガーあたりの世代以降って哲学って死んでるよね。ようはそれまでほどの大物が出てきてないってことね。それは哲学自体が死んだのではなくて今の音楽みたいに昔ほどのビックスターとか大物がいなくなったってことね。


あ、もういいや。マンモス長くなってきたし、白いウサギが見えてきたんでもう寝るわ。